エピソード36
カラオケボックスの部屋に入ってもうすぐ3時間。
私はお腹が痛くなった。
室内に鳴り響く音楽。
楽しそうな笑い声。
……カラオケって楽しい!!
これがカラオケ初体験の私の感想だった。
部屋に入ってすぐはこの上なく緊迫していた空気。
私達がケンさんが出した条件に頷いた瞬間にその空気が一変した。
「よし!!これでこの話は終わりな!!」
今日の夜から一週間焼肉を食べられる事が決定したケンさんはご機嫌にそう言った。
ケンさんの言葉で私達3人の身体からは力が抜けた。
……良かった……。
今日の夜は焼肉に決定したけど、葵さんの“一週間毎日”に比べれば全然余裕だ。
緊張を解くように大きく息を吐き出す私を見て蓮さんが笑っていた。
その笑顔につられて私も笑った。
正座をしていた葵さんとアユちゃんも足を崩しケンさんやヒカルと楽しそうに笑っていた。
『お待たせしました~!!』
さっき部屋まで案内してくれた店員さんがトレーに6個のグラスを載せて部屋に入ってきた。
そのグラスをテーブルの上に置いていく。
ポケットからタバコの箱を取り出し一本銜えたケンさんが店員さんに話し掛けた。
「なぁ、追加注文なんだけど」
『はい!お伺いいたします』
「生ビール」
『おいくつお持ちしましょうか?』
「生、飲む奴~」
ケンさんの言葉に私以外の全員の手が上がった……。
……。
……あの……。
……まだお昼なんですけど……。
「美桜ちんは?」
全員の視線が一斉に私に集まった。
……なんか……。
この雰囲気で『飲まない』とか言えなくない!?
……だって、葵さんとアユちゃんの瞳が輝いてるし……。
みんなから注目された私は遠慮気味に手を上げた。
「生、6杯ね。それとツマミになりそうなのを適当に持ってきて」
『かしこまりました』
営業スマイルを残して店員さんは部屋を出て行った。
……さっきグラタンとケーキを食べて夜は焼肉……その上ビール。
間違いなく太るような気がする。
しかも、ケンさんはビールと一緒におつまみも注文してたでしょ……。
私がビールを飲んでたら間違いなく蓮さんは『食いながら飲め!!』ってまたお皿にたくさん載せるはず。
明日からダイエットしなきゃ!!
私は心の中で固く決心した。
運ばれてきた生ビールと数皿のお料理。
店員さんがそれをテーブルの上に並べて部屋を出た瞬間、ケンさんがビールのジョッキを持ち上げて大きな声を出した。
「お疲れ~!!」
その言葉で大騒ぎの大宴会は幕を開けた。
次々に入れられる曲。
どんどん追加注文される生ビール。
そんなに飲むつもりも歌うつもりもなかった私。
だけど、みんなの勢いにつられかなりの量のビールを飲み、いい感じに酔った私は葵さんやアユちゃんに誘われるがまま歌った。
カラオケに来るのは初めてだけど、聞いた事のある曲が流れ出すと私の口からは自然と歌詞が出てきた。
盛り上げ上手のケンさんのお陰でみんながマイクを順番に持ち、笑い声と曲が絶える事はなかった。
笑いすぎた私はお腹が痛くなってしまった。
それでも、笑いが止まる事はなく、ずっと笑い続けた私。
私だけじゃなくてみんなも楽しそうに笑っていた。
あっという間に過ぎた3時間。
最初は葵さんとアユちゃんと3人で来るはずだったカラオケ。
そこに突然乱入してきた蓮さんとケンさんとヒカル。
恐怖の時間になると思っていた3時間がとても楽しい3時間になった。
カラオケボックスを出る時には、このメンバーでカラオケに来れて良かったと心の底から思う事が出来た。
部屋を出た私達。
蓮さんとケンさんとヒカルが当たり前のように財布を片手に受付のカウンターに向かう。
私と葵さんとアユちゃんはお金を払おうとする3人の近くに立って話をしていた。
「楽しかったね」
「うん!!」
「また、みんなで来ようね」
カウンターの中にいる店員さんが金額を告げた。
その金額に私は思わず視線を向けてしまった。
カラオケに来るのは初めてだけど……。
だから、どのくらい掛かるのか分からなかったけど……。
そんなにお金が掛かるの!?
私の驚きを他所に表情を変える事無く蓮さんとケンさんとヒカルが財布からそれぞれが一万円ずつ出した。
……。
どう考えても店員さんが告げた金額よりもかなり多い。
お金を受け取ろうと手を出した店員さんもどのお札を取ればいいのか困ってる。
再び流れる沈黙。
聞こえるのは楽しそうに話す葵さんとアユちゃんの声。
「ヒカル」
その沈黙を破ったのは蓮さんだった。
「はい?」
「今日は俺とケンの奢りだ」
「……いや……いつも奢って貰ってるんで……」
困った表情のヒカル。
「当たり前だ」
ケンさんが真剣な表情で口を開いた。
「……?」
「俺達は働いてんだ。学生のお前から奢って貰ったら俺等が最低じゃねぇーか」
「……はぁ」
ケンさんにそう言われても出したお金を取ろうとしないヒカル。
そのお金を蓮さんが取ってヒカルの手の中に戻した。
「お前が学校を卒業して働き始めたら飯でも奢ってくれ」
そう言われたヒカルは蓮さんとケンさんの顔を交互に見た。
優しい笑みを浮かべてヒカルを見ている蓮さんとケンさん。
「分かりました。ありがとうございます」
ヒカルが軽く頭を下げた。
店員さんが蓮さんとケンさんが出したお札を手に取った。
そして、お釣りの小銭を返そうとした。
「それ、入れといて」
ケンさんが指差したのはレジの傍にあった募金箱。
「行くぞ」
蓮さんの声で楽しく話していた葵さんとアユちゃんが会話を止めた。
「ご馳走様でした!!」
アユちゃんの声で蓮さんとケンさんに向かってみんなが頭を下げた。
「おう」
「焼肉食いに行こうぜ!!」
ケンさんの張り切った様子にみんなが苦笑しながらカラオケボックスを後にした。
「ちょっと飲みすぎたね」
前を歩く蓮さんとケンさんとヒカル。
その後ろを歩きながらアユちゃんが言った。
「そうだね」
笑いながら答える葵さん。
「あの3人とカラオケに行くと、飲みに行くのと変わらないくらいお金使うもんね」
……はい?
「そ……そうなの?」
私の問い掛けに葵さんとアユちゃんが私の顔を見た。
「うん!!そうだよ!!」
「今日だって払ったお金の殆どがお酒代だもん」
……。
なるほど……。
だからあの金額なんだ。
私はやっと納得した。
私も今日はよく飲んだ方……。
飲んだって言っても中ジョッキ2杯だけなんだけど。
葵さんとアユちゃんは私より1杯多いくらい。
それでも、いつもより頬を赤く染めてふわふわと気分のいい私達。
前を歩く3人はどのくらい飲んだのかさえも分からない。
それなのにいつもと変わらずまっすぐ歩いているし顔色だっていつもと同じ。
聞こえてくる楽しそうな話し声だっていつもと全く変わりない。
……って事は、あれだけ飲んだのに全然酔ってないってこと!?
……一度身体の中がどうなっているのか見てみたい……。
そんな事を考えながらぼんやりと3人の後ろ姿を見ていた。
数歩前を歩く3人。
辺りは陽が傾き、昼の繁華街から夜の繁華街に変わろうとしていた。
制服姿で楽しそうにはしゃぐ学生、仕事帰りらしい人、足早に家路を急ぐ人、買い物袋を手に持つ人。
その中でチラホラと目に付く人達。
数ヶ月前までは“怖い人”というイメージだったその人達が今では“ここにいて当たり前”というイメージに変わった。
そう思えるようになったのは、蓮さんと出逢ってケンさんやヒカルやチームの男の子と接するようになってから……。
この時間になるとここに集まり始める若い子達。
その子達が前を歩く3人に向かって頭を下げ挨拶をする。
最初は私とは全く無縁で異質で違和感を感じていたその光景。
蓮さんと過ごす時間が増えるにつれてそれが当たり前の光景になってきた。
時間は確実にこの世界に私の居場所を作ってくれた。
一人で繁華街にいる時は、誰にも気付かれないようにと、ひたすら気配を消し、話し掛けられても視線を合わせる事も出来なかった。
そんな、私が今では大好きな人と友達に囲まれて笑いながら堂々と繁華街を歩いている。
“怖い”と思っていた人から頭を下げられ挨拶されて、笑顔で答える私。
数ヶ月前には想像すら出来なかった事。
もう、私は昔の私じゃない。
今だったら過去の壁を乗り越える事が出来るかもしれない……。
そう思っていた……。
そう信じていた……。
あの人の顔を見るまで……。
目の前を歩いていた3人の歩くスピードが微かに落ちた。
楽しそうな笑い声も話し声も聞こえてこない。
……?
私は何気なく周りを見回した。
そして、すぐに気が付いた。
歩道のど真ん中を歩いている私達。
その私達に向けられる視線。
歩道と車道を仕切るガードレールに腰を下ろしている若い男。
見た目は蓮さんやケンさんとあまり変わらないくらいに見える。
その男を取り囲むよう立つ数人の男達。
その男達の視線は私達の前にいる3人に向けられている。
突き刺すような鋭い視線。
その瞳にあるのは、信頼や羨望や興味じゃない……。
あるのは、恨み、怒り、敵対心……。
この視線はあの日の視線と同じ。
ケンさんやヒカルと初めて会った日。
一緒に焼肉を食べた後に路地で待ち伏せしていた男達と同じ。
この人達はケンさんのチームの男の子じゃない。
蓮さんやケンさんやヒカルの事をよく思っていない人達。
……間違いない……。
敵対しているチームの人達だ。
私の身体は小さく震えた。
今まで楽しそうに話し込んでいた葵さんとアユちゃんも異変に気付いたようで心配そうな表情を浮かべていた。
吸っていたタバコを足元に落とした蓮さんが隣にいるケンさんに何かを耳打ちした。
蓮さんに向かって小さく頷きなにか言葉を発したたケンさん。
蓮さんは、ヒカルの肩を軽く叩いた。
ヒカルは蓮さんに向かってニッコリと微笑んだ。
それを見た蓮さんの身体が半回転した。
そのまま、ケンさんとヒカルの間を離れ私達の傍までやって来た。
何度か感じた事のある空気。
何度経験しても慣れる事はなく不安感に襲われる。
この空気はいつも突然やってくる。
何の前触れもなく……。
今まで楽しそうに笑い、話していたはずのケンさんとヒカル。
蓮さんが私達の前で足を止めた。
その所為で私達の足も止まる。
振り返ったケンさんが何かを確認するように私達に一瞬視線を向けた。
ケンさんの表情はいつもの無邪気で優しい顔ではなかった。
……その表情は明らかにチームのトップの顔だった……。
再び視線を前に向けたケンさん。
「……ケン……」
小さな声で葵さんが呟いた。
ヒカルを見つめるアユちゃんの表情も不安感でいっぱいだった。
「葵」
蓮さんが声を掛けた。
「なに?蓮くん?」
「悪ぃーけど、アユと一緒にそこのコンビ二でケンとヒカルのタバコ買ってきてくれねぇーか?」
蓮さんが、すぐそこのコンビ二を指差した。
「えっ!?」
驚いた表情の葵さん。
……分かる……。
蓮さん、それって今行かないと行けないの!?
今から何が始まるかを理解している葵さんとアユちゃん。
ただでさえ心配で堪らない上に、その当事者は自分達の彼氏。
心配だけど気になって仕方がないはず……。
私は蓮さんと葵さんとアユちゃんを交互に見た。
「分かりました。蓮さん」
アユちゃんが蓮さんににっこりと微笑んだ。
「悪ぃーな、アユ」
「いいえ、行こう!葵!!」
アユちゃんは葵さんの手を引いてコンビニに入っていった。
その後ろ姿を見つめながら私は蓮さんに尋ねた。
「ねぇ、蓮さん」
「うん?」
「その買い物って今必要なの?」
「あ?」
「葵さんとアユちゃんに頼んだ買い物って今行かないといけないの?」
不思議そうな表情で私の顔を見つめていた蓮さん。
少しの間の後、蓮さんは私の言いたい事を理解してくれたらしく頷いた。
「あぁ、必要だ」
「タバコが?」
「タバコじゃなくて、葵とアユがこの場を離れる事がな」
「……?」
今度は私が首を傾げる番だった。
「彼氏のケンカしてるところなんて見たくねぇーだろ?」
蓮さんがポケットからタバコを取り出し火を点けた。
「吸うか?」
蓮さんが私にタバコを勧めるときは、私の注意を逸らしたい時……。
ケンさん達と私達の間には距離がある。
視線を動かせば視界には入るけど、会話までは聞き取りにくい……。
しようと思えば視界に入れない事も出来る。
だけど、ケンさんとヒカルの事が気にならない筈がない。
蓮さんと話しながらも私の視線は蓮さんの顔とケンさん達の様子を伺うように慌しく動いていた。
多分、蓮さんはそんな私の注意を逸らしたいんだと思う。
「……うん」
私が頷くと蓮さんが銜えていたタバコを親指と人差し指で挟んで口から離した。
目の前に差し出されるタバコ。
私はそのタバコを銜えた。
煙を吸い込むと蓮さんの指が私の口からタバコを離した。
「……もう、おしまい?」
「あぁ」
蓮さんはタバコを再び銜えると切れ長の漆黒の瞳を細めて、私の頭を優しく撫でた。
本当は、『もっと吸いたい!!』って言いたいんだけど……。
そんな優しい顔されたらわがままなんて言えないじゃん……。
諦めた私はタバコの煙をゆっくりと吐き出した。
「ケンやヒカルだって同じだ」
「えっ?」
「人を殴っているところなんて自分が大事にしている女に見られたくねぇーんだよ」
「そうだよね」
「あぁ」
もしかしたら、葵さんとアユちゃんをコンビニに行かせたのは、ケンさんとヒカルだったのかもしれない。
それは、2人の優しさ。
自分が大切にしている女の子を不安にさせたくないという優しさなのかもしれない。
いつもと変わらない表情の蓮さん。
そんな蓮さんを見て私は違和感があった。
蓮さんはここにいてもいいのだろうか?
ケンさんとヒカルが相手の人数なんて関係なく優勢なのはここから見ても一目瞭然。
だけど、蓮さんの性格を考えたらあそこで一番暴れていてもおかしくない。
「蓮さんは参加しなくてもいいの?」
「こいつらは、ケンのチームと敵対しているチームの奴らだ。俺が手を出していい相手じゃねぇーよ」
「敵対?」
「あぁ、この近くにそのチームの溜まり場がある」
「じゃあ、今日顔を合わせるって分かってたの?」
「ん?まぁーな、確定じゃねぇーけど時間的にこの辺にいるって事は分かってた」
「……もしかして……」
「ん?」
「蓮さん達がカラオケボックスに来たのって……」
私の質問に蓮さんが答える事は無かった。
その代わりに、蓮さんは優しい笑みを浮かべた。
その笑みが答えなんだ。
蓮さんが私を守るって言ってくれたのは口先だけじゃない。
蓮さんはいつも、私を守ってくれている。
私は心の中が温かくなる様な感覚を感じた。
「待たせちまって悪ぃーな」
その声に振り返ると、いつもと変わらない無邪気な笑顔のケンさんと、冷静な表情のヒカル。
「終わったか?」
「あぁ、楽勝」
さっきまでケンさん達がいた所には、大きな人集りが出来ていて、その中の様子は分からない。
「後片付けは?」
「今、チームの奴らが頑張ってる」
……確かに……。
人集りの中心からは若い男の子の声が聞こえている。
いつの間に来たんだろう?
「葵とアユは?」
ケンさんの質問に蓮さんがコンビニを顎で指した。
「ヒカル、迎えに行こうぜ」
「はい」
「蓮、今まで待ったついでにもう少し待っててくれるか?」
「あぁ」
「悪ぃーな」
「美桜ちんもごめんね」
申し訳なさそうな表情のケンさん。
「大丈夫!!」
私が答えるとケンさんはニッコリと微笑んでヒカルと一緒にコンビニに向かった。
その後ろ姿を見送っていると一組の親子連れが視界に入った。
お母さんらしい女の人と、その人に手を引かれている小学生くらいの男の子。
手には買い物帰りらしく紙袋が提げられていた。
繁華街ではよく目にする光景。
いつもなら、気になることも無い。
……だけど……。
その女の人を見た私の身体は強張った。
……ここで会う訳が無い……。
必死で自分に言い聞かせる。
……でも……。
ここにいても不思議じゃない。
その時、その人が私の方を見た。
それは偶然だったと思う。
人混みの中で視線を動かした先にたまたま私がいただけ……。
絡み合う視線。
その人の表情が強張っていくのが分かる。
……見たくない……。
頭では分かっているのに身体が言う事を聞いてくれない。
心臓の動きが苦しいくらいに早くなって、背中には冷たい汗が流れる。
指先が冷たくなって、小刻みに震える。
間違う筈がない。
今、私の目の前にいるのは正真正銘……。
私の母親だった……。
「美桜?」
異変に気付いた蓮さんが私の名前を呼んでいる。
すぐ傍で発せられたその声でさえも遠く感じる。
「どうした?」
蓮さんが腰を曲げ私と同じ目線になって、私の視線の先を見る。
私の視界に映っている人を見た瞬間、蓮さんの周りの空気が張り詰めたのが分かった。
「美桜」
蓮さんの腕が肩にまわされ私を力強く引き寄せた。
その力強さで、やっと私は現実に引き戻された。
「……蓮さん……」
私は、恐る恐る蓮さんの顔を見上げた。
「大丈夫だ」
私を見つめる漆黒の瞳。
「お前がイヤならここから離れてもいい」
力強く、自信に満ち溢れた瞳。
「選ぶのはお前だ。どうしたい?」
その瞳には優しさが溢れていた。
もう一度視線を動かすと、私の方に向かって歩いてくる女の人。
その瞳に昔のような冷たさはない。
……あるのは、驚きと動揺だけ……。
……今、逃げたら私は一生壁を乗り越える事が出来ない……。
私は一人じゃない。
私の隣には蓮さんがいてくれる。
「美桜」
低くて優しい蓮さんの声。
私は小さく深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
それから、蓮さんの顔を見て口を開いた。
「大丈夫」
私の顔を見つめている蓮さん。
漆黒の瞳が細くなり、蓮さんが優しく笑ってくれた。
「美桜」
「うん?」
「俺はここにいる」
「うん」
「お前は一人じゃない」
「うん」
「一人で頑張るんじゃねぇーぞ」
「うん!!」
その言葉が嬉しかった。
その言葉だけで強くなれるような気がした。
私は、視線を移した。
少しずつ縮まっていく距離。
その人の顔をまっすぐに見つめる。
私の記憶の中にある顔より少しだけ歳をとったように見える。
……当たり前か……。
最後にこの人と会ったのは、児童相談所だった。
あの日から確実に時間は経っている。
私だってこの人の記憶の中の私とは違うはず……。
それなのに、お互いをお互いだと分かるのは、私達がそっくりな茶色い瞳だから……。
ゆっくりと近付いて来たその人が、私の目の前で足を止めた。
「……久しぶりね……」
私が覚えているこの人の声は、甲高い怒鳴り声。
だけど、今は戸惑いを隠せない声。
「……うん」
その人は、私の隣にいる蓮さんに視線を向けた。
「ご無沙汰しています。先日はありがとうございました。美桜がお世話になっています」
蓮さんに向かって深々と頭を下げた。
「いいえ、こちらこそ」
丁寧に答えた蓮さん。
だけど、その声はいつもの優しい声じゃなかった。
冷たくて無感情な声。
その声を聞きながら私は視線を感じた。
そっちを見ると私を見上げるようにして首を傾げて不思議そうな表情を浮かべている男の子。
その男の子を見てすぐに分かった。
……私の弟だ……。
その子の瞳も私とそっくりな茶色い瞳だった。
「蓮!!」
突然、聞こえた聞き慣れた大きな声。
「なんかあったのか?」
いつもとは違う私達の空気を察知したケンさんが立っていた。
その後ろには心配そうな表情を浮かべたヒカルとアユちゃんと葵さん。
「なんでもねぇーよ」
蓮さんが答えた。
「そうか?」
蓮さんの言葉を聞いても納得していない様子
のケンさんが私達の前にいる女の人と男の子に視線を向けた。
その瞬間、ケンさんの表情が変わった。
ケンさんが蓮さんからどこまで私の話を聞いているのかは分からない。
……だけど……。
この人達の瞳はあまりにも私に似過ぎている。
私の顔を知っていればこの人達が赤の他人じゃないって分かるはず……。
その証拠にケンさんもヒカルも葵さんもアユちゃんも驚いたように見つめている。
「ケン」
「な……なんだ?」
「悪ぃーけど先に行っててくれるか?」
「あ……そうだな。分かった。いつもの店にいるから」
「あぁ、分かった」
「行くぞ」
そう言ってケンさん達はその場を離れた。
ケンさん達がいなくなると再びその場に静けさが訪れた。
周りを行き交う人達の声が別世界から聞こえてくる声のように感じる。
何を話せばいいんだろう……。
今まで会うこともなく別々に生活していたこの人に今更話したいことなんか何もない。
目の前にいるこの人だって私に話す事なんてないんだろう。
困ったような表情を浮かべている。
流れる沈黙の中、場の空気を感じた男の子が不安そうに隣にいる女の人の洋服を握り締めて、身を寄せた。
それに気付いた手が小さな背中を優しく撫でた。
男の子が嬉しそうに隣の人を見上げた。
それを見ていた私の口が咄嗟に言葉を発した。
「私は、今幸せだから……」
「えっ?」
突然、言葉を発した私に驚いた様子で視線を向ける二人。
……多分、蓮さんも私を見つめている。
笑わなきゃ……。
私は、必死で笑顔を作る。
「今、とても幸せなの」
「……そう」
……私はちゃんと笑えているのだろうか。
「だから、心配しないで」
「……」
「あなたも幸せになってください」
……これ以上は無理……。
「蓮さん、行こう」
私は蓮さんの洋服を引っ張った。
この場にいるのも、この人の顔を見るのも、笑顔を作るのも限界だった。
隣にいる蓮さんの顔を見上げる。
私の顔を見た蓮さんの瞳が悲しく辛そうに揺れた。
「失礼します」
蓮さんが頭を下げた。
なにか言いたそうなその人から私は視線を逸らした。
私は蓮さんに肩を抱かれたまま歩き出した。
一歩足を踏み出すごとに離れていくあの人との距離。
溢れそうになる涙も気持ちも言葉も……。
その全てを私は飲み込んだ。
これでいいんだ。
自分にそう言い聞かせながら……。
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