蛮族女王の情夫《ジゴロ》 第二部【クローディアの章】

第196話 アーシュラの意地

　アメーリアに切り裂かれたクローディアの左肩から鮮血が流れ落ちる。

　クローディアは苦痛を堪（こら）えて歯を食いしばった。

（左手に力が入らない……）

　仕方なくクローディアは右手一本で剣を握る。

　左手の感覚はひどく鈍（にぶ）くなっていた。

　それでもクローディアは意地を見せてアメーリアに向かっていこうとする。

　その時だった。

「クローディア！」

　聞き慣れた声が聞き慣れぬ声量で響き渡る。

　声のした方を見ると、尾根を駆け上って来る１人の人影が見えた。

　それはアーシュラだった。

　こちらに来るなと叫ぼうとしたクローディアは、アーシュラの姿に思わず息を飲む。

　彼女は裸の上にボロボロの上着を羽織っているだけの姿だったのだ。

（ア―シュラ……まさかトバイアスに！）

　最悪の事態を想像して、クローディアは瞬間的に頭に血が登るのを感じ、怒りの形相（ぎょうそう）を浮かべる。

　アーシュラはあられもない格好で、それでも必死にクローディアに駆け寄ってきて、彼女をアメーリアから守るように立ちはだかった。

「アメーリア。これ以上の狼藉（ろうぜき）は許さない」

　その姿を見るとアメーリアの顔に不気味なほど優しげな笑みが浮かぶ。

「あら。あなたアーシュラね。久しぶり。大きくなったわね。前に会ったときはほんの子供だったのに。それにしても何てはしたない格好なのかしら。それにダメよ。叔母（おば）を呼び捨てなんて」

　アメーリアと対峙（たいじ）したアーシュラは震えていた。

　クローディアはそれを感じ取ると傷の痛みを堪（こら）えて前に出る。

「下がりなさい。アーシュラ。アメーリアの相手はワタシよ」

　クローディアは夜着の上に羽織っていたローブを脱ぎ、それをアーシュラにかけてやる。

　それでもアーシュラは引こうとしない。

「アメーリア。あなたはワタシの父を殺し、母を死に追いやった。もう叔母（おば）でも姪（めい）でもない。憎らしい仇（かたき）だ！」

「仕方ないじゃない。姉さんも義兄（にい）さんもワタクシに従ってくれなかったんだもの。殺すしかないでしょう？」

　そう言って微笑（ほほえ）むアメーリアにクローディアは薄ら寒い思いを抱いた。

（この女……やはりまともじゃないわね）

　アメーリアは冷笑を浮かべながら続ける。

「アーシュラ。そんなことよりトバイアス様を見かけなかった？　彼のこの剣をなぜだかクローディアが持っていたのだけれど」

　そう言うアメーリアにアーシュラは唇（くちびる）を噛（か）みしめる。

　そして押し殺した怒りを吐き出すように言った。

「あの男はケダモノ。ワタシを犯そうとした。でも失敗した。今頃は鳥に局部を食いちぎられている。ざまあみろ！」

　アーシュラがそんなにも怒りを露（あら）わにして汚い言葉を吐くのを初めて見たクローディアは、夜着の左袖（そで）を破るとそれを斬り裂かれた左肩に巻き付けて止血を図（はか）る。

「まあ、悪い子ねぇ。アーシュラ。叔母（おば）の男をそんな格好で誘惑しようだなんて。恥知らずだわ」

　その言葉にアーシュラが今にもアメーリアに飛びかかりそうなところで、クローディアは彼女の肩を掴（つか）んで背後に下がらせた。

　そして静かな怒りを込めてアメーリアを睨（にら）みつける。

「あなたがこの子から奪ったものは大きいわ。アメーリア。だからワタシはアーシュラに誓（ちか）ったの。仇（かたき）はワタシが討つと。今がその時よ」

　そう言うとクローディアは右手一本で剣を握った。

　左手の感覚はまだ鈍（にぶ）い。

　この状況では勝算は薄いだろう。

　だがそれでもクローディアは自分が誓（ちか）った言葉を実行に移すべく動く。

「はぁぁぁぁっ！」

　覚悟を決めてクローディアは前に出る。

　猛然と剣を振り下ろしてアメーリアの首を狙（ねら）った。

　アメーリアはその一撃を受け止めるが、その顔が何やら苛立（いらだ）たしげに歪（ゆが）んでいる。

　構わずにクローディアは攻撃を続けた。

「死ぬ覚悟を決めなさい！　黒き魔女！」

「チッ！」

　アメーリアはこれを鬱陶（うっとう）しそうに右手の対刃剣（アンフィスバエナ）で打ち払うが、左手に握っているトバイアスの剣は使おうとはしなかった。

　おそらくそれが折れたり破損するのを嫌っているのだろうとクローディアは思ったが、それにしてもアメーリアの動きが鈍（にぶ）くなっているように見える。

　アメーリアは頭痛を堪（こら）えるような顔で睨（にら）みつけてくるが、その視線の先はクローディアではなくアーシュラに向けられていた。

「アーシュラ……いつからそんな悪戯（いたずら）を覚えたのかしたら？」

　アメーリアの言葉の意味がクローディアには理解できなかったが、背後からアーシュラの声がかかる。

「彼女の頭はワタシが押さえます。アメーリアを倒して下さい」

　アーシュラが常人離れしたことを色々やってのけるのは以前から知っていた。

　だがクローディアはそのことをあまり深く尋（たず）ねたことはない。

　アーシュラがあまり話したがらないというのもあるし、あれこれ聞かずともアーシュラは困難な任務をいくつも完遂してくれた。

　彼女を信頼していたからこそ何も聞かずにここまで来たのだ。

　それは今も変わらない。

　おそらくアーシュラがアメーリアに何かを仕掛けているのだろう。

　アーシュラにも意地がある。

　それがアメーリアの動きを鈍（にぶ）らせているのなら、今がチャンスだ。

　クローディアは攻勢に出る。

　激しく動くたびに左肩がひどく痛むが、相手を容赦（ようしゃ）なく殺す気迫を込めてクローディアは鋭く剣を振るった。

「くっ！」

　アメーリアは攻撃の全てを防ぐことは出来ず、クローディアの刃を腕や足に受けて傷ついていく。

　クローディアは一気呵成（かせい）に攻め立てた。

（このまま押し切るっ！）

　クローディアが渾身（こんしん）の力を込めて繰り出した剣を避け切れず、アメーリアは脇腹を斬りつけられて声を上げた。

「くはっ！」

　手ごたえは浅かったが、剣の切っ先が確かにアメーリアの肉を斬り裂いた。

　もうひと押しだ。

　そう思ったその時だった。

　尾根の向こう側から騒がしい声が聞こえてきたのだ。

「待て！　このチビ女！」

　それは数人の女の声だった。　

　その背の高いダニアの女たちから追われて逃げていたのは、同じダニアだが背の低い１人の少女だ。

　その頭上高くには数羽の鳥が空を旋回している。

　そして闖入者（ちんにゅうしゃ）の出現で生じたこの一瞬の間に、即座に手を打ったのはアメーリアだった。

「クローディア。この続きはいずれまた」

　そう言うとアメーリアは袖（そで）から一本の松明（たいまつ）を取り出し、指先をこすってそれに火をつけた。

　すると松明（たいまつ）から濛々（もうもう）と黄色がかった白煙が立ち上り、あっという間に辺りに広がっていく。

（煙幕！　逃げるつもりね！）

　そう思ってアメーリアを追おうとするクローディアだが、アーシュラが背後から腕を掴（つか）んで来た。

「いけない！　あの煙を吸ってはダメです！」

　そう叫ぶアーシュラの青ざめた表情に事態の深刻さを悟り、クローディアはアーシュラを伴（ともな）って風下へと下がっていく。

　アメーリアは襲ってくる様子がなく、その姿は白煙の向こう側へと消えていった。

　アーシュラはこちらに向かってくるダニアの少女に声をかける。

「アデラ！　その煙を吸わないで！」

　アーシュラの言葉に少女は目を見開き、口笛を吹いた。

　すると彼女の頭上を舞っていた数羽の鳥が煙の届かない位置へと移動していった。

　そしてアデラと呼ばれた少女は自分も煙を避けてアーシュラたちの元へと向かってくる。

　その姿にクローディアはピンときた。　

「鳶隊（とびたい）の子ね。アーシュラの知り合い？」

「本家のアデラです。さっきトバイアスに襲われた時、彼女がワタシを助けてくれたんです。おかげでワタシは……寸前で守られました」

　そう言うとアーシュラはクローディアがかけてくれたローブの胸元を引き締めて、肌を隠すのだった。