ぼくは0点?
馬永
序章:
突然、胸のあたりに激痛が走った。思わず、自転車のハンドルを離しそうになる。
(な、なんやっ?)
胸に手をやった途端、今度はへその上あたりを2回目、3回目の激痛に襲われた。
(おわっ!)
うずくまりそうになったせいでハンドル操作を誤った。川沿いの土手を走っていた自転車は、そのまま土手を川とは反対側、田んぼの方に転がり落ちてく。自転車のまま草の生い茂る土手を駆け降りることができたのは日ごろの曲乗り遊びの賜物なのだろう。まだ田植え前で水の張っていない田んぼにつっこんだところで、秀雄は大の字に転がった。自転車から投げ出された痛みよりも先の胸と腹の痛みの方が激しい。急いで学生服の下のワイシャツをはだけると、秀雄の親指ほどのアシナガバチが飛び出していったのが見えた。
「おーい、しんちゃん、大丈夫かあ?」
「新藤くん、けがしたんちゃう?」
土手の上には、秀雄の後ろから来た制服姿の生徒たちが何人か集まっていた。通学時間なのだ。校則のために全員がヘルメットをかぶっている。男子はその下が坊主頭だ。
「大丈夫じゃ。誰かしょんべん、かけてくれえ。ハチに刺されたあ」
昭和50年代、日本中に第二次ベビーブーム世代の子どもがわんさかいた時代、四国は香川県の山奥といえども例外ではなかった。同じ香川に住む人にもその存在をほとんど知られていない、県境にある鴨田村。周囲を山に囲われた盆地のほぼど真ん中に建っていた鴨田小学校は、田植えの時期になると湖の真ん中に浮いているように見えた。大正時代に建てられたこの小学校は、平成になってじきに廃校になるも、秀雄が卒業した年にはまだ全校生が221人いた。2クラスある学年が2学年、それ以外は1クラス。教師たちからは「山ザル」と呼ばれていた新藤秀雄(しんどうひでお)が鴨田小学校第62代生徒会長に選ばれたのは、走るのと泳ぐのとが学校で一番速かったからだが、秀雄でなくても、全生徒がお互いの顔と名前をしっかりと見知っている人数、時代であった。
この年の4月に秀雄が入学した清水東中学校は、盆地の東側にある峠の登り口辺りに建てられており、秀雄の家からだと鴨田小学校を超えてさらに遠くになるため、自転車通学が許されていた。
第一章:中1
◆1学期 初めての定期テスト
「おぉ、新藤、大丈夫やったんか?」
朝のホームルームに遅れて1年3組の教室に入った秀雄に、担任の石塚先生が声をかけてくれた。まだ若いわりに、礼儀にも厳しいのは、秀雄の所属している剣道部の顧問でもあるから。事情はほかの生徒から聞いているようだ。
「アンモニア、塗ってもらいました。今すっごい、かゆいです」
秀雄は体操服に着替えていた。友達におしっこをかけてもらったからではない。思春期を迎えつつある秀雄の友達は、秀雄の目線に局部をだすことを恥ずかしがったのだ。
「ハチがシャツの中に入るって、どんだけスピード出しとったんや?気をつけんといかんぞ。まあ、無事でよかったわ。ほんだら、みんな、さっきの話を続けるで」
石塚先生は黒板の横の掲示板に大きな紙を貼り付けた。
清水東中学には鴨田小学校以外にも、鴨田盆地の北の山向こうにある海辺の2つの小学校からも生徒が集められるため、1学年が4クラスとなっていた。
「これが今度のテスト範囲じゃ。みんなは初めての定期テストになるの」
紙には、表が書かれており、数学・国語・英語・理科・社会の枠に分かれていた。枠内にはそれぞれ「教科書:〇~〇ページ、ワーク:〇~〇ページ」「資料集:〇ページ、〇〇の図は絶対に覚えておく!」などと書かれている。
「ええか、小学校の時は聞いたことないと思うけど、中学からはこうやってテストの出題範囲を教えるけんの、この範囲の勉強を自分でしっかりせんといかんで。テスト期間中、部活は休みや!」
「いぇーい!」
生徒数が少ないため、校則で全校生徒が何かしらの部に所属することが強制されており、ほぼ全員が歓声を上げた。
「ちがう、ちがう。部活が休みになるんは、勉強のためじゃ。遊んでええわけではないんぞ」
石塚先生は3組にも数人いる剣道部の面々に顔を向けながら説明を続けた。
現在の公立中学校では5月の中間テストを実施しない学校が増えているが、昭和の時代はまだまだ年5回の定期テストが主流であり、特に新1年生は入学して日が浅い時期に最初の定期テスト、中間テストを迎えることとなる。実は、この新学年最初の中間テストは、生徒にとっては実施される方がお得だったりする。
そもそも新学年が始まったばかりのこの時期、自己紹介や中学生活の説明などもあって、ほとんどの授業が進んでおらず、試験範囲などはないに等しい。さらに、中学初めての定期テストということもあって、それぞれの教科担当の先生も難しい設問を作らないことが多い。例えば、国語の設問に「小学校生活と中学校生活の違いを書きだしなさい」というものが出たり、社会の最後の設問が「あなたが中学生活で頑張ろうと思うことを書きなさい」とあったりする。英語では、アルファベットを大文字・小文字でそれぞれ正しい順番に書くという設問の配点が一番大きかったりする。
実は点数が採り放題のテストなのである。このお得さに気づかない生徒が多かったのが本当に残念なのだが、秀雄もそれをまったく気づかない生徒の方に入った。
1学期中間テスト
国語84点:数学74点:社会78点:理科69点:英語82点
合計387点:平均77.4点
中学入学以来、秀雄の中で何かがおかしいと感じることが増えていた。
まず、学級委員に任命されなかった。体育の体力測定、50メートル走で負けた。授業中に発言した際に笑いは取れても先生から「ちょっと違う」と言われることが増えた。いずれも小学校時代にはなかったことだ。
初めての定期テストの点数も、自分が思っていたものからは「おかしい」ものだった。秀雄は小学校のテストでは80点以下を採ったことがないのに、最初の中間テストで80点以上がほとんど採れなかったという現実に驚いた。
ただ、その「おかしい」原因が何なのかわからない。秀雄は「石塚先生から『テスト範囲の内容を自分で勉強しておきなさい』と言われたのに、何もしなかったせいだ」と自分を納得させることにした。
ほとんど何もしなかったのは事実だった。秀雄は別の小学校から来たクラスメートが教えてくれたラジオの深夜放送にはまってしまい、テスト期間中もラジオを夢中で聞いていたのだった。
1学期はあっという間に過ぎていく。6月末、期末テストの1週間前になり、各教科のテスト範囲が発表された。中間テストの5教科に加え、音楽、美術、技術家庭、保健体育の4教科が加わり、全9教科となる。
誤解を恐れずに言うと、公立学校の教師は自分の生徒にいい点数を採らせたいと考える方が普通である。点数が悪いということは自分の教え方が悪いという証明になるわけで、意地悪な問題などは基本的に出さない。かといって、あまりに簡単な問題では生徒の為にならない。テスト範囲の発表だけでも入試に比べればかなりの親切なのに、それに加えて、授業中にわざわざ「ここ、テストに出すぞー」と教えてくれたり、場合によっては、全く同じ問題を出したりしてくれるのだ。「普段の授業をしっかり聞いて、テスト範囲をきちんと勉強すれば、いい点数は採れるんだよ」いう教師の恩情なのである。
中間テストのことがあったので、前回は何もしなかった秀雄でも、この1週間の「テスト発表期間中」は毎日、家でも机に向かってみた。向かってみて気づいた。
(何をしたらええんじゃ!?)
よく考えれば、小学校時代に学校の宿題以外の勉強を家でやったことがなかった。学校以外で勉強したことがない、と言ってもよかった。当然、塾に通ったこともない。それ以前に、秀雄の住んでいた鴨田村には塾がなかった。実は秀雄が知らなかっただけで、数名の生徒は極秘で峠を越えた山向こうの塾に通っていたのだが。
とにかく、教科書を開いてみた。
(教科書を読んどいたら何とかなるやろ)
次に自分のノートも開いてみたが、黒板に先生が書いてくれたことを丸写ししているだけで、何が要点だったのかはさっぱり思い出せない。それをぼんやりと見るだけにとどまってしまった。
そうこうしているうちに22時になったので、秀雄はラジオのスイッチを入れた。そこから深夜1時、2時まで神経はイヤホンをつけた耳に集中、教科書とノートはただ開いているだけの状態になる。これが毎日続いた。
1学期期末テスト
国語78点:数学58点:社会67点:理科64点:英語52点
音楽63点:美術77点:保健体育68点:技術家庭85点
合計612点:平均68点
多少なりとも勉強した自負はあったので、5教科全ての点数が下がったのには少なからずショックを受けた。とはいえ、両親から何かを言われることもなく、夏の大会を間近に迎える剣道部の練習は激しさを増しており、秀雄はすぐにテストのことを気にしなくなった。
夏休み中、剣道部の練習時間はほとんどが午前中だった。
「今日も行くか?」
「行こうで。俺、今日も水着、持って来とるし」
「俺はもう着がえたぞ」
「海パン一丁でチャリこぐんか?ええのう。俺も部室で着がえとこう!」
練習後、部員たちと連れ立って海に行くのが日課になっていた。自転車通学となって活動範囲が一気に広がったことが大きい。
清水東中学の後ろ、高松市内へと西に伸びる峠とは別、北に位置する峠を越えると眼下に海の煌めきが広がる。そのまま坂を自転車で一気に駆け降りると、じきに小さな漁村の防波堤に出ることができるのだ。防波堤から海に飛び込む、何度も飛び込む。ただただ飛び込むだけの行為がなんでこんなに楽しいのかは秀雄たちにもわからない。屋内競技であるはずなのに、真っ黒に日焼けした剣道部部員たち…。
今のところ秀雄たちが知っている海は、この優しい瀬戸内海だけだ。高校生になって初めて高知県で太平洋を見た秀雄は、その大きさに驚くとともに、その荒々しさに怖くなり、同じ四国でも香川県人と、小説で読む高知県人との県民性の違いのルーツがなんとなくわかったような気がするのだが、それはまた別の話。
秀雄がのほほんとまったく勉強しない夏休みを過ごしている間、進藤家では彼の人生を左右するとんでもない騒ぎが勃発していたのだが、本人はまだ何も知らなかった。
◆2学期 内海中学校
進藤家は父親と母親、長男の秀雄、4歳離れた妹、さらにその2歳下、秀雄からは6歳下の弟という5人家族である。秀雄が骨太なのは母親に言わせると「父親ゆずり」だそうだが、両親ともなかなかにがっしりしている。秀雄が中学に入学したこの年、妹は小3、弟は小1だった。
夏休みの終わり頃、パーマをかけて洒落者を気取っていた父親がとつぜん角刈りにして帰ってきた。秀雄たち兄弟は思わず笑ってしまい、慌てて「しまった」と思うのだが、いつもなら「親を笑う奴があるか!」と張り倒しにくる父親が、この時は何も言わなかった。
その数日後、9月のまだまだ暑い日曜日の朝、父親の指示で家族全員が車に乗せられ、高松市内に連れていかれた。秀雄たちの親せきのほとんどが高松市内に住んでいたが、車にエアコンがまだまだ完備されていない時代、全開にした車の窓の外に広がる景色は、どの親戚の家とも違う方角、秀雄のまったく見知らぬ町のそれだった。汗が噴き出す中、1時間ほどで着いたのは、古い木造の平屋の前だった。
「家の掃除、手伝え!」
車中、何を聞いてもほとんど話してくれなかった両親だったが、ここでいきなり父親が、車の後ろから箒やら雑巾やらを取り出してきて、秀雄たちに命じた。母親はさっさとバケツに水を汲んでいる。既に何度か来ている様子だ。
「来月からここに住むけん、今の家に帰ったら、引っ越しの準備をしとけよ!」
と聞いたのは、昼過ぎになって、母親がいつの間にか作って持ってきていたおにぎりを食べているときだった。母親からは
「お父さん、仕事辞めたけん、今の社宅は今月中に出んといかんの。はけん、あんたらは10月からこっちの学校に通うことになるで」
と多少マシな説明があったとはいえ、子供たち3人には青天の霹靂であることは変わらない。とはいえ、詳しい話を聞いてはいけないような雰囲気を両親が出しているのも確かだ。もともといかつかった父親は、角刈りにしてますますいかつく、話しかけにくい。
平屋は至る所がカビ臭いとはいえ、今の社宅よりはずっと広く、未だに自分の部屋がなかった秀雄は、
「あっちの部屋、子供部屋にしてええん?しばらくは俺一人の部屋でもええ?」
と声に出してみた。重苦しい雰囲気を変えたかったのだ。声に出したところで思考が止まった。あまりの突然さで、それ以上のことを考えるのを心が諦めたのかもしれない。
「学校、転校せんといかんの?」
妹が泣きそうな声でつぶやいた。
結局、運動会の関係で10月第一週まで秀雄は清水東中に通い、運動会翌日の月曜日に高松市立内海中学校に転校した。清水東中では小学校の6年間をずっと一緒に過ごした友達や剣道部員たちを中心に皆が涙、涙で送り出してくれたが、目の前のことをやるだけで精一杯だった秀雄は、涙を流すことさえすっかり忘れていた。
月曜朝早く、秀雄は自転車、母親は原付バイクで並走しながら内海中に向かった。内海中の後ろには屋島とその山頂まで伸びるロープウェーが見える。
自転車置き場の段階で、その規模は清水東中の倍以上であることが分かった。そのまま職員室に向かい、事務の先生に通された職員室の隅、応接コーナーのイスに座った。職員室も清水東中学より数倍広い。その広い職員室の奥から、先の事務の先生に伴われて、秀雄にしたらおばあちゃんのような女性が、にこにこしながら近づいてきた。
「おはようございます。あなたが進藤秀雄くん?」
緊張していた秀雄にとって、ありがたいくらい優しい声だった。
「お、おはようございます」
「私は1年11組担任の大西加奈子(おおにしかなこ)です。はじめまして。担当教科は国語です」
大西先生は少し垂れ気味な目をますます細めて微笑んでくれた。
「お母さん、制服は一緒ですね。新しいのを買う必要はありませんよ」
妹と弟を新しい小学校につれていかないといけない母親は必要書類を提出するとすぐに帰り、秀雄は大西先生の後に従って職員室を出た。
「さて、1年生の校舎に行きましょうか」
(1年生の校舎って?)
歩きながら大西先生がさらに話をしてくれた。並んで歩くと、大西先生は秀雄より背が高かった。ということは、最近追いつきつつある秀雄の父親よりも大きいかもしれない。
「内海中はここ数年で急に生徒数が増えているので、運動場にプレハブの校舎を建てて、1年生はそのプレハブの校舎を使っているの。来年の春には新しい中学ができて、半分はそっちに行くから、それまではプレハブ校舎で我慢ってところかな。さっきお母さんが教えてくれた住所だと、進藤君は新しい中学に行くはずよ」
急に大都会に来てしまった気がして、緊張だけでなく、恐怖まで感じるようだった。
(田舎もんやとなめられたらいかん!)
内海中学校は、平家物語、壇ノ浦の合戦で登場する屋島の麓にある。山にしか見えない屋島は、昔は文字通り「島」であり、今のように地続きではなかった。内海中の建っている場所一帯は、昔は海だったところであり、そこに市電が走り、市電の駅に直通するような形で屋島山頂に登るロープウェーの駅もあった。屋島山頂からは東西に広がる瀬戸内海を一望することができる。秀雄も家族と一緒に何度か登ったことがあり、特に西の海に沈む夕日が絶景だった。
昭和50~60年代にかけて、屋島周辺には住宅地が多数整備され、内海中には県内県外を問わず多くの生徒が集まってきていた。この当時、1学年だけで14~20クラスにもなっていて、その収容能力はすでに限界に達していた。
1年11組、最初の挨拶こそ秀雄は無難にこなした。こなしたつもりだった。
「進藤くんって野球部に入るん?」
昼休み、学級委員ということと秀雄と出席番号が近いという理由で世話役に任命され、隣の席になった佐藤くんが校内を案内してくれた。
「いや、なんで?」
「真っ黒やし、坊主やし」
秀雄はここで改めて、佐藤くんの頭が坊主ではなく、育ちのよさそうな坊ちゃんカットであることに気づく。そういえば、11組だけでなく、校内ですれ違う男子生徒の中に坊主頭はいない。
「野球は苦手や。剣道部に入るつもり」
「そうなん。うちのクラスに剣道部はおらんなあ。もう一つ、聞いてええ?」
「ええよ」
「前の中学で成績よかった?」
「えっ、ぜんぜん普通やったよ」
「そうなん。何回も手、あげるし、頭よさそうな感じが全開やで」
佐藤くんは坊ちゃんカットだけでなく、面長で色白な様子が、内面の優しさ全開の生徒だった。とはいえ、初対面で成績について聞いてくるあたり、多少の警戒感が出ていることに秀雄は気づいていない。
秀雄が1時間目の授業から手を上げて質問をするようにしたのは、馬鹿にされないように気をつけただけ、秀雄にとってはいつも通りのことだった。しかし、内海中では、先生から指名されるまで、自分から手を上げて質問や発表する生徒はおらず、かなり目立ってしまったようだった。
「ほんで、先生から聞いとん?今週の木、金、中間テストやで」
聞いてない。
(昨日が運動会で、今日転校して、木曜からテストやと!?)
運動場が使えない関係で内海中はここ数年、運動会は春に、近くの陸上競技場を借り切って開催しているのだそうだ。その分、清水東中より2学期の中間テスト日程が早くなっている。
佐藤くんが職員室に同行してくれて、各教科のテスト範囲が一覧になっているプリントをもらってくれた。そこで大西先生が全教科の教科書を見せてくれ、全てが清水東中と同じ出版社のものであり、買い替える必要のないことを確認してくれた。
家に帰った秀雄は、珍しくすぐに机に向かって自分のノートを確認した。一応、授業中に先生が黒板に板書したことは必ずノートに書いてはいる。それとテスト範囲を見比べてみたところ、特に数学と英語は大きく、他の教科も少しずつ、清水東中より内海中の方が進んでいることがわかった。実は今日の授業中にも何となくおかしさを感じてはいたのだが、最近、授業を聞いても、自分がわかっているかどうかさえ怪しくなっている秀雄には、確信が持てなかったのだ。
2学期中間テスト
国語64点:数学33点:社会50点:理科77点:英語7点
合計231点:平均46.2点
クラス順位41人中32番:学年順位587人中474番
いろいろ驚いた。
英語の7点の驚きは、解答する時点でほとんどの設問が全くわからずに、唯一手が出せた記号選びの設問が「3問も合っていた!」という驚きだ。
英語の答案が返される時、小柄でつぶらな瞳の英語の田井先生が
「今回、このクラスの満点は佐藤だけや」
と言ったのも驚きだった。
(佐藤くん、頭ええんや)
中学1年生だけで600人近くもいることに驚き、そして順位が出ることに驚き、何よりも自分の順位の低さに驚いた。いきなり直球を顔面に投げつけられた気分だった。
(587人中474番って…。俺、もしかして頭悪いん?)
小学校時代を含めて、秀雄は両親から一度も「勉強しろ」と言われたことがない。それは秀雄が勉強しない子ではなく、宿題は自分からきちんとやる子だったことが大きい。しかし、宿題はきちんとやっても、予習や復習といった「自分で勉強する」ということが、秀雄にはよくわかっていなかった。小学生のときに始めて中学でも続けている剣道においても、毎日の決められた練習にはきちんと参加するが、素振りやランニングといった部活時間以外の練習は、強制されない限りやらない。どこか「そういうことを勝手にしてはいけない」と思い込んでいる節があった。今回、7点の答案を見た母親が聞いてきた。
「あんた、ドリルか何か買うてこうか?勉強、わからんのとちゃう?」
「いや、こっちの学校にまだ慣れてないだけやけん。期末までにはきちんと勉強するわ。お父さんは何か言うとった?」
内海中に転校した10月以降、夕方に出かけて朝に帰ってくる夜シフトの仕事に就いていた父親とはあまり顔を会わせていない。滅多にしゃべらない、しゃべるよりも先に手が飛んでくるタイプの父親がどう思っているのかを考えると怖くなった。
「お父さんは何も言うとらんかったわ。あんたに任しとるんやと思う」
任せる、と言われたところで、
「勉強の仕方がわからない」
とは秀雄には言えなかった。
そして秀雄は迷いながらも母親にとんでもない提案をしてみた。
「ちょっとこれ見て」
週刊漫画雑誌の裏表紙だった。そこには
『寝ているだけでグングン成績が上がる!睡眠学習枕』
という文句が躍っていた。値段は19,800円、今の進藤家には大変な額であることは秀雄にも分かっていた。
数日後、秀雄は「睡眠学習枕」を手にしていた。説明書にはこんなことが書いてあった。
・付属の専用カセットテープに、自分の覚えたい内容を、お持ちのラジカセを使って自分の声で録音してください。
・専用カセットテープは6分の録音が可能です。
・覚えたい内容を3分にまとめ、専用カセットに3分×2回、録音しましょう。
・お持ちのラジカセを本体(枕部分)につなぎ、本体のタイマーをセットして、ラジカセの再生ボタンをオンにしてください。お休み前、起床時、セットした時間にラジカセが起動・停止し、起動中、カセットはエンドレスで再生されます。
この当時のラジカセには、カセットテープの両面を自動で再生する「オートリバース」機能を標準装備している機種は少なく、片面の再生が終わったら、一旦カセットテープを取り出し、裏返しにして入れ直す必要があった。
秀雄はこの通りにやろうとしてみた。幸い、家には父親が知り合いからもらってきた古いラジカセがあったので、付属の専用カセットテープを入れて、歴史の教科書の覚えたいページを読みあげてみた。3分で2ページも読めなかった。他にも何冊か教科書を試したが、3分に収めるには自分で相当に短く、要領よくまとめないと無理だということに気づいた。つまり、まずしっかりまとめたノートを自分で作る、それを自分で声に出して2回も読み上げる、という手間が必要だった。そこまでしたら枕に関係なく覚えられるよね、という代物だ。また、そもそも数学はどうしようもなかった。この前年にテレビ放送を開始した国民的アニメのネコ型ロボットが出してくれる「暗記パン」のようなものを想像していた秀雄の目論見はあっという間に崩れ去った。
結局、睡眠学習枕もすぐに投げ出し、何か特別なことをするでもなく、日々だけが過ぎていった。テスト発表があってからのテスト期間中、自ら課したラジオ禁止だけは守った。
英語の試験中、前回の中間テストで唯一答えらしきものがわかった記号選びの設問は、今回、選択肢を見ても全くわからかった。困った秀雄は六角エンピツの6面の1面ずつに記号を書いて転がし、出た目の記号を解答欄に書いた。下手に考えるよりそっちの方がマシではないかと思ったのだ。それが秀雄の人生に影響するとも知らずに。
英語の田井先生は、生徒からはMr. Taiを縮めてミスタイと呼ばれている。
「ヒデオ・シンドー…」、ミスタイから名前を呼ばれたときには、既に秀雄は教壇の方へ歩いていた。答案を受け取る。すぐに答案用紙の右上、点数欄を見てみた。〇が一つ…、さっきからずっとミスタイが秀雄と全く視線を合わせようとしなかった意味がわかった。それは〇ではなく0(ゼロ)だった。生まれて初めての0点だった。
秀雄は真面目に思った。
(これは…お父さんに殺されるかも)
2学期期末テスト
国語88点:数学42点:社会54点:理科90点:英語0点
音楽62点:美術82点:保健体育55点:技術家庭67点
合計540点:平均60点
クラス順位41人中24番:学年順位587人中323番
もう12月、日が落ちるのは早い。家に帰りたくはなかったが、すぐに真っ暗になり、しかも寒かった。どこにも行く当てがない。いつもは夜出勤の父親が、あいにく今月は昼のシフトになっていた。夕飯ものどを通らずに待っていると20時ごろに父親の車のエンジン音がした。秀雄は玄関に正座した。吐く息が白い。
「兄ちゃんについていく!」
と譲らない弟を連れて、数人の友達だけで山向こうの海に泳ぎに行ったことがあった。6年生の夏休みのことだ。鴨田盆地の東側の比較的険しくない峠を越えて徳島方面に進めば、県内でも有数の海水浴場、津田の松原(琴林公園)に行くことができた。
津田の松原、涼しい木陰を提供してくれる松林を抜けると、目の前に真っ白な砂浜が広がっており、波は穏やかで、水の透明度も高い。泳いでいても足に絡みついてくる海藻がほとんどなく、秀雄はプールよりもこの海で泳ぐことが大好きだった。
但し、子どもだけで自転車に乗ること、峠を超えて校区外へ出ること、どちらも小学校では禁止されていたため、この時の秀雄たちは二重に校則違反を犯して、子供だけで行く計画を立てていた。そこに弟を連れて行くというのは、かなりのハイリスクだったが、「お父さんに言つける」とまで言う弟を置いていくわけにもいかず、険しくないとはいえ、かなり長い峠道を、おんぼろ自転車の荷台に弟を乗せて登り切った。
その夜、弟が高熱を出し、秀雄は父親から思いっきり殴られ、家の外に放り出された。最後に母親が入れてくれるまで、泣きながら外で座っていた。
(あん時も正座やったのう)
引き戸を横に開けて父親が入ってきた顔先に、秀雄は正座したまま、
「すみません。こういう点を採りました」
と英語の答案を差し出した。顔は下に向けている。
(顔を上げとったら顔面を殴られる、頭だったら痛みに耐えられるやろ…)
と秀雄なりに考えての行動だった。父親が答案を見ているのは気配でわかる。
(くるか?もうくるか?)
と待ってみた。一向にでっかい手が飛んでくる様子がない。
恐る恐る、秀雄は顔を上げた。
そこには作業着のまま玄関に立っている父親の寂しそうな顔があった。秀雄が今までに見たことのない表情で、父親は答案を眺めていた。
「…」
しばらく沈黙が続いた。
「これは…、本気で何とかせんといかんの」
ふいに父親がつぶやいた。
それが秀雄に向けての言葉なのか、独り言なのかはわからない。ただ、この時の父親の寂しそうな表情を秀雄はずっと覚えていることになる。
(俺が0点やったせいで、お父さんがこんな寂しそうになるんか!)
秀雄は本気で思った。
(何とかしよう!)
「坂本式に行ってみん?」
母親が声をかけてきたのは翌日のことだ。聞いたこともない名前だったが、どうやら塾みたいなものらしい。秀雄は塾に行ったことがない。鴨田村には塾がなかったし、校区外まで連れて行ってやると言われても、いつも断っていた。学校の授業がわからないと思ったことがなかったからでもある。
「行きます」
秀雄がこんなに素直に、しかも敬語で母親に答えたのは、後にも先にもこの時だけ。
やる気メータはマックスだった。
◆坂本式学習法
次の土曜、早速に坂本式の教室を母親と一緒に訪ねた。母親の原付バイクを秀雄が自転車で追いかけるといういつものスタイルだ。
着いたのは内海中からそう遠くない住宅地の中にあった、秀雄の家に負けず劣らず古い、平屋の一戸建て。教室入口には小さなクリスマスツリーが立てられているが、お世辞にも建物にマッチしているとは言えない。
10あったやる気は7くらいになった。
玄関を上がると、目の前に板張りの部屋があり、左手に畳の二部屋がつながるように開放されていた。塾がどんなところか知らずに、何となく学校のような建物を思い浮かべていた秀雄には、すっかり拍子抜けだった。さらに、出迎えてくれた先生が母親と同じくらいの年齢の女性、つまりはおばさんだったので、青春ドラマの熱血教師を想像していた秀雄は、失礼にもがっかりした。
やる気メータ4。
「坂本式・内海中前教室の三島と言います。お電話でお母さまから大体のお話は聞いています。進藤くん、早速にテストを受けてもらっていい?」
三島先生は母親よりも小柄だが、髪を後ろでぎゅっと束ねて、秀雄をやや下からまっすぐに見上げてくる目にやたらと力があった。
(いやいや、学校でボロボロなのでテストは勘弁してください)
とは言えずに、三島先生の差し出すテストを開いてみた。小学校で習った計算問題、算数のテストだった。中学数学の問題ではない。
(これは解けそうや)
そう思った秀雄は、勧められたイスに座り、筆記用具を出した。三島先生は秀雄の後ろに立った。そこで秀雄の様子を見るようだ。3人のほかには誰もいない。母親は少し離れた席に座った。
「名前を書いたら、始める時間…今の時間を書いて。はい、始めてください。」
九九、割り算、桁の大きなかけ算、割り算の筆算…そこまでは確かに解けた。分数でふと手が止まった。
(分数?あれ、下の数を揃えるんか?そのまま計算するんか?)
そのまま2問ほどをでたらめに解いたところで
「はい、そこまででいいよ。表紙に今の時間を書いて」
なんか格好悪い気分になった秀雄に、追い打ちをかけるように三島先生は
「次は英語のテストね。進藤くん、名前をローマ字で書けるかな?」
「へ?」
秀雄はローマ字が全く書けなかった。その前に読むこともできなかった。秀雄はすっかり忘れていたが、ローマ字は小3の国語の授業で習っている。
「書けません」
「じゃあ、さっきと同じように漢字で書いていいよ。時間を書いたら、始めて」
結局、カタカナで書かれた単語を読む、アルファベットを正しい順に書く、だけができた。
「ちょっと待っててね、採点するから」
(採点なんか必要ないやろ。ぜんぜんできてないし!)
また、父親の寂しそうな顔が思い出された。
その後、三島先生と母親がいろいろと話していたが、そんな会話は秀雄の耳を右から左に抜けていくだけだった。ただ、帰り際に
「大丈夫。私を信じて。絶対にできるようになるから!次の教室、楽しみにしておいて」
と秀雄の目をじっと見つめる三島先生の目は、なぜだか今まで会ったどんな大人とも違う力を持っているように思えた。
1になっていたやる気メータは3までに戻った。
次の月曜日、初めてということもあって部活を休んで16:30に教室に着いた。戸を開けるとかなりの数の靴が棚から溢れるように並んでいる。上がってみると畳の二部屋の座り机は小学生でいっぱいだった。中学生向けの塾だと思い込んでいたので、またもや拍子抜けだ。とりあえず先に座る場所を確保しておこうと空いた所にカバンを置こうとした際に、近くにいた女の子の解いているプリントが目に入った。
「えー!」
目が飛び出るかと思った。秀雄が未だ全く見たこともないような計算をしていた。
(こ、これは中1どころか、中2や中3くらいの問題ちゃうん!)
畳に座っているとはいえ、女の子は秀雄よりも小さく、妹と同じ小3か小4くらいであろうことはわかる。なのに、やっている問題は秀雄よりずっと上の学年の内容のようだ。そんなことが世の中にありえるのか!?
(頑張ったら、俺もこんなん解けるようになるんか?)
驚きながらも、期待できるような気もしてきて、複雑な面持ちで秀雄は三島先生のいる机に向かった。三島先生からは、
「今から教室でこれをやってね」
と、プリントを束でもらった。
「えっ!!」
プリントの1枚目には「2+1=、3+1=、4+1=」と足し算が10問ほど並んでいた。その場で他のプリントもめくってみたが全部足し算の問題だった。秀雄はしばし混乱し…唐突に思った。そうか!
「先生、これ、小1の問題やろ。俺、中1やで。間違ったんちゃう?」
「間違ってない。進藤くんには今日、そのプリントを10枚やってもらう。理由は2つ!」
「…」
「いい?理由1つ目。進藤くん、この前のテスト、分数が難しかったよね?今日、分数のプリントを渡したら自分一人でできると思う?」
「…できん。けど、教えてくれたら、できるかもしれん」
「うん。じゃあ、教えてあげてもいいけど、10枚できると思う?」
「…できん。教えてくれても10枚も無理じゃ」
「あのね、坂本式はね、自分一人で10枚スラスラできるところから始めるの。それが進藤くんにとってはこれなの」
ぐぅの音も出なかった。その通りだと思った。いくら数学のテストが33点でも中1だ。算数の足し算のプリント10枚、あっという間に終わらせた。少なくとも秀雄はそう思った。英語はアルファベットのなぞりと見写し書きだった。いくら英語のテストが0点でも中1だ。これも10枚、あっという間に終わらせた。もらったプリントが全部100点になったので、三島先生のところに行ってみた。
「すごい!速かったね。全部100点だし!」
(当り前じゃ!)
「このプリントは教室だけでなく、家でも毎日やってほしいの。算数10枚、英語10枚、毎日きちんとやらないとダメ。いっぺんに全部やってもダメ。毎日が大事なの。さっき言いそびれたけど、理由2つ目。進藤くん、家であんまり勉強したことがないでしょ。これなら毎日できそう?」
「やる。やるし、もっとできる。どっちも20枚ずつ、毎日40枚ずつにして」
それがその時の秀雄にできたせめてもの、わずかな抵抗だった。それから秀雄は算数20枚、英語20枚を毎日やりつづけた。
男の意地でもって、やる気メータは5くらいになっていた。
◆3学期 きざし
2学期の途中、すっかりクラスの色というものが出来上がってしまってからの転入だったので、むしろ秀雄だからこそ感じられたことがある。1年11組はみんな仲のいい、居心地のいいクラスだった。担任の大西先生のほわーんとした雰囲気のせいでもあるかもしれない。それでも、クラスの中はごくごく自然に、大きく分けて3つのグループに分かれていた。
1つ目は『優等生組』、おっとりしているように見えて、実はしっかりした、成績も上位の生徒たち。昼休みは談笑していることが多い。佐藤くんはここに入る。
2つ目は『元気組』、中には成績上位者も混じっているが、基本的に、よく言えば明るく元気、悪く言えば騒がしい、運動もできる生徒たち。男子で言うと昼休みにプロレスごっこをしたり、廊下を走り回ったりする連中だ。
3つ目が『教室の隅っこ組』、成績も運動もイマイチ、どうしても消極的、遠慮がちになる生徒たち。昼休みはカーテンに隠れるようにして過ごす。
そして、秀雄の自尊心とは関係なく、周りから秀雄は『隅っこ組』に属していると見なされていった。彼らがいろいろと話しかけてくれるのはありがたいのだが、
「お前、最初は頭ええと思っとったけど、俺と同じくらいやの」
「日本人やけん、英語なんかしゃべれんでも困らん。外国には一生、行かん!」
「日本に来る外人は、日本語をしゃべるべきやろ」
「買い物ができたら、数学なんか要らん。困ったら電卓もあるしの」
そういう会話に付き合わされるようになり、秀雄としてはかなり複雑な気持ちになった。プロレスごっこに交じったりして、秀雄としては無意識なりに『元気組』アピールをしていたのだが、どうしようもなくなるのがテストの返却時だった。
テストの返却時、この組み分けが濃厚になる。いい点数が採れる『優等生組』は『優等生組』同士で点数を見せ合い、競い合っていた。そして、『隅っこ組』は『隅っこ組』同士で見せ合うしかなくなるのだ。
「俺、20点とれんかったわ」
「いや、俺の方がもっとあほやぞ」
競い合うというよりは傷の舐め合いだった。
3学期になるころにはそれもあって、秀雄はクラスメートよりも剣道部の1年生と過ごす割合が多くなっていた。特に帰る方向が同じ山田信也(やまだしんや)くん、ヤマとは部活が終わると自転車で一緒に帰るようになり、時たまヤマの家に拠ることもあった。何よりも楽だったのは、ヤマとは勉強やテストの話をしなくてよかったことだ。剣道部の先輩や釣りの話をすることが多かった。秀雄は小学校時代に少しだけ釣りをやったことあり、簡単な道具なら一式持っていたので、本格的に釣りを趣味にしているヤマからは、生まれて初めてのバス釣りを教えてもらったりした。ただ、釣り好きのくせに色白で、すらっとしたヤマのきちんと整頓された部屋を見て秀雄が感じていたのは、佐藤くんと同じ『優等生組』の香りだった。
週2回、月曜と木曜の坂本式の日だけは部活が終わったら1人で部室を出た。ヤマからは何度か「どこの塾?」と聞かれたが、何となく言葉を濁らせていた。なんせ坂本式教室に中学生はほとんどいないのだ。
小学生の中に一回り大きな体を小さくするように埋めて、秀雄は黙々とプリントに取り組んだ。三島先生が感心するくらい、秀雄は宿題を1回たりともさぼらなかった。黙々とやる分、教材レベルはどんどん上がっていった。レベルが上がるにつれ、1教科1日10枚、5枚と三島先生の方で枚数を調整してくれた。
三島先生が算数の解き方や英語の文法を教えてくれることはほとんどない。必要なことはプリントに書かれていた。とはいえ、くどくどと説明されているわけでもない。例題をよく見て、例題をまねして解き、自分で解いた解答がその次の設問のヒントになるという教材構成だった。できたプリントを三島先生はじめスタッフの先生に提出、採点してもらい、すべてが100点になるまで訂正を重ねた。なかなか訂正できないときは例題を見直し、それでもわからないときに漸く、「ここにヒントがあるよ」と三島先生がアドバイスをくれた。また、間違いが多かったセットについては、同じセットを何度か復習したりもした。
算数はすぐに分数レベルのプリントに進んだ。分数の足し算、引き算は通分する(分母を揃える)、掛け算は分母と分母、分子と分子を掛け合わせる、約分は途中ですませる、割り算は後ろをひっくり返して掛け算にする、ルールさえ整理できれば簡単だった。なんでこれができなくなっていたのか、秀雄は自分でも不思議だった。
英語は、まずローマ字を覚えた。母音a,i,u,e,oさえ覚えれば、kをつければカ行ka,ki,ku,ke,ko、sをつければサ行sa,shi,su,se,soと法則性があることがわかった。ローマ字もルールが理解できれば簡単だった。なんでこれが覚えられていなかったのか、はたして不思議だった。
但し、正確にいうとローマ字は日本語の標記方法であって英語ではない。秀雄はアルファベットを覚えたところで英単語は読めないという事実に、ここで初めて、今さら、気がついた。ant(アリ)は「アント」であって「エー・エヌ・ティー」ではない。
(英語の単語の読みは1つずつ覚えるしかないのか…)
最初はその果てしなさに気が遠くなりそうだった。その後、つづりによって法則性があること、それがローマ字の読み方に似ていることにも気づいたのは大発見だった。ローマ字で「アント」を書くと「anto」となる。英単語は「ant」、どうやら読み方にはルールがあるらしい。少し光が見えたような気がしていた。
この頃、秀雄にとって家でやることは、坂本式のプリントしかなかった。教科書は読んでもわからないので、学校の勉強はやりようがない。学校の先生は「わからないところがあったら質問に来なさい」と言ってくれるが、秀雄に言わせると「全部わからない」、つまり、「どこがわからないかがわからない」ので、質問に行きたくても行けない。「先生、何がわからないか、わかりません」と言ったところで、先生も困るだけであろう。
秀雄の場合、わからなくなったのは中学に入ってからではない。ローマ字にせよ、分数にせよ、小学生レベルで既につまずいていた。ただ、本人も周りもそのことに気づいていなかった。確かに、秀雄の小学校の成績表の評価はよかったのだ。「よい」「ふつう」「がんばりましょう」の三段階評価で、ほとんどの教科が「よい」となっていた。つまり、小学校の成績表の評価がよくても、内容が身についているかどうかは全くの別問題なのである。
小学校でつまずいている状態の上に、中学で習う新しいものを積み上げようとしても、どだい無理な話だ。三島先生がやろうとしたのは、一度、秀雄がわかるところ、わかっていたところまで大きく戻って、そこから積み上げ直していくというものだった。そしてそれは秀雄自身による秀雄の脳の中の再構築であった。三島先生はそのきっかけを与え、その方法を示してくれるが、実際の作業は秀雄自身が行うしかない。そのどちらが欠けてもいけない。
三島先生の導きもあって、秀雄のやる気メータは常に7以上をキープできるようになっていく。坂本式だけを黙々とこなしたことによって、秀雄は漸く「どこがわからないかがわかる」状態にたどり着いたのだ。
3学期学年末テスト
国語85点:数学51点:社会53点:理科62点:英語12点
音楽56点:美術79点:保健体育78点:技術家庭84点
合計560点:平均62.2点
クラス順位41人中24番:学年順位587人中289番
第二章:中2
◆1学期 新田(しんでん)中学校
4月、生徒数が膨大に膨らみ過ぎていた内海中学は、新設された新田中学と内海中学の2校に正式に分かれた。新田中は内海中とほぼ同じ経度を大きく南へ下った平地、秀雄の通った鴨田小学校のように、田んぼの真ん中に建てられていた。校舎の北側には内海中の時からは少し遠くになったとはいえ、屋島が変わらずに控えてくれている。
新学期初日、秀雄はヤマと一緒に歩いて登校する。通学距離が短くなったこともあって、徒歩通学になっていた。
建てられたばかりの香りが匂い立つような新校舎、正門を入ってすぐの広いエントランスに大きな模造紙が貼られており、そこにクラス分けが発表されていた。2年生は全部で8クラス、秀雄は2年7組になっていた。担任は大西先生だ。大西先生が新田中に赴任することは春休み中に地元紙に掲載されていたので知っていたが、また担任になったことに驚いた。ヤマは3組、英語のミスタイのクラスだ。ミスタイも新田中赴任だった。
7組には1年11組からのクラスメートとして、ゴロチがいた。神崎吾郎(かんざきごろう)、器械体操部所属。当時の男性アイドル風の顔立ちで、他クラスの女子からはちょこちょこ呼び出されたり、手紙をもらったりするが、口が悪いので同じクラスの女子からは評判がよろしくない。秀雄式で言うと、彼は『優等生組』に近い『元気組』だった。秀雄とは昼休みのプロレスごっこ仲間であり、剣道部と体操部なので、一緒に体育館を使うことも多かった。
「よろしく、や」
教室に入るとゴロチから秀雄の席に来てくれた。学ランの下にはボタンダウンのシャツを決めこんでいる。2人で話しているところに、割って入ってきた女子生徒がいた。
「ゴロチ、一緒なクラスやねー」
「おぉ、伊藤も一緒か。よろしく頼むわ」
「今日、体操部の練習場所の割り振り会議、出る?」
「あほ。出るわけないやろ。俺が出たら新体操に練習場所は1ミリもやらん」
「はいはい、私が聞く相手を間違いました」
ゴロチが秀雄の方を向いて、栗毛のショートカットの女子を親指で指しながら紹介してくれた。
「あ、こいつ、伊藤理恵子(いとうりえこ)。新体操部や。気をつけーよ。こいつ、むちゃくちゃ気が強いけん。面倒くさいぞ」
「うるさい。それはゴロチがいつも変なこと言うからやろ。えーと、しんどうっていうの?よろしく、新藤。あれ?これ好きなん?私も好き」
伊藤さんは、秀雄の出していたカンペンケースのアニメキャラに反応したようだ。しかし、それよりも秀雄は
(またここから始めるんかー)
と少々うんざりしていた。
ゴロチは心なしかニヤニヤしながら秀雄を見ている。秀雄が転校時に1年11組でやらかしたことを覚えているようだ。
「あのー、伊藤さん」
仕方なく、とは思いながらも、秀雄はしっかりと伊藤さんの目を見ながら呼びかけた。
「はい?」
伊藤さんが顔を上げた。目が大きいのは驚いているから?
「俺は伊藤さんのことをきちんと『さん』付けで呼ぶんで、俺のことを呼び捨てにするんはやめてくれんかの」
転入して早々に秀雄は1年11組の女子軍団にも同じことを言っていた。秀雄にとっては清水東中の習慣を持ち込んだだけだったが、これはクラス会でも取り上げられ、この後、11組では男子女子を問わず、お互いに呼び捨てにしないことを決定した。秀雄は全く気づいていなかったが、この時期、11組の団結力は上がり、さらになぜか女子からの秀雄人気が上昇した。女心は複雑だ。但し、その後に秀雄の成績があまり良くないようだとわかると、その人気は急落した。女心は難しい。
「進藤…くんって、おもしろいね。わかった、でも、『さん』はちょっと…。私のことはリコって呼んで。ニックネームならええよね?うーん、進藤くんじゃなくて、ヒデちゃんって呼んでもええ?」
「えー、ちゃん付けかぁ。昔はしんちゃん、やったけど…」
「なら、ヒデくん」
「…別にええけど」
そうこうしているうちに、大西先生が教室に入ってきて、皆が席に着いた。そして1学期の学級委員には、男子は秀雄が知らなかった多田くんが指名された。秀雄と同じ坊主頭、どうやら野球部らしい。女子の学級委員には伊藤さん、リコが指名された。
1学期中間テスト
国語74点:数学55点:社会90点:理科96点:英語35点
合計350点:平均70点
クラス順位40人中24番:学年順位317人中182番
コメント欄より
秀雄:今まで悪かった社会に力を入れてよくなったが、国語が悪くなった。数学、英語は相変わらずだ。
大西先生:平均70点を越えましたね。すばらしい。
新田中学になり、成績表も一新され、毎回の定期テストの点数以外に自分でコメントを書き込む形となった。先生もコメントを残してくれる。
コメントで秀雄は平静を装っているつもりのようだが、この中間テストの平均70突破という結果、さらには社会と理科の点数をめちゃくちゃ喜んでいる。実は2年生になって、予習・復習というものを初めてやるようになっており、数学と英語はまだにしても、社会と理科にはその成果が早くも点数に表れてきたのだ。
特に社会と理科の場合、秀雄は予習よりも復習に力を入れるようになっていた。暗記さえできれば、確実に点が採れる教科だということに、やっと気づいたのだ。ただし、テスト期間中だけで覚えられるような量でもないということにも、やっと気づいたのだった。
秀雄が考えたのは、それぞれノートを2冊ずつ用意して、1冊は授業用、もう1冊を復習用にするという方法だ。
授業用:先生が板書する内容を後で自分が読める程度の字でさっと書いて、授業中はできるだけ先生の話を聞くことに重きを置いた。そうしてみると、先生たちが「ここ、テストに出しますからね」「今日のポイントはこれ、これをしっかり覚えておけ」とテストに向けてのヒントを、かなり言ってくれていることに気づくことができた。
復習用:授業中に速記したノートを、家で2冊目のノートに書き写す。1冊目はシャーペンだけ、黒一色だが、2冊目では、重要なことは赤ペン、人名は青ペン、といった自分なりのルールで色分けもして、書き写すというより、時間をかけて清書する。
この方法だと、2冊目のノートができた時点で暗記できているものも多くなっていた。これは高くついた「睡眠学習枕」から得た教訓でもある。
テスト中に思い出す必要があった際にも、
(これ、ノートの右上辺りに赤字で書いたやつだ)
と、ノート全体のイメージで思い出せるようになっていった。これは例えば、歴史のテストで「次のいくつかの事件を、起こった順に並び替えなさい」というような設問に、絶大な威力を発揮した。正確な年号は思い出せなくても、ノートに書いた位置順に並び替えはできるからだ。
テスト期間中、既に暗記している理科・社会に使わずに浮いた時間を、期末テストでは4教科を暗記する時間に回せばいい、ということも学んだ。
1学期期末テスト
国語84点:数学96点:社会76点:理科95点:英語31点
音楽44点:美術70点:保健体育80点:技術家庭98点
合計674点:平均74.9点
クラス順位41人中14番:学年順位317人中102番
コメント欄より
秀雄:数学が96点!でも、100番以内に入れなかった。やはり英語が足を引っ張っている。次は100番以内をねらおう。
大西先生:数学、すごいですね。目指せ、100番以内!
◆2学期 中2病?
2学期の学級委員は、1学期の先生指名とは変わって、クラス全員の投票で決められたが、投票でも男子は多田くん、女子はリコとなった。テストのクラス順位1位はこの2人で争われていたのだ。
同じ体育館を使う部活なので、剣道部のヤマと秀雄、器械体操部のゴロチは一緒に帰ることが多くなっていた。秀雄はヤマと2人の時は相変わらず釣りの話をする。ゴロチと2人の時は洋楽の話だ。ちなみにこの頃、秀雄の「睡眠学習枕」は完全に「洋楽再生お目覚め枕」化しており、秀雄は毎朝、ゴロチに作ってもらった洋楽のカセットテープ、WHAMやDuranDuranで起きるようになっていた。これが3人だと、猪木がどう、タイガーマスクがこうと会話のほとんどがプロレスの話題となる。
そのくせ、テスト近くになると、ヤマとゴロチの話す内容は一変する。
「平均85点ってどうしたら採れるんや?」
「中間で採ったことはあるけどの、期末で平均85はまだ一回もない」
「俺は中間でもないわ。85点平均いうことは5教科で合計点425点以上か。ゴロチは英語で稼げるけん、ええよな」
「あほ、85点ねらうんやったら1教科だけ良かったって無理やわ。ヤマみたいに理科や社会をコツコツ暗記する方が強いと思うで。俺は国語の勉強とか何してええかわからん」
「平均90とか、夢のまた夢なんかのう?」
2人とも秀雄の読み通り、『優等生組』だったのだ。そういえば、秀雄がワイシャツや学ランのボタンを閉めたがらないのに対し、この2人は常に上まできっちり閉めている。2人がこの話題で、殿上人のような会話を繰り広げだしたら、秀雄としてはただただ笑って聞くようにしている。2人が秀雄を無理に会話には引き入れようとはしないのは、ありがたくもあり、恥ずかしくもあった。
秀雄なりに少しずつ点数が上がって、順位も良くなってきており、下から上がってきた分、点数と順位の関係は分かってきていた。中間テストで平均75点、期末テストでは平均70点はないとクラスの半分以内には入れない。確かに、2人が言うように平均80点を超えれば、クラスでは10番以内も見えてきそうだ。
(平均80点としても合計400点以上か…)
あんな悪夢は二度とごめんだが、英語が0点だった場合、残り4教科が全て100点でやっと400点、と計算したところで秀雄は唖然とした。
(…あり得ん。これは5教科ともちゃんと勉強するしかない!)
秀雄の中にテストでは1教科も疎かにできない、1点でも多く採りにいく、という意識が芽生え始めた。
秀雄が2年生になってから予習復習をするようになった、ということは先に少し触れた。この時期になると、「理科・社会は復習重視」に対し、「数学・英語は予習が大事」という意識が秀雄の中に確立しつつあった。
予習に関して、そもそも秀雄は「授業で習っていないことを先に、勝手にやってはいけない」と信じていた節があり、教科書は言われるまで開かないもの、教科書の問題は授業でやるもの、と思い込んでいた。それが変わったのは、春休み中に三島先生から言われて、新学期早々にもらった教科書を家でじっくり見てからだ。
「坂本式のプリントは教科書と違って基礎の内容だから、はっきり言うと、これだけでは定期テストの点数はよくならないの。誤解しないでね、入試には強いのよ。定期テストのためには自分で勉強しないとダメ。進藤くんのプリントは数学も英語もまだ中1のレベルだけど、基礎が随分とできてきているから、中2の教科書でもかなりわかるようになっているはずなの。自分で教科書を見て、問題がわかるかどうか確認してごらんなさい」
坂本式のプリントは、例題を参考にすれば次の問題が解ける、解けた問題がさらに次の問題のヒントになるという構成で、秀雄は教室の三島先生や採点の先生にほとんど質問したことがない、ということは既に述べた。
数学の教科書にある問題を坂本式のプリントと同じように解いてみたところ…、おもしろいように解けた。これは坂本式で、分数計算が正確にできるようになったこと、中1の内容である正負の計算「プラス×プラス、マイナス×マイナスはプラス」というルールを理解できたことも大きいのだが、何より、自分で考える練習を積み重ねていたことが大きい。
これにより数学は、教科書で前日に家で解いた自分の解答、解けなかった設問を、授業で確認すればいいだけとなった。1学期の期末テストでいきなり96点を採って以降、秀雄にとって数学はほぼ予習のみ、特別なテスト勉強はせずとも点数が採れる、つまり得意教科に変わる。
秀雄は英語の予習に一番時間を割くようになっていた。英語の予習に英語辞書は欠かせない。恥ずかしながら、秀雄が英語辞書の存在を初めて知るのは坂本式教室に通いだしてからであった。プリントに「初級英和辞典」を使って単語を調べる設問があったのだ。教室では教室の辞書を使えばよかったが、家で宿題をやるときに使う辞書がなかった。
「えぇっ!英語辞書、持ってないの?わかった。進藤くん、宿題を一日も怠けずに頑張っているし、この辞書には載っていない単語も多いから、中学生向けの辞書を私からプレゼントする!」
と三島先生から、初級よりも分厚い英和辞書をいただいたのである。
明日の授業でやる単元の新出単語を一つ一つノートに書き、いただいた辞書でその意味を調べて、それもノートに書くようにした。さらに教科書の英文もノートに写し、その下に自分で考えた日本語訳を書く。英語の授業はほぼ毎日あったので、秀雄はこの作業を毎日行った。
英文を写し、日本語の訳をつけていく過程で、英語の語順は基本的に「主語」「述語」と「その他」の組み合わせであるということが実感できた。但し、英語の「述語(=動詞)」には「一般動詞」と「be動詞」とがある。秀雄は、日本語でいう「うごきことば」、「歩く」「食べる」「笑う」などが「一般動詞」、「~です」と訳すものが「be 動詞」と覚えた。この「主語」と「一般動詞」「be動詞」を基本として覚えると、疑問文も否定文も過去形も未来形もこの派生だということがわかってくる。この整理には坂本式のプリントも大いに役に立った。
但し、困るのは、この時点では英語の発音、英文の読み方がまだわからない、ということだった。この当時の坂本式英語教材では音声学習はできなかった。また、秀雄が知らないだけで、この当時でもお金を出せば、教科書を音読しているカセットテープを入手することはできたのだが、かなり高額だった。
とにかく、秀雄がとった対策は、授業で
・自分の訳が正しいかどうかを確認する
・先生や友達が音読する発音を必死に聞いて、ノートに書いた英文にカタカナを振る
というものだった。それを続けていると、最初の頃はカナだらけになっていたノートが、次第にカナを振らなくてもよくなっていった。読める単語が増えたのだ。
英語の授業は、変わらずにミスタイが教えてくれていた。秀雄がここまでやるのは、ミスタイから指名されたときに、うまく読めないのが恥ずかしかったからなのであるが、誰に対しての恥ずかしさを気にしているのか、秀雄はまだきちんと意識していない。
2学期中間テスト
国語94点:数学97点:社会77点:理科90点:英語48点
合計406点:平均81.2点
クラス順位40人中14番:学年順位317人中103番
コメント欄より
秀雄:あいかわらず低空飛行である。英語と社会の燃料が足りない。努力しなければよい結果は得られない。がんばんべぇ~。
大西先生:祝、平均80点突破!そんなに照れなくてもいいと思いますよ。
2年7組は春のクラスマッチも、秋の運動会、合唱コンクールでも圧倒的な強さを誇り、常に優勝、準優勝の好成績を収めていた。男子女子の仲も良好で、昼休みも皆が普通に輪になって弁当を食べ、会話していた。リコがそう呼ぶので、秀雄はクラスの女子からは自然と「ヒデくん」と呼ばれるようになり、中1の時のような革命を起こす必要はなかった。
「ヒデくん、今度の新アニメの放送時間、教えて」
そんな中、毎月、アニメの月刊情報誌を購読している秀雄に、リコが話しかけてくることが増えていた。瞳をくるくるさせながら、真っ直ぐに見つめてくるので焦る。
釣り、洋楽、プロレスよりも秀雄はアニメが好きだった。秀雄にしてみると、好きという意識はなく、昔から観ているものを今も観ているだけなのだが、気づくと同じ話題で話せる友達はいなくなっていた。アニメの話ができる相手ができたのは楽しかった。
いつリコに話しかけられてもいいように、秀雄はアニメ雑誌を以前よりも熟読するようになった。
「あのアニメのオープニングの歌詞、英語で何て言いよるかわからん。ヒデくん、わかる?」
「今月号に歌詞が載っとったけん英語はわかるけど、意味はわからん」
「じゃあ、辞書引けばええやん。一緒に調べよ」
「ええわ。リコが調べて、わかったら教えてくれ」
さりげなくお互いの名前が会話に出てくると、くすぐったいような気持ちになった。
部活中、新体操部の練習している方向にリコがいることはわかっていながらも、レオタード姿の女子をどう見たらいいのか分からず、いつもゴロチの器械体操部の方に手を振りながら、横目で追うだけの自分に秀雄が気づくのは秋も深まる頃だった。
行事続きの忙しい中、11月には山奥の廃校を改装した訓練施設での1泊2日の宿泊訓練が行われた。くじ引きで秀雄はリコと同じ班になり、昼はオリエンテーリングや手打ちうどん作りに挑戦した。夜にはキャンドル・ファイヤーの点火係として、2人で一つのキャンドルを持って会場を一巡した。学年中からやんやの喝采を浴びて、顔から出る火で点火できるのではないかと思うくらい恥ずかしかった秀雄が、その喝采が男子による秀雄へのものより、女子によるリコへのものが多かったことに、気づくはずもなかった。
この訓練で秀雄は、ゴロチがボディソープなるものを、多田くん筆頭の野球部軍団が整髪料なるものを使っていることに驚かされた。まだ坊主頭を続けていた秀雄は野球部とも仲良くなっていたのだ。この世にそんなものが存在していることさえ知らなかった秀雄は、家に帰った当日に、散髪屋で無理やり「ツーブロック」を頼み込み、その帰り道にスーパーで、全く同じボディソープと整髪料とを購入した。大人の階段を一段くらい上った気分だった。
2学期期末テスト
国語90点:数学88点:社会89点:理科100点:英語58点
音楽74点:美術79点:保健体育65点:技術家庭80点
合計723点:平均80.4点
クラス順位41人中8番:学年順位317人中65番
コメント欄より
秀雄:努力してない割にはまずまずの成績だ。でもまだまだである。目標は近い。明日が輝いている。がんばんべぇ~。
大西先生:期末でも平均80点をこえましたね。すばらしい。目標というのは学年で50番以内をねらっているのでしょうか。
◆3学期 天上天下
3学期、クラス投票により学級委員に選ばれたのは、なんとリコと秀雄だった。
クラス会の準備や学校行事の打ち合わせなど、放課後に2人で残ってやることも多くなり、以前にも増して会話が増えていった。この時期、秀雄はどの教科でも、授業中にあてられて返答に困ることはなくなっていた。数学はいつでも正解が出せるようになり、英語は音読も、訳すことも、ほとんど詰まることなくできるようになった。それでも満足できなかったのは、リコに「ここ、教えて」と言われることがなかったからだ。教えてもらうのはいつも秀雄の方だった。はっきり聞いたことはないが、クラスで1位を争っているという話から考えると、リコは学年では10番以内ではないか。秀雄は自分がそれに全く届いていないことを歯痒んでいた。
(3年生になっても一緒のクラスにならんかのー)
そんなことを思う3月になった。
その日は学年末テストの最終日、最終科目のテストが終わった後は通常授業が再開し、放課後にはテスト期間中は休みだった部活も再開された。
「久しぶりやと、体がなまっとるんがようわかるの」
「俺はそれよりも防具の臭いがきついわ」
剣道の防具は基本、洗わない。まめな部員は陰干しなどをするが、秀雄はこの2週間近く、自分の防具を部室の棚に放置したままだった。
部員たちと久しぶりの練習、久しぶりの防具に文句を言いながらも、汗をかいた体が心地よかった。練習を終え、部室で着替えをすまし、ドアを開けて外に出た。まだまだ肌寒い。
6時過ぎで薄暗かったが、すぐにわかった。目の前にリコが一人で立っていた。
「な、何?」
必死に平静を装おうとしたが、自分でもびっくりするくらい声が上ずっているのがわかった。暗がりのせいで、リコの表情までは見えない。
「…」
(俺、汗くさいかも?)
秀雄はその場にカバンを落とした。
「あの…」
「…」
「…好きです」
「…」
「…お、俺も」
「…」
「…好きや」
暗がりなのに、リコがにっこりしたのが見えた気がした。と思ったら、そのまま彼女は向こうに走って行ってしまった。走っていった先で女子の歓声が上がるのが聞こえた。
その夜、電話がかかってきた。母親が玄関にある電話を取った。
「電話やで。伊藤さんっていう子」
アニメのように食べていた夕飯を吹き出しそうになりながら、急いで電話を替わる。携帯電話などまだない。電話コードの長さの限界ギリギリまで居間からは離れた。
「ヒデくん?」
「うん。よ、よう電話番号わかったの」
「クラスの名簿、見てかけとるけん。今、大丈夫?」
「ぜんぜん大丈夫や」
この時代、クラス名簿に生徒や先生の電話番号が載っているのはごく普通だった。
「今日はうれしかった。ありがとう」
「び、びっくりしたわ、ほんまに」
「ごめん」
「いやいやいや、俺もうれしかったし」
「…」
「…」
「ほんでの、ヒデくんに言わんといかんことがあるんよ…」
(な、なんや???)
「私…」
3学期学年末テスト
国語85点:数学90点:社会78点:理科99点:英語82点
音楽68点:美術85点:保健体育52点:技術家庭89点
合計728点:平均80.9点
クラス順位41人中7番:学年順位317人中64番
コメント欄より
秀雄:家で勉強しない、テスト発表中もしない、成績が上がるはずない。復習しないといけないのに長続きしない。授業も真面目に聞いてない。毎日、勉強するくせをつけないと泣くのは自分だ。がんばんべぇ~。
大西先生:英語が80点以上になりましたね。私はうれしくて泣きますよ。
春休みに入ってすぐ、リコとは一度だけ会った。駅で待ち合わせて、やってきたリコの私服姿にどきどきした。秀雄が思っていたのより(それ以前に女子がどんな私服なのか想像もできないのだが)、ボーイッシュな装いで最初は戸惑いつつも、似合っていると思った。それから2人で電車に乗り、2人で高松のアーケード街を歩き、2人で映画館に入った。大入り満員の話題作で立ち見となり、2人で映画館の壁にもたれて鑑賞した。指定席制や定員・入れ替え制などはまだない時代の映画館の話だ。上映時間中、秀雄はずっと、手をつなぐことしか考えられなかったので、ほとんど映画を観ていない。結局、手をつなぐどころか、肩さえ触れることはなかった。
映画の後に喫茶店に入った。喫茶店に子供だけで入るのは初めてだった。
「ほんまはリコにテストの順位で勝ったら、俺から好きやって言おうと思っとたんや」
「えー、そんなん気にせんと、はよ言うてくれたらよかったのに」
「嫌じゃ。俺の方が頭悪いって、カッコ悪いわ」
「男の子ってホントにそんなん、気にするんやね」
「おたくが頭良すぎるせいなんですけど!」
「そんなことないわぁ。大抵は多田くんがトップやで」
(それは、ときどきはあなたが1位っていうことですよね!)
「でも、ヒデくんの伸びはすごい!ってババコ先生も言うとったよ」
「ババコ先生?」
「大西先生。先生は女子の前ではいっつもヒデくん推しやったわ。『あの子はええ男になるで』って」
「なんやそれ」
「ヒデくんやったら絶対1位になれる。東京行っても応援する。手紙、書くけん…」
リコはこの春休み中に、父親の仕事の関係で東京に引っ越すことになっていた。
(会いに行くわ!)
本当はそう言いたかった。しかし、小学6年生の修学旅行で京都へ行った以外、四国から出たことのない秀雄にとって、東京はあまりにも遠かった。遠いというよりも、自分がそこに行くことを全く思い浮かべられない場所で、その意味では、東京も北海道もアメリカもイギリスも秀雄にとっては大差ない。気軽に「会いに行く」と言えるところではなかった。
結局、それが最後になった。
泣いてしまうから見送りには来なくていい、と言われていた。喫茶店を出た後、どこで、どうやって別れたのか、秀雄は覚えていない。
映画なんか観なくてもよかった、手なんかつなげなくてもよかった、それより、もっといっぱい顔を見ておけばよかった、もっといっぱい話せばよかった、もっといっぱい一緒に歩けばよかった…。
生まれて初めてのデートは秀雄にとってほろ苦いものとなった。
第三章:中3
◆1学期 君がいない
3年生になった。担任ははたして大西先生だった。ゴロチも一緒、なんとヤマも一緒に3年8組になった。背が少し、髪の毛はだいぶ伸びた秀雄に対して、ヤマの成長は著しく、秀雄より拳一つ分くらい背が高くなっていた。ゴロチの身長は中1のときからあまり変わってない。本人は体操部で筋肉をつけすぎたせいかと気にしていた。
1学期中間テスト
国語96点:数学92点:社会98点:理科94点:英語86点
合計466点:平均93.2点
クラス順位40人中2番:学年順位316人中18番
コメント欄より
秀雄:今回は良かった。これが9教科になると恐怖だ。下がらないようにガンバルゾ!
大西先生:ついに平均90点を越えましたね!あなたの成長が先生の楽しみです。
1人減った学年人数が哀しかった。
この中間テストで秀雄は、ゴロチとヤマが悩まされていた平均90点の壁をけっこうあっさりと破った。英語以外の4教科が90点以上だったのに加え、足を引っ張っていた英語が86点採れたことがかなり大きい。平均が90点を越すとクラスで2位、学年で18位と順位も大きく変わることも実感できた。実は、もし中2のままのクラスだったら、この時点で十分にクラス1位となれるほどの点数だった。しかし、3年8組で新たに一緒になった中に納田くん、みんなからはノウちゃんと呼ばれる生徒がいた。バスケ部のノウちゃんは体は小さくとも、中間テストで5教科オール100点を採ったこともある強者で、0点から這い上がってきたばかりの秀雄ごときでは、まだまだ太刀打ちできる相手ではなかった。
この時期、秀雄は坂本式教室をやめた。三島先生からは何度も
「ちょうど中3レベルの教材に上がれるくらいになったんよ。今やめたら勿体ない。受験にも絶対に役立つから!」
と引き留めてもらったし、それはそれでありがたかった。しかし、秀雄としては、テストで1点でも多く採るための勉強をしたかった。基礎が大事ということは頭ではわかっても、やはり教科書と全く違う内容の学習に、毎日1時間以上とられるのは正直苦しかった。その時間を1分1秒でもテストのための勉強に費やしたかった。この時に坂本式を辞めたことを数年後に秀雄は悔いることになるのだが、当時の秀雄の実力を考えるとそれも仕方がなかったことであるし、それはまた別の話となる。
1点に拘るようになったことで、秀雄は1点でも多く採るためのテクニックも身につけていった。テスト中は、わかる問題、比較的簡単な問題から解いて、難しい問題は残った時間で考える、記号選びなどの選択問題は絶対に空欄にはしない、まぐれも1点だし、1点変わるだけで順位は大きく変わるのだ。例えば、「漢字で書きなさい」という設問で漢字が最後まで思い出せなかったので、ひらがなで答えを書いたところ、おまけで1点もらったことも実際にあった。
5月末には九州に修学旅行に行っているのだが、秀雄は正直、旅行よりも勉強する時間が欲しいと思うようになっており、旅行先に教科書を持って行っていた。大分の地獄めぐりでも、熊本・阿蘇の草千里でも、長崎のグラバー亭でも教科書を開きながら歩いている。1位になれるなら何でもするつもりだった。手紙でいいから「1位になったぞ!」という報告をしたいと思っていた。
1学期期末テスト
国語88点:数学100点:社会96点:理科88点:英語88点
音楽75点:美術81点:保健体育82点:技術家庭91点
合計799点:平均88.8点
クラス順位40人中2番:学年順位316人中14番
コメント欄より
秀雄:期末テストにしては全体的にまあまあ良かった。しかし、理科がよくない。もっとガンバルゾ!
大西先生:数学100点ですよ、すごいです。9教科になっても平均点が90点を越えられたらもしかして!?
さらに中3になって秀雄の前にもう一つの壁が立ちはだかるようになった。年5回の「実力テスト」だ。これは来るべき高校受験のためにその名の通り、実力を試すテストであり、定期テストとは根本的に違う。テスト発表などはなく、テスト範囲は「今までで習った全て」となる。中1からの地道な積み重ねが発揮されるテストであり、普段からの予習・復習を欠かさない者こそが上位に立てる。秀雄のように突貫工事で穴だらけの人間が、いくら定期テストで点が採れるようになったところで、そう簡単にほいほいと上位に食い込めるテストではない。1学期の実力テストでは第1回、第2回とも秀雄は学年50位にも入れなかった。
◆2学期 進路相談
剣道部を引退し、勉強できる時間は増えたのだが、夏休みは、学校から渡される大量の復習用のワークをやるだけで忙殺された。2学期に入って授業が進むようになると、まだまだ日々の予習・復習だけで結構時間を取られた。
進路相談も始まった。生徒と大西先生、面談室を使って1対1で進路をどうするか話し合う。この当時、香川県内に、男子が入れる私立高校は2校しかなく、残念ながら、この2校はほとんどの生徒が滑り止めとしてしか受験しないのが普通だった。そうした生徒の本命は県立高校であるのだが、制度によって私立1校、公立1校しか受験することができない。私立高校の受験も合否発表も2月で、3月の公立高校の受験前に入学金を払わないと入学できないシステムが物議を醸しだしていた。入学金を収めていない場合、公立高校に落ちても行く高校がなくなるのだ。通わないかもしれない高校の入学金を払うか、払わずに受かる可能性が限りなく100%に近い公立高校を志望するのか、いろいろと考えないといけないことがあった。
恐ろしいことに、この段になっても秀雄は高校受験というものがピンときていなかった。中1のときには「俺は高校には行かん!働く!」という宣言を、働く意味もわかってないくせにしていたくらいで、その能天気さはこの時もそう変わっていない。中身の成長には時間がかかるようだ。
2回目の面談で秀雄は、大西先生に「西高に行きたい」と伝えた。ちなみに1回目は「ぜんぜんわからん」だった。県立讃岐西高校、市の西端に位置し、東にある新田中の校区からはちょっと遠いが、電車を使えば高松駅で乗り換え1回、1時間ちょいなので、通うことはできる。偏差値で言うと市内で2番目に難しいとされている高校だ。秀雄はゴロチとヤマが西高を目指していることを知っていたし、2人からは一緒に行こうとも誘われていた。
「西高な。ええ高校やわ。ぼくは何で西高に行きたいん?」
「…」
最近、大西先生は秀雄のことを「ぼく」と呼ぶ。大西先生にじっと見つめられて、秀雄は目をそらした。
「ぼくよ、ぼくが本当に行きたいと思う高校に行くことが大事なんで」
「…ようわからん」
「ぼくを中1から見とるけん、よくわかるけど、今のぼくだったら県内ほとんどの高校が狙える。前のぼくやったら、行ける高校を探す方が難しかったかもしれん。まだ時間はあるし、もっときちんと考えまい。悩んでええんで。もっと悩みまい」
2学期中間テスト
国語92点:数学82点:社会87点:理科94点:英語88点
合計444点:平均88.8点
クラス順位40人中6番:学年順位316人中33番
コメント欄より
秀雄:勉強しないで点をとろうという甘い考えでいたのがまずかった。(学年順位が)20番もいっきに下がった。もっと地道に努力しよう。ガンバルゾ!
大西先生:今回は実力テストの勉強をしていたのではないですか?
大西先生の指摘通り、秀雄は実力テストを意識した勉強をやっていた。定期テストの順位は下がったが、実力テストの学年順位がやっと50位以内に入っていた。定期テスト対策と実力テスト対策の両立が、秀雄にとってかなり難しいものになってきていた。今更ながら、中1のときのさぼりを悔やんだ。
10月の日曜日、ゴロチとヤマの誘いで、3人で讃岐西高校の文化祭を見に行った。剣道部の試合でヤマと日曜日に会うことはあっても、ゴロチとは珍しい。しかも今回は3人とも私服だ。ジーンズとトレーナーの秀雄に対して、きっちりとシャツを締めたヤマ、ジャケットまで羽織るゴロチ、という布陣になった。
秀雄は高校に足を踏み入れるのも、文化祭というのも初めてだった。模擬店やクラスでの8ミリ上映、企画展示、ステージ上での様々なパフォーマンスに
(ちょっと年上の先輩がこんなんできるようになる?)
と驚いたし、何よりそこにいる高校生たちの活き活きとした表情を見て、
(西高、ほんまにええ学校やな)
と思えるようになった。3人で帰りの電車に揺られながら話をした。
「うちは兄貴が西高に行きたかったんやけど無理で、俺に『絶対、西高行け』言うんよ。あほか、何でお前の仇を俺がとらんといかんのじゃ!って言うてやったわ」
「へぇ、俺んとこは姉ちゃんが西高卒やけん、もう最初から西高しか考えてないわ。毎年、文化祭に行くけど、年々、面白くなっとるわ」
ゴロチには高校生のお兄さん、ヤマには大学生のお姉さんがいる。秀雄から聞いてみた。
「他の高校の文化祭に行ったことあるん?」
「北校とか東校に行ったことあるけど、西高が一番面白いと思う」
「兄貴が讃高はレベル高いって言うとったけど、あそこの文化祭は行く気なし!やな」
讃高、県立讃岐高校は県下最難関校で、ゴロチもヤマもそこを狙う気はないらしい。
「ほんで、ヒデは西高にするん?」
「うーん、東校の選抜コースはええらしいし、北校やったらチャリで10分やし、いろいろ考えるけど、今日のを見たら、西高がええのう」
「ほんまか。それやったら3人で行けるし、毎日こうやってしゃべれるの」
「ほんまやの。西高にせい」
「西高にせい」
「西高にしたところで、俺が受かるかどうかはわからんやん」
「ヒデよ、俺らを簡単にごぼう抜きしたくせによう言うの!あほ」
「ほんまじゃ、俺の方が受かる自信ないわ。ぼけ」
短くなってきた秋の夕日を浴びて走る電車の中、3人の会話はとりとめもなく続く。ずっとこんな時間が続けばいいのに…、秀雄はふと思った。
2学期期末テスト
国語96点:数学96点:社会94点:理科88点:英語88点
音楽87点:美術94点:保健体育90点:技術家庭98点
合計831点:平均92.3点
クラス順位40人中2番:学年順位316人中11番
コメント欄より
秀雄:今回は勉強したのでまあまあだった。でも、(学年順位が)1桁に入っていないのがくやしい。もっとガンバルゾ!
大西先生:惜しい!それでも十分にすごいですよ。ついに9教科でも平均が90点を越えましたね。実力テストも頑張りましょう。
実力テストでは学年40番以内に入った。12月の最終決定で秀雄は「第一希望:県立讃岐西高校」と提出した。
クリスマスも過ぎ、じきに大晦日という日の夜も更けたころ、受験生にクリスマスも大晦日も正月もあるかいって感じのピリピリした秀雄が、コーヒーを作りに台所に行くと、早くもお節料理の準備をしていた母親と出くわした。母親がすっかり小さくなったような気がしてびっくりした。一丁前に反抗期を迎えていた秀雄は、ここ最近、母親とはほとんど話をしていない。西高志望もほとんど相談せずに一方的に伝えていただけだ。
「あんた、ほんまに偉いなぁ。まだ勉強しよん?」
「受験生や。時間がなんぼあっても足らん」
「ちょっと話をしたいんやけど、ええかいの?」
なんとなく聞かなくてはならない雰囲気を感じたので、インスタントコーヒーを入れて、台所のイスに座った。コンロの方を向いたまま、母親が話し出した。
「あんたにお母さんの昔の話、ほとんどしたことないやろ。お母さん、あんまり昔のこと、思い出したくないんよ…」
両手でコーヒーカップを包み込みながら、秀雄は母親の話を聞いた。
早くに父(秀雄からすると祖父)を亡くした彼女は、下に3人の弟妹がいる長女だったこともあり、中学を出たらすぐに就職するしか道がなかったそうだ。秀雄の通った内海中よりももっとたくさんの生徒がいた中学校で一番の成績だったらしい。
「中学の先生が家に来てくれて、『お嬢さんやったら、県で一番の讃高にも十分入れるんですよ』言うて、おばあちゃんを説得してくれたんやけどの、無理やった。別に讃高やなくてもよかったんよ、ホンマに行きたかったわ、高校に。今でもせめて定時制にでも通わせてくれたらよかったのにって思う。はけん、あんたが高校行く、言うてくれてうれしいんよ。あとちょっとやけん、がんばりまいよ」
全部、初めて聞く話だった。秀雄の中で「県で一番」という言葉が大きくなってきた。
正月明け、まだ冬休み中なのに申し訳ないと思いつつも、大西先生に電話をした。電話に出たのが先生本人だとわかったので、すぐに切り出した。
「すみません。俺、讃高受けます」
◆3学期 入試
大西先生からは、願書変更の締切期限ぎりぎりまで何度も反対された。
「どの高校でも狙えるようになった、確かに私がそう言うたけど、讃高だけは別。讃高以外やったらどこでも合格できるはずやのに。はっきり言うと、まだぼくの実力では讃高は無理。讃高は止めなさい」
「無理かどうかはやってみんとわからん。落ちたところで来年、もう一回受けるわ」
「何を言うとん。高校入るのに浪人とか、聞いたことない」
その度に同じやり取りを交わしたが、秀雄の気持ちは変わらなかった。こうして、まずは2月に滑り止めの私立高校を受験し、無事に合格した。母親には
「讃高に合格せんでも、私立にはどうせ行かんし、入学金は納めんでええで」
とお願いした。
3学期学年末テスト
国語83点:数学100点:社会94点:理科90点:英語92点
音楽81点:美術77点:保健体育90点:技術家庭72点
合計779点:平均86.6点
クラス順位40人中6番:学年順位316人中27番
コメントなし
中3の学年末は、先生たちも「定期テストの勉強よりも受験勉強しなさい」という雰囲気が全開だ。テスト問題は至って簡単なものになる。秀雄も受験勉強の方を優先したが、それでもこのくらいの点数は採れた。
数学は1学期に続いて2回目の100点、中1の33点からここまで来た。
英語は中学最後にして最高点、90点突破という有終の美を飾れた。0点から考えると、実に92点も這い上がってきたことになる。答案を返却してくれる時、ミスタイがつぶらな瞳で笑いながら、ピースサインを出してくれたのがおかしかった。ミスタイも秀雄を0点のときから見守ってくれた一人だった。
3月、公立高校受験当日。
かなり余裕のある時間に家を出発した。珍しいことに父親が車で送ってくれることになっていた。讃岐高校は市内の中心地にあるので、秀雄の家からだと真っ直ぐ西に向かうだけ、30分くらいで着く。ところが、父親が運転する車は、どう考えても遠回り、遠回りで会場に向かった。
「何か用事があるん?」
「うん、ちょっとの」
父親の無口は今に始まったことではないが、この時ばかりは無口というより、言い淀んでいるように聞こえた。
秀雄は後で知ることになるが、母親が知り合いの知り合いに占ってもらった結果、この日、真っ直ぐ西へ向かうのは不吉だと言われたそうだ。その不吉を回避するために、『方違え(かたたがえ)』を行っていたのだ。一旦別の方角に向かい、そこから目的地へ改めて向かうことで、「不吉な方向に向かってはいない」とする平安の昔から伝わる習慣だそうで、母親はこの占ってもらった人に結構な額の謝礼を渡している。
それでも、受験会場である讃岐高校にはかなり早い時間に着いてしまった。受付を済ませ、廊下に貼られた案内の通りに進むと、中学の教室よりもかなり広めの部屋に着いた。秀雄は分かっていないが、たまたま高校の一般の教室ではなく、視聴覚室に割り振れたのだ。さらにたまたまだろうが部屋の真ん中辺りの席が指定されていた。広いホールの真ん中に1人、秀雄は緊張してきた。何度、シャープペンシルの芯の出具合、芯の替え、消しゴム、鉛筆の削り具合を確認しただろうか。知った顔のノウちゃんや多田くんが来たのはかなり経ってからだった。座る席は同じ中学で固められているらしい。少し向こうは内海中の席なのだろう、佐藤くんらがやって来たのが見えた。佐藤くんは少し太ったようだ。
(リコがおったら、一緒に受験できたんやろうか)
そう考えながら、少しでも落ち着こうとした。
漸く、いかつめらしい中年のおじさんと助手のような若い男性が教室に入ってきた。ホール前方に立ったおじさんはギロギロした視線でホール内を見渡した。
「机の上は受験票と筆記用具だけにしなさい」
(このおっさん、高校の先生か?それやったら高校の先生って感じ悪いわ。それか、テストの監督だけの人かのう)
「今から問題用紙を配るが、合図があるまでは勝手に問題用紙を開かないように」
おじさんがギロギロしたまま、その場からは動かない。若い方がせこせこと問題用紙を配布した。
1時間目は国語だ。
「始め!」
受験生たちが一斉に問題用紙を開く。中から解答用紙を取り出し、名前を書く。
秀雄は一問目を見た刹那に思った。
(ダメかもしれん…)
◆卒業
(ダメかもしれん…)
と思いながも、さらに数問をざっと見てみた。
(これはダメや)
ただ、それとほぼ同時に秀雄は
(今回は無理や)
とも考えていた。「今回は」だった。なぜ、まだ4教科の問題も見てない1時間目にして、そう思ったのかは秀雄にもわからない。とにかく、その数舜に
「来年も絶対にここに来る」
と気持ちが固まったのだ。
実際、家に帰ると、明日はまだ面接試験も残っているというのに、開口一番、
「来年も讃高受けるけん。悪いけどもう1年勉強させてもらうわ。図書館とかで勉強するようにして、なるべく迷惑はかけんようにする」
と秀雄にしては精一杯の具体的な宣言をしている。
とはいえ、かなりの強がりを演じていたのだろう。受験日翌日、公立高校の入試問題は地元紙に掲載される。秀雄は早速に自己採点をした。何度やり直しても200点に届いていなかった。1教科50点満点、5教科で250点満点、讃高だと最低でも200点は必要だと言われており、秀雄のそれは絶望的な点数だった。特に社会が壊滅的だった。
この辺りからの数日間、秀雄の記憶は曖昧になる。受験日と合格発表日の間にあったはずの卒業式に至っては全く覚えていない。友達や大西先生にきちんと挨拶できたのだろうか。卒業式の数日後に行われた合格発表は一人、自転車で見に行ったらしい。後で母親から聞いた。1%、いや0.1%、0.01%でも可能性はあると信じて見たであろう掲示板に、秀雄の受験番号はなかった…のだろう。記憶にない。家には電話で報告したのか、帰ってから話したのかも覚えていない。
次に秀雄の記憶がしっかりしてくるのは、合格発表の日の夜、居間の座卓を囲むように座っている父親と母親、そして大西先生の顔だった。
「秀雄くん、これからどうするか、きちんと考えていますか?」
「毎日、図書館に行って勉強するつもりや。ほいで、来年もう一回讃高を受ける」
「来年もダメだったら?」
「そんなん知らんわ。絶対受かるし。もし無理でも、働いたらええんやろ」
「私立高校に行きなさい」
「いやや。讃高は諦めん。先生やって本当に行きたい高校を自分で考えろって言うたやん。俺は本当に讃高に行きたいんじゃ」
「私立に行きなさい」
「私立に行け言うたって、入学金も入れてないし、今さら行けるわけないわ」
「行けるんで。お父さんとお母さんが入学金はちゃんと払ってくれとる。ぼくが怒るだろう思って、私からお母さんに内緒でお願いしとったん。お母さんを怒ったらいかんで。悪いのは内緒にして言うた私や。今からでも私立には行けるんで」
いつの間にか、大西先生はいつもの口調になっていた。
「ぼくよ、もう一回よう考えまいよ。来年も受験するんは構わん。私もできるだけ応援する。けどの、1年は長いんで。ぼくの気持ちが変わらんでも何があるかわからん。今時、中卒ではこの先、何もできん。私立に入って、年末か来年まで通ってみて、それでも気持ちが変わらんかったら、その時に学校辞めてもう一回受験したらええでない。私立に通いながらでも、ぼくやったら受験勉強はできるはずや。頼むけん、私立に行こう。行きまい!」
大西先生は涙を流していた。
数日後、ゴロチとヤマが家に来た。
「おぉ、生きとったか?」
「スケートでも行くかー」
2人とも西高に合格していた。2人の方が秀雄の何倍も気を使っていることを、秀雄もわかっていたので、悪いなーと思いながらもやっぱり嬉しかった。
「2人とも西高合格、おめでとう」
「ありがと」
「ありがとの」
高校についての話はこれだけだった。
「だいたい、藤原がいかんのちゃうんか」
「前田はまじで強いぞ」
「田と越中、ええ感じやと思う」
「1年の時は昼休みにプロレス、やっとったのう」
「ほんまや、いつの間にかせんようになったけど」
「そういや、最近、釣りにもぜんぜん行ってないわ」
「また行こうで」
いつも通りに話して、いつも通りに笑いころげて、いつも通りに別れた。
「ほんだらのー」
「ばいばい」
「ばいばーい」
それが3人で会った最後になった。
春休み中、一通のハガキが届いた。リコからだった。ハガキには一言だけ、
「応援する!」
と書かれていた。
ハガキを手にしたまま、秀雄は泣いた。
泣いてから気づいた。-なんだ、ずっと泣きたかったんだ。
第四章:高1
◆1学期 現国問題
長い学ランを引きずるように着流し、額には剃り込みを入れ、髪はポマードで固めたリーゼントスタイル、当時の曲でいう「洋ラン背負ってリーゼント」にした「ツッパリ」と呼ばれた男子生徒。新設の新田中学、特に秀雄の学年には数人だけしかいなかったが、内海中学には秀雄が転入した当時の中3にはかなり存在しており、佐藤くんやゴロチからは「3年生の校舎には行ったらいかん」と聞かされたものだった。その「ツッパリ」が半数を占める男子高校、私立セントラル学園。4月、大西先生の言う通りに、秀雄はセントラル学園に入学した。秀雄としては、再受験するという気持ちが変わるはずないと思っていたので、この時点で
(2学期いっぱい、12月末にここは辞める)
と決めての入学だった。
入学式当日こそ、おとなし目の学生服で登校した新入生たちも、もともとそうだった者、上級生、クラスメートの影響を受けた者、とにかくそのほとんどが、5月になる頃にはかなりツッパった服装、傾(かぶ)いた外見になっていた。そんな中、秀雄のクラスである1年3組の生徒たちがそこまで乱れていないのは、上級生たちからも一目置かれる風紀担当の笠間(かさま)先生が担任だったからだ。細身でも筋肉質とわかる外見で、噂では空手の有段者らしい。滅多に笑わず、たまに笑う時はニッコリではなくニヤリとする男の先生だった。年齢は秀雄の父親と同じくらいか。
当初、秀雄は高校の勉強と受験のための中学の復習を両立できるかどうかを心配したが、実際に授業が始まると、全てが杞憂だったことがすぐにわかった。どの教科も中学の復習レベルだったのだ。テスト勉強を特にやるわけでもなかったが、定期テストは中間も期末も学年1位だった。
秀雄はときどき、後ろめたさを感じながらも、平日に高校を休んで新田中に行った。その日は一日中、図書室にこもって実力テストを受けた。現役の中3生たちと同じテストを受けておきなさい、という大西先生の計らいだった。
大西先生はこの年も中学3年生を受け持っていた。秀雄は全く知らなかったが、中学の先生が精神的にも体力的にも負担の大きい3年生の担任を2年連続で引き受けることは、普通あり得ない。大西先生は秀雄のために、この重役を自分から買って出てくれていた。
年度初めの実力テストで秀雄は学年1位になった。最も、これは現役の3年生には酷な話で、曲がりなりにも1年間受験勉強した秀雄が圧倒的に有利だった。現役の中3生で入学以来1位だったAくんの落ち込み度合が半端なく、大西先生が事情を説明してAくんを慰めてくれていた。最も秀雄の1位は最初の第1回目だけで、その後はAくんがきっちり王者に復帰した。これも秀雄は知らない話。
思いもよらず、目標だった「1位」を獲得したことになったが、自分の実力だとは思えなかったので、リコには報告しなかった。
あの後、リコからは手紙がきた。「Dearヒデくん」と始まる手紙には、秀雄の受験結果は女友達から聞いたこと、東京の女子校での生活のことなどが書かれていた。女子校という響きに何故か安心した秀雄は、「Dear」を英和辞典で確認して、「親愛なる」という意味を発見し、一人悦に入ったりした。秀雄よ、それは単なる挨拶言葉だ。
すぐに送った返信で、私立高校に通っていること、その私立高校は12月には退学するつもりであること、来年の3月には讃高をもう一度受験するつもりであることを書いた。最後に「Will you love me tomorrow?」と自分でもよく分かってない英語を付け加えてみた。アニメソングの歌詞だった。
7月に入ってすぐ、朝のホームルームのときに、秀雄は笠間先生から呼び出された。
「進藤、今日の放課後、俺んとこに来い」
ニヤリともせずに言われて、落ち着かない一日を過ごし、職員室に向かった。笠間先生は腕を組んだまま、話し始めた。
「まあ、しかし、お前みたいなんが、よううちの高校に来てくれたの。毎日ちゃんと勉強しよるんか?」
(高校受験の勉強をしています)
とは言えず、秀雄は返事に困った。
「ふん、無理せんでもええ。うちの授業内容はお前には物足らんはずや。でな、職員会議で他の先生方とも話してみたんやけど、お前はこの高校から数年ぶりに大学に行ける力がある奴やということで、お前のために『大学進学コース』を作ろうということになりそうや。大学には行く気やろ?」
(今は高校に行くことだけを考えています)
とは言えず、返事に困った。
「うん?大学、考えてないんか?まあ、親御さんと相談せんといかん内容やし、返事は急がんけど。まずはお父さんとお母さんに、学校にはいつでもそれだけの準備をする覚悟がある、ということを伝えてくれ。お前さえその気なんやったら、夏休みからでも、各教科の先生がお前のために個人授業をしてくれるぞ。考えといてくれ」
ちょっと話が大きくなってきた。
結局この年の夏、秀雄は大手予備校が開く中3生対象の夏期講習を受けることにした。セントラル学園の世話にはなれないと考えたのと、自分にはまだまだ穴が多いと感じていたためだ。授業料のことは両親には申し訳なかった。
夏休みのほぼ毎日、市内の繁華街にある予備校の本校に朝早くから通うため、母親に弁当を頼めず、かといって、授業料だけでも大変なところに昼食代を頼む訳にもいかず、秀雄はほぼ毎日を自分の小遣いでやり過ごした。そして、讃岐うどんのありがたみを知る。香川県民の多くは当たり前と思っていることだが、県外を知る者や学生にとって、讃岐うどんはお財布に優しい最強の外食だった。
「おばちゃん、かけ特大!」
「はいよ」
湯気の充満した厨房からドンと大きな器に盛られたうどん玉が出てくる。秀雄が通うようになった店では並(1玉)、大(2玉)、特大(3玉)、ぜんぶ同じ値段だ。200円。レジでお代を払うとそこからは完全セルフ、自分でうどん玉をお湯でもどして、湯切りして、蛇口をひねって出汁を出す。出汁同様に入れ放題のネギ、天かす(油玉)、鰹節はどかどか入れる。うどんのコシが取り上げられることが多いが、実際には出汁が相当に美味しい。かけ汁の味が濃いぶっかけよりもかけうどんが圧倒的にお勧めである。
だが、立ったままうどんをかき込む秀雄は
「うまいっ!」
とは言わない。秀雄にとっては当たり前のことだからだ。実際にこの値段でこのクオリティの味の食べ物は全国でも珍しいのだが、物心ついたときから讃岐うどんを食べている秀雄が、讃岐うどんは安くて本当に美味しいと実感できるようになるのは香川を出てからのことになる。それはまた別の話。
うどんだけでどうしても物足りない時、節約のため滅多にないが、80~100円ほど追加すれば、レジ横に並んでいる天ぷら、コロッケ、唐揚げ、おにぎり、おいなりさんなどを追加することもできる。また、どんな小さなうどん屋にも置いてあるのがおでん。これも1品100円ほどで牛スジ、卵、コンニャク、大根などを自分で選んで皿に取る。薬味としてからし酢味噌をたっぷりとつける人が多い。秀雄のお気に入りは白天ぷら、衣のついた天ぷらではなく、魚のすり身で作ったさつま揚げみたいなものだ。当時の秀雄はまだ知らないが、この天ぷらは香川県にしか売っていない。
予備校では、現役の中3生に交じって講習を受講した秀雄だが、既に受験生を1年以上も経験しているくせに、受験テクニックの点では、今さら知ることがたくさんあって、両親に授業料をお願いしてでも受講した甲斐があったと喜んだ。
・地理では日本地図、世界地図のどちらも自分で白地図から作った方が覚えられる
・歴史は「〇〇年、日本でこういうことがあった時に、他国でこれが起こっていた」と、1国だけでなく、各国の動きをチャートにして整理しておくとよい
・古文と漢文は基本的に別もの、それぞれ基本ルールの理解は必須
・現代国語(現国)は筆者の気持ちになる必要はない、読み手がどう思うかは関係ない
特にこの現国のテクニックは、秀雄を大きく一歩前進させた。
秀雄の母親は「勉強しろ」とは言わずとも、「本を読め」とはしょっちゅう言う人だった。父親は無口だが、時間がある時は本を読む人だった。進藤家は玩具やお菓子は買ってくれないのに、本は買ってくれる家庭だった。そのおかげか、秀雄は読書が好きだ。小学校の図書室の本は大概読んだ。が、下の妹弟は秀雄ほどではない。これは読み聞かせをしてもらった期間の長さに比例している、と秀雄は分析していた。母親は秀雄、妹、弟と生まれた順に平等に読み聞かせをした、と思っているが、秀雄は母親の自分への読み聞かせだけでなく、妹への読み聞かせ、弟への読み聞かせをずっと横で聞けるという、長男の特権にあずかることができていたのだ。
読書好きが幸いして、現国は、授業前の休み時間に教科書を読んでおく、その際に意味がわからなかった文章に線を引く、という程度の予習で、定期テストは乗り切ってきた。秀雄自身も国語は大丈夫だと思っていた時期もあった。ところが、実力テストになると点数がなかなか安定しなかった。自分好みの文章、読みやすいと思った文章が本文になった設問だといい点数が採れるが、自分が苦手な文章のときは点数が一気に下がるなど、この時期の秀雄にとって国語(現国)は最も点数にムラがある教科だった。これは入試本番の際にも「どんな文章が出るか」運任せ、という大きな不安材料でもあった。
「小説や評論文の問題を解く際に、本文を『作者の気持ちになって読まないと…』などと思っている人はいませんか?はい、それは間違いでーす。作者がどう思って書いたかなんて、誰にも分かりませんよー。もっと言うと、読み手がどう思うかなんてどーでもいいことですよ。確かに文章を楽しんで読むときには、そんな読み方もありかもしれませーんけどー」
「今、皆さんに必要なことは何でしょう?そうでーす。皆さんは受験を勝ち抜くための読み方をしなければなりませーん。皆さんがやること、それは本文の筆者ではなく、問題を作った『出題者』の立場になって本文や設問を読む、ということです。はい、ここ、今日のポイントでーす」
なるほど!と思った。「本文の筆者ではなく、問題の制作者のこだわりがどこかを気にすればいいんだ!」と大きく納得した。以後、現国の点数が安定するようになった。
◆2学期 ツッパリ・ハイスクール・ロックンロール
夏休み中さんざん悩んだ末に、2学期早々、秀雄は笠間先生に自分の気持ちと今後の計画を正直に話した。ぶん殴られるだけならまだしも、学校を辞めさせられても仕方がないと思っての一大告白だった。
笠間先生の反応は意外なものだった。
「ほう、やっぱりの。なんか常に心ここにあらずみたいやったんは、そういことか。合点がいった。そうやな、お前にはその方がええやろ。よっしゃ、校長や学年主任には俺がうまいこと言うとくけん、お前は何も気にせんでええ。それと、教科の先生方はお前の味方になってくれるはずやけん、高校受験の問題とか、どんどん質問せえ。俺がきちんと話をしておいてやる。そうか、頑張れよ。」
ここで先生はニヤリと笑った。
「それとの、ここだけの話や。俺の中3の息子も讃高を志望しとんじゃ。」
このこともあって、秀雄はクラスの友だちにも正直に話したいと思うようになり、機会をうかがった。
昼休み、秀雄のクラスの主だった連中数人は、学校を脱走して近くの小さな公園に向かう。勿論、校則違反だ。その公園にある木の少し高い位置にあるウロに、ビニール袋が隠してあり、その中にはタバコとライターが入っている。昼下がりの公園でプカプカ、勿論、校則どころか法律違反だ。
当初の秀雄の予想に反して、ツッパった格好をしてくる生徒は数人だけ(担任が笠間先生だったせいもあるはず)、彼らほどではない変形学生服を着ているツッパリもどきがクラスの1/3、部活命のスポーツ推薦組が1/3、おとなしくてメガネが似合う、ちょっぴり不器用な真面目組が1/3という構成がクラス内にできあがっていた。
秀雄はこのツッパリ数人と特に仲良くなっていた。彼らは皆、決して乱暴な性格ではなかったし、見た目とは裏腹に、話してみると拍子抜けするほど普通の男子だった。新学期初日から秀雄に話しかけてきたのは彼らの中の一人で、数人と仲良くなるのに時間はかからなかった。秀雄と言えども、友達付き合いの大切さは知っているつもりだ。放課後はすぐに帰ることにしている分、昼休みは極力彼らと一緒に過ごすようにしており、この公園にも大抵、同行していた。公園に行く生徒が全員、喫煙するわけでもなかったこともある。
初めて公園に行った時に
「いる?」
とタバコを差し出されて
「俺は吸わん」
と断ったことが一度あるだけで、それ以降、しつこく勧められたり、吸わない理由を聞かれたりしたことはない。人が嫌がることを決して無理強いしない、詮索しないのは、彼らの中では暗黙の了解のようだった。
小春日和の穏やかな日、秀雄はみんなに、自分は来年の高校受験にもう一度挑戦するつもりであること、このセントラル学園には最初から辞めるつもりで入学したこと、受験する気持ちが変わらなかったので12月いっぱいで学園を自主退学することを話した。しゃがんでタバコを吸う者、遊具に座る者、鉄棒にぶら下がる者、めいめいの格好で秀雄の話を聞いてくれた。
「…はけんの、嘘をついとったつもりはないんじゃ。ないんやけど、今まで黙っといたことは謝る。ごめん」
タバコを吸う数人は、いつもならやたらと唾を吐くのだが、今はそうしていなかった。
「やるやん、ヒデ。すごいわ!」
「おう、すごいわ。けど、お前が辞めたら、俺は誰に答えを聞いたらええんじゃ?」
「ええのう。やりたいことがって。俺も学校辞めて何かしたいわ」
「お前が辞めても何もやることないやろ?」
「ヒデ、讃高の1年しめる時には呼べよ」
殴られるまではいかなくても、嫌われること、「嘘つき」と怒られることまでは覚悟していたので、やたらと嬉しかった。
学園には単に「自主退学する」とだけ報告することにした。笠間先生も、別に詳しい理由を説明する必要はないだろう、とのことだった。なので、クラスでも正式に挨拶することなく、静かに消えようと秀雄は思っていた。
2学期最後の日、笠間先生がホームルームの終わりに唐突に切り出した。
「ええか、俺は今からお前らの前で独り言を言う。独り言やけん、気にするなよ。校長や学年主任に言いつけるなよ」
クラスを見渡しながら先生は続けた。
「今日でうちを辞める奴がおる」
「…」
「というのは『秘密』にしといたはずやけど、なんやみんなにバレバレらしいわ…」
ニヤリと笑って秀雄の方を見た。
「ヒデ、みんな、応援しとるぞ。お前だったら絶対合格できるわ。自信もって行ってこい!さよならじゃ」
クラスのみんなが一斉に立ち上がった。
「おう、がんばれよー」
「応援しとるぞ」
「いつでも帰って来いよお」
「あほか、帰ってくるなだろう」
大歓声だった。秀雄はちょっと泣きそうになった。
◆3学期 彼の地へ
1月、2月と秀雄は毎朝5時に起きるようにした。セントラル学園に入学した日から続けている毎日の筋トレ、腕立て伏せ、腹筋、背筋に、新メニューとして縄跳びとランニングを加えたからだ。風邪などをこじらせないため、体力を落とさない方法を自分なりに考えての行動だった。
朝食の後、自転車で市立図書館に向かい、夕方までそこで勉強した。市立図書館はセントラル学園のすぐ隣だったので、12月までとほぼ同じペースで生活ができると考えたからであった。母親にも12月までと同じように、引き続き弁当をお願いした。
2月には私立高校の受験があった。県内で男子が受けられる私立は2校しかないため、当然、セントラル学園とは違う私立高校を受けて、はたして合格した。そこで今年も去年同様に入学金のことを考えないといけなくなった。
「今の俺を見ていたらわかると思うけど、今年は絶対に受かる。入学金は入れんでいい。俺を信じてくれんかの」
母親は入学金を支払わなかった。
「それと、去年みたいに変な占いもごめんやで。そんなお金があるんやったら、俺の合格祝いでも考えといて」
受験当日の2週間前から、ランニング以外の外出を一切禁止した。風邪対策だ。家での勉強時間は、受験日の時間割と全く同じに区切った。念のため、大西先生に確認してもらったところ、試験当日の時間割は9:00-9:50国語、10:05-10:55社会、11:10-12:00理科、12:00-12:40昼休み、12:40-13:30数学、13:45-14:35英語とわかったので、この時間通り、この教科の通りに毎日の勉強をするようにした。手に入るだけの入試の過去問は全て、何度も解いた。特にここ3年間の過去問は、解答をほぼ暗唱できるまでになっていた。
試験当日、「車で送る」という両親を丁寧に断った秀雄は、自転車で会場の讃岐高校に向かった。去年よりもずっと遅い時間に会場に着くと、昨年とは違う場所、一般の教室に自分の番号が割り当てられており、席も一番右端の列だった。既に多くの生徒が席についており、その中には新田中学で見たことのある1つ下の後輩たちが何人か見て取れた。
そうこうするうちに昨年同様に二人の大人が入ってきた。昨年と違うのは、一人は女性で、その女性が教壇に立った。
(去年はおっさんやったけどのう)
「はい。それでは机の上は受験票と筆記用具だけにしてください」
教科書や参考書を出していた生徒たちはそれに倣う。
「今から問題用紙を配ります。合図があるまでは開かないでくださいね」
と言うと、その女性は若い男性と一緒に試験問題を配布し出した。
昨年同様、1時間目は国語だ。
(俺は来た。今年もここに来た)
なんか感慨深かった。やたらと心が静かだった。
「始め!」
受験生たちが一斉に問題用紙を開く。中から解答用紙を取り出し、名前を書く。
一問目をざっと見ただけで秀雄は思った。
(よし、いける!)
弁当を食べている時にふと、去年、受験当日の注意として学年主任の先生が言っていたことを思い出した。
「1つの科目があまり解けなかったとしても、他の科目がよかったらそれで大丈夫になります。怖いのは、解けなかったという気持ちを他の科目にも引きずることです。気持ちを上手に切り替えるようにしましょう。友達同士で『さっきのテスト、どうだった?』とか聞くのは言語道断です。気持ちを切り替えて、次の科目のことだけを考えるようにしましょう」
昨年、秀雄の学年の生徒たちは、この言いつけをしっかり守っていた。それどころか、この時間、話すこともせず、全員が黙々と弁当を食べ、次の試験科目の教科書や問題集を見直していた。
「ねぇねぇ、さっきの理科どうだった?」
「最悪~」
今年は走り回っている生徒さえいた。秀雄は思わず笑ってしまった。同じ中学3年生でも、学年が違うと雰囲気は全然違うのだと知った。
無事に5教科の試験が終了し、正門を出たところで、秀雄はもう一つ思い出したことがあった。去年、ここでテレビのニュース番組のインタビューを受けたのだった。
「皆さん、それぞれの中学で優秀な生徒さんだと思いますが、今日の試験はいかがでしたか?」
「優秀?ぜんぜん。今日の試験もぜんぜんダメでした…」
一緒に会場を出たノウちゃんや多田くんもインタビューを受けたのに、その夜のローカルニュースで流れたのは、皮肉なことに秀雄の映像だけだった。
その一件を思い出して、思わず辺りを見渡したが、今年は讃岐高校にTVクルーは来ていないようだ。新設された別の高校に行ったのかもしれない。
(今!今こそ、俺んとこにインタビューに来んかい!)
試験の翌日、夜明けより早い時間から起き出して、新聞が配達されるとすぐに、掲載されていた昨日の入試問題を開いて自己採点してみた。去年も何度も何度も採点をし直したが、今年は別の意味でそうした。何度やっても220点、もしかすると230点を越えていた。社会は満点かもしれない。この日あった面接試験も無事に終わった。
発表も一人で、自転車で見に行った。
家に電話しようと公衆電話へ向かった。高校近くの公衆電話は混み合うことがわかっていたので、少し離れた中央公園近くの公衆電話BOXに自然と足が向かい、BOXに入ったところで思い出した。
(あ、この電話、去年もここから連絡したんやったわ…)
終章
「合格やった」
合格発表の日、公衆電話から連絡した先で母親が泣いてた。家に帰ると夜に大西先生がやってきて、今度は母親と二人で泣いていた。別の電話でリコも泣いてくれた。夏休みに東京で会おうと約束した。東京も遠くないように思えた。翌日、笠間先生に電話したら、笠間先生の息子さんも無事に合格したと教えてくれた。セントラル学園のみんなはお祝い会を開いてくれた。会場が居酒屋だったのでびっくりした。
そして、4月、秀雄は年齢が1学年下の生徒たちと一緒に席を並べた。友情に年齢なんかは関係ない、それを秀雄が知るのはもう少し先、少しだけ先、の話。
「みんなには申し訳ないんやけど、呼び捨てはちょっときついんや。かと言って、“さん”付けも変やろ。みんなで俺の呼び方、考えてくれんか?」
「確かに。俺もさん付けはどうかと思うとった」
「うーん、しんちゃん?」
「ひでちゃん?」
「えぇ、“ちゃん”って顔してないやろ、俺」
「確かにそうやの」
「…」
「何かええの、ないかのう?」
「アニキは?」
「おぉ、アニキか」
「ええんちゃう。アニキっぽい顔やし」
「アニキー!!!」
秀雄はアニキになった。
完
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