第16話 遭遇
「ハーディ、休憩して良いよ」
「はい、ありがとうございます」
ハーディスは喫茶店で働いていた。
テーブルを綺麗に拭き、椅子を整えてから休憩室に入る。
接客業は初めてで分からないことや戸惑うことも多いが、働き始めて四日目で業務はおおよそ形になりつつある。
喫茶店『ハピナ』はルミナスという女性がオーナーを務めるケーキが自慢の店だ。
手頃な価格で美味しいケーキが食べられると好評で、貴族や王宮にも献上することがあるらしい。
ハーディスは四日ほど前からホールスタッフとして働いている。
「ルミナスさん、その指、どうしたんですか?」
「あぁ、果物を切る時にやっちゃんだんだよ」
「見せて下さい」
ハーディスはルミナスの指に触れ、小さいが深い傷を治す。
「あら、ありがとね。……でもハーディ、この力はむやみに使っちゃ駄目よ。もしかしたら、危険なことに巻き込まれるかもしれない」
そう言われてハーディスは苦笑する。
「気を付けますね」
「あんたは美人だし、良い子だし、聖力もある。変な奴らに狙われるかもしれない。気を付けるんだよ」
ルミナスの言葉にハーディスは頷く。
労働初日からお皿を割ってしまい、聖力で直したところをルミナスに目撃されてしまったのでルミナスにだけは少しだけ聖力があることを伝えてある。
『きっと天使の生まれ変わりなんだよ。良い子が来てくれたわ』
そう言ってルミナスは喜び、みんなには内緒にすることを約束してくれた。
疫病神にならないように気を付けなければならない。
「ねぇ、ねぇ、ハーディ。あの話聞いた?」
休憩中に声を掛けてきたのは従業員のカエナだ。
「あの話とは?」
「ファンコット家の悪女よ」
その言葉にハーディスは背中に冷や汗をかく。
ハーディスは名前をハーディと偽り、この店で働いていた。
「えぇ、聞きました」
自分が父親から追い出されたことは既に噂になっていて、しかも噂には大きな尾ひれがつきもの。
妹からドレスや宝石を取り上げ虐げている酷い姉が遂に父親から家を追い出されたという話になり替わっていた。
物だけでなく、妹の恋人までも卑劣な手段で奪おうとしたらしい。
その噂には驚きましたね……。
「本当に酷い話しよね。天使様の姉なのに悪魔のようだなんて」
ぷんぷんと頬を膨らますカナンの横でハーディスは悟られないよう遠い目をした。
本当に、酷い話です。
ドレスや宝石を取り上げられたのも、虐げられていたのもハーディスの方だ。
恋人ではないが一ミリも慕っていない婚約者を奪われたのもハーディスの方である。
数日であっと言う間に噂は広まり、ハーディスはファンコット家の悪女となった。
正直、他人からこんな風に自分の悪口を聞かされるとは思わなかったので少しだけ傷付いた。
けれど、ここで私がその噂を否定しても怪しまれるだけですし。
家の中ではソマリと愛犬達が味方をしてくれていた。
しかし、この町の中でハーディスの肩を持つ者はいない。
ソマリや愛犬達にどれだけ支えられていたかを実感する。
何とも言えない孤独感にハーディスは小さく息をついた。
家に帰ったら愛犬達に慰めてもらおう。
「どうしたの? あ、もしかして疲れた? まだ慣れない?」
心配そうに顔を覗き込んでくるカナンはとても優しい仕事の先輩だ。
「いいえ、大丈夫です」
ハーディスは無理矢理笑顔を作って暗い思考を振り払う。
「あんまり無理しないでね。思った以上によく働いてくれるからどんどん仕事させちゃってるの。疲れたなら無理せず言ってね」
「ありがとうございます」
カエナの笑顔にハーディスは安堵する。
流石に本名を名乗ると雇ってくれる所がないと考え、ハーディと名乗ることにした。
姓はない者も多い町なのでハーディとだけ名乗った。
貴族でなければ自分の顔を知る者も少ない。
今の所、ハーディスを怪しむ者もいない。
ルミナスやカエナ、他の従業員も親切で分からないことは何でも教えてくれるので働くことが楽しいと思えた。
ここの人達とであればやっていけそうだわ。
まだ始めたばかりだが、新しいことを始めるのは気持ちが良い。
少しずつ仕事を覚えて、ここでの仕事に慣れていこう。
そんな風に思っていると店の方が騒がしく感じた。
いつもお客様で賑やかな店内だが、今は一際賑やかである。
「ちょっと見てくるわ」
店のいつもとは違う賑やかさが気になったカエナが休憩室を出て行く。
しかし、すぐに興奮した様子で休憩室に飛び込んできた。
「ちょっと! 来て、来て、ハーディ!」
「どうしたんですか?」
手招きされてハーディスはカエナと休憩室を出る。
廊下を通り、店に通じる扉を開けるとそこにはいつにもまして多くのお客さんが入っていた。
そしてハーディスは窓際のテーブルに座る二人組に目を剥いた。
どうしてあの二人がここに……?
ドクンと心臓が脈打ち、息を飲んだ。
従業員や他の客の視線を集める二人を見て、思わず後退る。
「見て、あの方! ファンコット家の天使様よ!」
カエナが興奮気味で二人を指す。
「あれがファンコット家の天使様よ」
「お隣は侯爵家のノバン様というのだそうよ」
「絵になるお二人ね」
「意地悪な姉に随分と虐められていたんでしょ? それでもアマーリア様は姉を悪くは言わなかったのですって。ノバン様はそんな妹のアマーリア様の優しさに…………」
もう結構ですわ。
噂の信憑性のなさをハーディスは改めて思い知る。
何だかノバンが随分といい男になっているし、アマーリアも天使さに補正がかかっている。
勝手に耳に入ってくる従業員や客達の言葉にハーディスは辟易する。
お願いだから私に気付かないで下さい。
ハーディスはそっとその場を離れようと廊下へ引っ込む。
「ハーディ?」
お願い、カエナ。今、私の名前を呼ばないで下さい。
心の中で呟くが遅かった。
逃げようとするハーディスとアマーリアの視線がぶつかってしまった。
「お姉様⁉」
驚き声を上げて席から立ち上がるアマーリアの視線がハーディスに向かう。
アマーリアの視線の先を追いかけて店内中の視線がハーディスに集まってしまった。
勘弁して下さい。
ハーディスは迷惑な妹と自分の運の悪さに大きな溜息をついた。
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