エピソード35

私は忘れていた……。

数日前の出来事なのに……。

沖縄での蓮さんとの想い出にすっかり占領されていた私の頭の中から、抜け落ちてしまっていた。


月曜日の朝いつもと同じようにマサトさんが運転する黒い高級車で学校まで送ってもらった。

昇降口の真ん前が定位置になった黒い高級車の停車場所。

そこで車を降りようとしたとき蓮さんが言った。

『今日、話し合いだから学校が終わったら連絡してくれ』

お仕事の話し合いだと勝手に解釈した私は、話し合いの相手が誰かも、それがどこであるのかさえも聞かなかった。

『うん、分かった!!』

私が頷くと蓮さんが笑顔で私の頭を撫でた。

『行って来い』

『行ってきます!!』

車を降りた私は蓮さんに手を振り、マサトさんにお礼を言ってから昇降口に向かった。

私が昇降口の中に入ってしばらくして遠ざかっていく車のエンジン音。

その音を聞きながら上履きに履き替えていると誰かが私の肩を叩いた。

「おはよう!!美桜ちゃん!!」

聞き覚えのある声に振り返ると、そこにいたのは……。

「葵さん!?アユちゃんもどうしたの!?」

どうしてこの二人がここにいるんだろう?

高等部は校舎が違うのに……。

休み明けだから間違えたのかな?

葵さんとアユちゃんは顔を見合わせてニッコリと微笑んだ。

……?

「美桜ちゃん、メール見た?」

……メール……。

……。

……そう言えば!!

今日は月曜日だ!!

……でも……。

なにがあるんだろう?

「葵さん、アユちゃん今日なにかあるの?」

「うん!あるよ!!」

ニッコリと笑みを浮べているアユちゃんに代わって葵さんが答えてくれた。

「なにがあるの?」

「前、約束していたこと覚えてる?」

「約束?」

……。

なんだっけ?

なんか約束してたかな?

私は必死で記憶を辿った。

……。

……。

……もしかして!!

一つだけ心当たりがある。

でも……。

まさかね?

「思い出した?」

「……一つだけしか心当たりがないんだけど……」

「なに?」

葵さんとアユちゃんが瞳を輝かせて私の顔を見つめている。

……もしかして、すごく期待されてる?

これって間違えられないんじゃない?

間違えると葵さんとアユちゃんが豹変するとか?

「……ご飯食べに行く約束?」

私は、恐る恐る答えた。

「美桜ちゃん、大正解!!」

葵さんとアユちゃんが頭を撫でてくれた。

……よかった……。

なんとか豹変だけは免れたみたい……。

怖かった……。

この恐怖感に比べれば食事にいくくらい……。

食事!?

このメンバーで!?

私の脳裏には一瞬で恐怖の映像が映し出された。

繁華街を歩く私達3人とその周りに溢れかえる“ガラの悪い”男の子達。

……。

……怖すぎる……。

「葵さん、アユちゃん……」

「どうしたの?美桜ちゃん?」

「……怖すぎない?」

「怖い?」

不思議そうな表情の葵さんとアユちゃん。

「もしかして!!」

アユちゃんが何かに気付いたように口を開いた。

「アユちゃん、なに?」

首を傾げながら葵さんがアユちゃんを見た。

「美桜ちゃん、蓮さんと別で繁華街に行った?」

「……うん」

「やっぱり」

納得したように頷いたアユちゃん。

「だから、なにが怖いの?」

葵さんがアユちゃんの腕を引っ張った。

「警護だよ。ねっ?美桜ちゃん」

「……うん」

「……警護?……あぁ!!警護に怯えてるんだ!!」

葵さんが納得したように私の顔を見た。

「今日は大丈夫なんだよ!!」

「……え?」

……『今日は大丈夫』って……。

どういう意味!?

「今日はケンもヒカルも忙しいからね」

葵さんとアユちゃんが意味有り気に笑みを浮べた。

「忙しい?」

「うん。今日はチームの幹部会があるの」

「幹部会?」

「そう、ケンさんはもちろんヒカルやB-BLANDのメンバーも参加の話し合いだからチャンスなんだよ」

「……チャンスって……」

「繁華街の見廻りが手薄になるから今日しかチャンスはないんだよ!!」

「そ……そうなんだ」

「蓮さんも参加する筈だけど、何も聞いてない?」

……。

……あっ!!

「……今日、話し合いがあるって……」

「でしょ!!」

“話し合い”ってお仕事じゃなくて、ケンさんのチームの話し合いだったんだ……。

……ん?

ちょっと待って!!

「なんで、蓮さんが幹部会に参加するの?」

「うん?」

「チームの幹部会でしょ?」

「そうだよ」

「蓮さんって引退してるよね?」

「今日の幹部会は毎年一年に一回ある幹部会なんだけど、蓮さんは先代のトップとしてじゃなくて組の代表として出席するんだよ」

「組の代表……」

「ウチのチームが蓮さんの組にお世話になってるのは知ってるよね?」

「うん」

アユちゃんの説明によると、ケンさんのチームのバッグについているのが、組長の組で、組長から繁華街とチームの事を任せられているのは蓮さんだから、蓮さんが今日の幹部会に参加するらしい……。

……なるほど……。

そういうことか……。

私は納得した。

「美桜ちゃん、今日のお迎えは何時?」

葵さんが首を傾げた。

「蓮さんの話し合いが遅くなるかもしれないから、学校が終わったら連絡しろって言ってた」

「やっぱり、チャンスだ!!」

葵さんとアユちゃんの瞳が輝いている……。

「……この事は、ケンさんやヒカルは知ってるの?」

「「知ってるはずないじゃん!!」」

……。

……それって……。

……かなりヤバイんじゃないの?

「大丈夫だよ!!」

「……はぁ?」

……一体なにが?

「夕方の17時までは大丈夫!!」

「……?」

「幹部会は9時から17時までだから、その間にバレなければ大丈夫!!」

……『バレなければ』って……。

私達が3人でいたらすぐにバレると思うんだけど……。

「美桜ちゃん」

「えっ?」

「今日は一日私達に付き合ってもらうから!!」

「……はい?」

「美桜ちゃんの為に楽しい計画を考えてるから!!」

……楽しい計画……。

それがケンさんやヒカルにばれたら恐怖の計画になるんじゃ……。

「……あの……」

「なぁーに?」

「この事を蓮さんに報告とかしたら……ダメだよね?」

「ダメ!!」

……やっぱり……。

……困った。

ものすごく困った。

もし、蓮さんにこの事がバレたら、蓮さんは確実に閻魔大王に変身してしまう……。

それは、本当に勘弁なんだけど……。

それよりも今、目の前にいるこの二人に逆らわない方がいい気がする……。

私は小さく深呼吸をして気合を入れた。

「行く!!」

「「良かった!!」」

葵さんとアユちゃんが嬉しそうな笑みを浮べた。

「よし、そうと決まったら早速行こうよ!!」

「……えっ!?今から!?」

「うん!!タイムリミットは17時なんだよ!!それまでにたくさん遊ばないと!!」

「う……うん」

「それに……」

「それに?」

「私達、目立ってるから……」

「……?」

アユちゃんの言葉に辺りを見まわすと……。

登校して来た中等部の生徒達が少し離れた所から私達に興味の視線を向けている。

……そうだった……。

葵さんもアユちゃんも有名人だったんだ……。

「行こう!!美桜ちゃん!!」

「う……うん」

私は履き替えたばかりの上履きを脱いで再び靴を履いた。

昇降口を出ると両サイドから葵さんとアユちゃんにガッチリと挟まれた私。

二人に連行されるような形で私達は足早に裏門に向かった。

校舎の裏側に行くと生徒の姿も殆どない。

裏門には、鍵が掛かっていた。

「これを乗り越えないといけないの?」

私の身長を優に超す門を見上げた。

これを乗り越えるなんて絶対に無理!!

「じゃーん!!」

アユちゃんが取り出したのは鍵だった……。

「アユちゃんそれって……」

「裏門の鍵だよ」

やっぱり……。

「なんで持ってるの?」

「ヒカルに貰ったの」

ヒカルはどうやって手に入れたんだろう?

気になるけど聞けない。

裏門の鍵に屋上の鍵。

この人達は先生達よりも学校の鍵を持っているんじゃないんだろうか?

アユちゃんが慣れた手付きで鍵を穴に差し込むと、裏門が開いた。

葵さんとアユちゃんに私が連れて行かれたのは、二階建ての一軒家。

学校からそう遠くないそこは歩いて15分くらいだった。

「……ここって……」

二階建ての真っ白い家を見上げながら私が呟くと葵さんが答えてくれた。

「私の家だよ!!」

「……えっ?」

「この格好で繁華街に行ったら目立ちすぎるでしょ?」

……確かに。

聖鈴の制服を着た私達が3人で繁華街を歩いていたらケンさんのチームの人に『見つけてください!!』って言っているようなものだ。

「だから、ちょっと変装しちゃおう!!」

……変装……。

「変装!?」

「うん!!要は、私達だってバレなければこの計画は成功するんだから。ねっ?」

「そ……そうだね」

「今は誰もいないから気にせずに入って」

「行こっ!美桜ちゃん!!」

私はアユちゃんに手を引かれて葵さんの家に入った。

家に入ったアユちゃんは玄関で靴を脱ぎ慣れた様子で二階へと続く階段を登り始めた。

階下からは『先に部屋に入ってて!!』と葵さんの声が聞こえて来る。

「はーい」と答えたアユちゃんが、階段を登りきると一番手前にあるドアを開けた。

青と白で統一されている可愛らしい部屋。

ベッドに机にソファにテーブル。

机の横にあるコルクボードにはたくさんの写真が張ってある。

その大半がケンさんと葵さんが二人で写っているものばかり。

優しく笑うケンさんとその隣で幸せそうに微笑む葵さん。

見ている私まで幸せな気分になる写真だった。

他にも、ケンさんのチームの子達と撮った写真や聖鈴の高等部の制服を着た子達と撮った写真が張ってあった。

「美桜ちゃん」

写真に見嵌っていた私は、アユちゃんに名前を呼ばれて振り返った。

「アユちゃん!!いつの間に!?」

この部屋に入った時は、聖鈴の制服を着ていた筈なのに……。

いつの間にか私服に変わっている。

唖然とアユちゃんが見つめていると、葵さんがジュースを持って部屋に入ってきた。

そのジュースをテーブルに置いた葵さんが言った。

「始めよっか?」

……始める?

……何を?

……なんかイヤな予感がするのは私だけ!?

……だって……。

葵さんとアユちゃんがものすごく瞳を輝かせているような気がするのは……。

葵さんは立ち上がってクローゼットを開けた。

その中にはたくさんの服が入っている。

ま……まさか……。

「こっちの方がいいんじゃない?」

「じゃあ、上はこれにする?」

「……」

私は、葵さんとアユちゃんに着せ替え人形並みにイジられた……。

30分の時間を掛けて、私の衣装を決定した二人は呆然と立ち尽くす私にいろんな種類の帽子を被せ始めた。

「これ、可愛くない?」

「だけど、顔が隠れるのはこっちだよ?」

「……」

どうやら、この帽子は“変装用”らしい。

この状況は……。

蓮さんとの悪夢のショッピングの記憶を蘇らせる。

「「よし!完成!!」」

軽い眩暈を感じ始めた時、二人の見事にカブった声が響いた。

「見て!美桜ちゃん!!」

葵さんとアユちゃんに肩を押されて鏡の前に立った。

いつも、ワンピースやスカートが多い私が着ているのはショートパンツにロンTにダウンのベスト。

目深に被ったキャップで顔が見えにくくなっている。

「後は靴なんだけど……」

葵さんとアユちゃんが顔を見合わせた。

「本当はブーツが可愛いんだけど……」

「ブーツだと走る時に……」

「スニーカーがベストだよね?」

「じゃあ、ニーハイソックスとスニーカーは?」

二人は声を潜めて話しているんだけど……。

……走る?

私、走らないといけないの?

なんで?

……。

……。

……それって……。

逃げるってこと!?

ケンさんのチームの男の子に見つからないように逃げるってことでしょ!!

私の視線に気付いた葵さんとアユちゃん。

二人は私の瞳を見てニッコリと微笑んだ。

「大丈夫だよね?」

私は恐る恐る二人に尋ねた。

「「大丈夫に決まってんじゃん!!」」

またしても、見事に二人の声はカブってるけど……。

微妙に二人の顔が引き攣っているような気がするのは……。

気のせいだよね!

この時に気が付いていれば良かった。

繁華街は、蓮さんやケンさん達にとって庭みたいなもの……。

そこで私達がどんなに変装しようと、綿密な計画を立てていようと……。

あの人達に捕まらない訳がないんだ。

私の変装が終わると、同じようにアユちゃんと葵さんも変装した。

「完璧!!」

アユちゃんがみんなを見まわして満足そうに呟いた。

「よし!!行こう!!」

葵さんの掛け声で私達は繁華街に向かった。

葵さんの家から繁華街に行くには地下鉄に乗って行かないといけない。

私達は近所の駅から、地下鉄に乗った。

何度もガラスに映る姿をチェックして確認をした。

そんな行動を繰り返すうちに、私は悪い事をして逃げているような心境になっていった。

……確かに、蓮さん達に内緒で出掛けてはいるんだけど……。

……別に真夜中の繁華街に女の子3人で遊びに行ってる訳じゃないし。

真昼間にご飯を食べに行ってるだけ。

蓮さんやケンさんやヒカル達に分からないように変装しているくらいだから、敵対しているチームの人にバレる事もないと思う。

だから、こんなにドキドキする必要はないんだけど。

繁華街が近付くに連れて、私の心臓は早い鼓動を刻み始めた。

その鼓動は繁華街に着くとより一層強さを増した。

3人で並んで地下から路上に続く階段を登っていく。

見慣れた繁華街。

行き交うたくさんの人。

これだけ人がいるんだからバレるはずないか。

そう思うと、私の心臓は正常な動きに戻った。

「まだ早いから買い物でもする?」

葵さんの提案にケイタイの時計を見ると、まだ10時過ぎだった。

もちろんお腹なんて空いていない。

アユちゃんと私は頷いた。

洋服を見に行ったり、可愛い小物がたくさんある雑貨屋さんに行った。

葵さんやアユちゃんと過ごす時間はとても楽しくて、あっという間に時間が経った。

女の子同士で買い物なんてした事のない私には、すべてが新鮮で、買い物が楽しいという事を初めて知った。

「お腹、空いたね」

アユちゃんがそう言って時計を見た私は驚いた。

……12時を過ぎている……。

それまでお腹なんて全然空いてなかったのに、時間を知った途端、お腹が空いてしまった。

「美桜ちゃん、グラタン好き?」

アユちゃんが私の顔を覗き込んだ。

「グラタン?」

「うん、グラタンの美味しいお店があるの。行ってみる?」

「うん!行ってみたい!!」

私が答えるとアユちゃんと葵さんが嬉しそうに微笑んだ。

そんな二人を見て思った。

……多分、葵さんとアユちゃんが私の為にいろいろと考えてくれたんだ。

私が喜ぶ計画を考えてくれた葵さんとアユちゃんに感謝の気持ちでいっぱいになった。

雑貨屋を出た私は気付いた。

……あれ?

なんか、さっきまでと雰囲気が違う?

繁華街のメインストリート。

洋服のショップからここに来る時は気にならなかったのに……。

私は隣にいる葵さんとアユちゃんを見た。

楽しそうに話している二人。

別に何かを気にしているようには見えない。

私が気にし過ぎなのかな?

気にし過ぎるから、普通の男の子がケンさんのチームの男の子に見えるのかもしれない……。

もし、そうだったら私より先に葵さんやアユちゃんが気付くはずだもんね。

私は一人で納得して頷いた。

◆◆◆◆◆

「美味しい!!」

私は目の前にあるグラタンを口に運んで驚いた。

「でしょ?」

満足そうな表情のアユちゃん。


葵さんとアユちゃんが連れて来てくれたのは繁華街のメインストリートから入り込んだ路地にある小さな洋食屋さん。

年配の優しそうなおじいさんとおばあさんがいるお店だった。

今まで食べたグラタンの中で一番美味しかった。

優しい味に心まで温かくなった。

「次はなにしようか?」

「16時くらいに葵の家に戻って制服に着替えて学校に戻れば蓮さんにもバレないよね?」

「あと3時間くらいか~。カラオケでも行く?」

「美桜ちゃん、カラオケ好き?」

「カラオケ?」

「うん!!」

「行ったことない」

私の答えに葵さんとアユちゃんが顔を見合わせた。

「「じゃあ、行こうよ!!」」

二人の勢いに私は後退りしながら思わず頷いてしまった。

「う……うん」

「よし!決まり!!」

こうして私は、生まれて初めてカラオケに行く事が決定した……。

この時は知る由もなかった。

生まれて初めて行ったカラオケで心臓が口から飛び出すような事態が起きる事なんて……。


グラタンを食べたうえに、手作りケーキまで食べた私達は満腹感でお腹を押さえながらお店を出た。

「……苦しい……」

そう呟いた私。

「大丈夫。2~3曲歌えばすぐにお腹が空くから」

「そ……そうなの?」

「うん!!」

……知らなかった……。

私達はお腹を擦りながら、繁華街にあるカラオケ店に入った。

ここは、アユちゃんの行きつけのお店らしい。

受付の為にカウンターの前に行くと、店員さんが『会員証はお持ちですか?』と尋ねた。

「はい」と答えたアユちゃんがお財布からカードを取り出した。

『今日のご利用時間は?』

「3時間」

『はい。何名様でのご利用ですか?』

その質問に私達は顔を見合わせた。

……どう見ても私達3人でしょ?

そう思ったけど、分かってても聞かないといけないのかも……。

そういうマニュアルがあるのかもしれないし。

だから、私は答えた。

「3人……」

『6人だ』

私の声を誰かの声が遮った。

「……」

「……」

「……」

聞き覚えのある声。

私達はその声を聞いて固まった。

そんなはずはない……。

ここにいるはずがない。

だけど……。

聞き間違うはずがない。

……っていうか、今だけは聞き間違いであってほしい!!

私が、隣にいるアユちゃんに視線を向けると、アユちゃんと葵さんもこっちを見ていた。

……どうやら聞き間違いではないらしい……。

私は、ゆっくりと声がした方へ振り返った。

「……!!!」

……私達の後ろに立っていたのは、蓮さんとケンさんとヒカルだった……。

「ひぃぃぃ!!!」

私に続いて振り返った葵さんが声にならない悲鳴をあげ、アユちゃんが手に持っていた財布を落とした。

そんな私達を他所に笑みを浮べている蓮さんとケンさんとヒカル。

「楽しそうだな。美桜」

蓮さんが私に微笑んだ。

「う……うん」

私は蓮さんから視線を逸らして答えた。

「偶然だな。俺達も幹部会が早く終わったから歌いに来たんだよ。まさかこんなところで会うとはおもわなかったぜ、葵」

「ほ……本当に偶然だね、ケン……」

無邪気な笑顔のケンさんと引き攣った笑顔の葵さん。

「アユ、どうした?財布落ちてんぞ?」

ヒカルが不思議そうに首を傾げた。

「……あっ……私ったらボーっとしてた……」

ヒカルの言葉に呆然としていたアユちゃんがはっと我に返り足元に落ちている財布を慌てて拾った。

「せっかく会ったんだから同じ部屋でいいよな?」

ケンさんが笑顔で言った。

……それはマズイ……。

この状況で一つの部屋に入ったら、“楽しいはずの3時間”が“恐怖の3時間”に一変してしまう……。

そう思ったけど、口に出せない私は咄嗟に葵さんに視線を向けた。

多分私と同じ事を考えたアユちゃんも葵さんに視線を向けた。

私とアユちゃんに見つめられた葵さんは、困った表情で小さく首を横に振った。

……葵さんの気持ちは良く分かる!!

……だけど……。

ケンさんの提案に反論できるのは、葵さんしかいない!!

私とアユちゃんが瞳で必死に訴えると、葵さんが小さな溜息を吐いた。

「……あのさ……ケン……」

「うん?どうした、葵?」

「えっと……たまには別々の部屋の方が……」

「あ?」

「……」

「なんか言ったか?葵」

「……ううん。別に……」

私達の微かな希望は、ケンさんの低くて鋭い『あ?』の一言によって打ち砕かれてしまった。

……お疲れ様、葵さん……。

私は心の中で呟いた。

「よし、決まりだな」

ケンさんが嬉しそうに言った。

「おい、案内しろよ」

私達のやりとりを見ていた店員さんにヒカルが声を掛けた。

「は……はい」

店員さんが慌ててパソコンの画面に視線を移した。

……逃げちゃおうかな……。

そんな考えが私の脳裏を過ぎった。

頑張れば蓮さんの横をすり抜けて、外に逃げられるかもしれない……。

そんな事を考えながら外を見つめていると蓮さんが、私に近付いて来た。

私のすぐ傍で足を止めた蓮さんが、私の肩に腕をまわして、腰を少し曲げ耳元で囁いた。

「逃げようとか考えるなよ?」

バ……バレてる!?

焦った私が至近距離にある蓮さんの顔を見ると……。

蓮さんがニッコリと笑っていた……。

初めてのカラオケボックス。

案内された部屋。

『どうぞ~!!』

営業スマイルを浮べた店員さんがドアを開けた。

通された部屋はなぜか和室だった……。

私のイメージではソファにテーブルに大きなテレビにマイク。

ここにも、大きなテレビとマイクはある。

でも、畳に座布団……。

何度も来た事のあるアユちゃんでさえ驚いていた。

『……なんで?』

私も葵さんもアユちゃんもが小さな声で呟いた。

そんな私達を他所に入り口で大きな靴を脱ぎ捨てた蓮さんとケンさんとヒカルがズカズカと部屋に入って行く。

『どうぞ?』

入り口に立ち尽くしている私達に困った表情の店員さん。

……分かってる……。

入らないといけないのは分かってるんだけど……。

怖いのよ!!

「なにやってんだ?」

「早く来いよ」

「店員が困ってんぞ?」

動かない私達に部屋の中から声が聞こえる。

いつもと変わらない優しい口調の蓮さんとケンさんとヒカル。

逆に怖いし……。

店員さんがドアを閉めた瞬間に怒鳴られたりして……。

でも、いつまでも突っ立てる訳にはいかない。

私は、履いていたスニーカーを脱いだ。

ブーツにすれば良かった。

ブーツだったらもう少し時間が稼げたのに……。

ほんの数十秒でさえも時間を稼ぎたいと思ってしまう自分が情けなくなる。

スニーカーを脱いだ私は胡坐を掻いて座っている蓮さんの隣に腰を下ろした。

葵さんとアユちゃんもそれぞれの定位置に腰を下ろした。

……私達は自然と正座をしていた。

リラックスした様子で胡坐を掻いている蓮さんとケンさんとヒカル。

一方、引き攣った表情で正座をしている私と葵さんとアユちゃん。

『ごゆっくりどうぞ~!!』

ごゆっくりなんて出来ないし!!

マニュアル通りの店員さんの言葉にこんなにムカついたことなんてない。

そのくらい、私の緊張はピークに達していたんだと思う。

店員さんが営業スマイルを浮べたまま静かにドアを閉めた。

……終わった……。

さっきまで、あんなに楽しかったのに。

「ケ……ケン」

重苦しい沈黙を破ったのは葵さんだった。

「うん?」

「……幹部会って夕方まであるって言ってたよね?」

「予定ではな」

「えっ?」

「電話がうるさくて話し合いなんて出来なかった」

「電話?」

「あぁ、誰かさん達が俺達の目を盗んで繁華街に出没したんだよ」

「……」

無邪気に微笑んだケンさん。

だけど、目が笑ってない!?

葵さんが勢い良くケンさんから視線を逸らした。

ケンさんと葵さんのやりとりを見ていた私は、バレないように静かに視線を逸らした。

……キャップを被っていて良かった。

……っていうか私達が繁華街にいるってバレてたんだ……。

頑張って変装したのに……。

「アユ、悪ぃーけど飲み物頼んでくれるか?」

ヒカルに頼まれたアユちゃん。

「は……はい!!」

その言葉に弾かれた様に立ち上がったアユちゃんは素早い動きで部屋のドアの方に向かった。

アユちゃんがドアのノブに手を掛けた瞬間……。

「アユ」

「……はい?」

「注文なら、内線で出来るよな?」

「……」

「そこにあるぞ」

「……はい」

……アユちゃん……。

もしかして、逃げようとした?

アユちゃんは、ヒカルが指差した先にある電話機の受話器を渋々取った。

「アイスコーヒー3つとアイスティー3つ」

注文を終え受話器を置いたアユちゃん。

「アユ」

ヒカルがニッコリと微笑んで自分の隣をポンポンと叩いた。

ヒカルのその行動に、アユちゃんは諦めたように小さな溜息を吐いてヒカルの隣に腰を下ろした。

……アユちゃん、残念……。

責任感が強いアユちゃん。

そんな、アユちゃんの事だから……。

ついさっきまで、アユちゃんの頭の中には“恐怖の部屋”からの逃亡計画があったはず……。

その計画は、ヒカルによってチャンスを与えられ、ヒカルによってそのチャンスを奪われてしまったらしい。

「美桜」

突然、私の顔を覗き込んだ蓮さん。

驚いた私の身体はビクっと反応した。

「は……はい」

「昼飯、食ったのか?」

「へっ?」

そんな事を聞かれるなんて思っていなかった私は、その場にいたみんなが吹き出しそうになるようなすっ呆けた声を出してしまった。

ケンさんやヒカルはもちろん、正座をして神妙な表情だった葵さんやアユちゃんまでもが必死で笑いを堪えている……。

そんな中で蓮さんだけが、優しく穏やかな笑みを浮べていた。

その笑みに今までの張り詰めていた空気も緊張で強張っていた身体さえもが緩む感じがした。

「うん。葵さんとアユちゃんが美味しいグラタンがあるお店に連れて行ってくれたの」

「そうか。美味かったのか?」

「うん!!すごく美味しかった!!」

「良かったな」

「うん!!」

「俺も食いてぇーな」

「……今度……」

「うん?」

「今度、蓮さんも一緒に行こうよ」

「あぁ」

蓮さんが嬉しそうに笑った。

「葵」

私と蓮さんのやり取りを見ていたケンさんが口を開いた。

「……はい?」

ケンさんに名前を呼ばれた葵さんの顔から無邪気な笑みが一気に引いた。

「今日から一週間晩飯は毎日焼肉な?」

「はぁ?」

とんでもない事を言い放ったケンさんに葵さんが驚いた声を出した。

「幹部会が延期になったんだ」

「……それって……私の所為?」

「……」

葵さんの質問にケンさんが何も言わず微笑んだ。

「……分かった……」

葵さんが諦めたように呟いた。

アユちゃんがチラッとヒカルに視線を向けた。

その視線に気付いたヒカル。

視線がぶつかった二人は視線を逸らさずに見つめ合っている。

楽しそうな表情のヒカルと引き攣った表情のアユちゃん。

「……?」

何も言葉を交わさないヒカルとアユちゃん。

……だけど……。

二人の表情は微妙に変化しているような……。

……この二人……。

瞳で会話している!?

数分間の見つめ合いの末、アユちゃんが諦めたように頷いて、それを見たヒカルが満足そうに笑った。

ヒカルとアユちゃんの間で交わされた無言の会話の内容は、私達には全く分からない……。

でも、ヒカルがアユちゃんになんらかの条件を出した事がなんとなく理解出来る。

それが、アユちゃんにとっても不利な条件だってことも……。

……頑張って……アユちゃん……。

私には、心の中で応援する事しか出来なかった。

「美桜ちん」

突然、私に視線を向けたケンさん。

「はい」

「今日の晩飯付き合ってね」

……今日の夜ご飯?

……。

焼肉!?

さっき葵さんに『今日から一週間晩飯は焼肉な?』って言ったよね!?

これって……。

私に拒否権はあるのだろうか……。

「アユもな」

ケンさんは私からアユちゃんに視線を移した。

「えっ!?私も!?」

アユちゃんは驚いた様子で隣にいるヒカルに視線を移した。

アユちゃんに見つめられたヒカルは笑顔のまま小さく頷いた。

それを見たアユちゃんが「……はい」と返事をした。

「美桜」

蓮さんが私の耳元で呟いた。

「お前に拒否権はねぇーぞ」

悪戯っ子みたいな表情の蓮さん。

私がケンさんに『はい』と返事したのは言うまでもない……。

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