第113話 置き去りの心

 畑をたがやし、ニワトリなどの家畜にえさをやり、労働者たちのために料理を作る。

 朝起きてから夜眠るまでの間にこうしてボルドの一日は明け暮れる。

 衣食住に満ち足りた十分な暮らしは穏やかに過ぎていった。

 レジーナからはわずかながら給金までもらえる。


 こうして体を使った労働は奴隷どれいだった頃以来だが、あの頃は使い捨てても構わない労働力として劣悪れつあくな環境でぞんざいに扱われていた。

 今の暮らしは労働者を1人の人間として大事にしてくれるレジーナのおかげで、皆が安心して働くことが出来た。

 そのレジーナはボルドをここに連れてきた翌日の朝に去って行った。

 何やら別の用事があるらしい。

 彼女が日頃、どのようなことをしているのかボルドだけでなく他の誰も知らなかった。


「レジーナ様はお忙しい中、ここを頻繁ひんぱんに訪れて下さるんじゃ。必要物資を届けて下さったり、ボールドウィンのように働く仲間を連れて来て下さったりのう」


 午前中の労働を終え、数人で昼食をとりながらダンカンはボルドにそう説明する。 

 徐々に労働者たちとも打ち解けて来たボルドだが、一日の中で最も多くを話すのはやはりダンカンだった。

 表情こそ無愛想なこの老人は意外にもよくしゃべる。

 彼自身もボルドという若者に色々と指導しながら共に働けるのは、良い刺激になっているようだった。

 そうして昼食を食べ終わる頃に、1人の女がボルドらのいる畑の脇の休憩小屋を訪れた。  


「……今日の獲物だ」


 そう言って女は狩りで獲れた野兎のうさぎかもなどを多く荷台にせた荷車をその場に置いた。

 ダニアの女たちは腕力を生かした力仕事だけでなく、優れた狩りの腕前で動物や鳥、川魚などを獲って食料をまかなっていた。

 

「ジリアン。ご苦労さま」


 ダンカンのねぎらいの言葉にジリアンと呼ばれたその女は静かにうなづく。

 そしてジリアンは去り際、チラッとボルドを横目で見てから自分の作業に戻っていった。

 このジリアンが先日から自分を目で追っているのをボルドは感じていた。

 その目線が気になったが、それ以上にボルドが気になっていたのは彼女たちの赤毛や褐色かっしょくの肌を見ると、どうしてもブリジットと暮らした日々を思い返してしまうことだった。   


(ブリジット……)


 いまだに毎晩のように彼女の夢を見るし、一時でも忘れたことはない。

 日々の暮らしの折々に、ブリジットのことを想ってはボルドは胸を痛めていた。

 ブリジットという存在が、いかに自分の身の内に深く刻み込まれているのかよく分かる。

 そしてその日の夜、彼は夢の中でブリジットに揺り起こされたような気がして目を覚ました。


「はっ……ブリジット」


 彼女が自分を呼んだような気がしてボルドはベッドの上で身を起こした。

 その声が妙に現実味があり、となりに彼女がいるような気がしてボルドは思わず振り返る。

 だがもちろんそこには誰もいない。

 そこはボルドが寝泊まりをする労働者用の宿舎であり、せまい部屋の反対側のベッドでは、ダンカンがイビキをかいて寝ている。


 ボルドは静かにため息をついた。

 ブリジットの声が今も鮮明に耳に残っていて、胸が締め付けられる。

 自分はまだブリジットのことが忘れられないのだとボルドは痛感した。

 ボルドは音を立てないよう静かに立ち上がると、部屋を出てかわやへと向かう。


 月の綺麗きれいな夜だった。

 かわやで用を済ませたボルドはそのまま寝室に戻る気分になれず、池のほうへと足を運んだ。

 すでに天頂を過ぎた月が、池の水面みなもに映っている。

 ボルドはそのほとりに1人たたずみ、池の水を見つめた。

 ブリジットと共にいた場所から随分ずいぶんと遠く離れたところに来たと思う。

 だが心だけをブリジットのところに置き去りにしてきてしまったようだ。

 

 こうして水辺に立つと、ノルドの丘から助け出された帰り道にブリジットと2人、川辺で過ごした時のことを思い出す。

 いつかはそんなことも思い出さなくなるのだろうか。

 この辛さに消えて欲しいと思う反面、いつまでもこの苦い痛みの中にひたっていたいという女々しい思いもある。

 ボルドは胸に詰まった切なさを吐き出す様に大きくため息をついた。

 その時だった。


「……ん?」


 どこからか人の声が聞こえてきてボルドは思わずまゆを潜める。

 反射的にボルドはしゃがみ込み、周囲の様子をうかがいながら耳をませた。 

 ふいに夜空の月に雲がかかり、周囲が暗くなる。

 

「ハアッ……ハアッ……ハアッ」


 聞こえてきたそれは女性の激しい息遣いきづかいだった。

 そしてそれに重なる様にして男の声も聞こえてきた。

 そこで月にかかっていた雲が流れて、再び月明かりが水辺に明るく差し込む。 

 ボルドは思わず目を見張った。

 

 池の反対側にある遺跡の中、女が石の壁に手を付き、男がその背後に立って体を密着させている。

 ボルドはすぐに状況を理解した。

 真夜中の遺跡で男と女が交わっていたのだ。

 男は石切りをしていた労働者の1人で、女は赤毛を振り乱したダニアの女だった。

 2人は月明かりに照らされながら一心不乱に互いの劣情をぶつけ合っている。


逢引あいびきか……) 


 男と女が同じ場所で働いていれば、互いにかれ合うことは自然にあるだろう。

 特にボルドが知るダニアの女たちは性に貪欲どんよくだ。

 こうして人目をはばかり、真夜中に逢瀬おうせを重ねているのであれば、それは決して悪いことではない。

 邪魔じゃまをしてはいけないと思い、ボルドはしゃがんだままその場からそっと離れようときびずを返した。

 だがそこで振り返ったボルドの目に人影が飛び込んで来た。

 

「……んっ!」


 ボルドは自分の口をいきなり手でふさがれて目を白黒させる。

 彼の目の前にいたのは赤毛を夜風になびかせたダニアの女だった。

 月明かりに照らされたその女の顔を見てボルドは息を飲む。

 それはここに来てから事あるごとにボルドに視線を送っていた、ジリアンというダニアの女だったのだ。


「……静かに」


 ジリアンは低く抑えた声でそう言うと、人差し指を立てて自分のくちびるに当てて見せるのだった。

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