第140話 刻みつけられた恐怖

「そんな……」


 体の震えが止まらない。

 アーシュラは林の中から全てを見ていた。

 彼女の目は1000メートル近く先にいる相手を見定めていた。

 もちろん視力によってハッキリ見えるわけではない。

 だが彼女ははるか先の光景をイメージとして脳内で可視化することが出来る。 

 

 そうしてアーシュラは、トバイアスの暗殺のために派遣された3人の女戦士たちが全員、返り討ちにあって殺されたのを見た。

 暗殺計画は失敗に終わったのだ。

 だがアーシュラが恐怖を感じていたのは、暗殺が失敗に終わったからではなかった。

 

 暗殺のために派遣された3人の腕は確かだった。

 彼女たちが放った矢は正確にトバイアスをねらっていた。

 一本くらい当たっていてもおかしくないほどであったし、猛毒の矢が一本でも当たればトバイアスはすでに絶命していたはずだ。

 だが、すべてを邪魔したのはトバイアスの従者とおぼしき人物だった。

 腕利きの暗殺者らはその従者によって殺されたのだ。


 ただの侍女だと思われたその女の正体に気付いたアーシュラは、慄然りつぜんと恐怖に体が震えるのをどうしても抑えることが出来なかった。

 ダニア本家の一時宿営地にいた時から感じていた違和感の正体はこれだったのだ。

 それはトバイアスではなくあの女に対して感じていたことだとアーシュラはようやく理解し、震える声でその名をつぶやく。


「黒き魔女……アメーリア」


 それはアーシュラの父を殺し、アーシュラの生まれ故郷だった砂漠島を絶対的な暴力と圧倒的な恐怖で支配した張本人だった。

 まだ幼かったアーシュラはアメーリアの顔はハッキリと覚えていなかったが、その長い黒髪だけは恐怖と共に鮮明に覚えていた。

 アーシュラの体にはアメーリアへの恐怖がハッキリと刻み込まれている。 

 暗殺計画の成否を見届けた彼女はすぐにこの場を離れて、結果をクローディアに報告しなければならなかった。

 だが、体中の筋肉が強張こわばってしまったようで動くことが出来ない。


「あの女が……こんなに近くに」


 アメーリアの戦う姿を実際に見たのはこれが初めてのことだった。

 クローディアの持つ強さとは明らかに異質な強さがそこにあった。

 黒き魔女は死をもたらすのだ。

 その魔手にからみ取られた者は決して死の運命から逃れることが出来ない。

 

 アーシュラは大きく深呼吸を繰り返し、ゆっくりとその場から立ち去ろうときびすを返した。 

 だがその瞬間に見えない手が自分の腕をつかんだような気がした。

 弾かれたように振り返ると、そこには誰もいない。

 だが……はるか彼方にいるはずの黒き魔女の目が、こちらを見ているような気がした。

 アーシュラは息を飲むと、全身に視線がからみつくような感覚を振り切って、その場から駆け足で逃げ出した。



 ******



「やれやれ。これでは顔が分からんな。まあ、赤毛だからダニアの女なんだろうが、これは本家か? それとも分家か?」


 アメーリアによって殺された暗殺者の死体のそばにしゃがみ込むと、トバイアスは薄笑みを浮かべて肩をすくめる。

 すでに原形をとどめていないほど破壊された人体の頭部を前にしてもトバイアスは少しも気分を悪くすることなく、まるで血の香りをぐかのように死体に顔を近付けた。

 そんなトバイアスにアメーリアはほほふくらませる。


「まあ。おたわむれを。そんな死んだ女にすらご興味が? もはや顔も分からないのに」


 そう言うとアメーリアは周囲を警戒しながら、最初に倒した襲撃者の頭巾ずきんぎ取った。

 苦悶くもんゆがむ死に顔をさらしたのはダニアの女だが、さすがに顔を見ただけでは本家か分家かまでは分からない。

 だがアメーリアにはそんなことはどうでも良かった。

 トバイアスに近付く女を排除できたという事実だけが、彼女にとって大事なことなのだから。


 だがアメーリアには何やら気になることがあった。

 ダニア本家のブリジットを訪れた時から監視されているような気がしている。

 今この瞬間も誰かに見られているように感じていた。

 そして彼女はそんな自分の感覚を決して疑うことはない。


(ブリジットが監視の目でも付けたのかしら。ということはこの女たちは本家……)


 だが周囲に目をらしてみても、それらしき人の姿は見当たらない。

 おそらくは街道沿いの林の中に何者かが潜んでいるのだろうが、常人離れしたアメーリアの視力をもってしてもその姿を確認することは出来なかった。


(だけど確実に見られている。気に入らない感覚)


 アメーリアは視線が向けられていると感じる方角を凝視した。

 コソコソとのぞいているのは知っているぞという思いを込めて。

 そんな彼女の背中にトバイアスは声をかけた。


「アメーリア。帰るぞ。今夜は公都で父上がお待ちだ。面倒だがあの老将軍の機嫌を取っておかねばならんからな」


 彼はすでに女の死体に興味を失い、燃える馬車から逃げ延びた一頭の馬の手綱たづなを握っている。

 もう一頭の馬はどこかに逃げ出していて、馬車から投げ出された御者は地面に頭を打ったようで動かなくなっていた。

 主の声を受けてアメーリアは林の方角に視線を送るのをやめ、きびすを返す。


 倒れた馬車から飛び出したために焼失を免れた予備のくらを馬に取り付けると、トバイアスはアメーリアを後ろに乗せた。

 そして燃え盛る馬車と倒れている御者を置き去りにして馬を走らせる。


「ハアッ!」


 アメーリアはトバイアスの後ろで馬の背にまたがりながら、一度だけ後方を振り返る。

 いつの間にか視線の気配は消えていた。

 おそらく監視していた者が立ち去ったのだろう。

 

 どこか引っかかる感じに後ろ髪を引かれる思いだったが、彼女はそれでも恐れはしない。

 どこの誰に監視されていようと、愛する男を守り抜く自信は揺るぎないからだ。

 黒き魔女アメーリアはトバイアスの背にぴったりとすがりつくと、彼の香りをぎながら満足げに目を細めるのだった。

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