二〇〇一年八月三十一日
夏休みが終わりかけている一日目
1-1
うるさく鳴り響く目覚まし時計を止めようとする。
「あいたー!」
女の子の悲鳴が聞こえて「んが!?」飛び起き。夢の中から、夢の外への脱出を果たした。自分の部屋だ。現実のオレはベッドの上に寝ていて、ベッドのすぐそばにいた女の子の頭を叩いてしまったらしい。
それはそれとして、なんでオレの部屋に女の子が?
「うぅー」
結んでいなければ肩ぐらいまでの長さがありそうなブラウンの髪を、左耳の位置にひとつに束ねている。こういう髪型、サイドテールっていうんだっけか。厚めに作られている前髪。ほどほどに日焼けした健康的な肌。唇をへの字に歪ませつつ、深緑色の瞳を潤ませて、右手でオレに叩かれた箇所をゴシゴシとこすっている。白地に青いストライプのティーシャツに、デニムのショートパンツ。この子の名前は……名前は、……起き抜けで頭が働いていないせいか、名前が出てこない……。
「もう! まずは謝れよな!」
自分の額に人差し指を押し当てて名前を思い出そうとしていたら、右肩を突き飛ばされた。確かに、そう。
「あ、ああ、ごめん……」
異性であるオレの部屋に上がり込んできていて、しかも朝。枕元の目覚まし時計を見る。その長針と短針で朝の七時を示していた。紛れもなく朝。
こんな朝早くから二人きりなんて、常識的に考えておかしい、と、思う。この子が姉だとか妹だとか、家族だってならまあ、あるかもしれないけれども、家族の名前が出てこないなんてことがあるものか。
昨晩の記憶がない。まるで今からこの“オレ”が始まるかのような……いやいや。オレは神佑大学付属中学校に通っている、氷見野雅人。あかちゃんではない。れっきとした、中学二年生の男。
開け放たれたベランダからそよかぜが入り込んでくる。風と共に運ばれてくるセミの鳴き声がやかましい。――なんで開いてるんだ? いくらなんでも不用心じゃないか昨晩のオレ!
「今日は俺の宿題を終わらせるんだろ! 夏休みだからって昼まで寝てるんじゃないぞ! 起きろ起きろ!」
大声で捲し立てながらオレの両肩をバシバシ叩いてくる。何度も叩かれたら痛い。無意識にでも女の子の頭を叩いてしまったのは、確かにオレに非があるとしてもだ。何倍にして返してくれているのか。
「わかったよ起きるよ!」
声を張り上げてみても、この子の名前は出てこない。会話の中でさりげなく聞き出すしかないか。これほど思い出せないとなると、オレって人の名前を覚えるのが苦手なタイプだったんだなと気付かせられる。
クラスにいたら目を惹く部類の、ややギャルっぽい感じの可愛さ。男の子とも女の子とも気軽にコミュニケーションを取りに行くし、こちらからも話しかけやすい感じの子。いわゆるコミュ強。
ところで俺の宿題とは。オレの夏休みの宿題はあとは日記だけだ。夏休みの宿題は〝夏休みに入った直後の七月中には終わらせる派〟のオレだ。あとは今日と明日と明後日の出来事を記入したら終わり。
「のんちゃん、まさひと起きたー?」
ガチャリと部屋の扉を開けて、オレの母さんが入ってきた。のんちゃん。この子の名前はのんちゃん。あだ名っぽいな……?
「起こしました!」
のんちゃんと呼ばれた女の子はサムズアップで答える。サイドテールがイヌのしっぽみたいに揺れた。オレとのんちゃん、どうやら親公認の仲らしい。わざわざオレを起こしにくるぐらいな女の子の名前をど忘れするか?
「早く着替えて、朝ごはんを食べなさい。のんちゃん、今日はごはん何盛りにする?」
のんちゃんは朝ごはんをうちで食べるのか。のんちゃんも当たり前のように「大盛りで!」と答えて、母さんの後ろに続いてオレの部屋を出ていく。
扉が閉まると、嵐が過ぎ去った後のような心持ちになった。ため息をついてしまいそうになる。目を覚ましたら可愛い女の子がベッドの横にいるなんて、普通ならなかなか起こり得ないシチュエーションであるはずで、どちらかといえば喜ばしい出来事だ。なのに、どっと疲れてしまった。このまま二度寝してしまおうかとも思うけれど、そうはいかない。
オレはベッドから降りて、学習机の隣のタンスからティーシャツとハーフパンツを取り出す。イライラするのはお腹が空いているせいでもある。孔子先生もそう言っていた。腹が減っては戦はできない。肩を落として、寝巻きのジャージ姿でベランダに近づいていって、引き戸を閉める。その前に、ピンク色のサンダルが足先を手前にして置いてあるので逆向きにした。見覚えのないサンダルだ。ベランダ用のサンダルは他にある。自分の記憶に自信がないので、ベランダに出てリビングの引き戸の前を見やると、うちの黄緑色なサンダルが置いてあった。
「うちのじゃないなこれ」
なんでよそのお宅のサンダルがうちのベランダにあるんだ。揃って置いてあったから、風で飛んできたにしてはおかしい。母さんに聞いてみるか。新しいのを買って置いてあるのかもしれない。しゃがんでピンク色のサンダルを拾い上げて、立ち上がって、オレはベランダの異変に気がついて固まった。
「……は」
壊されているということはつまり、隣の家で何かあったということで?
「母さん! ひゃくとうばん!」
オレは真っ青になって自室を出て、ダイニングの母さんに指示する。息子が慌てふためいているというのに母さんは落ち着いたもので「まさひとは何盛り?」とごはんの量を訊ねてきた。違うそうじゃない。
「大変なんだよ! ベランダが!」
「俺のサンダルじゃん!」
右手に持っていた茶碗を置いて、のんちゃんは俺がベランダから持ってきたピンク色のサンダルを奪い取る。
「俺の?」
「うん。今日は俺、ベランダから入ってきたから」
「ベランダから?」
「うん」
あたかもそれが当然であるかのようなトーンで頷かれてしまった。
「え、あの、
「破っていいぞって書いてあったから」
平然としている。
「あれは非常時に壊すものであって」
「パパとママが一年間の世界一周旅行に出かけていて俺が家に一人なのは〝普通〟は非常時に値しないか?」
助けてくれ。俺は母さんに視線を送る。母さんは「それで、うちでのんちゃんの面倒を見ることになったのよ」と味方してくれない。
事情はわかった。そういうこともあるだろう。オレが聞きたいのはそこじゃない。
「玄関から入らない?」
オレのこのツッコミは、至極まともなものであったと自負している。なのに、母ちゃんとのんちゃんは顔を見合わせて「何を言ってるのこの人……」とでも言わんばかりの表情を作っていた。
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