CASE 1 アリス・腰痛

    5


 リリーはムーンの言葉に驚いて立ち上がり、はたと気づいた。

「患者さんかもしれませんっ。こちらの方向には患者さんのために隠し目印がつけてあるんです。でも……」

 戸惑ったように視線が宙に浮く。小屋の庭には仰々しい甲冑と剣――明らかに不自然。

「とりあえず、家へ入りましょう! ムーンさんは塗装が乾いてないので気をつけて下さい。わたしは剣を……」

 段平を胸に抱えたものの、平均的な少女の体格をしたリリーでは足元がふらつく。二キロ程度の重さでも、武器の扱いを知らない素人が持てば重く感じる。そこに刃物という緊張感も加わる。

「うー……ふぬぅ……」という喉の奥から出る声に、ムーンはさすがに足を止める。

「私が待とう」

「いえっ、いいんです! 剣が……っ、汚れちゃい、ますし。扉は、私が……開けますから、ムーンさんは待ってて……下さい……っ」

 よたよたと幼児のような足取りで扉まで辿り着き、剣を支えながら苦心してハンドルを引く。部屋の奥にある暖炉のそばに剣を丁重に床に置き、リリーは肩で息をした。

「兵士さんたちはこれを片手で持ったりするんですよね……。しかもムーンさんは全身鎧で大丈夫なんですか?」

「二百年彷徨っているうちに鍛えられたのか、もう重さは感じない」

 感心するリリーと大真面目に答えるムーン。なぜか二人の間に落ち着いた空気が流れ、すぐに状況を思い出す。

「あああ、あの、ムーンさんは申し訳ないですけど、外の廊下に……!」

 リリーが言い終わる前に玄関の扉が開いた。若い女と杖をついた老女の二人が外に立っている。

「リリーちゃん、今いいかしら?」

 若い女の方が老女を支えながら言った。

 二人ともリリーと同じく簡素なスカート姿。頭にスカーフを巻いている。

 リリーは言葉にならない言葉をモゴモゴと口の中で発し、隣のムーンに視線を送ると、全身から力が抜けたまま動かなくなっていた。兜は少し下を向いている。置物のようだ。「このままでいる。気にするな」という小さな声がし、リリーはなるほどと膝を打った。

「大丈夫です。席に座って下さい。大変だったでしょう」

 リリーが身につけているエプロンのポケットから白いリボンが取り出した。長い髪が頭の高い位置で結われる。リリーはキビキビとした動作で壁に置かれた小さなテーブルの近くにもう一つ椅子を運ぶ。テーブルに据えられた椅子にはリリー、少し離れた席に来訪者の二人が座った。

 リリーは本棚から紙の束を取り出し、その中の一枚を机の上に置く。

「アリスおばあちゃん、調子はどうですか?」

 老女の方はにこにこと上機嫌な笑顔を浮かべる。

「暖かくなってから調子がいいねえ。リリーちゃんは大丈夫かい。不自由してないかい?」

 雑談を交わしながら、リリーは紙に何かを書き込んでいく。患者たちとリリーの椅子は対面ではなく垂線上に置かれている。リリーが机で書きものをしていても相手に背中を向けない仕様だ。ムーンは奇妙に見えた机と椅子の並びについて置物を演じるまま納得した。

「でも、食欲がないみたいで……。足腰も調子悪いの」

 若い方が横から口を挟む。アリスと呼ばれた老女とは対照的に不安げな表情。

「もう七十超えたからねえ……。どこもかしこもガタが来てるのよ。目も見えにくくなったしねえ。アイタタタ」

 老女は腰を摩るも困った素振りは見せない。世間話をしているかのよう。

 ムーンの知識では、人間の寿命は三十から四十だ。それより長く生きるものもいれば、二十代のうちに命を落とすものも多い。現在の事情は知らないが、それでもよく長生きしているものだとムーンは思った。

 リリーは墨壺に万年筆を時折浸しながら紙に記入する。素早く手を動かしてからペンを置き、椅子を二人に向かうように位置を変えた。

「おばあちゃん、お顔を見せて下さいね」

 次にアリスの身体を仔細に調べ始めた。眼や口の中まで観察し、脈を取る。細長い木製の筒を胸に当て、耳を近づける。流れるような診察にリリーの経験が表れている。

 終わった後は、「身体の調子はよさそうですね」と話しながら再び紙に記入をした。

「ちょうどいつものペパーミントとローズマリーの軟膏作ってあったんですよ。おばあちゃんがそろそろ来るかなと思って。持ってきますね」

 リリーはアリスに笑顔を向けてから、付き添いの方に視線を送り、「キャロルさん、ご飯について説明します。ついてきて下さい。これからは消化のよいものにしましょう」

 キャロルと呼ばれた付き添いをリリーが奥の扉まで誘導する。

「森歩きで疲れたでしょ。おばあちゃんは休んでて。今日摘んだばかりの薬草があるの。摘み立てフレッシュハーブティを淹れてくるね。運がいいね」

 人懐っこい笑顔を残してリリーはキャロルと共にドアの奥に消えた。居間には老婆と甲冑。途端に部屋が静かになる。

 ムーンはリリーの薬草師としての仕事を実際に目にし、内容を理解した。百聞は一見にしかず。言葉による説明では曖昧だったことが明瞭になった。

 ムーンの時代では森の奥で薬草を煎じるは「魔女」と呼ばれ、処刑対象になった。魔女の作る軟膏は、悪魔の集会に参加するために空を飛ぶためのものだ。しかし、リリーが言っていた軟膏はまったく別のものだろう。人間に害を与えるものではないはず。

 ムーンが思考を巡らせていると、「兵隊さん、兵隊さん」と老婆が呼びかけてきた。他に人間がいない中で該当するのはムーンのみ。老婆の視線はムーンに真っ直ぐ注がれており、勘違いというわけでもなさそうだ。置物のふりをする必要がなくなった。

「兵隊さん、リリーちゃんのお友だちかしら?」

「――そうだ。リリーに招かれてここにいる」

 アリスの口調はおっとりとしていて甲冑に驚いている様子はない。むしろ楽しげに続けて言葉を投げかけてくる。

「うふふ。リリーちゃんにこんな強そうなお友だちがいるなんて。昔話に出てくるような兵隊さんだ」

 一方のムーンは人間と一日に二人も話すことになるとは思っておらず、冷たい身体に熱が灯ったような感覚に陥った。一種の驚きなのかもしれない。人間に関わったことで、人間らしさが蘇ってくるよう。

「できたら、リリーちゃんを守ってあげてくれないかしら? あの子のことが心配なの。一人で頑張っているでしょ。ダン先生……あの子の育ての父親のことね……ダン先生が亡くなってから、無理をしているように見えてねえ」

 アリスの表情に少し憂いが混じる。

「父親とは血が繋がってないのか?」

「立派なお医者さんだったのよ。身寄りがなかったあの子を引き取って、ここで育てたの。さすがに女の子の赤ちゃんには手を焼いて、知り合いみんなでお手伝いしたわ。だから、リリーちゃんは孫みたいなものなの。もっと様子を見に来たいけど、もう足腰が弱くなっててねえ……。年頃の女の子一人じゃ大変だから、守ってくれる人がいればいいなと思ってたの」

 言葉を紡ぎながら、老女は慈愛に満ちた表情をした。

 ムーンには家族の記憶がない。人間の情というものは、二百年という間に流れていってしまった。リリーを孫娘のように大切に思っていることを表面上でしか理解できない。しかし、父親の薬草相談所を守ろうとする理由は納得できた。

「ああ、約束する」

 ムーンの簡潔な答えにアリスは顔を綻ばせ、「これで安心して、いつでもあの世に行けるわ。ありがとうね、兵隊さん」

 ムーンの言葉には深い意味はない。「守れ」と言われたからイエスと答えただけのこと。できないことを頼まれたわけではないからだ。それなのに喜ばれたので不思議だった。


    6


 リリーが戻ったのは部屋を出てから三十分後だった。付き添いのキャロルの姿はない。手にはコップと入れ物が乗ったトレイ。

「おばあちゃん、待たせてごめんね。キャロルさんは疲れてたから奥で休んでもらってるの」

 リリーは診察用のテーブルにトレイを置き、手のひらサイズの入れ物を手に取る。フタのついた丸い形の入れ物――薬壺だ。それをアリスに差し出す。

「痛むところに塗って下さい。綺麗な布で当てると、しっかり浸透するのでオススメです」

 診察はそこで終わり、あとはハーブティを飲みながら雑談が始まった。アリスは淹れたてのハーブティを幸せそうに飲んでいた。

「本当に美味しいねえ。いつも優しい味がするの」

「おばあちゃん、これからはに軟膏を届けてもらうね。身体を動かすことは大事だけど、さすがに森歩きは大変だわ。わたしも定期的に訪問するからね」

「おや、ありがたいねえ。キャロルにも悪いし、そうしてもらうよ」

 穏やかな光景をムーンは部屋の隅から眺めていた。かつては当たり前だったかもしれない人間の輪のようなものを新しく知った一時 ひとときだった。


    *


「それじゃあリリーちゃん、お礼は後日ブルネットさんに運んでもらうわね」

 来訪者の二人は玄関の戸口に立ってリリーに別れを告げる。リリーは玄関先まで見送りやって来てお辞儀をした。

「いつもありがとうございます!」

 アリスは杖に両手を置いて身体を支えつつ、「パンを作っておくからね」と片目を閉じた。

「うわあ、おばあちゃんのパン大好きっ」

 二人の姿が木立に消えるまで手を振るリリー。見送りが終わると、慌てた様子で後ろを振り替えってムーンに頭を下げた。

「ごめんなさい、ムーンさん! ずっと待ってもらって!!」

 落ち着いた薬草師としての顔は剥がれ落ち、狼狽えてムーンの元まで走り寄ってくる。

「いや、大丈夫だ」

 当のムーンは兜の頭を上げ、平然と答えたのだった。


    7


 再び二人は外に出て、甲冑の手入れの続きを始める。診察をしているうちに塗料は乾いていた。リリーは椀に入った白黄色の液体に布を浸し、甲冑の表面を丁寧に磨き始める。

「これは蜜蝋ミツロウという蜂の巣から取ったものと植物油を溶かして混ぜたものです。これで仕上げます」

 ザラついていた表面が徐々に光沢を帯びていく。素人らしくついた刷毛の後が誤魔化される。

「できましたっ」

 しっかりと整えられた甲冑は新しくさえ見える。太陽の光に照らされて輝いていた。

「ありがとう。調子がよくなったようだ」

 リリーは満足げに笑うと、小さく息を吸った。そして、ゆっくりと言葉を伝える。

「あの……ムーンさん、行く先がないのなら、ここで暮らしませんか? 屋根もありますし、狭いですが休む部屋もあります」

 ムーンには表情がないから黙っていれば反応は伝わらない。リリーの目が伏せられる。二百年も気がつかずに生きていたというのは、リリーにとっては悲しすぎた。一人ぼっちになった日のことを覚えているから余計だ。

「分かった」

 ムーンの答えは単純明快だ。飾り気がない。

「代わりに君の力になろう」

 取り繕う言葉がない分、リリーの心に直接届いた。答えを聞いた途端に晴れやかな笑顔を見せる。

「ムーンさん、これからよろしくお願いします!」


    8


 居間兼診察室の右隣には狭い部屋があった。ベッドとチェスト、テーブルが備えつけられている。壁には小さな窓が一つ。

「この部屋を好きに使って下さい。父の部屋でした。定期的に掃除はしています」

 リリーはムーンを部屋に通した。テーブルやチェストを確認する。既に窓の外は暗い。

「私は階段の上の屋根裏部屋で寝起きしていますから、用事があれは間呼んで下さい」

 言い終えてから、リリーはくすくすと笑う。

「どうした?」

「小さい頃、この部屋で読書する父の邪魔をしてたんです。結局、父はわたしに色んな話をしてくれたんですけど、その中にムーンさんの話もあったんです。この森には守り神がいるって。そのムーンさんがここにいるなんて不思議です」

 ムーンはやはり単調な声で「そうか」と口にする。こうして一日目の夜は穏やかに過ぎていってた。

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