二〇〇一年九月三日
あいつもこいつもあの席狙いな二日目
2-1
ベッドから落下して目が覚めた。フローリングの床の上にはラグが敷いてあるので直撃ではないにしろ、額をぶつけたらそれなりに痛い。うぅ……。
額をなでながら立ち上がる。枕元の目覚まし時計が鳴り響いた。もう起きてるよ、と思いながらアラームを止める。表示されている日付は九月三日の月曜日。はて、昨日は八月三十一日だった気がする。でも、この時計は電波を受信して自動で時刻を修正してくれる。そのわりには長針と短針の位置がたまに小競り合いを繰り広げているけど。
小学校の卒業記念品としていただいたものだから五年ものではあるけれど、この間電池を変えたばかりだから狂っていない。たぶん。昨日が八月三十一日というオレの認識がズレているということにしよう。九月一日と二日が土曜日と日曜日だったおかげで、二日間アディショナルタイムをもらったような二〇〇一年の夏休みなのに、その二日間の記憶をすっぽかすなんてなんだかもったいない。
もったいなくとも事実として夏休みは終わり。今日から新学期だ。制服に着替えないと。
「おはようまさひと!」
と、気持ちを切り替えたタイミングで、壊れるんじゃないかという勢いで扉が開け放たれた。寝巻きを脱ごうとバンザイした状態で固まる。アラームが鳴るのを扉の向こう側で待っていたのか?
神佑高校のセーラー服姿なのぞみは半裸のオレを見て「出て行ったほうがいいか?」と小首を傾げた。
「見ての通り、着替えているところだから、できれば出て行ってほしいな」
今日は左側ではなく右側でサイドテールを作っている。のぞみは左利きだから、どうしても耳のそばでまとめたいのなら髪の毛の束を右側に寄せた今の状態のほうが邪魔にならなくていいのではないか、などと思う。本人の好きなようにやればいいけれども。
「おっけー」
扉が閉まる。のぞみが制服を着ているということはやはり今日は九月三日なのだ。学校に行く用事がないのに制服を着る理由はない。オレは夏服のポロシャツを着て、ズボンを穿き替えた。靴下も履く。そういえば、今日ののぞみは玄関から入ってきたのか。気になってベランダの戸締りを確認しにいく。ちゃんと閉まっていた。
寝巻きをランドリーバスケットに入れておかないと母さんが怒るので、脱ぎっぱなしにせずに拾う。小脇に抱えて扉を開けると、テーブルに味噌汁を運んでいる途中の母さんと目が合った。
「おはよう」
母さんは専業主婦だが、オレが生まれる前は今でいう“アイドル”のような芸能活動をしていたらしい。映画にセリフのある役どころで出演したり地方局のレポーターをしたり雑誌に写真が掲載されたりしていたと父さんから聞いているのでそれなりに人気はあったようだけど、その時の映像や画像はオレに見せてくれない。事務所が倒産して、なし崩し的に芸能界を引退、地元に帰ったところを父さんがプロポーズして交際に至ったんだとか。今の家に引っ越して、トウキョーに戻ってきたのは父さんの仕事の都合だ。父さんの仕事の都合なのに、現在は単身赴任中でオーサカに住んでいる。この家は今、母と息子の二人暮らし。
だからなんだと言われたら、身内の自慢をしたいんじゃなくて、そういう人から裏表なく微笑みかけられると実の息子のオレでもしどろもどろになってしまうっていうか、ドギマギするっていうか。目を逸らして「……おはよう」とあいさつして、そそくさと洗濯機のほうに逃げてしまった。避けているわけではない。元アイドルという肩書きさえ意識しなければどうということはなく、普通の親子として会話できるのに。意識してしまうとこうなる。
「まさひとさ、一日目を終わらせんの早くない?」
「わ」
ランドリーバスケットに寝巻きを入れてから物思いに耽っていたのに、声をかけられて跳び上がってしまった。のぞみか。洗面台の鏡に不機嫌そうな表情が映る。
「あのあとちゃっちゃと宿題を終わらせて、俺の作った焼きそばを食べるとかプールに行くとか花火するとか!」
朝食のときに昼はのぞみが焼きそばを作ると宣言していたのは覚えている。だが、その焼きそばの味を思い出せない。思い出せないほど普通だったのか、それとも忘れたいレベルで美味しくなかったのか。どっちだろう。
「そんなに学校へ行きたいのか!」
オレの身体をぐるっと回して自分と向かい合わせて、両肩に手を置いて前後にぶんぶん揺らしてくる。なんだなんだ。何故怒っているのか。落ち着いてほしくて降参とばかりに両手を挙げる。
「わかった! 俺の制服姿が見たかったってことにしておこう! どうだ!」
意図は伝わったようで伝わっていない。パッと手を離し、その場で一回転して見せた。神佑大学付属中学校の夏服。女子は半袖のセーラー服だ。白地に、セーラー襟の部分はえんじ色のラインが入っている。スカートはオーソドックスな紺色のプリーツスカート。冬服は紺色のセーラー服になり、男子もまた紺色の詰襟になる。その切り替え時期となる衣替えは十月。二学期最大のイベントである文化祭の頃には男子も女子も冬服に切り替わっている。
どうだ、と言われても「まあ、似合ってるんじゃないですか?」と答えるしかない。なんとなく敬語になってしまった。
「えへへ」
のぞみは気恥ずかしそうに頭を掻いている。意図が伝わってなくとも機嫌は直ったようならよかった。
「俺はメインヒロインだからな! 俺に一番似合うように設計するよな!」
直るどころか鼻高々だ。いい機会なのでこの前から気になっていたところを追及しよう。
「のぞみはなんで自分のことを俺って言うんだ?」
女の子ならわたしだとかウチだとかあたしだとか、もしくは自分の名前で自分のことを言うのに、のぞみは俺だ。母さんもツッコまないから昔からそう言っていたのかもしれないが、気になり始めてしまうと本人に聞きたくなる。可愛らしいルックスには不釣り合いな俺を指摘するオレに「まさひとの好みに合わないんなら善処するぞ!」と答えると、わざとらしく咳払いしてから妙なイントネーションをつけて「あーたしー」くねくねし始めた。逆に聞き慣れなくて笑う。
「てゆーか、まさひとってママさんに似てるよな!」
「母さんに?」
「目の形とか鼻筋が通っているところとか!」
言われて正面の鏡を見た。目の形と鼻筋、ね。あの母さんに似ている……そうか?
「俺もママに似てんのかな!」
横に並び立つのぞみ。頭ひとつぶんの身長差がある。よく『男の子は母親に似る』と言うから、のぞみがおっしゃる通りオレは母さんと似ているのかもしれない。似ていることにしておこう。しかし『男の子は母親に似る』だとすれば『女の子は父親に似る』はずで、のぞみはのぞみの母さん似ではなく父さん似なのではなかろうか。
「まさひとのママさんは俺らの大学の入学式の日に交通事故で亡くなって、まさひとはしばらく落ち込んでた。俺――あたしはママとの思い出ってないから、なんでそこまでしょげてんのかよくわからなくてさ。それでもまさひとが元気ないのは嫌だから、学部が違っていても遊びに行ってたわけ。こうやってまさひとのママさんとの接点ができて、ようやく理解できた!」
……?
ごめん、オレが理解できてない。オレらは大学生ではなく高校二年生で、話の流れで事故死してる母さんはまだ健在だ。縁起でもないことを言わないでほしい。
「俺らより早く起きて朝ご飯を用意してくれて、部屋の掃除や衣類の洗濯をしてくれて、もちろん夕飯も作ってくれる! しかも無償で、文句を言わない。そんな常に家にいて身の回りの世話をしてくれる人が脈絡もなく死んだら、そりゃあ落ち込むよな!」
トゲのある言葉を突きつけられて、オレはかろうじて「そういう表現をするのはどうかと思う」と言い返す。のぞみには、オレが母さんを『自分の世話係』として扱っているように見えたんだろうか。我が身を振り返る。否定しきれないのがつらいところだ。
「心配すんなって。俺がママさんの代わりになるから。女は男より長生きするっていうしな!」
のぞみはガハハと豪快に笑って、オレの背中を叩いた。
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