蛮族女王の情夫《ジゴロ》 第二部【クローディアの章】

第143話 遠雷の夜

　クローディア……いや、レジーナはぼんやりと目を開ける。

　どこか遠くで雷の鳴る音が聞こえていた。

「……ん？」

　目を開けた先には木造の天井が見える。

　見慣れた天井であり、そこがかつてボルドを療養するために使っていた小屋だと気付く。

　カーテンの閉められた窓の向こう側から時折、雷光のような青い瞬（またた）きが差し込んでいた。

（ワタシは……なぜここに？）

　そこでふいに記憶が甦（よみがえ）ってきた。

　馬に乗ってここに向かっていた途中で雨が降り出し、雨宿りのために木陰（こかげ）に座り込んで……記憶はそこで途切れていた。

　もしかしたら無意識のうちにここまで歩いてきたのだろうかと思ったが、馬を馬屋に繋（つな）いだ覚えもなく、記憶が混濁（こんだく）としていて判然としない。

　そしてレジーナは体を起こそうとして、全身がひどくだるいことに気が付いた。

「うぅ……」

　喉（のど）が痛く、体の節々が痛む。

　記憶を失う前、ひどく体調が悪かったことを思い出した。

　どうやら自分は倒れてしまったのだと分かり、そこでレジーナはコトンという物音に気付いた。

　さらには部屋の中にはおいしそうな食事のニオイが漂（ただよ）っている。

（小屋に……誰かいる！）

　レジーナが歯を食いしばって起き上がったその時だった。

「レジーナさん。目が覚めたんですね。良かった」

　そう言ったのは手に水差しを持ち、炊事（すいじ）用の前掛けをした姿のボルドだった。

　ソファーの上で上半身を起こした姿勢のまま、レジーナは目を丸くして彼を見る。

「ボールドウィン……あなた、どうしてここに？」

「レジーナさん。ちょっと待ってて下さい。その前に……」

　ボルドはそう言うと水差しをソファーの前のテーブルに置く。

　そして両手に厚手の手袋をはめると、暖炉（だんろ）のすぐ手前に置かれた陶器の水差しを持ち、それをソファー近くに置かれた木の桶（おけ）の上で傾けた。

　湯気が立ち、熱い湯が木桶（きおけ）の半分くらいまで注がれると、今度はテーブルの上に置いた水差しから水を注いで湯を冷ます。

　そしてボルドは木桶（きおけ）の中に少しだけ指を入れて湯加減を見た。

「よし。ちょうどいい。レジーナさん。まずは手拭（てぬぐ）いで体を拭（ふ）いて、着替えて下さい。修道服は出しておいていただければ私が洗濯をしておきますので、着替え終わったら呼んで下さいね。外に出ていますから」

　そう言うとボルドは扉（とびら）を開けて小屋の外へ出て行った。

　残されたレジーナは呆然（ぼうぜん）としつつ、室内を見回す。

　そこは間違いなく、かつてボルドと過ごした小屋だった。

「ボールドウィンがここまで運んでくれたのかしら……？」

　突然の状況に戸惑いながらもレジーナは用意された手拭（てぬぐ）いを湯に浸（ひた）し、それで顔を拭（ぬぐ）う。

　熱い手拭（てぬぐ）いが肌に心地良かった。

　彼女は外に出たボールドウィンが戻って来ないかを心配しつつ、着ていた修道服を脱いでいく。　

（彼は覗（のぞ）きをするような子じゃないわね）

　昨夜ずぶ濡（ぬ）れだった修道服はすっかり乾いていたが、ところどころ泥（どろ）に汚れている。

　レジーナは思い切って下着まで全てを脱ぎ捨てて一糸（いっし）まとわぬ姿になると、熱い手拭（てぬぐ）いで体中を拭（ぬぐ）った。

　全身が重く、まだだるかったが、それでもそうして熱い手拭（てぬぐ）いで体を拭（ふ）いていくと生き返るような気持ちになった。

　ふとソファーの横に置かれた籠（かご）を見ると、そこには着替えが用意してあった。

　ここで以前にレジーナが使っていた夜着だが、下着まで用意されているのを見たレジーナは気恥ずかしさに思わず頬（ほほ）を赤らめる。

「もう……ボールドウィンめ」

　そう言いながら着替えを済ませ、改めて部屋を見回すと、暖炉（だんろ）には火が灯（とも）っていて温かく、さらには台所の方向から食事の良い香りがする。

　この状況をボルド１人で用意したのだろうか。

　不思議（ふしぎ）に思いながらレジーナはボルドを呼ぶ。

「ねえ。もう着替えたから、入って来ていいわよ」

　その声に扉（とびら）が開き、ボルドが姿を見せる。

　彼はその手に居間に置いてあるのとは別の水差しを持っていた。

　どうやら彼は井戸水を汲（く）んで来たらしく、そのまま台所に向かい、少しすると戻って来た。

「レジーナさん。座って下さい。これ、おいしいですよ」

　そう言うボールドウィンに促（うなが）されてソファーに再び腰をかける。

　ボルドは彼女の前に立ち、水差しの先端を彼女の口に向けた。

「自分で飲めるわよ。でも……」

　何だかひどく喉（のど）が渇（かわ）いていた。

　だが、喉（のど）の痛みのせいでレジーナは水を飲むのを躊躇（ちゅうちょ）してしまう。

　それでも渇（かわ）きには抗（あらが）えず、レジーナはボルドを見上げると観念したように口を開けた。

　口の中に流れ込む水にレジーナはわずかに驚（おどろ）く。

（甘い……おいしい）

　水差しの中の水は果汁と砂糖で甘く味付けされていた。

　そして不思議なとろみが喉（のど）に優しく、疲れ切った体に染み渡っていく。

　おそらく蜂蜜（はちみつ）が溶かしてあるのだろうと思った。

　束（つか）の間の幸福感に身を委（ゆだ）ねつつ、十分に水分を取ったレジーナは大きく息をついた。

「ふぅ……」

「少し落ち着きましたか？」

　ボルドの言葉にレジーナは静かに頷（うなづ）く。

　そして幼子のように彼に水を飲ませてもらったことを今さらながらに気恥ずかしく感じつつ、彼に向かいの椅子（いす）に座るよう促（うなが）した。

「ボールドウィン。この状況を説明してちょうだい」　

　まだ夜半過ぎで、夜明けまでたっぷりと時間が残されている。

　遠くで鳴っていた雷はいつの間にかどこかへと立ち去っていたようで、外からは弱くなった雨音だけがしとしとと聞こえてきていた。