第2話 刹那と右慶

 白い百合の花が道の脇で揺れている。塾帰りの刹那は思わず綺麗だと思って手に取った。刹那が百合の花を眺めてにこりと笑うと、不意に和歌を思い出した。

「小百合花、ゆりも逢はむと思えこそ、今のまさかも、愛しみすれ」

 思わず呟いていた。

 ふと、何時の間にか隣に中学生くらいの男の子が立っていた。白髪で、碧い瞳をしている。白装束を着たその風体に、死者であることは明確だった。刹那が持っていた百合の花を差し出すと、少年は何も言わずに大事そうに受け取る。表情は変わらないが、じっと花を見つめる少年の目は何処か嬉しそうだった。

「花が好き?」

 微動だにしないが、どことなく寂しそうに見えた。どうも普通の霊とは違う。一霊四魂と言って直霊を中心に荒御魂、和御魂、奇御魂、幸御魂で一つの魂のはずなのだが、どうも荒魂だけが無理矢理この世に押し留められている様だ。

「おいで」

 反応が無いので、少年の腕を引いて自分の家に向かった。個人病院の裏にある家に入って行く。居間に座らせると茶碗にご飯を注ぎ、箸を二本突き刺して差し出した。少年は興味が無いのか、まだ百合の花を眺めている。

「何か私に手伝える事があれば良いんだけど……」

 刹那が話しかけるが、少年から返事はない。何故、彼が自分の傍に姿を現したのか解らなかった。

「小百合花、ゆりも逢はむと思えこそ、今のまさかも、愛しみすれ?」

 やっと少年が刹那を見上げた。どうやら和歌に反応したらしい。今迄、般若心経や法華経に反応する霊なら視た覚えがあるが、和歌に反応する霊に会ったのは今回が初めてだった。かと言って、自分は和歌に詳しい訳ではない。あの和歌も、偶々母親が教えてくれた一首だった。

 また後にもお会いしたいと思うからこそ、今この時も、誠実に親しくするのですよ。

 という意味の和歌だった。生きていた頃に和歌に特別な思い入れがあったのだろう。

「ごめん、私は和歌に詳しくなくて……」

 学校で習った万葉集を思い出そうとするが、まあ興味が無いのでまともに思い出せない。自分が気に入った和歌であればあれくらいだが……

「銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも」

 少年の瞳から涙が一滴流れ落ちた。それが不思議だった。この子は和歌の意味を理解している。そう古い霊とは思えないのに、何故和歌に反応するのか解らなかった。少年は再び百合の花に目を落とした。

「暮れぬ間は花にたぐへて散らしつる心集むる夏の夜の歌」

 少年の言葉に刹那は首を傾げた。

「えと……自分が死んでいることは自覚があるってことだよね? 私が和歌を口にしたから、お前の心が少し戻ったと言いたいの?」

 刹那の問いに少年は静かに頷いた。

「難き中にもなお難し」

 多分、感謝の言葉だと思う。

「どういたしまして?」

 そんな大したことはしていないのだが、少しは役に立てたのなら御の字だ。少年は丁寧に頭を下げた。

「名前は?」

 少年は首を横に振ると、外へ出て行く。刹那は気になって外へ出たが、既に少年の姿は無かった。少年の気の流れが微かに視えるのでそれを追って行くと、川の方へ向かったらしい。川沿いに歩いていると、さっきの百合の花を持った少年がふらふらと川下へ歩いて行く姿があった。

 このまま、無事に空へ上がってくれるだろうか?

 何か思い残す事があって彷徨っているのであれば、なんとかして上げてやりたい。けれどもどうも、理由はそれだけでは無いようだ。霞雲の様に呪術に詳しくないのでよく解らないが、大地に縛り付けられているのだろう。あの子はこれからどうなるのだろう?

 心配そうに小さくなる彼の後ろ姿を見つめた。不意に、少年の体に木の根が絡みつくのを目にして走り出した。まるで生きているように木の枝葉が空に伸びていく。川辺りに巨木が現れると刹那は見捩りした。

 霞雲に……

 そう思うが、ケータイは持っていない。霞雲の様に式神が使える訳ではなかった。霞雲を呼びに行こうにも距離がある。見る間に少年の体に巻き付いた木の根が締め付けられ、白装束が赤く染まった。

「やめろ!」

 思わず靴を脱いで木に投げ付けた。巨木に当たって運動靴が転がる。少年に近寄ろうとすると、少年は何故か嬉しそうだった。



 ーー俺が目を開けたのは日差しの厳しい青空の日だった。

 乾燥した木々が擦れ合い、自然発火で山火事が起こった。七日七晩火は燃え、上昇気流が起こって雨が降ると、禿山に俺は芽を出した。何年もかけて周りの木々と背比べをし、山はすっかり緑が戻った。お隣の木は貝殻虫にやられて枯れてしまった。眼の前の木は、嵐の夜に雷に撃たれて倒れてしまった。そうやって同級生がどんどん居なくなり、とうとうこの山では自分が年長者になっていた。

 ……おぎゃあ……

 ふと、聞いたことのない泣き声に耳を済ませた。何年かに一度の飢饉がまた起こったらしい。枯れ枝の様な細い腕に抱かれた赤子が、お腹が空いたと泣いている。赤子を抱いていた女が事切れると、赤子が咳を切った様に泣き喚いた。周りの動物や虫達が、上を下への大騒ぎだった。耳を劈く様な鳴き声に、何もしない自分を責め立てている様に聞こえた。

「あれを何処かへやってくれ」

 思わず、肩に止まっていた瑠璃鳥に呟いた。勝手に頭に巣を作って雛が四羽も産まれていた。それは今回ばかりではなく、何代にも渡ってそうだった。

 瑠璃鳥が何処かへ飛んで行った。

 それから暫くして、瑠璃鳥が人間を連れて来た。赤子は近くの村の神社で面倒を見てもらっているらしい。聞きもしないのにお喋りな瑠璃鳥が何度も話に来た。

 そんな煩く囀っていた瑠璃鳥もまた、何も話さなくなった。足元に転んで、虫が集ってやがて土に返っていく。そんな様を何度も繰り返し見てきた。これからも多分、そうだと思う。

「ひふみよいむなやことー」

 ふと、幼い子供の声に首を傾げた。いつだったか自分の根本で煩く喚いていた赤子が、遊びに来たらしい。雨が降り出したので濡れないように子供の上に枝葉を伸ばすと、子供が嬉しそうに笑った。聞きもしないのに彼女は毎日の様にやって来て独り言を呟いていた。今日は村の誰に意地悪をされたとか、木の実を見つけたとか、神楽の踊り方が難しいのだとか他愛のない話しだった。

 総角結びをやっと覚えたのだと言って、一番低い枝に赤い紐を結びかけられたのが、まるで昨日のことの様だった。

 そんな子供も、やがて娘になった。大陸から違う宗教が来たとかで、その建物の柱に、自分を使うという話が人間の間であるらしい。もう長く生きたし、別にそれも悪くないかとも思っていたが、どうも娘は反対したらしい。

 村の方から火の手が上がり、娘が俺の所へ来た時には血だらけだった。

「絶対に、この木は渡すもんか!」

 おかしな娘だった。早く逃げればいいのに獲物を持った男達の前から一歩も引かない。自分の足元で彼女の頭に斧が振り下ろされるのを見た時、身動き出来ない自分の姿を呪った。彼女の体から滴り落ちる血が、水みたいに木の根に染み入った。今迄、自分の根本で死んでいったのは彼女だけではなかった。鳥も、木鼠も、蛇も、草も、花も、あらゆる命が絶えていった。それなのに、何故だか彼女の命が奪われる事が我慢ならなかった。

 彼女に手を差し伸べてやれない自分の姿が憎らしかった。彼女に寄り添えない自分が恨めしかった。

 木の枝が槍の様に男達の体を突き刺した。

 ……あれから何人殺しただろうか?

 木の根に抱いていた娘はやがて朽ち果て、骨に変わる頃、死んだ娘の霊魂が木に宿って悪さをしているのだと人々が噂した。死体を弔うと称してある日数人の陰陽師だかが彼女の骨を持って行ってしまった。

 俺は探した。根を這わせて、人を喰らい、いつしか目的を忘れた頃にあいつに出会った。

「僕も探してあげるよ」

 白髪の子供にそう言われ、戸惑った。

 探していた? 何を?

 碧眼に、自分の恐ろしい姿が映った。墨色の幹、人の皮が幾つもぶら下がった枝にはもう葉が一枚も無かった。根に人の頭蓋骨が絡まっている事に今迄全く気付かなかった。

「大丈夫。見つかるよ」

 藤衣を着た子供がそっと幹に触れると、幹が割れて人の姿に変わった。

 子供は小さな苗木を俺に差し出した。

「この枝にきっと止まるから」

 その苗木の枝に、彼女がくれた総角結びの紐を掛けた。

 ーー清に初めて会った時、古い記憶の底から彼女の姿を思い出した。彼女と清の姿が重なる。清は彼女の魂の生まれ変わりなのだろうと思った。けれども、前の事を全て覚えている訳ではないと知っていた。彼女が自分に暴力を振るうのは、前に君を助けてやれなかった自分への罰なのかとも思ったこともあった。けれども、清と同じ時間を過ごすことで、自分の中の人への恨みが消えるのが解った。だから、主人には勿論感謝しているし、清に会わせてくれた彦には言葉に言い尽くせないくらいの恩があった。

 だから、彦には幸せになって欲しかったし、兄貴の式神に下るなんてこと、望んでいないのは解っていた。だから暇を出されてから探すのに、彦の気が拾えなかった。やっと見つけた彦の姿は、千年前のあいつと同じ姿をしていたーー



「戻って来いよ」

 巨木が消え、赤い袴に白衣の子供の姿になると、少年を地面に押し付けた。力無く倒れた少年の瞳は虚ろで、何処か遠くを見ている。

「こんなところで終わるような奴じゃ無いだろ? どうせ俺なんかには思いつかないような突飛なこと考えて一時的にあいつの下についているだけなんだろ?! さっさと目を覚ませ!」

 何の反応もない少年の頬に涙が当った。右慶の目から止めどなく涙が溢れるが、少年は見捩り一つしない。その様子を視ていた刹那は脱力する様に膝をついた。

「知り合いか……」

 刹那が呟くと、右慶は涙を拭った。

「あんたは?」

 右慶に聞かれ、少し困った。

「通りすがりの女子高生」

「はあ?」

「私が和歌を呟いたらこの子が出てきたんだよ。

 小百合花、ゆりも逢はむと思えこそ、今のまさかも、愛しみすれ

 って……」

 今迄、人形の様に反応の無かった少年がゆっくりと瞬きした。

「ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをたはくめかうおえにさりへてのますあせゑほれけ」

 ゆっくりと少年の手が伸びて右慶の頭を撫でたが、表情は相変わらず硬い。

「その子、魂が分裂してもう荒御魂しか残ってないじゃない。なのに戻って来いってどういうこと?」

 刹那の言葉に右慶は驚いて目を剥いた。けれども直ぐに不敵な笑みを浮かべると刹那は何か変な事を言ってしまっただろうかとたじろいだ。

「まさか魂の構造まで把握出来る人間が居るとは思わなかった。彦があんたの和歌に惹かれたのも偶然では無いだろう。あんたには彦を蘇らせる手伝いをしてもらう」

「え? は? なんで……」

「断るならお前の両目を抉る」

 完全なる脅しじゃないかと思うが、こうなってはもう仕方がない。刹那は二人を自分の家へ呼び寄せた。



 ベッドの枕元に熊のぬいぐるみが置かれている。そのぬいぐるみのリボンが曲がっているのが気になったのか、少年はぬいぐるみを取るとリボンを結び直していた。

「おかしな子だね」

 刹那は髪を拭きながら少年を一瞥すると、部屋の本棚を眺めていた右慶に話しかけた。

「生前の記憶をなぞっているんだろ。大した意味はない」

「認知症の老人みたいだな」

「病気のことはよく分からんが、老人と一緒にされたくないな」

 熊のぬいぐるみのリボンを直し終えて満足したのか、今度は壁にかけられているセーラー服の棒タイに視線が行った。刹那は机の引き出しから巾着袋を取り出すと、紐を引き抜いて少年に差し出した。少年はそれを受け取ると、丁寧に束ねている。

「本当に普通の家の娘なんだな」

 右慶は部屋の中を見回しながら呟いた。フローリングの床に、白い絨毯が敷かれ、部屋の真ん中に小さな白いテーブルが置かれている。本棚には少女漫画と医学書が同居し、窓にはレース柄のカーテンが掛かっている。

「どっかの偉い坊さんの寺にでも住んでいると思った? 私は目が良いってだけで、普通の高校生だよ。だから知り合いに陰陽師の末裔が居るから、こういうことはそっちの専門家に頼んだ方が良いと思うよ」

 刹那が顔に化粧水を塗りながら話すと、右慶が苦虫を噛み締めた様な顔をしたので、陰陽師には苦い思い出でもあるのだろう。まあ、視るからに普通の霊では無く、妖かしに近い感じがするので、祓われる事を恐れているのかもしれない。

「まあいいや。それで? 私は何をすれば良いの?」

 刹那は髪を纏めると、眼鏡をかけて椅子に腰掛けた。

「俺はこいつが完全に兄貴の式神にされているのだと思っていた。けど、魂の一部が残っているのであれば、全ての魂を呼び戻すことは可能だろ?」

「どうだろう」

 刹那は右慶の話を聞きながら、少年の右肩から上へ向かって伸びている細い光を目で追った。

「普通、魂は分裂したりしない。だから私はこんなケースを視たことがない。確かに、残った荒御魂から天へ向かって細い糸みたいなのが伸びている。和歌を唱えるとその糸が太くなるから、他の魂とその線が繋がっていて、他の魂が引き寄せられているんだと思う。でも、上がっている魂の数の方が多いから、こっちへ呼び戻すよりも引っ張られる力の方が強いんだと思う」

 そう話している間に、少年は八重花結びを作って形を整えていた。

「上手だな」

 刹那はそれを取り上げると、髪留めクリップを取り付けて少年の頭に付けた。赤い江戸打ち紐が、白髪と血の気のない肌を引き立てている。

「かわいい」

「おい、男だぞ?」

「だって私よりも顔、可愛いもん。女装させたい」

「却下だ!」

 右慶がそう言うが、刹那はタンスからフリルのついたメイド服を取り出した。学園祭の時に作ったものなので、彼には少し大きいだろう。

「え、まさかタダで協力しろなんて言わないよね?」

 刹那が不敵な笑みを浮かべてそう言うと、右慶は眉根を寄せた。刹那は少年の前に座るが、少年は何の反応もない。着物の襟元を開くと、左胸に大きな刺し傷の痕が見えて刹那は着物を整えた。

「この傷は?」

「多分、十年前に封印を一度失敗した時のだと思う」

「そう……そんなに前から、魂がバラバラになっていたのね」

 刹那がそう呟くと、右慶は肩を落とした。

「多分、その時に四魂のうちのどれかが既に上がってしまっていたんだと思う。だから自分の力のコントロールが上手くいかなかったんだ。それで相当苦労していた」

「でしょうね。本来奇御魂、和御魂、幸御魂が居るはずの場所に呪詛が幾つも絡んでいる。これでまともに十年も生きてたなんて寧ろびっくりよ。よく生きた方なんじゃないの? 知らないけど……」

 刹那の言葉に右慶は眉根を寄せた。

「死ぬにはまだ若いだろ」

「あのさ、人の生き死にって年齢関係ないこと知ってる? 産まれたばかりでも染色体異常とかで亡くなる新生児だって居るし、下手したら出産中に亡くなる子だって居るの。小学生で脳梗塞おこして亡くなる子も居れば、体育祭の組体操で頭から落ちて植物状態になる子だって居る。だから若いとか歳とっているとか関係無いの。人の生き死には、人がどうこう出来る領域ではないの」

「千年前の鬼は、人の寿命を延ばしていた」

 右慶が呟くと、刹那は首を傾げた。

「あいつは寿命の切れかけていた親子の寿命を延ばしていた。俺もそれに居合わせたから間違いない。だから何か方法があるはずなんだ」

「それは私には解らない」

 刹那はそう呟くと少年を見つめた。紐で出来た八重花結びを自分で髪から外すと、じっとそれを眺めている。

「何かおかしい」

 刹那が呟くと、右慶が刹那を見上げた。

「本来、直霊の居るはずの場所に碧い光が居座ってる。でも、この子の直霊ではない」

「多分、千年前の鬼に体を乗っ取られているから、千年前の鬼の呪詛だと思うが……」

「そうだとしたらこの状態ではおかしい」

 刹那の言葉に右慶は首を傾げた。

「私は狐に憑かれた人間を視たことがある。その人は魂が自分のものと狐のものとが交互に入れ替わって体を乗っ取っていた。でも、今のこの子も同じ状態であれば今の様子はおかしい」

「それは体に呪詛を封じているからで……」

「私の視る限りでは直霊の場所に居座っている鬼の呪詛が一番勢力が強い。それなのに、表面に現れているのはこの子の荒御魂なんだよ。乗っ取っているのであれば先ずこの状況はありえない」

 刹那の言わんとしていることが右慶にはよく解らなかった。

「つまり?」

「乗っ取っているんじゃなくて、本来直霊が居るはずの場所を、他の呪詛に侵されない様にその千年前の鬼が守っているんだよ」

 刹那の言葉に鳥肌が立った。

「その千年前の鬼って、本当に鬼だったの?」

 右慶の脳裏に、藤衣を纏った白髪碧眼の子供が思い浮かんだ。何かとんでもない勘違いをしていたのでは無いかと自分を疑った。



 日曜の朝は喫茶店で朝食を摂るのが定式だった。店の一番奥の席に座り、本を読みながらサンドイッチを食べる。いつもは漫画雑誌なのだが、昨夜は右慶とか名乗る妖かしのせいで勉強する時間が削られてしまった。まあ、なんやかんやで右慶にメイド服を着せて自分も面白がっていたので満足ではあった。あの白髪の少年にメイド服を着せられなかったのは少し残念だが、あれはあれで眼福だった。ポラロイドカメラで撮ったら何も映らなかったのは口惜しい。右慶は安堵していたようだが、物置きからチャイナドレスを出してきたら少年を連れて早々に出て行ってしまった。

 そう思い返していると、ふと霞雲が喫茶店に入って来るのが見えた。昨日の昼間、手当をした背の高い男も一緒に居る。その二人の組み合わせを見た時に、こいつらには女装は似合わなそうだなぁと考えてげんなりする。

 背の高い男の呪術が下手すぎるので視てくれと言われ、男の魂を直視すると鳥肌が立った。

 赤子が貼り付いている……

 水子霊とはまた違うその赤子に、関わりたくないと思った。さっさと行ってほしくて適当にあしらうと、二人が出て行ってくれてほっとする。

 一人になると、サンドイッチを口の中へ押し込んで珈琲を飲み干した。本を閉じて喫茶店の外へ出ると、右慶ともう一人、十歳くらいの千早を着た幼子が居る。刹那はその二人を視ると思わず声を上げた。

「勝手に何処に行ってたのよ! 色々準備して戻ってくるの待ってたんだから!」

 右慶の胸倉掴むと、隣に居た少女が困惑した様な表情を浮かべる。

「昨夜のことが忘れられなくて一睡も出来なかったんだから!」

「はあ?! お前が無理矢理やらせたんだろ!」

 右慶が刹那の手を振り解いて抗議すると、不意に右慶の頬に拳が飛んだ。驚いて右慶と刹那が少女に視線を向けると、少女は体を震わせ、眉間に皺を寄せている。

「主人を戻す手掛かりを見つけたと言うから態々来てみれば……」

 栗色の髪が逆立ち、少女がその場で地団駄踏むと鈴下駄が音を鳴らした。少女を中心に地面に陣が現れると、砂や小石が小刻みに振動する。少女の足元の地面が割れると、咄嗟に右慶が少女を抱き締めた。

「落ち着け。変な勘違いするな」

 陣が消えると、右慶は嘆息した。手を離すと、まだ少女は不満気な顔をして刹那を睨んでいる。

「取り敢えず、場所を換えよう」

 右慶が少女の手を握ると、少女は顔を真っ赤にしていた。刹那は恋人繋ぎをする二人を微笑ましく見つめていた。



「ほう……」

 刹那が溜息の様に呟くと、舐める様に少女の姿を見つめた。フリルやレースがあしらわれたメイド服に、猫耳カチューシャまで付けている。

「何なんですかこれ?」

 いきなり刹那の家に連れ込まれ、これを着ろと言われたので着てはみたが、清には訳が解らなかった。

「な、俺より断然可愛いだろ?」

 右慶が可愛いと言った途端に清が顔を赤くし、恥ずかしそうに顔を覆っている。

「ん〜、これはこれで可愛いけど……写真に納められないのがネックかなぁ」

「心のアルバムに残しておけばいいだろ」

「惚気なんか聞きたくないよ。大体、この子にメイド服着せたくて連れて来たんでしょ? 絶対」

「俺や彦が着るより断然良いだろ」

「正論のバカヤロウ」

 刹那はそう言いつつも、物置きから他の衣装を持って来た。白いカクテルドレスやら赤いフラメンコの衣装やらが山の様に積み上がっている。

「どんだけあるんだよ……」

「演劇部で衣装作ってたのよ。中学の時だけど……私、背が高いからどうしても男役ばっかりだったんだけど、自分が作った衣装、なかなか捨てられなくて……」

 刹那がそう言うと、清は大量の綺羅びやかな衣装に目を輝かせていた。スパンコールのついた緑のワンピースや、カラフルな鳥の羽根がついた帽子もある。

「これ着てくれたら例の子が蘇る手伝いしよっかなぁ……」

 刹那が明後日の方向を見ながらニヤリと笑うと、清と右慶は顔を見合わせた。

「頼む」

「……仕方ありませんね」

 そう言いつつも、清も楽しそうに次から次へと衣装を着替えていた。



 日が暮れ始めると、流石に清も疲れ果ててベッドにうつ伏せになった。白い薄手のコートに、ピンクのチュールスカートを履いている。最初こそ着たことのない色とりどりの服に目移りしたが、こう何度も服を着たり脱いだりを繰り返すと流石に飽きて来る。

「もういいんじゃないか?」

 右慶はベッドに横になった清の頭を撫でながら呟いた。刹那は大量の衣装の中に埋もれる形で、あーでもない、こーでもないとぶつぶつ言っている。

「待って、あともう一着」

「それ、もう十回は聞いたんだが……」

「私、もう帰ってもよろしいでしょうか?」

 清が呟くと、刹那はセーラー服に似たワンピースを取り出した。ワインレッドのコートの胸元に黒い大きなリボンがついている。ナポレオンジャケットの様に金ボタンが五個ずつ左右対称についていて、そのままAラインのスカートになっている。その下から黒いフレアスカートが覗いていた。

「主人は戻ってくるつもりはないと思いますよ」

 清はそう呟くと、その服を取って部屋を出た。隣の部屋で着替えると、さっき着ていたチュールスカートとコートをハンガーにかけて戻って来る。

 刹那は首を傾げながら右慶を見た。

「そうなの?」

「それは、呪詛の封印のせいで仕方なく……」

「主人は私に、もう戻って来るなとおっしゃいました」

 清の言葉に右慶は目を伏せた。

「それは、自分の変わり果てた姿を見せたくなくて……」

「戻って来るつもりがあるのなら、私を暇に出したりはしないでしょう」

「だから……」

「右慶は私の主人が決めた事に不満があるのでしょう?」

 清が睨む様に見つめると、右慶は困った様に眉根を寄せた。

「そりゃあ……」

「私を式神のまま引き止めたいのは、右慶の自己満足です」

 右慶がたじろぐと、刹那は話が見えなくて頭をかいた。

「えっと、あの白髪の少年は蘇るつもりがないのなら、右慶のやってることは……」

「右慶は、私が消えない様にと主人を蘇らせようとしているのです」

 清が応えると、刹那は眉根を寄せた。

「主人は最期に、私の転生先も用立ててくれました。その体に入るまでの間だけ、もう暫くこの姿で残っているだけで、本来なら主人の死と同時に消滅する所を、少しでも外の世界を楽しんで来る様にと、金木犀の寿命と対にしてもらっているのです。けれどもその金木犀も老木ですから、今年の冬は越せないでしょう」

 刹那はそれを聞いて目を伏せた。

「私は沢山の綺麗なものを見ました。この美しい国や人々が、私の心を清くしてくれたのです。もう私はそれで充分です。誰も恨んでなどいません」

 清がそう言うと、右慶は不満そうな顔をしていた。

「式神であるはずの私が、自らの命惜しさに主人に取り憑いて蘇らせようなど、浅ましい考えです。主人は自らの意思で身を引いたのです。それなのに私が我儘を言うわけにはいかないでしょう」

「お前は本当にそれでいいの?」

 右慶が問い掛けると、清は目を逸らせた。刹那はそんな二人を見つめながら困った様に頭を掻いた。

「その……違ってたらごめんね。白髪の少年を視た時、魂の一部である荒御魂だけが残っている状態なんだよ。そして和歌を唱えると、一時的に他の魂と共鳴しあっていた。私は他にこういったケースを視たことがないから断言は出来ないけど、もしかしたらわざと荒御魂だけを体に残したんじゃないかって私は思ったの」

 刹那の話しに右慶と清は目を丸くした。

「戻ってくるつもりはあるんじゃないかと思う。ただ、それがどんな形で、どれだけの時間がかかるか解らないから、待たせておけなくてこういう形を取ったんじゃないかな?」

 右慶の脳裏にクレハの姿が思い浮かんだ。千年前の鬼も呪詛の解体を考えていた。それで呪詛の解体が終われば戻るつもりでクレハを式神のまま置いておいた。清をクレハと同じにするわけにいかないと思ったのならば得心はいく。

「清、千年前の鬼がどうなったのか知っているか?」

 右慶が問うと、清は首を横に振った。

「行方不明になったと聞いた覚えはありますが……」

「もしも千年前の鬼と、今回の彦の行動が同じであれば、呪詛の解体を終えた後に戻る予定でいたはずだ。それなのに行方不明になったのは何故だ?」

 右慶の言葉に清は首を傾げた。

「呪詛の解体に失敗して逆に呪詛に取り込まれたとか……?」

「あいつを行方不明に出来るとすれば、当時あいつを式神として使役していた奴に決まっているだろ」

 右慶の言葉に清は血の気が引くのが解った。このまま彦を鳴神 智弥の式神のままにしておけば、千年前と同じ末路を辿る羽目になるのだと彼は解っていたのだろう。だから、智弥の式神に下る前に首を刎ねろと言っていたのだと右慶は思い返していた。

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