金刀比羅宮を知る



 同時に言って、私は耳慣れない言葉に首を傾ける。

「『こんぴら』じゃないの?」

「歴史上、色々呼び方があったみたいだけど、とりあえず今は『ことひらぐう』です。社務所が入ってるビルも、虎ノ門琴平ことひらタワーって名前ですから」

「あの神社、会社のそばだったからよく行ったんだ。ビルと一体化してるみたいで、面白いところだよね」

 ナンパの後悔を追いやって、勢いで喋ってしまう。むしろもう、最後だから何やったっていいやみたいな心持ちで。

「あとそうだ、鳥居。境内にあるほうの。古いやつ」

「銅鳥居ですか」

「ああ、あれ銅なの。あれも雰囲気あって、好きだった。あとなんか、凝ってるっていうか」

 大きさといい都会的な佇まいといい、インパクトは正面鳥居の圧勝だと思うけれど。だけど銅鳥居も、目を惹いて。


「動物の彫刻がしてあるよね、何匹か」

 柱の左右、見上げる位置に数匹ずつ。鳥居を守るように、一体化するというよりは寄り添うように施された獣たちの彫刻。

「なんだったかな。亀と、竜、かな? あと……なんだっけ。やだな、しょっちゅう見てたのに、いざ思い出すとなると」

「亀というか、玄武ですね」

「げんぶ?」

「玄武、青龍、朱雀、それに白虎」

 そうだ、鳥居には四匹いた。きっとおめでたい生き物か何かだと思っていたけれど。

「いわゆる四神です。四聖獣とか呼んだりもします」

 いわゆると言われましても。私は歴史とか美術史はさっぱりなので。

「えーと、すごいね、詳しいね。私、不勉強なので……仏教、神道? とかは、ちょっと」

「天の四方……わかりやすく言えば、東西南北を守護する霊獣ですよ。生きていくうえで必要な常識でもないんで、不勉強ってこともないです」

「へーえ」

 説明されてもいまいちわからなかったので、適当に相槌を打つ。


「ちなみに虎ノ門は、白虎が由来です。この地に江戸城の外門の一つがあって、西に位置していて。西を守護するのは白虎なので、虎之御門になったと」

「びゃっこって、虎のこと?」

 青年が眉を寄せた。ごめんなさい、説明はそこからなんです。知らないので。

「あ。鳥居の彫刻を見ながらの方が、わかりやすいかも」

 そこまで言って、喋りすぎた自分に気づく。

 今の発言は、虎ノ門まで一緒に行きましょうと、誘ったみたいにも聞こえるじゃないか。

 それはまずい。さすがに、いい大人として。

「えーと、いきなり話しかけてごめんね。色々お話してくれてありがとう。私、もう行くから」

 誤魔化すようにして、私は早口で言った。じゃあね、と最後の最後、怪しく見えないように明るい声と表情で挨拶をして。さっさとエレベーターへ向かって、私はその場を去った。




 定期圏内で帰宅するには、虎ノ門駅まで戻らなくてはならない。ここからだと間に神谷町かみやちょう駅と虎ノ門ヒルズ駅があるから、そこから電車に乗った方が楽だけれど。同じ東京メトロでも銀座ぎんざ線と日比谷ひびや線で、路線が違うし。まだ歩く気力くらいは残っている。

 いつもよりも寂しいオフィス街を戻っていく。東京の駅は距離間隔が短いから、一駅二駅あっという間に通り過ぎて――金刀比羅神社の前に差し掛かった。

 ひょう、と生ぬるい風が正面鳥居を抜けていく。

 社務所も閉まった、人気のない参道。いつもの平日なら神社を抜け道にして、人だってもうちょっと歩いてる時間だ。けれど今は、人もまばらなお盆期間。東京タワーを見学しているうちに日も落ち切って、社殿にも電灯にも明かりが灯っている。夕闇の中に明るく浮かびあがる境内は、次元の違う世界のようにも見えた。

 この地での勤務に、金刀比羅神社に、まだ未練があったのかはわからない。

 私は吸い込まれるように、参道を進んだ。


「……あれ」

 いつも眺めていた、社殿の前の銅鳥居に向かって立つ。夕闇に溶け込む緑青色のそれに、違和感を覚えた。

 足りない。

「一匹、いない?」

 銅鳥居の両の柱上部、縦に並ぶ形で二匹ずつ施された動物の彫刻。

 確か、あの男の子が言うには。

 玄武、青龍、朱雀、あと白虎。

「虎がいない」 

 それぞれがどんな姿をした動物――霊獣、というのだったか――なのかは、彼の説明だけですべて把握はできなかったけれど。

 だけど確か、白虎というのは虎だという。

 今、鳥居に残っているのは、亀っぽいのと、竜と、鳥。その三匹だけ。


 修繕のために白虎だけ外したとか、まさか盗まれたとか。色々可能性を考えるけれど、こんなに綺麗に無くなってしまうのも不思議だった。剥落したような跡も残っていない。

『無くなった』というよりは、『いなくなった』とでも言うような……。

「ひゃ?!」

 足元を風が切っていった。何かが通り過ぎて行ったような。ストッキングが脛のあたりで破れて、素肌が見えた。足に鈍い痛み。ストッキングの破れ目から見える肌に、擦ったような跡がついていた。

 泥のような汚れと混じった、青緑色。

 痛む右足を引き摺るようにして振り向いた、そこに。

「白虎……?」

 銅でできた、彫刻の虎がいた。

 本物の虎よりはずいぶん小さくて、私でも抱えられるくらい。頭も体も丸っこくて、狛犬っぽさもあるような。

 牙を見せる険しい顔も、縞模様が波打つような背も、造形として刻み込まれて形を変えるはずがないのに。白虎は牙をむいて、体をしならせ、爪を振りかざして飛び掛かってくる。

 今度は足にかすり傷では済まない。小さな虎は私の体のど真ん中を目掛けて、突進してきた。 

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