エピソード37
しばらく黙って歩いていた蓮さんが足を止めた。
「美桜、大丈夫か?」
……笑わなきゃ……。
「全然大丈夫!!」
ちゃんと笑えてるかな?
「美桜……」
「蓮さん!お腹空いたね。早く行かないとケンさん達、待ちくたびれてるよ。急ごう!!」
私は蓮さんの言葉を遮った。
……大丈夫……。
私は全然平気。
何度も頭の中で繰り返して自分にも言い聞かせる。
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言葉を遮った私に蓮さんは一瞬表情を変えたが、すぐにいつもと同じ優しく穏やかな笑顔に戻った。
「あぁ、そうだな」
それからの私の記憶は曖昧にしか残っていない。
別に酔った訳でも意識を無くした訳でもない。
私と蓮さんは、ケンさん達が待つ焼き肉屋さんに向かった。
ケンさんと初めて会った日に行った焼き肉屋さん。
やっぱり奥の個室にいたケンさん達。
個室の襖を開けた蓮さんと私に視線が集まった。
心配そうに見つめるみんなに私は精一杯笑って見せた。
みんなの表情が安心したように変わった。
私は先に座った蓮さんの隣に腰を下ろした。
ケンさんが注文してくれた生ビールを喉に流し込み、蓮さんがお皿に載せてくれたお肉をひたすら食べた。
だけど、その味は一切分からなかった。
葵さんやアユちゃんと話して大笑いした。
息が出来ずお腹を抱えて笑ったけど、どんな話しをしたのか覚えていない。
時々、私を見つめる蓮さんと目が合った。
その度に優しく微笑んでくれた蓮さん。
その瞳だけは記憶にはっきりと残った。
たくさん食べてたくさん飲んだのに、満腹感もふわふわとした心地良さも感じない。
テーブルの上に並んでいた大量のお肉が無くなりみんなの顔が満足そうになった時、ケンさんが提案した。
「よし!!今からクラブに行くか!!」
みんながその提案に頷きクラブ行きは決定した。
……ただ1人……。
蓮さんだけが手元のタバコを見つめていた。
先にお店を出た私と葵さんとアユちゃん。
会計を済ませる為に残ろうとしたヒカルは再び蓮さんとケンさんに言われて私達と一緒にお店から出された。
ほろ酔い気味の葵さんとアユちゃんのテンションは最高潮で会話も笑いも途切れる事が無かった。
それが私にはとても楽だった。
会話の内容は頭に入ってこないけど、みんなに合わせて何も考えずに笑っていればいい。
今日はこのままみんなと大騒ぎしてぐっすりと眠ろう。
そうすれば、明日はまた笑えるはず……。
時間が経てばこの溢れそうな気持ちも涙も叫びたい言葉も消えるはず……。
……そう思っていた……。
お店のドアが開き支払いを終えた蓮さんとケンさんが出てきた。
「ご馳走様です!!」
一斉に飛び交う言葉。
その言葉に蓮さんとケンさんが笑顔で答えた。
いつもと同じように蓮さんが私の肩に手をまわし抱き寄せた。
そして、言った言葉に耳を疑った。
「お先に」
「えっ!?」
その言葉に驚いているのは私だけじゃない。
葵さんやアユちゃんも「えっ!?美桜ちゃん達行かないの?」と不思議そうな顔をしている。
「美桜ちん」
ケンさんに名前を呼ばれた私はそっちに視線を向けた。
「また、一緒に遊ぼうね!!」
いつもと変わらない口調。
だけど、ケンさんの瞳は真剣だった。
「……うん」
頷いた私を見てケンさんは嬉しそうに笑った。
その光景をヒカルや葵さんやアユちゃんは黙って見ていた。
この時、みんなは気付いていたのかもしれない。
私が一生懸命笑っていたことに……。
必死で笑おうとしていたことに……。
ケンさん達と別れた私と蓮さんはまっすぐとマンションに帰った。
蓮さんは何も話さない。
私もなにも話さない。
ただ蓮さんの温もりを感じながら歩いていた。
焼き肉屋さんからさほど遠くないマンション。
リビングに入ると蓮さんは私をソファに座らせて暖かいレモンティーを淹れてくれた。
差し出されたカップから温もりが伝わってくる。
その温もりは冷えきった心まで暖めてくれるような気がした。
隣に座った蓮さん。
蓮さんが持つカップからはコーヒーのいい香りが漂ってくる。
この部屋は居心地がとてもいい。
見慣れた家具も使い慣れた食器も、その全てが私の気持ちを落ち着かせてくれる。
そして、なによりも隣に蓮さんがいてくれる事で私は安心できる。
一口、レモンティーを口に含むと、優しいその味に身体から力が抜ける。
力が抜けるとともに涙がこみ上げてくる。
あの人と別れてからずっと我慢していた涙。
飲み込めるはずだった。
飲み込んで忘れるはずだった……。
……ダメ……。
……今、泣いちゃダメ……。
私は必死で涙を我慢した。
その瞬間、頭に温もりと心地いい重みを感じた。
「一人で頑張るなって言っただろ?」
「……」
「何の為に俺が傍にいるんだ?」
「……」
「無理して笑わなくてもいい」
「……」
「言いたい事を我慢する必要なんてねぇーんだ」
「……」
「泣きてぇーなら泣いてもいいんだぞ?」
低くて優しい声。
穏やかで静かな口調。
その言葉は私の心の中に開いた隙間を埋めるように染み込んできた。
視界が霞んで、何かが頬を伝わる感触がした。
一度零れ落ちると、次から次に溢れ、それは重力に逆らう事なく、穿いているショートパンツにシミを作っていく。
頭の上にある蓮さんの手が、私の頭を自分の胸に引き寄せた。
蓮さんの胸は灯りを遮り、私の視界を奪った。
暗い世界で聞こえてくる規則正しい鼓動と、私の全身を包み込む温もり。
その感覚は私を安心させてくれた。
小刻みに震える背中をゆっくりと往復する大きな手。
その手は私が飲み込んだモノを吐き出させるように動き続いた。
……涙も……。
……気持ちも……。
……言葉も……。
時間が経ち、頬に残った涙の跡が冷たくなった頃、私を胸に抱いたまま蓮さんが静かに口を開いた。
「なぁ、美桜」
「うん?」
「お前、お袋さんになんか言いたい事があったんじゃねぇーか?」
「……言いたい事はない」
「そうか」
「うん」
「じゃあ、なんかあの二人を見て感じた事がねぇーか?」
「……」
「あるよな?」
……なんで、蓮さんには分かってしまうんだろ?
そんなに私は分かり易いのかな?
蓮さんには、敵わない。
「……あるけど……」
「けど?」
「……言えない」
「なんで?」
「……醜いから」
「醜い?」
「うん」
私の気持ちは醜い。
私が飲み込んだ気持ちと言葉は、私の心の暗い部分。
そんな私を見せたくない……。
……だから言えない……。
私は再びその気持ちを飲み込もうとした。
「俺は知りたいけどな」
「えっ?」
「なぁ、美桜。お前、勘違いしてねぇーか?」
「勘違い?」
「俺がお前に『愛してる』って言うのは上辺だけの事だと思ってるのか?」
「……」
何も答える事が出来なかった。
そんな事はないって思いたい。
だけど自信がない……。
何も答える事が出来ない私の耳に蓮さんの大きな溜め息が聞こえた。
……蓮さんが呆れてる……。
「……ごめんなさい……」
「なんで謝るんだ?」
「私が答えられなかったから……」
「お前が答えられなかったのは俺がちゃんと伝えてなかったからだ」
「……」
「あのな、美桜」
「……?」
「良い所も悪い所も全部ひっくるめて美桜なんだ。分かるか?」
「うん」
「美桜の事を愛してるっていう事は良い所も悪い所も全てって事だ」
「俺はどんな美桜でも、引いたりしねぇーし、受け入れる事が出来る」
「……ありがとう」
「それに……」
「うん?」
「本当は吐き出すべき気持ちずっと吐き出さねぇーでいると、どんどん醜くなっていくぞ」
「そうだね」
蓮さんが言う通りだと思った。
私が自分の気持ちを飲み込む度に心の中の黒い塊が大きくなっているような気がする。
「ゆっくりでいい。話せるか?」
「……うん……」
私が頷くと再び蓮さんの大きな手が背中を撫で始めた。
私は小さく深呼吸をして口を開いた。
「私は、あの人と一緒にいた男の子に嫉妬をしたの」
「嫉妬?」
「そう、あの人の手が男の子の背中を優しく撫でて、抱き寄せてた」
「あぁ」
「……私には一度もしてくれなかったのに……」
「うん」
「私はあの人の手から痛みと悲しみと辛さと一生、消える事のない傷しか貰った事がない」
「そうだな」
「あの子と私には半分同じ血が流れてるはずなのに……。同じ瞳なのに……。どうして、与えられるモノはこんなに違うの……」
「そうだな」
「最低でしょ?」
「うん?」
「自分の弟に嫉妬するなんて……」
「そんな事ない。俺がお前の立場でもそう思う」
「……」
「なぁ、美桜。もし叶うならお前はお袋さんに何をして貰いたい?謝って欲しいか?」
私は首を横に振った。
「今は何もして欲しくない。でも……」
「でも?」
「……あの子にしたように優しく背中を撫でて欲しかった……」
「あぁ」
「……あの子にしたように私が不安な時には抱き寄せて欲しかった」
「あぁ」
「……優しい瞳で見つめて欲しかった」
「うん」
「『愛してる』って言って欲しかった……」
「……美桜……」
私の瞳から再び涙が零れた瞬間、蓮さんの腕に力が込められた。
「俺が全部してやる」
「……蓮さん……」
「俺はお前の母親にはなれない。でも、お前が望む事は全部する」
私の口からは言葉が出てこない。
話そうとしても、泣いた所為で乱れた呼吸と嗚咽に邪魔をされてしまう。
「俺じゃお前の傷を癒やす事は出来ないか?」
……言わなきゃ……。
「……蓮……さん……」
「うん?」
「蓮さんは……いつも私が望む事を……してくれてるよ。だから……」
「……?」
「……私はもう大丈夫」
「……美桜……」
心配そうな蓮さんの声。
「私は、一人だった頃の私じゃない」
「あぁ」
「……それに……」
「なんだ?」
「ずっと心に閉まっていた事を話せたから、楽になった」
それは、強がりなんかじゃない。
今まで、誰にも話せなかった。
誰にも言いたくなかった。
心の中に想いがあったのに気付かない振りをしてた。
だけど、言葉にして吐き出したら心が軽くなったような気がする。
蓮さんに話して、私も自分の気持ちを認める事が出来た。
さっきまでの苦しみがウソのように清々しい気分の私がここにいる。
……今しかない……。
心の傷を癒やす事が出来た私は、もう一つの傷を癒やす必要があった。
過去と母親の壁を乗り越えるチャンスは今しかない。
それが正しいのか間違っているのかは分からない。
だけど、私にはそれしか思いつかない。
蓮さんが賛成してくれるか反対するのかも分からない。
どちらかと言えば反対される確率の方が高いかもしれない。
……もし、反対されたらどうしよう……。
蓮さんに反対される事を考えると、せっかく伝えようと決意した事でさえ、躊躇ってしまう。
……蓮さんなら……。
話せば分かってくれるはず……。
私はその言葉を信じて口を開いた。
「……ねぇ、蓮さん……」
「うん?」
ゆっくりと蓮さんの胸から顔を上げた。
部屋の明かりがとても眩しく感じる。
瞳が色を取り戻すまで少し時間が掛かった。
色を取り戻した視界に映ったのは私を見つめる蓮さんの優しい顔。
漆黒の瞳を見つめながら私は言葉を紡いだ。
「……決めた事があるの……」
「……?」
「実は……」
私はゆっくりと言葉を選びながら蓮さんに伝えた。
黙って私の話を聞いていた蓮さん。
最初は優しく穏やかな表情で私を見守るように聞いていた蓮さんの表情が一変した。
蓮さんのそんな顔を見たことは一回しかない。
それは出逢ってすぐの頃。
私が蓮さんの刺青を初めて見た時。
蓮さんがヤクザだと知った日。
あの時の蓮さんは、今と同じような顔をしていた。
流れる沈黙は想像していた事。
私が決意した事は、蓮さんが「そうか」とふたつ返事で賛成してくれるような事じゃない。
そう決意した私自身、すぐに決めれた事じゃない。
ここ数ヶ月、たくさん考えて、いっぱい悩んで決めた事。
だから、蓮さんがすぐに賛成出来ないことも分かっていた。
しばらく、宙を見て何かを考えていた蓮さん。
その瞳はとても真剣だった。
そんな、蓮さんを私は見つめていた。
自分の気持ちは全て伝えた。
後は、蓮さんの意見を聞くだけ。
私は、蓮さんの言葉を待っていた。
宙を見ていた蓮さんの視線が私の瞳に向いた。
蓮さんが口を開く事が分かった私の身体に緊張が走った。
「もう、決めた事なのか?」
「うん」
蓮さんの瞳が悲しそうに揺れた。
その瞳を見て私は胸が痛くなった。
「美桜の人生は、美桜のモノだ。俺のモノじゃない」
「……うん」
「お前が決めた事なら俺は反対しない」
「……蓮さん……」
「十分、悩んで決めたことなんだろ?」
「うん」
「それなら、いい。美桜が心の底から笑えるようになるなら反対する必要がねぇーよ」
「蓮さん、ありがとう」
「あぁ、だけどな……」
「……?」
「それを実行するのは、3年後だ」
「えっ?」
「美桜が聖鈴の高等部を卒業した時に、今と同じ気持ちだったら俺は反対しないから、そうしたらいい」
「……」
……3年後……。
蓮さんが賛成してくれたら明日にでも実行に移そうと思っていた私は、蓮さんが出した条件には頷けなかった。
「3年間、待てねぇーか?」
「……」
「なぁ、美桜」
「……うん?」
「焦らなくてもいいんじゃねぇーか?」
「えっ?」
「人生ってさ、先の事は誰にも分からないだろ?」
「うん」
「今、お前がそうしたいと思ってる事も時間が経てば気持ちが変わるかもしれない。そうなった時に後悔して欲しくねぇーんだ」
「……うん」
「お前がしようと思っている事と同じ事をして後悔した奴もたくさんいる」
……確かに……。
蓮さんの言う通りなのかもしれない。
もし、いつか自分が決めた事に後悔する事があるかもしれない。
自分で決めた事に後悔はしたくない。
私は焦っているのかもしれない。
ちょっとでも過去を本当の過去にするために……。
私に今、必要なのは決意を実行に移すことじゃなくて“時間”なのかもしれない。
自分を見つめ直す時間。
……3年後……。
今より少しだけ大人になった私が、今と同じ決断をしたら、その時が実行に移す時なのかもしれない……。
「……分かった」
真剣な表情で私に視線を向けていた蓮さんの表情が緩んだ。
穏やかな表情で、優しく私の頭を撫でてくれる蓮さん。
大きな手が与えてくれるのは、大きな安心感。
私は全身から力が抜けていく感覚を感じた。
「なぁ、美桜」
「うん?」
「先の事は分かんねぇーけど、3年後お前が卒業して過去の壁を完全に乗り越えて、その時も今と変わらずお前の隣に俺がいたら……」
「……蓮さんが隣にいてくれたら?」
蓮さんは、一瞬、瞳を閉じた。
……?
再び蓮さんの瞳が開いた。
私を見つめる漆黒の瞳。
力強く、自信に満ち溢れた瞳。
優しく、穏やかな瞳。
「結婚しようぜ」
蓮さんの言葉を聞いた瞬間、私の瞳から涙が零れた。
この涙は辛く悲しい涙なんかじゃない。
その涙を蓮さんの長い指が拭ってくれる。
私は精一杯の笑顔で頷いた。
「うん!!」
蓮さんが嬉しそうに笑った。
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