第15話 手の正体

 どれくらいの時間が経っただろうか。水晶はどちらのものとも知れない心臓の激しい鼓動に身を委ねていたが、不意に頭上から聞こえた声によって現実へと引き戻された。


「すっ、すまない! 突然こんなことをしてっ」

「え? あ……えと、その」

「本当に、ごめん。嫌だよな」

「そんなこと……」


 そんなことない。水晶が答えるよりも早く、アンバーは背を向けてしまった。背を向ける直前、真っ赤に染まった彼の顔が見えた気がしたが、水晶もきっと同じようなものだろう。

 そのままアンバーは落ちていた本の前まで歩き、屈んでそれを手に取ろうとする。

 しかし、本からバチッと静電気のような力が発せられ、アンバーは思わず手を引っ込める。


「本の意志による拒絶反応? フロートが言ってたのはこれか」

「でも、台の上に戻さないと」


 気を取り直し、水晶も本の前に膝をつく。そしてそっと手を伸ばしたが、静電気を感じない。水晶は難なく本を手に取り、台の上に戻すことが出来た。


「水晶は大丈夫、か」

「みたい。……これも、あの手に関係あるのかな」


 表紙を撫で、水晶は呟く。あの黒い手は、おそらく正しくはこの本は、水晶に向かってこう言った。読み解く者か、と。


「この本は、内容を読み解く者を待っていた? なんて、そんなこと言ったら自画自賛してるみたいだね」

「いや、実際そうなんだろうな。……それで、お前はどうするんだ?」

「どうする?」


 アンバーの問いの意味が分からず、水晶は首を傾げた。するとアンバーは、腕を組み顎で本を示す。


「その本の解読を受けるのか? それとも、止めるのか」

「……受ける。きっとこの本は、歴史は陽の目を見なければならない気がするから」

「そうか」

「アンバーは、反対?」


 眉間にしわを寄せたままのアンバーに、水晶は不安を覚える。反対され、連れ戻されることを危惧したのだ。

 しかしアンバーは、ゆっくりと首を左右に振った。仕方ないな、と柔らかく微笑む。


「俺は、お前が決めたなら尊重する。ただし、あんなものの傍にお前一人を置いていくなんてことはしないからな。俺も共に、ここにいる」

「……ありがと、アンバー」

「ふん」


 ほっと胸を撫で下ろす水晶に、アンバーは苦笑じみた笑みを向ける。そしてくるっと向きを変えると、書庫の出口に向かって歩き出した。


「一度戻るぞ、謁見の間に。王に承諾することを伝えないとな」

「うん」


 二人は連れだって、謁見の間へと戻った。彼らの背中を見詰める影があることにも気付かずに。


 王は水晶の決断に喜び、滞在期間中に使う部屋を二部屋用意してくれた。隣り合ったそれらは書庫に程近い客間であり、いつでも書庫を訪れられるようにという配慮だ。

 部屋はシンプルながら、気品を感じさせる家具類が揃っている。装飾は少なく、心を落ち着けて過ごせる工夫がなされていた。

 右の部屋を水晶が、左の部屋をアンバーが使うことに決まった。アンバーは水晶の部屋の前で、おやすみの挨拶をする。


「今日は疲れただろ。ゆっくり休めよ、水晶」

「うん。……あっ、ちょっと待って!」

「うわっ」


 アンバーが自室に戻ろうと一歩踏み出した直後、水晶が彼の袖を引く。思わず声を上げたアンバーは、サッと顔を赤くして「何だ?」と尋ねた。


「何かあったのか?」

「うん……。ちょっと、部屋で話せないかな?」

「部屋!? あ……いや、大丈夫だ」


 水晶はアンバーの袖を引き、部屋のソファーに座らせた。自身も彼の隣に腰を下ろし、きゅっと膝の上で手を握り締める。


「あの、あのね。本から黒い手が出たでしょ? あれについてなんだけど……」

「何か、思い当たることがあるのか? ゆっくりで良いから、話してみてくれ」


 アンバーに促され、水晶は躊躇いがちに頷く。


「あの黒い手、傍にいたアンバーは?」

「いや。正直、退けるので手一杯で、きちんと観察することは出来てない。どうしてだ?」

「……あの手は、文字で作られてる。たくさんの古代文字が絡み合って組み合わさって、一つの『手』という形になってるんだ」

「文字が……。つまり、招かれざる者を近付かせないため、か」

「その可能性は高いと思う。そして、剣で斬れなかったのは」

「あれが文字だからか。文字なら、斬れなくても納得出来る。実体がないからな」

「でも、アンバーを傷付けた」


 目を伏せ、水晶はそっとアンバーの手に触れた。手の甲には真新しい傷があり、血が止まっているものの痛々しい。おそらく、シャツをめくれば幾つもの切り傷や打撲があるのだろう。


(アンバーは優しいから、痛いって言わない。だけど、心配だけはさせて欲しいよ)


 水晶の指が傷の傍をなぞる。

 アンバーは顔を赤くして狼狽え、息を呑んだ。


「水晶、何を……」

「一人で戦わせてごめんなさい。傷付けて、ごめんなさい。……巻き込んでごめっ」


 言い募ろうとする水晶の唇を、アンバーの大きな手が塞ぐ。目を見開く水晶に、アンバーは首を横に振った。


「謝るな。護ると言ったのは俺で、剣を抜いたのも俺だ。俺は、水晶が無事ならそれでいい」

「……ありがとう。でも、心配だけはさせて」


 水晶はアンバーの手を優しく退けると、泣きそうな顔をして微笑んだ。そして、とん、と水晶の額がアンバーの肩に触れる。

 アンバーは驚いたものの、水晶の背中を軽く撫でるに留めた。


「明日、もう一回本に会いに行く」

「わかった。お前なら、きっとあの本ともわかりあえるだろ」

「……だと、いいな」


 大丈夫だ。アンバーに心からそう言われ、水晶も強く頷く。

 今度こそアンバーは水晶の部屋を出て、自室へと向かった。彼の足音が聞こえなくなると、水晶はソファーから立ち上がり、ベッドへと倒れ込む。


「まだ、ドキドキしてる……」


 胸に手を当て、水晶は改めて自分の気持ちを自覚した。けれど、それはまだ伝えるわけにはいかない想いだ。

 部屋に備えられているシャワー室で汗を流し、水晶は王宮の侍女が用意してくれたナイトドレスに袖を通した。濃い藍色のそれは、薄手のワンピースに似ている。


「明日、きっと……」


 疲労も手伝い、水晶はすぐに夢の世界へと誘われた。





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