エピソード34
蓮さんと二人きりの車内。
いつも乗っている蓮さんの車と違う雰囲気の車内に、私は落ち着かずキョロキョロと辺りを見回していた。
車内に漂う香りも内装も違う。
「どうした?」
そんな私に気付いたらしい蓮さん。
「……なんか落ち着かない」
「そうか?」
「……うん」
私は自分の膝の上に置いていた手をそっと蓮さんの左手に重ねた。
蓮さんは、自分の左手に重なった手を優しく包み込んでくれた。
重なった掌から伝わってくる優しい温もり。
……この感じ……。
うまく言えないんだけど……。
心の中の隙間を埋めてくれるような感覚。
やっぱり、私に安心感をくれるのは蓮さんなんだと実感した。
そう思った瞬間……。
私の中で何かが弾けたような感じがした。
「……蓮さん」
「うん?」
「予定変更してもいい?」
「予定変更?」
「うん」
「いいけど、どうかしたのか?」
蓮さんは、運転していた車を路肩に停めて私の顔を覗き込んできた。
「……蓮さんが泊まっているホテルに行きたい」
「ホテル?」
「……うん」
「調子悪いのか?」
心配そうな蓮さん。
「ううん、違う」
心配してくれる事が嬉しくて、私は笑みを零した。
でも……。
それとは対照的に私の鼓動はどんどん速さを増していく。
「美桜?」
あまりの緊張に指が震える。
この気持ちはどんな言葉で蓮さんに伝えればいいんだろう?
どんな言葉だったら蓮さんにうまく伝わるんだろう?
そんな気持ちでいっぱいになった時、頭の上に少しの重みを感じた。
「どうした?美桜」
優しく私を見つめる漆黒の瞳。
ゆっくりと優しく頭を撫でてくれる大きな手。
「蓮さんと二人っきりになりたい」
思った事を素直に言葉にした……はずだった。
でも、なんか……。
ものすごく恥ずかしい事を言った気がする。
蓮さんもビックリした顔をしてるし……。
ちょっと待って!!
……私、何を言ったんだっけ?
『ホテルに行きたい』って言って『蓮さんと二人っきりになりたい』って言ったんだよね!?
……。
蓮さん、私の事“変態女”とか思ってるんじゃ……。
「ち……違うの!!そういう意味じゃなくて……いや……そういう意味なのかな?二人っきりになりたいっていうのは……そう思うんだけど……。あれ?……なんだっけ?」
「美桜」
「えっ?」
「とりあえず、落ち着け」
「……う……うん」
「で?」
「え?」
「海に行くのは中止なんだな?」
「うん」
「具合は悪くないんだな?」
「悪くない」
「俺が泊まってるホテルに行きたいんだな?」
「うん」
「分かった」
蓮さんは頷くと、左手で私の胸辺りを押さえた。
……えっ?
……蓮さん!?
その瞬間、車が動き出したと思ったら、タイヤの軋む音と共に進行方向が変わっていた……。
「大丈夫か?」
何事も無かったかのような表情の蓮さん。
「う……うん」
シートと蓮さんの左手に固定されていたから、私は無事だけど……。
「反対方向なんだよ」
「そ……そうなの?」
「あぁ、時間短縮」
「そうなんだ。……蓮さん……」
「うん?」
「……スピード……」
「あ?スピ-ドがどうした?」
「出し過ぎじゃない?」
「そうか?」
「うん。多分……」
「気にするな」
「うん」
そうか!!
気にしなかったらいいのか!!
……。
……っていうか気になるし!!
窓の外を見るのが怖くて、蓮さんの方に視線を向けた。
蓮さんの瞳が子供みたいに輝いている。
「楽しいの?」
私の声に反応した蓮さんが視線をチラっとこっちに向けた。
「楽しい」
「そうなの?」
「あぁ、地元でこんな運転をしてたらすぐに刑事が乗ってるパトカーに囲まれるからな」
……そうなんだ。
蓮さん、有名人だから……。
蓮さんが楽しいならいいか。
私は勢い良く変化していく窓の外の風景を眺めていた。
「……すごっ……」
停車した車から降りた私は高すぎる建物を見上げて呟いた。
唖然と建物を見上げる私の隣で蓮さんが言った。
「ここでいいか?」
……はい?
「ここに泊まるの!?」
「イヤか?」
私は大きく首を横に振った。
「よかった」
安心したような表情を浮べた蓮さん。
「行くぞ」
私の肩に腕をまわした蓮さんがホテルの中に向かって歩き出した。
「車は?」
蓮さんはまたホテルの正面に車を停めている。
「ん?」
「駐車場に入れなくていいの?」
「あぁ、あとで動かしてくれる」
「誰が?」
「あれ」
蓮さんが顎で差したのは、童話に出てくる執事みたいな格好のおじさん。
私達が入り口のドアに近付くと、笑顔でドアを開けてくれた。
「あのおじさん、親切な人だね」
「親切?」
「うん。ドアを開けてくれたし、車も動かしてくれるんでしょ?」
「あぁ、それが仕事だからな」
「そうなの!?じゃあ、あのおじさんが着ていたのは制服なの?」
「多分な。あの服がどうかしたのか?」
「コスプレ好きのおじさんかと思った……」
「……コスプレ!?」
豪快に笑い出した蓮さん。
どうやらコスプレと言う言葉がツボに嵌ったらしい。
蓮さんの笑いは豪華なロビーを通り過ぎ、エレベーターを降り、部屋の前に来てやっとおさまった。
カードキーを差し込むと電子音と共にロックが解除される音が響く。
「どうぞ」
ドアを開けてくれた蓮さんに促されて中に入った。
大きな窓に広い部屋。
南国を思わせる内装に小物。
いくつものドアがあって隣には蓮さんのベッドに負けないくらいの大きなベッドが置いてあるベッドルーム。
大きなバスタブがある広いバスルーム。
小さなカウンターキッチンまである。
修学旅行で麗奈と泊まった部屋も豪華で驚いたけど、あれとは比べ物にならない。
全てのドアを開けて、チェックを終えた私はソファの隅に腰を下ろした。
「なんでそんな隅に座ってんだよ」
苦笑気味の蓮さん。
蓮さんがソファの真ん中に座った。
そして、自分の隣をポンポンと叩く。
蓮さんの隣に腰を下ろそうとした時、バッグの中でケイタイが震えた。
「……?」
誰だろ?
このケイタイに蓮さん以外の人から連絡が入る事は殆どない。
蓮さんは私の隣にいるし……。
首を傾げながらケイタイを取り出した。
液晶にはメールのマークが出ている。
メール?
……あっ!!
葵さんからだ!!
“美桜ちゃん、沖縄満喫してる?事件とか発生してない?さてさて、今度の月曜日アユちゃんと楽しい計画を立てているので、絶対学校に来てね!待っています♪ 葵&アユ”
……。
……楽しい事ってなんだろ?
「誰だ?」
ふと視線を上げると蓮さんが私を見つめていた。
月曜日になにがあるんだろう?
その事で頭がいっぱいだった私は蓮さんの質問が耳に入っていなかった。
私を見つめる蓮さんと、そんな蓮さんに視線を向けながらも葵さんからのメールで頭がいっぱいの私。
しばらくの沈黙の後、蓮さんが口を開いた。
「浮気か?」
月曜日は、なにも学校行事なんてなかったよね?
……月曜日……。
……月曜日……。
……浮気……。
……浮気……。
……。
「浮気!?」
「……」
「蓮さん浮気したの!?」
「はぁ?俺じゃねぇーよ」
「じゃあ、誰が浮気したの?」
「美桜」
「美桜?……あぁ、私ね。……はぁ?私!?」
「浮気なのか?」
「はい?なんで私が浮気なんかするの!?」
「それは、俺が聞きてぇーし。なんで浮気するんだよ?」
「……ごめんなさい……って、私、浮気なんかしてない!!」
「本当か?」
「本当!!」
必死な私を見て蓮さんが吹き出した。
あれ?
また、からかわれた?
「心配すんな。冗談だ」
蓮さんが笑いながら私の頭を撫でた。
……本当に蓮さんの冗談は心臓に悪い……。
「んで、どうした?」
「えっ?」
「なんで、ケイタイ見ながら眉間に皺を寄せてんだ?」
蓮さんが私の眉間に寄っているらしい皺を指で伸ばした。
「……葵さんからメールが来たんだけど」
「葵から?」
「うん」
私はケイタイの画面を蓮さんに見せた。
「なんか約束してたのか?」
「ううん」
「葵とアユか……」
「……?」
「なんか企んでるな」
「企む?」
「まぁ、アユが一緒なら大丈夫だろ」
蓮さんが納得したように頷いた。
「……?」
全然、分からない。
月曜日に何が起きるんだろう?
そんな事を考えながらぼんやりとケイタイを眺めていた私はある物の事を思い出した。
「あっ!!」
突然大きな声を出した私を蓮さんが怪訝な瞳で見た。
その視線に気付いたけど、今はそれどころじゃない。
私は、バッグの中を探って小さな紙袋を取り出した。
「はい!!」
小さな紙袋を蓮さんに差し出した。
「俺に?」
「うん!お土産!!」
「土産?」
「そう、開けてみて」
昨日、麗奈達に付き合ってもらって選んだ蓮さんへのお土産。
「ストラップ?」
「うん、そう。瓶の中を見て!!」
小指の爪くらいの細い瓶の中には淡い青みが掛かったオイルとお米が一粒入っている。
そのお米には……。
「これ、蓮の花か?」
「そうだよ!!すごくないっ?」
小さなお米の表面には“蓮の花”が描いてあって、ちゃんと色までつけてある。
「すげぇー」
「でしょ?昨日、お土産屋さんをまわってたら路上でお客さんのリクエストを聞きながら描いてる人がいたの」
「そうか。すげーな」
感動している蓮さんを見て私のテンションも上がった。
「私も買ったの」
「うん?」
蓮さんが私の手の中を覗き込んだ。
私のは瓶の中のオイルが赤みが掛かっていてピンク色。
お米には“桜の花”が描いてある。
これを買おうと思えたのは蓮さんのお陰……。
蓮さんが教えてくれたから。
私の名前はお母さんが一生懸命考えて付けてくれた名前だって。
あの日から、私は自分の名前が好きになった。
……桜の花が大好きになったんだ……。
蓮さんが、私の手の中から“桜の花”のストラップを取り、そこに“蓮の花”のストラップを置いた。
「蓮さん?」
「こっちがいい」
「え?」
「美桜が“蓮の花”で俺が“桜の花”を持つんだ」
「……?蓮さんは桜の花が好きなの?」
そう言えば、蓮さんの背中にも桜の花の刺青が彫ってあった。
「あぁ、大好きだ」
妖艶で色っぽい笑みを零した蓮さんの表情は私の視線を捉えて放さなかった。
違うのに……。
蓮さんは『桜の花が大好き』って言ったのに……。
別に私の事を大好きって言った訳じゃないのに……。
……どうして、私の心臓はこんなに早く動くんだろう?
……どうして、顔や身体がものすごく熱くなるんだろう?
「顔が赤いぞ」
蓮さんの大きな手が私の頬に触れた。
顔が熱くなっている所為か、蓮さんの手がヒンヤリと心地よく感じた。
「そ……そうかな?」
「熱があるんじゃねぇーか?」
頬に添えた手と反対の手が私のおでこに触れる。
「……熱は無いと思う……」
「そうだな。暑いのか?」
「……ちょっと暑い」
「クーラーつけるか?」
蓮さんがソファから立ち上がろうとした。
「大丈夫!!」
私は蓮さんの腕を引っ張った。
「美桜?」
「なに?」
「もしかして……」
「……?」
再びソファに腰を下ろした蓮さん。
そして私の顔を至近距離で覗き込んだ。
あまりに近さに後退りしようとしたら……。
がっちりと腰に手をまわされ固定されてしまった。
「照れてるのか?」
「……!?」
図星をつかれた私は言葉を発する事さえ出来ない。
真剣な表情から子悪魔みたいな表情に変わった蓮さん。
……なにかを企んでいるような気がする。
それに気付いたのに……。
腰をがっちりと掴まれているから逃げる事も出来ない。
……まぁ、腰を掴まれていなくてもこんなに近くで蓮さんから見つめられているんだから身体に力なんて入らないんだけどね……。
「れ……蓮さん?」
「うん?」
「近くない?」
これが、私に出来る精一杯の抵抗。
「近い?気のせいじゃねぇーか?」
「……」
……気のせい?
……そんな訳無いじゃん!!
今だって微妙に距離を縮めてきてんじゃん!!
私は視力だけはいいのよ!!
「二人っきりになりたいって言ったのは美桜だろ?」
「そ……そうだけど……」
この距離感ってすごく緊張するんですけど!?
しかも……。
蓮さん楽しそうだし……。
焦っているのは私だけ!?
私が少しでも動いたら触れてしまいそうな距離で蓮さんは動きを止めた。
間近にある漆黒の瞳。
力強く、自信に満ち溢れた瞳。
その瞳には色っぽさと妖艶さを含んでいる。
……吸い込まれそう……。
私の視界に映る薄く形のいい唇。
……触りたい……。
そう思った私の指は蓮さんの唇に触れていた。
指で柔らかい唇をゆっくりとなぞった。
「……キスしたい……」
私の口から小さな声が零れ落ちた。
「どうぞ」
蓮さんの低くて優しい声が響いた。
私は吸い寄せられるように蓮さんの唇に自分の唇を重ねた。
キスをしたのは私だったはず……。
……なのに……。
唇が重なった瞬間、主導権は蓮さんに移っていた……。
甘くて深いキスに頭が真っ白になっている間に、蓮さんは器用に私の身体からワンピースを剥ぎ取っていた。
唇から首筋を滑り鎖骨をなぞって胸元に蓮さんの唇が触れた時に初めて自分が下着姿だということに気が付いた……。
恥ずかしさを感じるよりも先に、感心してしまった。
それが、私の緊張を解いてくれた。
「蓮さん」
「ん?」
「あの……」
「嫌か?」
「……嫌じゃない」
「怖いか?」
「……怖くない」
心配そうな表情の蓮さん。
……覚悟は出来ている。
もしかしたら、覚悟なんて必要ないのかもしれない。
……だって……。
私も望んでいる事だから。
まっすぐに私を見つめている瞳。
「……私、初めてなの!!」
私の口から飛び出した言葉に蓮さんの漆黒の瞳が丸くなった。
「あぁ、知ってる」
「だから、分からないんだけど……」
「なにが?」
「私は何をすればいいの?」
「はぁ?」
「……えっ?」
蓮さん。
なんでそんなにビックリした顔してるの?
「……ぶっ!!」
蓮さんは、なにがおかしいのか分からないけど吹き出して笑い出した。
「なにがおかしいの?」
私は真剣なのに……。
一頻りお腹を抱えて笑った蓮さん。
そんな蓮さんを呆然と見つめる私。
やっと笑いがおさまった蓮さんは、私の頭を撫でながら言った。
「なにもしなくていいんだよ」
「はぁ?」
「別にお前はなにもしなくていい」
「そ……そうなの?」
知らなかった……。
私は何もしなくていいのか。
胸を撫で下ろす私の視界が大きく揺れると同時に私は蓮さんに抱きかかえられていた。
「れ……蓮さん!?」
突然の浮遊感に驚いた私は慌てて口を開いた。
そんな私に向かって妖艶な笑みを浮かべた蓮さんは、私を抱きかかえたまま歩き出した。
蓮さんが向かったのはベッドルーム。
そう気が付いた私は口を閉ざして、蓮さんの腕に身を委ねた。
蓮さんが私を抱きかかえたまま器用にベッドルームのドアを開けた。
「まだ無理なら今のうちに言え」
ベッドルームの入り口で蓮さんは低く優しい声で言った。
「大丈夫」
私が答えると蓮さんが笑みを浮べてベッドルームに足を踏み入れた。
この日、私は蓮さんと一つになった。
カーテンを締め切った薄暗い部屋で、全身で蓮さんの温もりを感じ、優しく私の名前を呼ぶ蓮さんの声を聞いた。
さっきまで感じていた緊張感が嘘みたいに無くなり、初めて感じる甘い感覚に包まれた。
痛みが全く無かった訳じゃない。
だけど、その痛みよりも大きな満足感が私の中に生まれていた。
この時、私は分かった事があった。
言葉じゃなくても、想いを伝えることが出来るということを……。
優しく私に触れる蓮さんの手や唇から温かい想いが伝わってきて、私の瞳からは自然と涙が溢れた。
こんなにも、温かい想いがあることを今まで私は知らなかった。
私は、この旅行の事を一生忘れないと思う……。
昨日、麗奈や海斗やアユムと作った楽しい想い出も……。
今日感じた蓮さんの温もりも……。
優しく『美桜』と呼ぶ声も……。
蓮さんが私に伝えてくれたたくさんの想いも……。
蓮さんに抱きしめられて幸せだと思った事も……。
『歳をとっても色褪せない想い出』
組長が言った言葉の意味がこの日少しだけ分かった気がした……。
「美桜」
シーツに包まっている私の横でタバコを吸っていた蓮さんが顔を覗き込んできた。
「うん?」
「ずっと一緒にいような」
「うん」
私が頷くと蓮さんが嬉しそうに微笑んだ。
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