第138話 アメーリア

「トバイアス様。アメーリアをおしかりにならないのですか?」


 ダニア本家のブリジットの元を訪れたその帰りのほろ馬車の中で、一切の言葉を発しない主に、アメーリアはたまらずにそうたずねた。

 たがトバイアスは先程から何やら考え事をしているようで、そう声をかけられてふと彼女を見やる。

 そして何のことかとわずかに目をまたたかせてから、彼女の言葉の示す内容に思い至ったようで口を開いた。


「ああ。先ほどのことか。まったく仕方のない奴だ」


 先ほどのこととは、侍女の身でありながら主の縁談の最中に頭巾ずきんを脱いで気分が悪くなったフリをし、中断させてしまったことだった。

 もちろん彼女がわざとしたことだとトバイアスも分かっている。

 だが彼は口ぶりとは裏腹にまったく怒った素振りを見せない。

 そんな彼にアメーリアは悲しげな表情を見せる。


「申し訳ございません。アメーリアは悪い娘です」

「本当だ。だが、なかなか面白かったぞ。おまえの黒髪を見た時のブリジットの反応はな。半年以上前に死んだあの女の情夫は黒髪だったそうだ。おそらく相当入れ込んでいたのだろうな。今も忘れられない様子だった。そう思わないか?」

「……はい。ブリジットのことを考えていたのですか?」


 そう言うアメーリアの黒い瞳に暗い陰がよどむ。

 だがトバイアスはまるで動じることなく、となりに座るアメーリアの腰に手を添えた。


「いいや。考えているのはお前のことだ。アメーリア」


 そう言うとトバイアスはアメーリアを抱き寄せる。

 そしてすぐ前方で手綱たづなを握るほろ馬車の御者を気にすることなく、彼女に口づけをした。


「んむっ……」


 途端とたんにアメーリアの目が喜びに細められ、暗い陰はどこかに消えてしまう。


「……はあっ」


 長い口づけを終えてくちびるを離すと、アメーリアは熱い吐息といきらした。

 そんな彼女にトバイアスは静かな声でささやく。


「俺の女はおまえだけだ。アメーリア。ブリジットなどよりおまえのほうがはるかに美しいぞ」

「トバイアス様……ずるい。でも……嬉しい」


 よろこびにうるんだ目で主を見つめるアメーリアの耳にくちびるを寄せながらトバイアスは言う。


「アメーリア。どうだ? おまえならあの女は殺せそうか?」

「殺せますとも」


 アメーリアは即答する。

 その小気味良い回答にトバイアスは目を細めた。


「だがブリジットはダニア最強の女王だぞ。彼女と1対1で戦って勝てる男はこの大陸には1人もいないともっぱらの評判だ」

「そうでしょうね。ですが彼女は強いだけです。腕力、脚力、敏捷びんしょう性、洞察力、そして武器を扱う技量。それが彼女の強さの全てです。そういう相手にこのアメーリアが負けることはありません」


 断言するその言葉の意味を理解したトバイアスは満足げにうなづく。


「そうか」

「いつ殺しますか? 今からでも引き返して殺しましょうか?」


 勢い込んでそうたずねるアメーリアに、トバイアスは一転して無表情で首を横に振る。


「今のはおまえの見立てを聞いたまでだ。殺さぬよ。前にも言っただろう? 俺はダニアの戦力が欲しいと。だからブリジットはこの手に収めねばならん」


 その言葉を聞いたアメーリアは悄然しょうぜんとうなだれる。


「……トバイアス様があの女を抱くと思うと、アメーリアは気が狂いそうになります」

「アメーリア。忘れたのか? おまえは俺にとって特別な女だと言ったことを。いいか? たとえ他の女を抱こうとも俺の心はおまえだけのものだ。俺はおまえしか見ていないぞ。もし俺が他の女を抱くとしたら、それは全て俺の野心のために利用しているに過ぎん。だがおまえだけは違う。おまえは俺のとなりで共に見るのだ。俺の果たす覇道はどうをな」

「トバイアス様……」


 それでもなお不服そうなアメーリアにトバイアスは甘いささやきを投げかけた。

 

「そんな顔をするな。俺のかわいいアメーリア。ダニアの戦力をある程度掌握しょうあくしたら、おまえがブリジットに戦いを挑めばいい。ダニアの女どもは戦闘狂だから、1対1でおまえが勝てば、おまえを新たな主と認めるさ。そうなればもうブリジットは用済みだ。ダニア本家はおまえのものとなり、同時に俺のものとなる。そしておまえは俺にとってもっと特別でもっと大事な女になるんだ。そうだな……言うなれば妻だ」

「妻……」

 

 その言葉にアメーリアはほほを赤く染め、そのひとみ陶酔とうすいの色を浮かべる。

 そしてようやく納得した顔で彼の胸にすがりついた。


「分かりました。辛いですけどアメーリアは耐えます。だってアメーリアはトバイアス様にとってこの世でただ一人の特別な妻になるのですから」


 そう言ったその時、アメーリアはふと頭上を見上げた。

 その表情は冷徹な戦士のそれに変わっている。

 そしてほろおおわれているその天井を見つめて彼女は言った。


「火矢が来ます。トバイアス様。脱出を」


 そう言うと彼女はトバイアスの手を取ってほろの後方から身を乗り出すと、愛しい男と共に宙に身をおどらせた。

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