第3話 神崎と伊織

 藤色の二つ折りの財布を見つけたのは本屋に立ち寄った時の事だった。平台の上に忘れ去られたその財布には水引で出来た根付けが付いている。それが珍しくて思わず手に取った。紅白梅と、金の鈴が付いている。今時、手作りの布財布など目にすることが無かった。どんな人が使っていたのだろうかと思っていると、古本屋の入口で少女の声がした。

「あのっ財布落ちてませんでしたか? 紫色の、二つ折りの小さなものなのですが……」

 息を切らせ、早口に少女が言った。カウンターにいたアルバイトの青年が届けられていないと伝えると、少女は残念そうに肩を落とした。

「もしかしてこれ?」

 少女の目の前に差し出すと、日本人形の様な髪が揺れ、ぱっと表情が明るくなった。

「ありがとうございます!」

 少女が大事そうに手を差し出すと、思わず意地悪がしたくなって差し出していた財布を引っ込めた。

「これ、あんたの手作り?」

 聞くと、少女は首を横に振った。

「いいえ」

「は?」

 思わず声が漏れていた。視線を這わせて少女を観察する。学校帰りなのか、真新しいセーラー服に身を包んだ少女に眉根を寄せた。七宝編みの籠鞄が妙に浮いている。その鞄につけられた紅白の相生結びが目に留まると、眉間に皺を寄せた。

「もしかしてそれ、彼氏からのプレゼント?」

 男が誂うように言うと、少女は一度目を丸くしたが俯いて首を横に振った。

「……覚えていないんです」

 少女の応えに男は首を傾げた。財布を開けると、中には小銭と、金と銀の三本取りの水引で瓢箪が一つ入れられている。お札入れには万札が三枚入っていた。

 男は皺のないお札を見て元に戻すと、小銭入れに入っていた瓢箪を取り出した。

「あんた、これの意味知ってる?」

 男に言われ、少女は首を傾げた。

「無病息災や魔除けの意味があったかと……吉祥の御守で……」

「賢いけど瓢箪の方の意味じゃねーよ」

 少女は再び首を傾げた。男は籠鞄に付いているものを指し示した。

「この瓢箪を作るのに相生結びで作られている。相生結びは共に老いるまで生きるという意味があるんだ」

 男の説明に少女は驚いた様に目を丸くした。

「え? 知らなかった?」

「存じ上げませんでした」

「うっわ、可哀想。相手、絶対にフラれたと思ってるぜ?」

 男が誂うように言うが、少女は目を伏せただけで動揺した素振りはない。

「坊っちゃん」

 不意に声をかけられ、男が入り口に目をやった。眼鏡を掛けた少年が、怪訝そうな顔で近付いてくる。

「ナンパなんてしている場合ではないでしょう」

「あ? ちげぇよ。ちょっと珍しい物を持ってるから話しかけてたんだよ」

 少年は少女の持っている籠鞄を一瞥すると、溜息を吐いた。

「今時、手作りとか貧乏くさいです」

 少年の言葉に少女が萎縮すると、男は少年の頭を激しく叩いた。音が周りに響くと、男は少年と少女の腕を引いて店の外へ出る。

「お前が着ている服だって、ベトナムの女が工場で作っているものだろ? お前のその眼鏡だって、誰かが一つ一つ丁寧に作っているんだ。機械で作っていたとしてもその機械は人の手で作っている。それなのに貧乏くさいとはなんだ! お前が一から作り上げたものが何か一つでもあるのか?!」

 男が怒鳴ると、少女は驚いて肩を竦める。少年も臆したのか少女に向き直ると頭を下げた。

「酷いことを言ってすみませんでした」

 少女はそんな少年に思わずたじろいだ。

「顔を上げて下さい。大丈夫ですよ」

「あんたな、面と向かって悪口言われたんだから慰謝料請求するくらいの気概は無いのか」

「正直は一生の宝ですよ」

 少女の言葉に男と少年が目を丸くした。

「千草屋の家訓?」

 男が問い掛けると、少女は頷いた。男が不思議そうに眉根を寄せる。

「それ、全部言えるの?」

「堪忍は一生の相続

正直は一生の宝

慈悲は一生の祈祷です」

 すらすらと暗唱する少女に、男は驚いて目を丸くする。

「何なんですかそれ」

 少年が眼鏡を掛け直して男に聞くと、男は少年を一瞥してから再び少女へ視線を戻した。どう見ても、少年よりも少女の方が年若だ。男は腕を組むと、考え込む様に呟いた。

「真正の文明ということは……?」

「全ての制度文物の具備と、それから一般国民の人格と知能とによりて、初めて言い得るだろうと思う」

 これまたすらすらと暗唱する少女に思わず男が吹き出した。少年はそんな男に眉根を寄せる。

「坊っちゃん?」

「うっわ、面白い。ちょっとお茶しようぜ」

「坊っちゃん!」

「伊織、お前今、彼女が何て言ったか理解出来るか?」

 男が笑いながら言うが、少年は眼鏡の奥で不満そうに眉根を寄せた。

「いいえ全く」

「機械があるだけでは使い物にならない。それを支える人間がいて初めて文明が進歩するんだって言ったんだよ。お前の手作りは貧乏くさいを全否定してんだ」

 男にそう言われ、少年が憮然とすると、少女が申し訳無さそうに苦笑いをした。

「全否定とまでは……」

「兎に角ちょっと付き合えよ。伊織の暴言の詫びもしたいし……」

 男が少女の腕を掴むと、少女は戸惑いながらもついて行く。少女はこの人は一体何者なのだろうかと首を傾げた。



 板張りの廊下が続いている。木造の校舎の中では子どもたちの声が響いていた。少女が不思議そうに教室を覗くと、十人程の子どもたちが折り紙で鶴を折ったり、紙に絵を描いたりしている。その子どもたちの年齢は皆ばらばらで、二歳から十三歳前後の子どもたちが思い思いに遊んでいた。少女が不思議そうに眺めていると、一歳になるかならないかくらいの赤子を抱えて男が戻って来た。

「食堂はこっちだ」

 男に言われるまま廊下を歩いて行く。食堂に着いてパイプ椅子に腰掛けると、六歳くらいの女の子が恐る恐るお盆に乗せたお茶を運んで来る。少女はその女の子ににっこりと微笑んだ。

「ありがとう」

 女の子が恥ずかしそうに会釈して行ってしまうと、少女は目の前に座った男に視線を戻した。

「ここはうちの親父が慈善事業でやってる保護施設なんだ。大抵が親無しだとか児童虐待とかでここへ来ている子供が多い。伊織もそう」

 男はそう言って隣に座っている少年に目配せした。

「伊織は十年前の震災で両親を亡くしたんだ。それでちょっと性格が曲がってる」

「悪かったですね。性格曲がってて」

 男は赤子をあやしながら話を続ける。

「それで、お嬢ちゃんの頭の良さを買って、ここの子どもたちに勉強を一つ教えてやってくれないかと思って」

 男の提案に伊織も、少女も驚いて目を丸くした。

「坊っちゃん、それは……」

「生憎、施設だと塾に通わせてやれなくてさ、俺も伊織も暇があればここで勉強見てやってるんだけど、中々思うようにいかなくてさ。親がいないとか塾にいけない理由で将来の夢を断念させるの可哀想だろ?」

 男がそう言うと、少女は男の表情を伺う様に見据えた。

「私でよろしければ……」

「ちょっと待って、あんたどう見ても中学生だろ? 親の承諾も無しにそんな簡単に……」

「親御さんには俺から説明に行く。名前を言い忘れていたな。俺のことは神崎と呼んでくれ。お嬢ちゃん、名前は?」

「姫宮 百合です」

 二人は名前を聞いて呆気に囚われた顔をした。百合が首を傾げると、伊織が青い顔をして神崎を見つめる。

「やばいですよ。姫宮家のご令嬢じゃないですか!」

「やばいよなぁ。姫宮家のご令嬢に持ち物がクソダサいとか言っちゃうのやばいよなぁ」

「そこまで言ってないですよ!」

 伊織が喚くと、神崎は伊織の頭を掴んだ。テーブルに頭を押し付けると、神崎も頭を下げる。

「本当にすまなかった」

「成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず。ですよ。気にしていません」

「論語も暗唱するのか……」

「全部では無いですよ?」

 百合が微笑んで言うと、神崎は溜息を吐いた。

「そうだ思い出した。一番手紙が上手かったから何処のババアが書いた手紙なのかと思ってたんだ。うちの会社の社交パーティ蹴っただろ」

「社交の場は不慣れな為、粗相があっては申し訳ないと思い、お断りしました」

「畜生、まさかこんな娘だとは想像してなかった」

 神崎が頭を抱えると、百合は肩を竦めた。

「幻滅しましたか?」

「いいや、その逆。震災の折に行方不明になり、つい最近ひょっこり見つかったなんて聞いていたから、どんなじゃじゃ馬に育っているかと思っていたんだが……」

 神崎はそう言って百合の姿勢を見た。背筋がすっと伸びていて、椅子に深く腰掛けずに足を揃えて座っている。

「善く育ったな」

「僥倖です」

「何処で学んだんだ? まさか独学とか言わないよな?」

 百合は問い質されて俯いた。

「……覚えていません」

 神崎と伊織は顔を見合わせた。

「覚えてない?」

「保護していただいていた家族が居たのですが、生憎火事で家も、保護していただいていた家族も亡くなってしまって、それから母と再会するまでの二ヶ月間程の記憶が私にはないのです。多分、その間にどなたかにご指導頂いたのだと思います」

 頓には信じられない話に再び神崎と伊織は顔を見合わせた。

「まあいいや、取り敢えず今日とか暇? 低学年の宿題から見て貰えるとありがたいんだけど……」

 と、言いかけて神崎は視線を這わせた。

「樹の勉強見てもらおうか」

「坊っちゃん、あいつは駄目ですよ。一行だって文字を連続して読めないんですから。漢字はおろか平仮名だって読み間違えるんです。手に負えません」

「いや、だから試しに……な。お嬢ちゃん、どう?」

 百合は肩を竦めたが、少し微笑んで見せた。

 栗田 樹は小学五年生だが、勉強はからきしだった。神崎や伊織も何度か勉強を教えようとしたが、何分文章が読めない。本人も勉強が出来ないと自信を無くしていた。

「こんにちは」

 百合が声をかけると、机に向かってぼうっとしていた樹が百合を見上げた。誰だろうかと首を傾げると、百合は隣の椅子を引いて腰掛けた。

「樹くん、私は百合と言うの。私と一緒に音読しない?」

 唐突に言われたが、成程、神崎か伊織が匙を投げたので彼女が自分に充てがわれたのだろう。そう考えると何だか申し訳なかった。

「あの……僕、勉強に向いてなくて……」

「そうね。向き不向きはあるかもね」

 百合がにこりと笑うと、平仮名を紙に書き出した。大きく一文字ずつ書くと、それを見せて樹の様子を伺う。

「いろは歌って知ってる?」

「なにそれ知らなーい」

「じゃあ一緒に読んでみよう」

 百合に言われ、樹は肩を竦めたが、見る限り全部平仮名だし、それほど長い文章でもない。

「まあ、いいけど……」

「じゃあいくね、い」

「い?」

「ろ」

「ろ」

「は」

「は」

 一文字ずつ百合に続いて言葉を発する。三巡くらいすると少しスピードが上り、すらすらと発音出来るようになると、百合は手を叩いて褒めた。

「すごい!」

「こんなの簡単だよ」

 そう言いつつも、褒められて少し気恥かしい。

「これって何なの?」

「何だと思う?」

 聞き返されて、樹は戸惑った。すると百合は赤鉛筆を取り出して樹に持たせた。

「あいうえおの順に言葉を探してみようか」

 言われるまま、樹はじっと文字を見つめる。『あ』を見つけて丸を点け、他に『あ』を探すが見つからない。それを繰り返して行くと、同じ文字が重ならない事に気付いた。

「同じ文字が無いね」

「そうだね」

「あいうえおを並べ替えてるってことなのかな?」

 百合が手を叩いて褒めると、樹は勉強で褒められることが無かったので少し嬉しかった。



 二人の様子を眺めていた神崎は樹が嬉しそうに学校の教科書を出してきて読み始めるのを見て胸を撫で下ろした。他の子供の勉強を見ていた伊織も、二人の様子を覗き見て不思議そうに首を傾げる。

「また古臭いものを……いろは歌なんか覚えても役に立たないでしょう」

「そうか? 俺は理に適っていると思う」

 神崎の言葉に伊織は眉根を寄せた。

「西田幾多郎だって、古語というものは我々の言語の源であり、我が民族の成立と共に、我が国語の言語的精神もそこに形成せられたものとして、何処までも深く研究すべきは言うまでもない。と言っている。

 いろは歌は古語でありながら四十七音全てが一回ずつ出てくる。その上、あいうえお表と違って、文章として成り立っている。室町時代からあいうえお表があるのに、明治時代に書かれた学問のすゝめにもこのいろは四十七文字を手習いにと書かれているくらいだ。今でも通用するんだろう。問題なのはそういった日本の根本的な言語である日本の古典を蔑ろにしてしまっている今の教育の方だろう」

「そんなの知らなくても勉強出来る子はいくらでもいます」

「その勉強が出来る子から零れ落ちた子供は、勉強出来ないままで良いとでも?」

 神崎の問いに伊織は不満そうな顔をした。

「……そうではありませんが……」

「勉強は、この国の政治を見張り、国を守る為のものだ。馬鹿が増えれば国が無くなってしまう。だから皆で勉強して、皆賢くなって、この国を皆で良い国にする為のものなんだ」

 神崎の話に伊織は頷いた。



 一時間程して百合は樹と別れの挨拶をした。最後にはハイタッチが出来るまでに打ち解けたのだが、そろそろ家に帰らなければならなかった。まだ夕日が差していて明るいが、道すがら樹の話も聞きたかったので、神崎は百合を家まで送ることにした。

「感想は?」

「樹くん、すごく良い子ですね。プロ野球チームの話になると凄く嬉しそうに話していました」

「勉強の方を聞いたんだが……」

 神崎が言うと、百合は冷や汗を流した。

「ごめんなさい。いろは歌はすらすら読めるようになりましたけど、学校の宿題の方は……」

 半分程の所で本人の集中力が切れてしまい、野球チームの話で盛り上がってしまった。

「まあ、良いよ。初めての事だし……」

「樹くん、病院には行かれているんですか?」

 百合の言葉に神崎が驚いた様な顔をした。

「は?」

「多分、耳の聞こえが少し普通と違うと思います。高音よりも低音の方が聞き取りやすいみたいです。だから音が聞き取りづらくて、音と文字との一致が曖昧になっている部分があるんだと思います」

 寝耳に水な話に肝を冷やした。

「……それは気付かなかった。早速耳鼻科に連れて行く様に手配しとく」

 知能障害の可能性は考えたことがあり、精神科の先生に見て貰ったことはあったのだが、日常会話はちゃんと出来るのでそこに気付かなかった。

「凄いな、たった一時間話しただけで……」

「文字が一行も読めない、平仮名も読み間違えると聞いた時点で耳の聞こえを疑いました。いろは歌の音読の時に、文字を読みながら声の音域を少し変えてみたんです」

「成程……」

 感心しながらも、少し羨ましかった。

 そうこう話しているうちに百合の家の前に辿り着いていた。竹穂垣の前を道成に歩くと、屋根付きの大きな門が目に入る。その門の前に白髪交じりの老女が佇んでいる。着物を纏った小綺麗な老女に百合はにこりと微笑んだ。

「お祖母様、只今戻りました」

 神崎は百合がお祖母様と呼んだのを聞いて少したじろいだ。確か今、姫宮家の実権を握っているのが、百合の祖母に当たる姫宮 尋子だった。夫に先立たれてからは実質、会社も株も牛耳っていると聞く。

「遅かったじゃないかい」

 老婆の視線が、鋭く神崎を睨んだ。それに気付いて百合は神崎を紹介した。

「こちら神崎さんです。ここまで送っていただきました。神崎さんって凄いんですよ。お父様の慈善事業に一役買っていらっしゃるそうで……」

「神崎? ああ……あんたの事なら私の耳にも入っているよ。保護施設に入り浸って子供と遊んでいる馬鹿息子だそうじゃないか」

 老婆の言葉に百合は驚いた様に目を丸くした。

「恵まれない子どもたちに勉強を教えておられました。私もそのお手伝いがしたいのです」

 老婆の目がきっと百合を睨んだ。

「他人の子供の面倒なんぞお前さんがするに及ばないよ。施設で働いている者に任せておけばいい。親のいない子供なんぞ碌な大人にはなりゃしないよ」

 老婆の言葉に神崎は不服そうな顔をした。

「あんたな……」

 神崎が反論しようとすると、百合が止めた。

「お祖母様、お祖母様は私がお祖母様の孫娘でなければ気にかけてはくださりませんでしたか?」

 百合の言葉に老婆は呆れた様に溜息を吐いた。

「当たり前だろう」

「それはとても寂しいことです」

 老婆はじっと百合を見据えた。

「老いたるを敬うは父母の如し、幼きを愛するは師弟の如し。私の好きな言葉です。お祖母様が私のお祖母様でなかったとしても、私はお祖母様を大切にしますよ?」

 百合はそう言って頭を下げた。

「私の社会勉強の一助としてご承諾頂けないでしょうか?」

 老婆は大きな溜息を吐いた。

「好きになさい」

「ありがとうございます」

 神崎も頭を下げると、老婆は門の中へ入って行った。それを見送ると、神崎は大きく深呼吸する。

「やべぇ鬼婆だな」

「そんなことないですよ」

「それより、さっきの実語教だろ? 何でそんな古い教科書を……」

 そう言いかけると、百合はそっと目を伏せた。また、覚えていないと返って来るのは想像がついた。



 神崎と別れて門を潜ると、庭先に老婆が佇んでいた。銀杏の葉が黄色く色付き始めている。その銀杏の木を見上げる様に立っていた。百合がそっと近付くと、老婆が大きな溜息を吐く。

「私はね、お前さんにこの家の家督を譲ろうと考えていたんだよ。それなのに、護衛も付けないで出歩いて、あんな男と仲良くやっているなんて他の者に聞かれてみなさい。どんな噂を立てられるかと気が気でないのよ」

「お祖母様はお優しいお方ですね。私の為を思って神崎さんの前であんな態度をとられたのですか。けれども、非難されない人などいないでしょう」

 百合の言葉に老婆は落胆した様に目を細めた。

「お前さんが震災で行方不明になった時、方々探しても見つからなかった。だからきっと誰かがあんたを連れ去ったに違いない。それが今頃帰って来た上に、その悧巧さに嫉妬して誰かがまたお前さんに何かしやしないかと心配でたまらないのよ」

 百合はそれを聞いてにこりと笑う。

「あまり気に病むとお体に障ります。私の事は大丈夫です。ちゃんと気を付けます」

 そう言うが、老婆が不満そうな顔をする。

「護身術なら少々覚えがございます」

「どうしてお前さんはこうも年寄りと話が合うのかねぇ。ゆっくりその話を聞こうじゃないか」

 老婆が声を殺して笑うと、百合も笑った。老婆に手を引かれて庭を歩くと、楓の葉が赤く色付いていた。



 翌日、学校帰りに保護施設へ行くと、部屋の奥で本を読んでいた樹が嬉しそうに駆け寄ってきた。

「百合姉ちゃん! 凄いことが起こったんだよ!」

 息を弾ませ、興奮気味の樹を宥めた。

「どうしたの?」

「今日、音楽の授業があってね、和音っていうのが教科書に載ってたんだ! それでね、それでね、イ長調とか、ハ長調とかって書いてあるの、でね、先生に、これって『いろは』なの? って聞いたら、そうだよって言ったんだ。それでね、『いろは』を知っている子も居たんだけど、全部最後まで言えたの、僕だけだったんだよ!」

 目を輝かせ、身振り手振りで思い思いに話す樹の話を百合は何度も頷きながら聞いていた。

「樹くん、すごいじゃない!」

 百合が褒めると樹が恥ずかしそうに頬を赤らめた。

「僕ね、クラスでいつも成績ビリなのに、そんな僕が、皆の前で『いろは』を暗唱して、先生に褒められたんだ。だからね、また勉強しようって今日、思ったんだ」

 百合はそれを聞くとにこりと笑った。

「樹くんがそう思ってくれたなら良かった。私も嬉しいよ!」

 百合の言葉に樹は照れた様に笑っていた。

「それからね、この『いろは』を覚えてから、先生の言っていることが前より解るようになったんだ。前は『い』とか『ひ』とか『し』とかを聞き間違えたりしてたんだけど、違いが解るようになったんだ。だからね、これすごいと思う!」

 樹が嬉しそうに話すと、百合は優しく樹の頭を撫でた。

「私は、それに気付ける樹くんが一番すごいと思うよ」

 樹が白い歯を見せて笑う。百合はそんな彼の笑顔に微笑み返した。



 百合が家路に着くと、昨日と同じく神崎が付いてきた。

「樹のこと、ありがとうな。耳鼻科に連れて行ったらあんたの言う通りだった」

 神崎が話すと、百合は肩を竦めた。

「偶々ですよ」

「謙遜するねぇ」

「いえ、本当に……」

 百合が困った様に言うと、神崎は気付いていないのだろうかと少し訝った。

「一音ずつはっきりと音読した事で、今迄聞き取れていなかった日本語の下地が出来たんだと思う。それに褒められると本人のやる気も出るし、今回のことで樹は自信を持ったと思う。いろは歌を教材に使うなんて俺には思いもつかなかった。

 今日、いろは歌の意味を教えていただろ? 昨日じゃなくて一日置いたのは、文章を定着させる為か?」

 そう聞かれ、百合は驚いた様に目を丸くした。

「樹くん、昨日は意味を聞きませんでした。今日、学校で褒められたのが嬉しくて、意味を知りたがったんだと思います。だから私は別に、樹くんが意味を聞かなければ教えるつもりはありませんでした。取り敢えず文字に親しみを持てれば良いかと……涅槃経の四句の偈って少し難しいですしね」

「くっそ、全部計算されているのかと考えた俺が恥ずかしい」

 神崎が悔しがると、百合は苦笑いを浮かべる。

「あ、でも、意味は理解出来てないみたいでしたけど、いろはカルタを喜んで貰えたのは良かったです」

「よくあんなもの持ってたな」

「昨日、お祖母様から頂きました」

 何だ、あの鬼婆の入れ知恵かと神崎は嘆息した。

「なんで犬が歩くと棒に当たるの? と聞く子が多くて驚きました」

「まあ、言葉知ってても意味を知らない大人も居るくらいだからな。死語なんじゃねぇの?」

 百合は驚いて目を瞬かせたが、直ぐに目を伏せた。

「……そうかもしれませんね。でも、言葉の数は増やしておくに越したことは無いはずです」

「別に否定はしない。語彙が増えればそれだけ表現力が広がるし、言葉に興味を持てば相手の話しに耳を傾けられるようになる。だから俺は良いと思う」

 二人が話していると、不意に後ろから男がやって来て百合に抱き着いた。左腕で抱え込む様にし、右手に刃物を持っている。そのナイフを神崎に向けると、突然の出来事に神崎は目を疑った。

「静かにしろ!」

 切羽詰まった男の声に、驚いて悲鳴を上げられなかった百合はゆっくりと深呼吸する。その様子に神崎は冷や汗が出た。

「その子を離せ!」

 神崎が手を伸ばそうとすると、不意に百合は男の左腕を両手で掴んだ。男が虚をつかれて一瞬視線が百合へ向くと、神崎が男の右手を蹴り上げ、ナイフが道路に転がる。百合が思い切り地面を蹴ると、鉄棒の逆上がりの様に体が空へ上がり、男が体制を崩して膝を着いた。百合の右膝が男の顔面に当たると、男は百合から手を離し、顔を押さえてその場に蹲った。

「だから離せって言ったのに……」

 神崎はそう呟くと、ポケットから二つ折りの携帯電話を出して警察に電話し始めた。

「ごめんなさい。羽交い締めだったら万歳して座り込んだんですけど、お兄さんの腕が私の胸の前にあったし、刃物を持っていたからびっくりして……」

「びっくりしてその行動が取れるなら世話ないなぁ」

 神崎はそう言うと、道路に落ちたナイフを取った。鼻から血が出ている男に百合がハンカチを渡している。神崎はそんな百合を見て嘆息した。

「今、自分を襲ってきた男によくそんなことが出来るな」

「さるべき業縁の催せば、如何なる振る舞いもすべし。です。この人だって、何もこんなことをしたくてしたわけでは無いでしょう」

「歎異抄か……」

 神崎が呆れていると、パトカーのサイレンが聞こえてきた。男はまだ痛むのか鼻を押さえて蹲っている。神崎は再び携帯電話を取り出すと何処かに電話をかけていた。



 学校へ持って行く雑巾を手縫いしていると聞いて、百合は施設の子供たちにミシンの使い方を教えていた。興味のある子に……と申し出たら、小学四年生と、中学一年生の女の子が嬉しそうに百合の指示に従って雑巾を縫っている。

「ミシンも扱えるのか」

「一通りは……」

 神崎が話しかけると、百合はにっこりと笑った。

「昨日の今日だから、もうここには来ないと思っていた」

「どうして? ここの施設とは何の関係も無いじゃないですか」

 百合の言葉に神崎はぐうの根も出なかった。怖い思いをしたのだから、引き籠もったりするんじゃないかと思ったが、神崎が思うよりもずっと強かな娘だった。

「そういえば私昨日、少し思い出した事があるんです」

 百合が呟くと、神崎は首を傾げた。

「何を?」

「お祖母様の茶室に花籠があるんです」

 また唐突に何を言い出したのだろうかと神崎は訝った。

「それが?」

「虎斑竹ですか? と聞いたらお祖母様が大変驚かれたのです。でも私の知っている虎斑竹はもっと幅の広い淡竹なのに、その虎斑竹は夜叉竹だったんです」

「土佐虎斑竹だろ」

 神崎が呟くと、百合は神崎を見据えた。

「多分、高知とか地元の人間なら虎斑竹で通用するんだろうけど、本土で虎斑竹と言ったら岡山の虎斑竹の事を指すんだ。岡山の虎斑竹は夜叉竹だが、高知の虎斑竹は淡竹だ。一定の土地でしか採れないから、奇跡の竹と賞賛されている」

 そこまで言って、神崎は腕を組んだ。

「記憶の無い間、そこに居た?」

 百合は神崎の話を聞いて戸惑いながらも頷いた。

「……一つお聞きしても良いですか?」

 百合が恐る恐る聞くと、神崎は目を瞬かせた。

「ん?」

「神崎さん、とても博識なのですね」

「土佐虎斑竹はイギリスのBBCが取材に来た事があるんだよ。たかが竹くらいでよく日本に来たなぁと思ったから、それで覚えていたってだけさ」

 神崎がそう説明すると、百合は微笑んだ。

「四国は新幹線が無いからなぁ……飛行機で行くのが手っ取り早いとは思うが」

「坊っちゃん」

 不意に廊下を歩いて来た伊織に話しかけられ、神崎は視線を向けた。

「駄目ですよ。今度のシルバーウィークにそんなところへ行こうとするのは」

「俺まだ何も言ってないんだけど? 何でそうお前は先手を打つのが得意なの?」

「そもそも、そんな竹を知っていると言うだけで、その竹が自生している場所とは限らないでしょう」

 伊織の話しに神崎は頭をかいた。

「だから、まだ行くなんて言ってないだろ? お嬢ちゃん、他に覚えていることある?」

 百合は目を伏せると、ゆっくりと首を横に振った。

「水引」

 伊織が呟くと、神崎と百合は伊織を見た。

「多分、あなたが持っている水引は京水引や飯田水引ではない。伊予水引だと思う」

「……俺には違いが分からんが、伊織がそう言うのなら間違いないと思う。伊織の親は生前、紙漉工場で働いていて、紙の研究をしてたらしいから」

 神崎が説明すると、百合はにこりと笑った。けれどもそれも今一つ確信に心許ない。

「四国なのは間違いないんだろうなぁ」

 神崎はそう言うと不意に部屋を出て行った。伊織はそんな神崎の後ろ姿を眺めて眉根を寄せる。神崎は直ぐに戻って来たが、サングラスをかけていた。

「坊っちゃん……」

「お嬢ちゃん、ちょっと良いか?」

 神崎に呼ばれ、百合と伊織は廊下へ出た。百合が首を傾げると、神崎は百合の両手を取る。

「前から、何か書いてあるなぁとは思っていたんだが……」

 サングラスの隙間から覗いた神崎の両瞳が碧いのに気付いて百合は戸惑った。

「神崎さん……」

「これ、多分生まれつきなんだ。子供の頃は両目が開かなかったんだけど、十年くらい前から目が開く様になって……けどこの瞳、目立つだろ? 普段は黒のカラーコンタクト入れてる」

 百合は心臓の鼓動が早鐘の様に動くのが解った。その瞳に覚えがある。覚えがある気がするのに、記憶の底から出て来ない。

「海神の浜の真砂を数えつつ君が千歳の有り数とせむ」

 脳裏に誰かに牡丹の花を差し出された情景が浮かんだ。けれども顔を思い出そうとするが靄が掛かって思い出せない。

「和歌だと思うが……」

「寿歌ですよ。大海の浜の砂を数えて、その数をあなたの長寿となるようにしましょう。という長寿を願う和歌です」

 伊織の話しに百合と神崎は目を丸くした。思わず神崎が伊織の頭を掴む。

「伊織、和歌が解るの?」

「工場でご祝儀袋も作ってたんですよ。その時に見た覚えがあります」

 伊織の話しに神崎は鼻を鳴らした。

「何でこんなもんが書いてあるんだろうな?」

 神崎の碧い瞳に百合の不安そうな顔が映っていた。

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