育ての母の死、そして本当のお母さん探し

 私は小学五年生になった。



 工場で若村さんは、主任を任されていた。いつまでも新人よりできない慶一郎は、周りから馬鹿にされたり罵倒されたりの繰り返しだったが、若村さんだけは丁寧に接した。

 慶一郎は作業中に何かを考えて涙を流したり、ぼんやりしていることが多かった。手つきの速いベテラン陣からは、邪魔者でしかなかった。

「何度言ったらわかるんだ」

「今日はもう終わろう。明日からまた気持ち入れ替えて」

 若村さんが優しく言った。

 慶一郎は返事をしなかった。慶一郎の顔を見る者もいた。慶一郎は無言で屋上に上がって煙草に火をつけた。


 走って追いかけてくる音が聞こえた。


「慶一郎!」

 振り返った。若村さんだった。

「泰子が亡くなったって」

 慶一郎は呆然と立ち尽くした。

「泰子が?」

「電車の事故ということだ。浩貴は帰した」

 慶一郎はその場にしゃがみ込んだ。

「どうしてまた……」

 慶一郎と若村さんはともには目頭をおさえた。

「泣いてる場合じゃない。これからどうするんだ」

「どうって。あなたが深雪のそばにいてあげればいいじゃない」

「可愛いおれの娘だけどそんな簡単にはいかない」

 慶一郎はぼんやりしたまま車で帰宅した。目がまだ赤かった。

「葬儀、行くの?」

「行かない」

「スーツと黒いネクタイ、用意してある」

「誰も来ない葬儀なんかしないだろ」

「髪といていってきたら」

「触るなよ」

 双葉を軽く突き飛ばしたら、双葉は倒れて痛がった。とっさにお腹をかばった。

「ごめん……」

「病院、連れてって」

 双葉は倒れたまま頼んだ。

「検査受けてるのか。どうして何も言わないんだ」

「あなたの反応が怖くて」

「おれの子なんかうまれたらかわいそうだ」

「じゃあひなはなんなの」

「堕ろせなかっただけ」

「産みたくて産んだに決まってるわ。したたかな女が」

「前に言ったけどおれは昔、人を殺したんだ。そんな父親を持つ子が、産まれてきて幸せになれると思うか? ひなの母親は知らずに産んだ」

「どうしてそんなに冷静に考えられるのに、殺すの?」

「それは今だから。後悔してるから。殺したことそのものより、後が辛いってこと」

「私は子供が欲しい」

「おれ以外の男に頼めば?」

「じゃあなんのために結婚したの?」

「おれは子供が欲しいなんて一言も言ってない」

「他に好きな人がいるんでしょう。私しか見えないようにしてあげる」

「怖いこと、言うなよ。疑ってしまうじゃないか」

「疑う? 何を?」

「なんでもない」

 


 私は自室から出て階段を降りた。

「お姉ちゃんから電話もらって、きてって言われたよ」

「車で行こう。おれは降りないけど」

「死んだ人間のためにそんなことしたって無駄なのに」

 双葉はつぶやいて寝室で一人入っていった。



 それからしばらく、私と慶一郎は沈み込んでいた。双葉に赤ちゃんが産まれることを知った私は、本当のお母さんへの思いが強まるばかりだった。泰子ママの死から立ち直った頃、私は学校からの帰宅途中に声をかけられた。明日から春休み、という終業式の日だった。知らない男の人だった。

 ちょっときてほしいと言われて、私はついていったら、車に乗せられた。

 パパ、お兄ちゃん、この人大丈夫? と思いながら。


「本当のお母さんに会わせてあげる」

「知ってるの?」

 彼は無言になった。エレベーターを使わず、階段でアパートを上り、部屋の鍵を開けると押し入れに私を入れた。

「お前のお父さん、昔女の人を殺してる」

 私はびっくりした。今の状況が、どういうことなのかわからなかった。

「本当のお母さん、もう、この世にいないよ」

「パパ、ひなのお母さんを殺すなんてそんなことしないよ」

「その天誅が、お前にくだったんだよ」

「パパ、助けて」

 もがいた私は声が出ないように口枷をつけられた。トイレに行きたいと言ったら、下着を脱がされてオムツをつけられた。時々帰ってきて、コンビニのおにぎりだけ、食べさせてくれた。

 

 何時間か、何日か経って、鍵があいて、誰かが入ってきた。

「あれ、タクミ? 合鍵使ったの? びっくりした」

「おれ帰るわ。明日仕事で早いし」

「久しぶりに来たんならもう少しいればいいのに」

「勉強の邪魔するだろ」

「大したことないよ。五日間、実家でごろごろテレビ見ちゃったし」

 彼は、買ってきたパンを広げて食べていた。私はお腹がなった。彼は耳をすませた。

「君、だれ?」

 私は口枷のせいでうまく言葉が出なかった。彼が外してくれた。

「どこからきたの」

「田園調布」

 彼は、ただごととは思っていないようだった。

「携帯、持ってる?」

「持ってたけど、持って行かれた」

「誰に?」

「さっきの男の人」

「とにかくここから出て」

 彼は押し入れから引っ張り出してくれた。

「警察に連絡しよう」

「やめて。パパ警察嫌いなの、私知ってる」

「でも」

「私のパパ、昔、刑務所にいた」

「心配してるから」

 彼は、とりあえず、バイクで送ってくれることになった。知らない道のようで、迷いながら、いたのが楽しかった。

「さっきの人、友達?」

「幼馴染で、僕ら長野で小学校で同級生だったんだけど、あいつ、途中で転校して、それから連絡とってなかった。僕が浪人して、東京の予備校に通うから引っ越してきた時、ばったり渋谷で会って、それで家にくるようになった」

「予備校ってなに?」

「大学目指してたり大学落ちた人が行ったりするところ」

「塾みたいな?」

「そうだね」

「勉強難しい?」

「うん。医者になりたくて、二浪してる」

「さっきの人は?」

「社会人で働いてる。何回か仕事変わったみたいだけど、今は川崎の工場で働いてるって言ってた。寮には連れて行けないってわかってたんだろうな」

「これって誘拐?」

「そうだよ」

「友達が、刑務所に行ったら、いや?」

「そんなに仲良いわけじゃない」

「今、何時?」

「夜、九時」

 彼がバイクで送ってくれたが、家には誰もいなかった。公園の公衆電話から、慶一郎に電話をかけた。


「パパ、どこにいるの?」

「今から帰る。一時間、待てる?」

「うん」

 私は彼に駆け寄った。

「パパ帰ってくるって」

「帰って来られるまで、待ってるよ」

「ありがとう」


 外は三月で少しまだ寒い。彼の上着をきせてもらって、私たちは慶一郎の帰りを待った。家の明かりはついていなかった。双葉はいないんだろうか。


「名前、なんていうの?」

「俊介。田端俊介」

「私は大沢ひな」

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