第2話 クラージュ古書店

 水晶みずきは呆然としていたが、我に返ると空を見上げた。

 ここが何処かはわからないが、少なくとも今は昼間らしい。太陽らしき光を放つものが地上を照らし、息が出来る。つまり、水晶は生きていけるということだ。


(まずは、人里に行かないとね)


 何度も読んだ、異世界転生・転移ものの小説やマンガ。そのどれもかどうかはわからないが、少なくとも誰かと出会わなければここが何処かすらわからない。水晶はずぶ濡れで気持ちが悪いと思いながらも、とりあえず道を歩き出した。

 青々とした木々の葉を左右に見ながら、真っ直ぐに歩いて行く。時折鳥らしき美しい鳴き声や獣の唸り声が、かすかに耳朶を打つ。季節は夏なのか、湿気の少ない風に少しずつ服が乾いていく。

 誰ともすれ違うことのないまま、水晶は日が傾く頃にようやく一軒の建物を見付けた。


「……クラージュ古書店?」


 明らかに日本語ではない文字。そして、地球の外国語でもない。その記号のような文字の羅列をすらすらと読めてしまい、水晶は戸惑いを覚えた。

 しかし、これも突然異世界らしき場所に飛ばされた自分へのギフトかと無理矢理納得し、古書店の扉の前に立つ。

 古書店の外装は、何十年もここに建ち続けていますとでも言わんばかりの古めかしさだ。ところどころ蔦が這い、くすんだ木の壁に彩りを添えている。窓はあるものの閉め切られ、店内を覗くことは出来ない。


「よし。とりあえず、情報収集だよね」


 一度ぐっと拳を握り気合を入れると、水晶は「営業中」と書かれた札の下がる戸を開けた。ギギッと使い古された音がして、古書のにおいが漂って来る。


「こんにちは……わあっ」


 思わず声を上げた水晶は、濡れた髪の雫が本に落ちないよう注意しつつ店内へと入る。逸る気持ちを抑え、ぎっしりと本の詰められた棚の前に立った。

 本はどれも年代物なのか、少し黄ばんでしまっているものも多い。背表紙しか見えないが、どれもあの記号のような文字が並んでいる。

 水晶は指で背表紙の文字をなぞりながら、頭に浮かんで来る言葉を口に出していた。


「……そ、『掃除の極意』。た、べ、『食べて欲しいおやつ全集』。まほ……『魔法入門』? やっぱり、読める。でもどうして、読めるの?」

「――いらっしゃいませ。どうかされましたか?」

「きゃんっ」


 思考に落ちていた水晶は、突然声をかけられて軽く跳び上がった。振り向くと、そこには水晶と同年代に見える容姿の整った美青年が立っている。短く切り揃えられた黒髪に、褐色の肌、そして明るい緑色の瞳を持つ彼の姿に、水晶は目を奪われる。

 固まった水晶に、青年は首を傾げて見せた。彼の視線は、まだ水分の残る水晶の髪に注がれている。


「にわか雨もなかったと思うが……森の湖にでも落ちたのですか?」

「え? あ、いえ! ちょっと色々ありまして濡れてしまって。でも、大切な本を濡らすことはありませんので」

「それなら良いですが……。おせっかいですが、ちょっとこちらに来て頂けますか?」

「へ? あ、はい」


 ぐいっと腕を引かれ、水晶はレジカウンターの奥にある部屋に連れて行かれた。そこで座って待つように言われた後、少しして青年がタオルを二枚持って来る。ふわふわのタオルを渡された水晶が目を瞬かせると、青年は再び立ち上がりながら言う。


「それで、髪の水分を拭き取って下さい。そのままじゃ、麓の町にも帰れないでしょ? ただ生憎とここは俺一人なもので、女性用の着替えとかはないのですが、ご勘弁を」

「そんな、タオルを貸して頂けるだけで充分です。ありがとうございます。本、汚してもいけませんしね」

「というか、貴女が風邪をひく……」


 青年の呟きは水晶には聞こえていなかったが、彼女はごしごしと髪をタオルドライした。電柱が外に立っていないことから、おそらくこの世界に電気はないのだろう。

 タオルで服も軽く乾かし、ほとんど水滴が落ちることはなくなった。ひとごこちつき、青年が入れてくれた紅茶に似た飲み物を口に入れる。とろみのある爽やかな柑橘系の味がして、水晶はほっと息をついた。


「おいしい飲み物ですね、ありがとうございます。お蔭様で、ようやくほっと出来ました」

「それは何よりです。それにしても……珍しい衣服ですね」

「あ……ですよね」


 青年に指摘され、水晶は自分のことを見下ろして苦笑いを浮かべた。大学帰りの彼女の服は、白のブラウスと赤と黒を基調としたチェックのフレアスカートだ。

 それに対し、青年の服はオーバーオールに似た作業服だがそれ自体ではない。そんな青年から見れば、水晶の衣服は物珍しいだろう。

 じっと見詰められ、水晶は目のやり場に困った。青年は容姿端麗であり、更に目力も強く水晶の心臓はドキドキしっぱなしなのだ。

 目を合わせない水晶を見詰めていた青年は、軽く息をつくと少し離れて胡坐をかいて座った。


「俺はアンバー。アンバー・ディライト。ここは祖父から受け継いだ店で、二代目店主だ。……あんたは?」

「わ、わたしは……水晶です。桃矢水晶」

「ミズキ? トウヤが名字ってことだよな。……あんた、少なくともこの町の人間じゃなさそうだな。何処から来たのか、訊いても良いか?」

「えっと……」


 急に言葉遣いが変わったアンバーに戸惑いつつ、水晶は迷った。彼に自分がおそらく異世界から転移してきたことを明かして良いものか、彼を信用して良いものか。

 しかし、じっと水晶の言葉を待つアンバーに、水晶は賭けてみることにした。


(たぶん、アンバーさんは信頼出来る。もし出来なくても、この世界のことが一つでも知れたらそれで良い)


 きゅっと両手の拳を膝の上で握り締めると、水晶は顔を上げた。


「きっと、信じてもらえないと思います。それでも、良いですか?」

「ああ。話してくれ」

「……実は、わたし、たぶんこことは違う世界から来たんです」

「――は?」


 目を瞬かせたアンバーを見て、水晶は肩を竦めて苦笑するしかなかった。



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