ロジカルハック016cxd
触れれば僕の肌を容赦なく切り裂くだろう植え込みの目前で停止し、表面を軽く撫でながら仔細に観察する。
あった。ここか。
フォトリアルな質感で現実のそれとしか思えない枝木の隙間に、僕の指がずぶずぶと沈み込む。現実感覚がそれを拒絶しているのか、肌を束子で撫でるような錯覚に全身が粟立つ。
そんな僕にダブるように、ローポリゴンのマネキンのようなオレンジ色のシルエットが被さってきた。
対戦相手──あのガチャと名乗っていた走り屋──だ。直接に干渉することはないが、こうして相手の姿を投影することでレース競技らしい体裁を整えているのだ。
僕は疼痛めいた錯覚に耐えながら植え込みのテクスチャの切れ目を探り、更に身を沈めていく。
同時に、シンプルな幾つかのアイコンが並ぶヴァーチャル・コンソールを視界に表示し、そこから簡単な操作をする。
エックスを投与。
効き始めるまで二十秒ってとこか。
定番のムーヴだから、相手も今頃同じことをしているだろう。
自分の手に重なるオレンジ色のシルエットを見ながら考える。
エックスは、ヘッドセットに挿入したデッキの中のチップの一枚だ。
これは向精神薬の一種で、早い話がドラッグだ。
この競技が違法となっている原因はここにある。
この手の幻覚剤や向精神薬を服用してVRゲームを遊ぶと、"ブッ飛べる"。
VRゲームが人気を博し、プレイヤー層が広がる中で、どこからかそんなカルチャーが生まれた。
もちろんこの国では医療目的でもなしに個人がそういった薬を用いること自体が犯罪だ。
更に悪いことには、ドラッグを使用しながらのVRゲームによる事故が起きた。
事故を起こしたプレイヤーは複数のドラッグを服用しながらVRゲームをプレイしていたらしい。ヘッドセットを装着したまま昏睡状態で家族に発見され、植物人間となて今も意識が戻らないという話だ。
そうしたムーヴメント自体は、"快楽のため"であったわけだが、僕らがチップを用いる理由はもう少し別のところにある。
考えてみてほしい。
ある朝起きると床が斜めに五度ほど傾斜していて、思わず壁にもたれかかると体はそのまま沈み込み、外に出れば空は緑色で空気は糊でも含んだかのように粘ついている。
そんな世界に放り込まれれば、人間は狂う。
VRゲームをバグらせるとはそういうことなのだ。
だから僕らは正気を保つためにチップを
このVRTAは、普通のタイムアタック、
ゲームの持つバグや不具合を利用して、
肌の内側を無数の虫が這いまわるような感覚が急に途切れ、ガクンと足元が一段落ちた。半ば体が地面に沈んだような錯覚。一瞬遅れて周囲の状況を認識する。
いつの間にか座らされている。軋む木の椅子。
バグを利用した壁抜けに成功したようだ。
壁抜けは、単に壁を挟んだ隣の部屋に移動するということとは全く違う。
映画セットの裏側を歩いて、別のセットに移動することだ。間の展開をすっ飛ばすということだ。
そうして僕は物語上のイベントの発生地点まで飛んで、今その最中にいる。
目の前のテーブルでは、得体の知れない黒ずんだヘドロのようなものが鍋の中で泡立っている。
視線を上げると、家族と思しい四人が同じテーブルを囲む。
禿げ頭の熊のような巨漢。
痩せこけてひび割れた顔の中で大きな瞳ばかりがぎらぎらと光る女。
生きているのか死んでいるのか分からない、ミイラのような老婆。
パーカーのフードの影になって表情の見えない若い男。
巨漢にここを訪れた理由を尋ねられる。
主人公──僕は、ここに失踪した妻を探しに来た。
画面上に入力ボックスが現れ、妻の名前を入力することになる。
ゲームへの感情移入を促すちょっとした仕掛けだ。
僕は記憶を辿って、妻の名前を入力する。
[00242][016cxd][00052]。
この入力ボックスは、僕らのような走り屋にとってはゲームの内部に入り込むための
ここでは、ゲーム内プログラムから幾つかの部品を拝借した。
用済みになったイベントをスキップしてインベントリを開くと、幾つかのアイテムが追加されている。VRゲームらしくそれらは手に取ることができるが、傍目には絡まった針金のかたまりにしか見えない。
僕はその表面を指で撫でながら観察する。徐々に表面に複雑な記号と文字の組み合わせが走っているのが視認できた。エックスのチップが効いてきたみたいだ。
エックスの効用は、正気を保たせる気付け薬だけじゃない。
認知能力の拡大。ゲームの表面の綻びや、その内部で走っているコードを見え易くしてくれる。
僕はコード情報を頼りに絡まった針金を解きほぐし、有用な形に組み立て直す。
個々のコードは無意味な文字列のように見えるが、要は解法の決まったパズルだ。手順を理解していれば、目隠しをしていてもルービックキューブの色を揃えるのは可能だ。そんなことだ。
僕の手の中で黒い物差しのような道具が組み上がる。僕はその仕上がりに頷く。
ときおり表面を緑色の文字列が走るそれは、周囲のオブジェクトと比べてものっぺりとした質感で、ゲーム内にあって明らかな異物だった。
ナイフの柄を握り直すと、その僕の手に重なるように、オレンジ色のシルエットが両手を開いたり閉じたりしていた。
相手もほぼ同じ経路を同じペースで進んできているようだ。
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