二〇〇一年九月四日
体調不良により欠席の三日目
3-1
「のぞみ、今朝は来てないんだ」
昨日まではオレを起こしに来ていたぐらいなのに、今日の我が家にのぞみの姿はない。オレはボタンを押して止めないと鳴り続けてしまう目覚まし時計を止めるために自分の部屋へと戻る。
「そうなのよ。様子を見てきてくれない?」
「オレが?」
「今日はまさひとがのんちゃんを起こしに行ってみたら?」
普段と逆の立場になってみる。なるほど面白そうだ。ナイスアイデア。オレは「行ってみる」と了承し、自室の扉を閉めた。ささっと寝巻きから制服に着替えて、寝巻きを持って出て、ランドリーバッグへ寝巻きを放り込む。隣の家に行くだけだから靴はスニーカーでなくともいい。玄関でサンダルを履いた。
「いってらっしゃーい」
家の鍵は閉めなくてもいいか。どうせすぐに戻る。のぞみだってたまには寝坊するだろう。振り向くと母さんが手をひらひらと振っている。ちょっと出るだけなのに大袈裟だなあ。苦笑いを浮かべつつ「いってきます」と言っておく。
そして隣の部屋。木彫りの〝風車〟の表札の下にあるインターホンを押す。出ない。もう一度押してみた。
「おーい」
反応がないので扉越しに呼びかけてみる。程なくして「なに」と低めの声がして、扉は少しだけ開けられた。ドアチェーンが付けられたままだ。
「起きてたのか」
インターホンに反応がなかったぶん、寝ているのかとばかり思っていた。起きてはいるが受話器は取らなかったと。
「今日は学校休む!」
のぞみの欠席宣言。昨日、作倉にはさぼるなと話していたくせに。
「どうして」
「おなかが痛いんだよ!」
「腹痛ぐらいで休むのか」
「ぐらいだと?」
ドン、と内側から扉が叩かれた。なんだか不機嫌そうだ。
「お前な! 俺だって学校行きたいよ!」
「ならどうして……」
「おなかが痛いんだって言ってんだろ! もう三日目は終わりでいいぞ!」
「薬は」
「ない!」
ドンドンドン。
「次は一週間後以降にしてくれよ! 治っているはずだから!」
「一週間も休むのか。たいへんだなあ」
「のんきに言いやがって。男のお前にはわからないだろうな!」
ドンドンドン。
「救急車を呼ぼうか?」
一週間も痛みが続くなんてよっぽどだ。早く医者に診てもらったほうがいい。
「呼ばなくていい!」
ものすごい剣幕で否定された。そ、そうか。そこまでじゃないとは。相変わらず声は出ている。声は出ているので元気なんだろう。本人の言う通り、救急車を呼ぶほどではないとしよう。ドアチェーンを外してくれないのは人を家に上げられないような有様だということでいいのか。
「でも」
「いい加減学習してくれ……頭の片隅にでも『だいたいその月の四日か五日ぐらいには体調が悪くなる』と覚えておいてくれ」
「え?」
「ほら! ケツから血が出るやつ! 定期的に血が出るやつだから!」
「それは病院へ行ったほうがよくないか?」
オレの正論は虚しくその辺に漂って、届かない。のぞみは「まさひとのママさんを呼んでくれ! お前じゃ話にならない!」と言い出した。話にならないか。オレもオレなりにのぞみの身体を気遣っている。うまく伝わらないのは悲しい。
「そんな風に女の気持ちを理解できない鈍感男だから彼女ができなかったんだぞ!」
そこまで言うか?
「オレなりにわかろうとしているのに?」
「とっととママさんと代われ! 頭も痛くなってきた……」
扉は閉まった。続いて鍵がかけられる音もする。このやりとりでオレが嫌われるような、心に壁を作ってしまうような箇所があっただろうか。首を傾げて我が家へ戻る。特におかしなことを言ったつもりはない。
「あら?」
のぞみを我が家に連れて行くだけのつもりが母さんが風車家に向かわなくてはならなくなってしまった。のぞみがオレの後ろをついてくると思い込んでいたであろう母さんも首を傾げる。
「のぞみが、母さんと話したいって」
「そうなの?」
「オレじゃ話にならないそうで」
おなかが痛いだとか血がどうのだとかをありのままに報告したら母さんを驚かせてしまう。オレは「話したい」と言っておく。詳しい事情は母さんがのぞみから聞き出してくれるだろう。手を洗って、食卓についた。のぞみの分も用意してある。
「わかったわ。のんちゃんの分はラップかけといて」
「はい」
結局登校の時間まで母さんは戻ってこなくて、一人での登校になる。校門で「一人か」と深沢に茶化されてしまった。
「のぞみは欠席するそうです」
「どこか具合でも悪いのか?」
具合も機嫌も悪かった。風車家のドアチェーンを破壊して学校まで連れてくるほどの乱暴な行動はできない。オレには良識がある。例えば三十一日ののぞみのように、ベランダからなら風車家に侵入できたかもしれないな。とは思うが、できたとしてもやらない。
「一週間ぐらい続く腹痛だとか。だいぶ重傷だと思います……ただ、男のオレにはわからないって」
あれだけ声を出せていて体調不良は怪しい。でも、母さんはのぞみの家へ行ったきり、戻ってこなかったから本当に具合は悪いのかもしれない。頭も痛いと言っていた。
のぞみのことは母さんに任せておけばおそらく問題はない。午前中にでも病院へ連れて行ってくれるだろう。オレは自分で食べた食器を片付けて歯を磨き、のぞみの分と合わせて二つ用意されていた弁当のうちの一つを自分で包んで、弁当袋に入れて持ってきた。
「……確かに、僕らにはわからないな。症状も人によるらしい」
深沢には病名に心当たりがあるのか、青く残ったヒゲの痕跡を人差し指でなでていた。生徒が考えあぐねているときに見られるクセのようなものだ。数学の授業中によくやっている。オレには見当もつかないから「何の病気なんです?」と聞いてしまう。
「病気ではないから安心しなさい。担任には僕から伝えておこう」
呆れたような調子で言われた。おなかが痛くてケツから血が出ているのに病気ではない。教師の立場の人間に「安心しなさい」と答えられたら「わかりました」と言っておく。口では「わかりました」と言っても、なるほどわからない。内心でははっきりと答えてほしい自分がいた。
これ以上聞こうにも、深沢は他の生徒に「おはよう!」と挨拶し始めている。なんとも腑に落ちない表情を浮かべながら、オレは玄関の靴箱から上履きを取り出した。
学校が終わったら、お見舞いに行こう。母さんからは詳しい話を聞かないと。
「ごきげんよう」
三階までの階段を登って教室に到着する。オレの席にスクールバッグを置いたら、隣の席から話しかけられた。隣の席は本来、のぞみのものだ。しかし今は黒い髪を三つ編みにしている女の子が座っている。その机の上にはその子の持ち物と思しきスクールバッグが置かれていた。
「そこ、のぞみの席だよ。作倉の席はあっち」
昨日は保健室登校ならぬ図書室登校をしていた作倉だ。まさか自分の席を知らないのかと、オレは作倉の正しい座席である窓際の一番後ろを指差す。
「知っていますよ。のぞみは生理痛でお休みでしょう?」
作倉は左目だけでオレを見ながら言った。その赤い目は過去を視ている。さしずめ今朝のオレの、のぞみとのやりとりでも視たのだろう。
「せいりつう?」
あれは生理痛だったのか。そりゃあオレにはわからない。登校できないほどに重たいとは知らなかった。のぞみへの発言を思い起こして後悔する。お見舞いだけでなく謝罪もしないとだ。デリカシーに欠ける発言をいくつか投げつけてしまった。
「どうせ叶わぬ希望なのにねぇ。まぁいいですよ。夢を見るだけなら無料ですよ」
それはそうと。のぞみが欠席だとしても作倉がそこに座っていてもいい理由にはならない。自由席じゃないから。オレの非難に勘づいたか「ああ、立ったほうがいいですかねぇ」と立ち上がる。のぞみの机とオレの机の間にスルッと移動した。
「まさひとくん、これから墓参りに行きませんか」
「これから?」
スクールバッグを開け、中身を取り出す手の動きが止まってしまう。これからオレは授業を受ける。そのために制服を着て、神佑大学付属中学校まで来た。学校の敷地内に墓はない。作倉の提案は学校を抜け出さなければならないものだ。
「お彼岸でもお盆でもないのに?」
いずれにしてもど平日の授業のある日に休んでまで行くものではない。と思う。葬式ならともかく。思い出せる範囲の身近な人の命日とも違う。作倉とオレとは親戚同士でもあるまいて。偉人の墓を見に行くのだとしてもわざわざ今日のこれからである必要はない。
「宗治くんが動けないときにこそ、ですよ」
作倉はのぞみを“宗治くん”と呼んでいる。あだ名にしては一文字も被っていない。
「誰の墓を?」
「
知らない人の名前が出てきて「誰……」と言葉を失ってしまった。作倉はのぞみの机の上に置かれているスクールバッグからノートを取り出す。図書室で開いていたものだ。
「宗治くんの生前の人間関係を、喋れるほうのまさひとくんにも把握しておいてもらいましょうかねぇ」
オレのスクールバッグを押し退けて、そのノートを開く。さらに自身の筆箱からボールペンを引っ張り上げた。
「わたしと宗治くん――現在は
わたし、宗治くん、と書いてから、宗治くんを二重線で消して下に希望と書き込む。作倉は右利きらしい。
「そしてまさひとくんは同級生でした」
希望の隣にまさひとと書いて、それぞれの名前を丸で囲った。その関係性は今も変わっていない。作倉とのぞみとオレとは同じ中学二年生で、同じクラスだ。過去形ではない。
「生前って、オレたちは死んではいないじゃないか」
オレがツッコむと、作倉は「そこは最後に説明します。とりあえず最後まで話を聞いていただけませんか」と宥めてきた。
「美咲さんは宗治くんの奥さんです」
二重線で消した宗治くんと美咲さんをイコールで結ぶ。名前的にも美咲さんは女性だろうけれども、のぞみも女性で、いや違うか、宗治くんは男性――ん?
合点がいかない顔をしたまま、一個前の作倉のセリフを思い出して押し黙る。とりあえず、最後まで、だ。
イコールから線を下に伸ばして「二人の間には
「美咲さんは生まれつき身体の弱い人でした。思えば、宗治くんは、まさひとくんといい――これはわたしの考えすぎでしょうから、やめておきましょう。憶測で物事を語ってはいけませんからねぇ」
奥さんってことは宗治くんは結婚していて、総平と智司という二人の子どもがいて。
「オレは?」
堪えきれずに聞いてしまった。この宗治くんが家族らしい家族を築けているのなら、オレにだって嫁と子どもぐらいいそうなもの。
「……なんですか?」
オレが話を中断してしまったせいか若干の怒りが込められている。オレは「オレは結婚できていないのかなと」と目を逸らしつつ言った。黒板の上の掛け時計が視界に入る。朝のホームルームまであと二分ほど。
「時間が時間なので、そろそろ出ましょうか」
作倉はノートを畳んで、ボールペンと共にスクールバッグに放り込む。それからそのスクールバッグの持ち手をリュックのように背負い込んだ。オレが結婚できるかどうかは……?
「どうしても知りたいのなら移動中にお話ししますので」
作倉は、両手を引っ張って無理矢理に立ち上がらせてくる。移動中とは。
「出ましょうって?」
「だから、美咲さんの墓を見に行くんですよ」
チャイムが鳴り、クラスメイトたちは自分の席に座る。オレと作倉はずんずんと出入り口に近づいていき、廊下へ出た。その肉体に似合わぬ馬鹿力だ。作倉の右手にオレが引きずられていく。骨と皮みたいな身体のどこにそんな力が潜んでいるのか。オレのスクールバッグは机の上に置きっぱなし。
廊下では担任の金田が向かいから歩いてきて「ホームルームが始まりますよお」とオレたちを教室へ戻そうとしてくる。優しそうな見た目をしていて実際に優しい。宿題を忘れた生徒にも「一週間後までには出してねえ」と寛大。なのだが、朝のホームルームをぶっちぎって墓参りに行こうとしている二人組は見逃してくれない。
「保健室に行ってきます。今朝から貧血気味なので。氷見野くんは保健委員ですし」
嘘つけ! と口を挟もうとしたらその口にハンカチを突っ込まれた。モゴモゴ。
「そうですかあ」
「そうですよ」
「元気になったら教室へ戻ってきてくださいねえ」
絶対戻らないから!
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