豁サ

 重い扉を開けるとツンと鼻をつくような刺激臭がした。廊下にかかるプレートには理科室やら被服室やらの名前が並んでいる。この校舎は特別棟らしい。この臭いも理科室のもだろう。何か薬品でもこぼれて熱気で蒸された臭いかなにかだ。私は勝手に結論付けて歩を進めた。

 やはりここにも誰もいない。踊り場に向かうと鼻をつく臭いは一層濃くなった。思わず手で鼻を覆う。理科室の薬品ではないらしい。

 保健室の薬品が蒸されてこの臭いを発しているのだろうか。しかし、これはそんな臭いではない。何か腹の底からむせかえるような、本能的に忌諱きいしてしまうような臭いだ。

 一段一段階段を降りる度、刺激臭は強くなる。思わず涙が出てくるような、ひりつく臭いだった。

 ──どちゅる

 気味の悪い音が私の脚を止めた。むわっと刺激臭が立ち上ってくる。

 ──どちゅる

 びちびちと何かが飛び散る音も聞こえてくる。まさかあのぶよぶよがもうここまでやって来たのか?

 しかし、学校まで相当な距離があるしなによりあの異形は脚が遅い。それにここまで酷い臭いはしなかった。思わず護身用の傘を強く握りしめた。

 私はそっと階下の階段を覗き見た。

 所々どす黒くなった巨体は階段を埋め尽くさんばかりに膨れ、爛れた肉体は不気味な紫色をしていた。人の形を止めているのは肩から先までで下半身は削り取られ、通ったあとにはだくだくと血痕が棚引いている。そしてこの臭いはこの身体から発せられているものだと理解した。しかし、これは生物由来のものではない。体の色を見てもそう思えた。

 死臭。

 肉体が腐る臭いなのだと理解した瞬間、私は腹の底からせり上がるものを止めることができなかった。べしゃべしゃと異形に降りかかる吐瀉物は胃液の色を濃く出していた。立ったまま吐いてしまったので服にもいくらかかかってしまった。死臭とは違う酸っぱい臭いが鼻をつく。

「繧?▲縺ア繧翫%縺薙↓縺?◆」

 私を仰ぎ見た異形が血のあぶくを吐き出しながら言う。ぽっかりと空いた穴は、毒々しい赤を腹の奥までどっぷりと伸ばしている。西日に照らされてしっかりと見ることができた。ポツポツと螺旋状に並ぶ白は歯だろう。

 私は階段を駆け昇ると続く廊下を走った。しかし、後ろからはバタバタと壁にぶつかる音がする。まさか、と後ろを見ると巨体を揺らしながら階段を昇りきったところだった。見た目に反して動きが機敏だ。私の心臓は警鐘を鳴らした。

 渡り廊下に出ると扉を閉め傘を通しかんぬきにした。駆け出すのと同時に扉が大きな破裂音と共に弾けとんだ。フィジカルも今までの異形より格段に上だ。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ!

 私は必死に生にしがみついた。

なんとしてでも逃げ出さなければ。アレは今までのものと違う。

「隧ア繧定◇縺?※?」

 慟哭のような声は空気を震わせた。それは私の体の芯まで伝播し、心の底から恐怖させるのには十分だった。

 今にも脚がもつれそうになる。前のめりになりながら校舎の中を駆け抜ける。あの異形は速度を落とすことなく私のあとを追ってきていた。食べられてしまうのだろうか。それとも押し潰されてしまうのだろうか。

 恐怖が毒となり体の中をめぐるのはあっという間で、身体にあらゆる不調を起こした。呼吸は浅く、ひきつり、指先は冷えきり麻痺した。脳みそは痺れまともな判断ができなくなる。まるで地平線に溶ける夕日になったかのような気分だった。

 ずるずると身を引き摺りながら追ってくる異形は徐々に磨耗して小さくなっていた。私もいつの間にかまともに走れなくなってきている。靴擦れが痛いとか爪先が痛いとかそんなことを言っている場合ではなかった。気が付けば身体中がボロボロで、心臓の鼓動にあわせて痛みが神経に響いた。

「鄂ョ縺?※縺九↑縺?〒」

 アスファルトで削られた体を引き摺りながらもなお、異形は漏れ出るような声を発した。延々と続く道には削れた血肉と長く引き摺られた臓物が地平線まで伸びていた。

「豁サ縺ォ縺溘¥縺ェ縺?シ」

 びくびくと体を痙攣させながら、私を見上げる異形は猿叫のような断末魔をあげると、汚ならしい音をたて地に伏した。だくだくと身体から漏れ出る血はねばつき、どす黒い。

 どうやったらこんなものが生まれるのだろう。一瞬だけ考え、気分が悪くなりやめた。

 とにかく、早く帰りたかった。温かいお風呂で体を癒したかった。柔らかい布団に包まれてとっぷりと眠りたかった。

 しかし、その手立てはない。連絡手段もなく、まわりには人とは思えない異形が蔓延っている。もう、心身ともにボロボロでなにもできる気がしなかった。

「誰か、助けて」

 つい、本音がポロリと溢れ落ちた。身体はもうカラカラでなにも考えられない。

 目の前に続く道の先は大きな太陽に飲み込まれ溶けていた。もう頼れるものはなにもない。だから無意識に太陽に向かって歩いていた。このまま私も溶けてしまおうか。希望も思考もなにもかも投げ捨てたときだった。

「あの、すみません」

 背後から私を呼ぶ声がした。

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夕焼けの町 鳳濫觴 @ransho_o

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