海まつりを無双せよ13
午後七時の空はまだ水色が残っているけれど、涼しい風は吹き始めて夕暮れを肌で感じる。あたりは薄暗いけれど日が落ちきっていなくて絶妙に明るく、夏の夕暮れに子供心が蘇ってどこか浮ついてしまう。
住宅街でのポスティングを終え、駅前のアーケードへ。ライトが焚かれ始めた店前をスーツ姿の大人と部活終わりの学生たちが行き交っている。声は嬉々としたものが多く、平日だけれど僅かにいつもより賑わいがあるように感じるのは夏のせいだろうか。
「はー、凄く疲れたよ」
並んで歩いていた氷室さんがうへーとそう言った。
今日のポスティングで氷室さんは頑張っていた。普段ろくに運動もしていないのにせっせとチラシを配り、人と出会えば笑顔で受け取ってもらえるよう慣れない小話をしていた。
きっとかなり疲れただろうなと労うことにする。
「お疲れさま」
「うん。でも、苦じゃなかったよ。やっぱり楽しい。知らない人と話せて、いい汗流して……」
隣で歩いていた氷室さんがすっと離れた。
「どうしたの?」
「い、いや、汗臭いかなって」
「今更?」
「やっぱ汗臭かったんだ!? や、やだぁ!!」
押し除けるように手をばっと前に出す氷室さんに笑う。
「臭くないって」
「本当?」
「本当」
事実そうで、むしろ甘い良い匂いしかしていなかった。
「そっか、良かった」
安心すると氷室さんはまた隣に寄ってくる。動きが小動物的で可愛らしい。
「匂い気にするなら俺の方が臭くない?」
「ううん、刈谷くんからは良い匂いがする。なんかこう、ほわぁ〜っとするような幸せな匂い。お日様みたいな」
「しないけど。普通に汗臭いけど」
「す、するよ」
「今度練習終わりの野球部室連れってってあげるね」
「汗の匂いが好きなわけじゃないよ!!」
けらけらと笑いあって歩く。雑多な声にセミの声、夏の音もする。だけど、すっと耳に届くのは障りのいい氷室さんの声ばかりだ。
たまたま手が触れる。氷室さんは偶然なのはわかっているのか、さして気にしていないよう前を向いたまま何事もなく話し続ける。だけど耳は赤くなっている。
氷室さんの歩きが早くなっていることに気づいて歩幅を合わせる。するとそのことに気づいた氷室さんは嬉しそうに微笑む。
ただ二人で歩くだけなのに、ちょっぴり甘い。顔を見るとちょっと照れ臭そうにはにかむ氷室さんとは気のおける仲なのに少しの緊張感がある。委員会の業務のあと帰路を共にするだけ。ただの同僚との仕事帰りでしかないのだけれど、祭りでりんご飴を片手に歩いていてもおかしくないような空気感がある。
「楽しかったなぁ……」
駅を目の前にすると、名残惜しげに氷室さんは足を止めた。
「ねえさ、刈谷くんは今日どうだった?」
「俺も楽しかったかなぁ」
「そっか。なら良かった。私だけが楽しいんじゃなくて」
ニコニコと笑って氷室さんは続けた。
「じゃあ刈谷くん、またね!」
「うん、また明日だけど、送って行こうか?」
「ううん! 大丈夫!」
そこで別れて構内へ向かう。
また明日、か。
あと何度また明日を言うことになるのだろう。
今日も楽しかった。軽妙な会話を交わして、甘酸っぱいやりとりをして。
海まつりの日が近づくことを惜しいと感じる。
それは氷室さんとの日々を大切に思う心の現れか、それとも別れを受け入れている心の現れか。
「あ、晩ご飯買わなきゃ」
改札を入る前に引き返し、近くのテイクアウト可能なお店に入る。夕方ということもあり、それなりに待ってから商品を受け取る。
また駅に戻ってきたとき、駅のベンチに座る氷室さんを見かけた。
まだ帰ってなかったんだ。
何やら険しい顔でスマホを操作している、と思ったらピコンとメッセージ受信の通知音が鳴った。
『無事帰れてますか?』
氷室さんは遠目に見てわかるほど緊張している。
メッセージの内容考えるのに一生懸命でまだ帰ってなかったのか。
氷室さんらしさにくつくつと笑えて来た。
『もう家だよ。どうしたの?』
そうメッセージを送った俺は驚かせようと近づくが、氷室さんの顔を見て足が止まる。
きゅっとスマホを抱き抱えた氷室さんは、心底幸せそうで、嬉しそうで、どうしようもなく可愛くて。
そんな氷室さんの顔がまた赤くなったり青くなったり目がバッテンになったりと忙しく変わる。大きく深呼吸してぽちぽちとタップすると、恥ずかしさを紛らわすように早歩きで電車に乗り込んでいった。
通知が鳴ってスマホに目を戻す。
『デート終わりのメッセージは意識してくれるってネットで書いてあったから試しただけです』
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