昔のこと〜ひな編〜

「ひな、聞いて。お父さんとお母さんが離婚する」

「離婚って何?」

「もう夫婦じゃなくなるってこと」

「どういうこと?」


 私はよくわからず、姉に尋ねた。

「お父さん、家を出て行くって。でもいつでもお父さんに会えるし、私たち、ずっと一緒だからね」

 母はいつも忙しそうにしていた。昼間は、生命保険の営業をして、夜はバーで働いていた。末っ子の私の歩くスピードには誰も合わせてくれなかった。家のことは姉がしてくれていた。狭い家に五人で住んで、お金がなくて、でも、小さい居間にいつもきょうだい三人で顔を突き合わせてご飯を食べて、時々きょうだい喧嘩をしても、私は何も不満はなかった。父親の慶一郎は病気でもないのに働いていなくて、いつも出かけていた。ある時、父に外に若い女がいることを、兄の浩貴が知ったのだった。私は兄や姉が言っていることが、まだ理解できなかった。耳にした母の泰子は声を上げて泣き出した。兄の浩貴は、父と取っ組み合いを始めた。

「ここはおれたちの家なんだ。帰ってくるな。ひなと二人出ていけよ」

「お兄ちゃん何言ってんの?」

「ひなはお母さんの子じゃない」

「浩貴。やめて。あなただってお父さんに育ててもらったじゃない」

「おれはこの男に育ててもらってなんかない」

「言葉が過ぎるでしょ」

「おれはこの家が嫌いだ」

 慶一郎は、喧嘩を避けようとして、玄関に出て靴を履き外へ出た。

「誰なのその女。聡子のこと忘れたの?」

「ごめん。お前には借りしかない。それはわかってる」

「浩貴を父親に引き取ってもらっても?」

「浩貴はお前の子だろ? 大事にすればいいじゃない」

「優しくしないで。聡子が帰ってくるまでだけでも、一緒にいてほしい」

「もう、元には戻れないんだ」

 慶一郎は、泰子に軽くキスをした。家に戻らず車に乗って、どこかに行ってしまった。泰子は荷物の整理を始めた。

「お兄ちゃんのせいだよ」

 姉の深雪は浩貴を責め立てた。

「おれは中学出たら働くよ」

「誰も雇わないわ、あんたみたいな子」

「あ、おじさん!」

 私と姉が、ほぼ同時に叫んだ。

 慶一郎の友人の若村さんがやってきた。泰子は迷惑そうにした。

「なんだ。あいつ、いないのか」

「おじさん。パパとママが別れるの、止めてくれない?」

「え?」

 若村さんは驚いてしばらく黙っていた。

「深雪とひな、ちょっと散歩しようか」

 私たちがうなずくと、若村さんは、土手の方まで、連れて行ってくれた。 

「あいつ、家の中で肩身が狭いから、働きたいって言ってたよ」

「働けばいいのに」

「仕事ってそんなにすぐに見つからないんだよ」

「おじさん働いてるじゃない」

「実は、おれが勤めてるところ、慶一郎が口利いてくれたんだよ」

「全然知らなかった」

「先代社長の愛人の子なんだよ。あいつ。本当は金には不自由してないけど、勘当された」

「何かしたの」

「泰子と結婚したから。金目当てって思われて、一切関わらないでくれってね」

「今、若い女の人と、付き合ってて離婚するとか言ってる」

「そのうちどこかで自分がやってることに気づくだろうな。落ちるところまで落ちるようなやつじゃない」

 私は途中で寝てしまって、若村さんの背中におんぶしてもらって家まで戻ったらしかった。

 泰子は手を繋いでいた二人を見て血相を変えた。

「深雪から離れて」

「ママどうしたの」

「泰子…・」

「気やすく呼ばないでよ。もう来ないでって言ってるじゃない」

「わかった」

 浩貴がニヤニヤしていた。

「おじさん、いつまでも必死だな」

「お父さん元気なのか」

「さあ。お互いそんな興味ない」

「あんまり反抗するなよ。お前が思ってるより、慶一郎はずっと真面目だから」

「何年もずっと一緒に住んでたあなたがいうならそうなのかもな」

「ホモみたいな」

「違うの?」

「他に楽しいことがなかったから色々あったけど」

「本当はおじさんがきてくれたら喧嘩がおさまるけどお母さんが嫌がってる」

「お前本当はおれのことが一番嫌いなんじゃないか?」

「お父さんも再婚したし、なんとも思ってない。来年中学卒業して社会人になるしいつまでも引きずらない」

「立派だな」


 警察から電話があって、母は呼び出された。慶一郎の車はパトロール中のパトカーに追跡された。振り切ろうとしてスピードどんどんあげて、ついに追突した。慶一郎はただぼんやりしていた。同乗の女は制服を着ていたが、その学校のものではなく、オークションで買ったものだった。


「乗って」

 警官に言われて慶一郎は静かに両手首を差し出した。

「君、名前は? 怪我は? 家はどこ? ご家族は?」

「私は成人しています」

「調べさせてもらう」


 慶一郎は住居の契約ができない家のない未成年者に名義貸しをしたり、銀行の通帳を作ってあげたりしていた。彼らは、犯罪で生計を立てていた。慶一郎はそれに関わることはなかったが、少し報酬はもらっていて小遣いにしていた。ヤクザと繋がりのない慶一郎は彼らにとって安心できる存在で、双葉はその中の一人だった。

「お前のような奴がいるから、若者の犯罪が減らないんだよ」

「おれがしたことの全てが悪いこととは思ってない」

「子供には学校があるし、生活が困らないように生活保護っていうのがあるんだよ」

「そんなもの、なんの助けになるんだ」

 慶一郎は刑事が嫌いだった。二十年以上前、未成年の時に経験した長い取り調べは辛く、かったるく、それが思い出される。女を乗せていなくても、警官からは逃げたかった。 


「君、名前は?」

「通称、山本双葉です」

「生年月日は」

「親はいません。わかりません」

「どこの学校を卒業したの」

「学校に通ったことはありません」

「いいかげん言ってくれよ、十六だろ?」

「二十歳です」


 すぐに帰れるつもりでいたのに拘束期間は長期に渡った。慶一郎が拘置所に移された後、私と姉は、何が起きているのか理解できないまま会いに行った。慶一郎は丸刈りにしていて、ここから出られる日を楽しみにしていると、楽しそうに話した。判決は見せしめなのか、短いものの、執行猶予はつかず、実刑判決となった。


 慶一郎の収監が決まった後、若村さんが、家に人を連れてきた。

「ひな、ちょっと。社長が来てるんだ」

 路地の奥にある家のまえには車が停められないので、大通りに止めたようだった。

「あなたがひな?」

「はい」

「はじめて会うね。私は溝口と言います。妻をレストランに待たせています。今から一緒に食事しませんか」

 私はよくわからなかった。

「ひな、着替えよう」

 若村さんがうながした。家に戻ると泰子がよそ行きの服に着替えさせてくれた。案内されたのはホテルレストランでフルコース。社長の馴染みののレストランらしく、スタッフがいつもありがとうございますと迎えてくれた。社長はスタッフに、孫みたいな子なんだと嬉しそうに話した。こんなところ、初めてきた。来るもの来るものを、珍しそうに見つめる私を見て、夫妻は喜んでいた。


 社長が、包み紙に入ったものをくれた。

「開けてみて」

 私は丁寧に開けられず、ビリビリに破ってしまった。

「カメラですか」

「うちは半導体を扱ってて、いろんな製品に使ってもらってる。喜ぶかなと思って」

「うれしいです」

「それで、あのお母さん、あなたの本当のお母さんじゃないこと、知ってる? たまたま戸籍を取り寄せることがあって知ったんだけど」

 私は驚いて、手を止めた。

「慶一郎は我々にも何も言わないし、泰子さんも黙ったままだ。我々も泰子さんが産んだんだと思っていた」

「では、別の人っていうことですか」

「瀬戸聡子と書いてあったが、我々は会ったことがない。そこで、今日はあなたに、今後のことを決めてもらうつもりで呼んだ。泰子さんとは、育った環境が違いすぎる。相容れないと思う」

「私はお姉ちゃんと一緒にいたいです」

「あの子とあなたは連れ子どうしで、全く血が繋がってないんだよ?」

 私には、まだそれがどういうことなのか、理解できなかった。

 慶一郎は出所後再び社長の会社で働くことが決まり、また、家を建ててもらうことになった。私は内心複雑だった。家が完成する頃、私と慶一郎はこの家を出ていく。社長は何度も、図面を見せて、私が気にいるように何度も手を加えてくれた。慶一郎のために、新車も用意して、何から何まで至れりつくせりだった。慶一郎は刑務作業を真面目にこなしたため、出所時期が早まったが、出所後、待っていたのは双葉だった。私は小学生になった。

 泰子との離婚で慶一郎に変化が起きた。一家の主人として責任を持って振る舞おうとした。しかし、その決心は長く続かなかった。


 双葉は私のことに興味などなかった。ただ自分が幸せになればいいと、それだけしかなかった。もしかすると、慶一郎は、双葉を愛してなんかいなくて、双葉の強引さに負けただけかもしれない。でも、それは大人の話で、私にはわからない。


 慶一郎が、深雪と三人で花火大会につれていってくれた帰り、おんぶしてもらった。月の光が、いつまでもついてくるね、と慶一郎は私たちに言った。

「いつも後ろに幽霊か誰かがいるみたいじゃないか」

「そんなことないよ。きれいだよ」深雪はそう言った。

「夜道、一人で歩くの怖いんだ」

「深雪は平気だよ?」

 慶一郎は、一度家に戻って車を走らせ、一時間かけて深雪を自宅まで送り届けた。私は寝てしまっていたが、そんな一つ一つの行動に、双葉は不満を募らせた。

「あなたが送り届ける必要ないでしょ」

「小学五年生なんだ」

「タクシーに乗せればいいじゃない」

「おれの勝手だろ?」

「どうして私と一緒にいってくれなかったの」


 結局以後深雪と三人で出かけることはなくなった。私はこの家が嫌いだ。誰もご飯さえ用意することがなく、洗濯も風呂洗いもせず、散らかっていて言い争いが絶えず、慶一郎は外食ですませ双葉は自分だけお菓子を食べていた。私は二人の気づかない間に家を出ようとした。最初のうちは、慶一郎は心配していたが、頻繁に繰り返すうちに気にしないようになった。家の中は、友達を呼んだり勉強や宿題をやったりするような雰囲気ではなく、私は学校に行くこともなかった。


 私は昔の家に行ったが不在だった。それで、慶一郎の勤務先に行った。工場は、夜遅くまで明かりがついていた。浩貴と若村さんが汗を拭いて並んで出てきた。浩貴がここで働いていることは知らなかった。

「ひな? どうしたの?」

「本当のお母さんに会いたい」 

 私は泣きながら、家の現状を二人に話した。

 浩貴は、家事ならママに教えてもらって自分ですればいいと言った。若村さんは学校に行きなさいと言った。

 泰子と深雪に教えてもらって私は数年かけて家事ができるようになった。学校は休みがちだったが、友達もできた。ただ、家には呼ばなかった。

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