虎ノ門で意地を見せる
「待てや港区指定有形文化財いい!」
声とともに、長い足が飛び込んでくる。駆け込んできたというよりは、勢いをつけて虎の彫刻を蹴っ飛ばした。
「蹴るの?!」
思わず突っ込んでしまう。文化財だって、自分で言ってたのに。
というか、銅像をキックして痛くないんだろうか。確かになんだかごっついデザインの、頑丈そうなスニーカーですけども。
「うわ、スニーカー思いっきり擦った」
でしょうね。
雷みたいな黒い模様の入った白スニーカーを履いた、虎を蹴り飛ばした主は。
「無事ですか、お姉さん」
瞼にかかりそうな、ゆるふわ髪の。東京タワーでナンパ、もとい出逢った男の子。
「一応、は」
今にもへたり込みそうだけど、足の痛みは立っていられないほどの重傷ではない。擦り傷で、せいぜい後から青痣が浮いてくるくらいだろう。
「よかった」
前髪すれすれの瞳が笑った。これはころっといっちゃう女の子がいてもおかしくないな、なんて思う。私は彼よりずいぶんお姉さんなので、転げませんけど。
「……あれはいったい、なんなの?」
蹴っ飛ばされた虎は宙でくるりと向きを変えて、こちらの様子をうかがっているようだった。
「鳥居の白虎です」
「それはわかるけど。なんで動いてるの」
彼が解説してくれたところによると、鳥居に彫られた獣は『四神』という霊獣なのだという。つまり神様。ということは。
「神様が、動かしてるの?」
そんな馬鹿な。霊的なものだって超能力だって信じてないのに。いきなり神様の力だとか言われても。
「祟られる覚え、ないよ」
「はい。神様じゃないんで」
青年にあっさり否定される。
「じゃあなんだって言うの」
「四神とか神話レベルの神様が、人間にこんなちょっかいかけてくるなんて、ありえませんので。だいたいこの鳥居の彫刻は単に意匠であって、四神を祀ってるわけじゃないから。金毘羅さんの祭神は
「いやごめん、難しいことわからない」
「これは悪鬼、鬼ですね。怨霊とか妖怪とか、まあそういう類です」
「やっぱりわけわかんないやつじゃん!」
神様と鬼だかを、同列に語ってはいけない気はする。だけど得体の知れなさでは、どちらも同じだ。
「ポルターガイストみたいな心霊現象の、えげつないバージョンだと思ってください」
「どっちにしたって、呪われたり祟られる覚えはない……」
説明されてもわけが分からなくて、本気で泣けてきた。
今日で虎ノ門勤めも最後なんだから、金刀比羅宮に足を運ぶことなんてもうないかもしれないんだから。ただ少し、名残惜しかっただけなのに。
「神様だか妖怪だかにも、追い出されるってわけ?」
視界が揺れる。
「就職とか、仕事とか、あんまりうまくいかないままここまで来たからさ。そりゃ、なんとなくで。なんとかお金稼いで、なんとか大人として格好がつけばって、適当に仕事を渡り歩いてきた私が、いけないんだろうけどさ」
追い出された、なんて言うのは被害者ぶってるだろう。頑張ってきたつもりで、きっと何か、色々、足りてなかったのだと思う。
それでも、やっぱり。
「ちゃんと頑張ってるなって、思いながら。ここでコーヒーを飲むのが好きだったんだよう」
見ず知らずの、ずっと年下の男の子にこんな弱音を吐くなんて。こんな情けないのは、嫌なのに。
「頑張ってたんなら、いいんじゃないですか」
静かな声で、男の子が言った。
気を使わせたと、申し訳ない一方で。まだ世の中を知らないお坊ちゃんに、何がわかるだろうなんて卑屈なことを思ってしまう。
「俺、社会人やったことないし、お姉さんのこと何も知らないんで。単なる慰めですけど」
ああくそ、正直だな君。
「でも、頑張ってるなら報われると良いなと思います」
だけどいい加減に取り繕って言われるよりは、よほど誠実な気がした。
「……ありがと」
ずび、と鼻を一つすする。
「それで、何をしたらこの事態は収まるの」
瞬きをして、視界をクリアにして。穴の開いたストッキング、爪先の詰まったパンプスで仁王立つ。
たとえ頑張ることしかできなくても。
「虎ノ門OLの最後の意地、見せてやるからね」
『わが眷属を名乗るか、娘よ』
空気が震えた、気がした。
青年の傍らで、むくむくと膨れ上がる煙のような、靄のような塊。
「どうしてそうなる」
『虎ノ門おーえる、などと名乗っていただろうが』
青年の問いかけに、靄が答える。
「勤務地を肩書きみたいに名乗ったからって、土地と
膨らんだ靄が、形をなして行く。
煙よりはっきりとした輪郭は、それでも燐光を放ってふわふわとしていた。光のせいだけじゃない、柔らかい線なのは、それが真白い毛並みだからだ。
四本の足はどっしりと地に構え、波打つ縞模様は、否が応にも存在を主張する。
強く煌めく白銀の瞳、王者の風格。
「白虎……」
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