「キャラクター小説の作り方」
これから月に1冊くらい本を読んでいこうと思います。というか、本は読んでいるのですが、その感想を文章に出力しようと思っています。できれば、小説+それ以外、という感じで読めるといいです。
まず今回読む本は大塚英志「キャラクター小説の作り方」です。
この本は昔、ライトノベルというジャンルが流行ったときに書かれた本です。僕はこの本がとても気に入っていて、しばらくこの本を読んでネット小説を書いていたくらいでした。(カクヨムができるまえの話です)。しかし、なにかのきっかけか、ずいぶん長い間、小説が書けなくなってしまいました。(今もうまく書けません)
この本は小説の書き方であると同時に、文芸批評的な本でもあります。そのため、読み物としても、とても面白い。時代が変化している中ではありますが、根本的には前向きな本だと思っています。
それではざっくり読んでいきます。まず三つポイントを上げたいと思います。
1.「キャラクター小説」とはなにか
そもそもまず、「ライトノベル」とか「キャラクター小説」とかは御存じですか?
僕はわりとライトノベルとかいう言葉に親しんできた世代なのですが、大塚さんはその「ライトノベル」が流行る前から作品を作ってきた人です。
そういうわけで、出版社の編集が漫画やアニメの絵がつく小説の企画について、これは小説じゃないと、「キャラクター商品」(漫画やアニメのノベライズ的な展開としての商品)なんだという意味で、「キャラクター小説」という発言をしたことを印象深く覚えたそうです。これはアニメや漫画のノベライズがアニメショップなどで売られていることを考えれば、すんなり受け入れられるのではないでしょうか。
しかし、大塚さんは、そこでただキャラクター商品として展開されてるから「キャラクター小説」として扱うだけでなく、こういう小説は小説としても独特の意義を持っているんじゃないか、と考えたようです。それは、これらの小説が現実世界や史実をもとに創作するのではなく、最初から架空世界をもとに創作しているという点に特徴があることです。(漫画やアニメのノベライズなんか、まさにそうです)
これを日本文学の歴史に位置付けると、難しい言葉ですが、自然主義リアリズムから仮想現実を描く小説へと変わったんだと言っています。
特に重大なのは、私小説の「私」から「キャラクター」という架空の存在を描くように変わったわけですね。
2.小説をどう書くか
この本はたしか当時角川スニーカー文庫の雑誌に載っていました。ところが、そのスニーカー文庫の賞の選考基準について、それを取り上げて、むしろ「編集部が問題だと考える部分にキャラクター小説のらしい部分が詰まっているのではないか」と提起しています。
それは「キャラクター小説」の「キャラクター」とはパターンの組み合わせであり、パターンの組み合わせによって自分の作風を確立するものだ、という考え方です。何か無から特別なオリジナリティが出てくるものではないのですね。
ふた昔前はツンデレだの暴力系ヒロインだのがいました。そしてひと昔前は、スキルや魔法といったもので、キャラクターを表現するようになりました。レベルやステータス(状態)でも同じなのですが、その根本にはオリジナリティはありません。みんなパターンの組み合わせによってキャラクターを表現することで、自分なりの独自色を出そうとしているわけです。
これはキャラクターの作り方の一例ですが、物語についてもパターンがある、と大塚さんは言います。
大事なことは、こうしたパターンの組み合わせによって創作することは、古典でも行われている技術であり、おかしな話ではありません。この本の初出は20年前ですが、そのころはツンデレも全盛期ではなかったんじゃないでしょうか。それでもパターン化してキャラクターを表現する、という考え方があり、しかもそれを身に着ける方法が昔からたくさん書かれていたとは驚きです。
3.大塚さんは何が言いたかったのか
実は、僕はその後もいくつかの創作術の本を読んだのですが、大塚さんの創作技術(作り方)に関する部分は、別の本から引用されている箇所も多い。つまり、他の本を読んでも身に着けられる技術なのです。(TRPGやれとか)
それでは大塚さんはこの本で何が言いたかったのか。
それは1で述べた、「キャラクター」が虚構であるということ、「キャラクター小説」はその虚構を自覚して書いていくと、「現実」にぶち当たるよね、という逆説的な話なんだと思います。
大塚さんはそもそも近代文学の自然主義や私小説も、明治政府ができて「標準語」を作ったり、こういう「新しい現実」に対応する言文一致体という「文体」を獲得しなければできなかったと言います。その前は漢文とか候文で生きてたわけで、それって「私」なんてもともと存在していなかった、なんとかして「新しい現実」に対応するためにこしらえたキャラクターだった、というわけです。
キャラクターを使って小説を書くことは、別にそのキャラクターが格別好きだから描いているわけではありません(要出典)。となると、みんなそれほどパターンの愛好家ではないんですから、どれくらい「現実」と向き合っているかが焦点になります。そのために新しい「文体」を獲得しようと言っているのですね。
なぜ書けなくなったか
僕は最初にこれを読んだとき、大塚さんの言いたいことはあまり理解できませんでした。(今も理解しているとはいいがたい)
「キャラクターはパターンの組み合わせでできてるんだな!」とか「物語もパターンの組み合わせなのか!」とか、そういう話だけ印象に残って、小説を書いていたと思います。実際、パターンの組み合わせで書くことは、昔から行われてきたことで、近年のネット小説でも行われてきたわけですから。
しかし、このパターンの組み合わせにハマってから「現実」を描き出そう、「現実」と向き合おう、という小説の作り方はかなり難しいと思います。とりわけ、「キャラクター」が評価される時代にあってはいっそう困難になっている。
この本でもSNSについて触れられていますが、SNSの「私」はあきらかに「キャラクター」である、キャラを作った「私」であるって僕もいえます。大塚さんはSNSをやっていませんが、この「私」とは「なりすまし」が可能なくらい誰でも代入可能な、歴史や時代から乖離した存在なんだそうです。つまり、ここでも「私」は、やっぱりパターンの組み合わせによってできたキャラクターなんです。
ところが、SNSやカクヨムで現れる「私」にはひとつ特徴があるわけですよ。それはつねに周りから反応をもらって(あるいはスルーされて)得点化されているってことなんです。
これの何が問題か。いやほんとキツイんですけど、好きなアニメとかゲームとかで苦言を言うと「お気持ち表明」とか揶揄されるんですよ。この逆に、このアカウントでは到底言えないようなことを、別のアカウントで言ったりする。つまり、プラスの得点やマイナスの得点に応じて、キャラクター(アカウント)を使い分けないといけないのですね。
そうすると、「現実」と向き合うどころか、キャラクターである「私」がフィクションや虚構だと知っていても、いや、フィクションだと思っているからこそ、キャラクターがまさか傷ついたり時には死ぬとは思ってもいなかったり、逆にぐっとこらえて何も言えなくなってしまう事態が起きている。
僕の場合はそれが、とくに内側にこもる方へと向いて、「現実」に接続してないと小説としておかしいのではないか? と空回りするようになってしまいました。
「現実」への向き合い方がこれでうまくいくはずがありません。
「新しい現実」を描くには新しい日本語(文体)が必要だ、という指摘は大事です。つまり、キャラクターに注目した小説が書かれている今、「新しい現実」が現れているということです。
ところが、その話がこの本からは抜け落ちている。ここまで来たら、新井素子さんの辺りの日本の歴史をしっかり押さえておく必要があったかな、と読み終えて感じました(ちょうどライトノベルの黎明期にもあたるので)。
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