CASE 2 ブルネット商店

ハンス・ブルネット

    1


 まだ森が朝霧に包まれている中、ムーンは井戸の滑車を回し、釣瓶桶つるべおけを持ち上げた。んだ水は手桶に移し変え、カチャカチャと金属音を鳴らしながら家へ持っていく。

 このタンザナ王国は内陸に位置するが、広い湖が幾つかあり、場所に寄っては小川も流れている。むしろ水源は豊富といえる。家の持ち主であるリリーの亡き父は、充分に水が確保できる場所に住居を構えたらしかった。

 ムーンは台所の水瓶に水を流し込み、もう一度同じ作業を繰り返す。朝一番に行うのが日課になっていた。

 ここに暮らすようになってから一週間。リリーの生活ぶりを見て、成すべきことを学んだ。まずは、力仕事。単純に少女が一人で暮らすには力が足りない。一人でも何とか工夫してやってきたらしいが、男手があった方が確実に楽になる。

 水汲みは重要でいて一番手がかかる。薪割りもそうだ。リリーによれば枝を拾ってしのいでいたらしい。食事の他に薬草の調合などに使用するから充分に確保しておくことに越したことはない。


 リリーはいつも朝早いうちに薬草摘みに出かける。春と秋の気温が安定している時期は収穫に最適だそうだ。だから、森の中を俊敏に歩く。体力が無尽蔵であるムーンでなければ、追いつけなくなるかもしれない。木の根や地面の凹凸があっても、問題なく避けていく。歩き慣れているから身体が覚えているそうだ。

 薬草採取用の大きなカゴはムーンが背負うことにした。リリーは身軽になった分、薬草に専念する――自然と役割が分担された。ハサミを使い薬草を切っていく。葉だけのものもあれば、茎ごとのものもある。採り過ぎることはない。乱獲してしまうと、二度と育たなくなってしまうからだ。

 腰を屈めている姿はムーンには無防備に感じた。何かに襲われるのなら、薬草を摘んでいるときに違いない。周囲の安全確認をするようになった。

 森を歩きながらリリーは言う。

「一番始めに師匠――父に習ったのは毒草です。これだけはダメだというものを教わりました。例えば、寒い時期に咲く白い花。珍しい時期に咲くものですから、わたしは可愛いと思いました。実際に飾りつけにも使います。名前をヘレボルスといい、触れると皮膚がただれます。口にすると意識に異常が出ます。知らなければ、無闇に触ってしまうところでした。他にも部位によって、効果が違うものがあるから気をつけないといけません」

 後ろについて回るムーンが「暗記しているのか?」と疑問を口にすると、リリーの頭が横に揺れる。

「いいえ、勉強中です。ただ、毎年の繰り返しですから、よく使う薬草は自然と覚えます」

 他にも採取しながら、リリーは色んなことをムーンに話して聞かせた。今は冬が終わったばかりの時期だから、新しい薬草の補充がたくさん必要なこと。しっかり乾燥させた薬草は半年以上は持つこと。秋になると草花が枯れてしまう冬に向け、採取でまた忙しくなること。ムーンは少しずつ薬草師の仕事について理解していった。


    2


 その日も薬草を採り終えて家に帰ってきた。薬草は大体は干してしまうが、細い葉のついたものを幾つか茎ごと除ける。保管用の瓶を取り出し、その薬草を手で千切って中に入れた。そして、台所の隅から瓶を取り出し、中へ注ぐ。

「これは患者さんからお礼にいただいたお酒です。薬草を漬けておくと、『チンキ』という薬になります。葉はローズマリーです。飲み物と割って飲んでもいいですし、肌につけてもいいです。お手軽なので常備しておくと便利です。長持ちしますしね。後はときどき容器を回して混ぜるだけです」

 朝の一仕事を終え、休憩にしようかとリリーが提案したところで、ムーンが片手を上げて遮った。

「誰か来る。一人……いや、二人」


 ほどなくして、玄関に備えつけてあるベルが鳴った。リリーが急いで居間に向かうと、何かを背負った若い青年が家へ入ってきたところだった。

「リリー、診てやってくれ」

 青年は背から幼い少年を下ろし、乱れた呼吸で伝える。大地を表すような濃い茶色の短髪で快活そうな人物だった。

「呼吸に難がある。咳が少し出るそうだ。この子の母親はすぐ来る」

 リリーはリボンを取り出して髪をまとめると、木の筒を取り出した。膝をついて少年の目線に合わせ、優しく微笑む。

「こんにちは! わたしはリリー。お名前は何ていうのかな?」

「こんにちは……。イオ……」

「イオくん、具合の悪いところをお姉さんと治そう! まずは、これでお胸の音を聞かせて。痛くないからね」

 はっきりと分かりやすい話し方で伝えると、イオの胸に木筒を当てる。位置を数回ずらして耳を寄せた。

「ハンス兄さん」

 リリーが声をかけると、言葉を続けるまでもなくハンスと呼ばれた青年は軽く頷く。「任せとけ」と奥の扉から出ていった。


    3


 ハンスは外の廊下へ出ると、両膝に手を置いて深く呼吸をする。顎からポタポタと流れる汗。 手の甲で拭う。

 背負ってきたイオは五歳だと聞いた。体重は十五キロ以上はある。力仕事は仕事柄慣れているとはいえ、森の中を三十分近く子どもを背負って歩くのは厳しいものがあった。咳の症状がある場合は、激しく身体を動かすのは厳禁だと知っていたから無理をしての行動だ。

 呼吸を整え、さらに奥の部屋へ行こうとし――後ろに気配を感じた。疲れきった顔で振り返ると、頭から爪先まで真っ黒の全身鎧が立っていた。

「どわぁッ!!」

 驚いて後退り、足がもつれてよろけて倒れそうになったところを踏ん張った。

「驚かせた。すまない」

 まるで骨董品アンティークのような甲冑はゆっくりとした動きでハンスに向かって頭を下げる。カチャリと腰に下げた剣が擦れて音が鳴る。

「同じ部屋にいれば子どもが怖がると思った」

 兜の下からは落ち着いた男の声がする。抑揚に欠けて聞こえるが、話す言葉は誠実だ。ハンスは体勢を整え、改めて甲冑に視線を送る。

「あんた、リリーの知り合いか? なんでここにいんだ?」

 ざっくばらんな口振りでも甲冑は気を悪くした様子はない。正しい姿勢のまま問いに答える。

「私はムーン。リリーの護衛をしている。一週間前からここに住まわせてもらっている」

 ハンスは兵士らしい律儀な対応に圧倒されつつも不信げな顔を甲冑に向けた。

「一緒に住んでるぅ?? つうか、何でそんな鎧来てんの?」

「ああ、これは――」

 ムーンは兜の前面についている面頬を額に当たるところまで上げた。本来なら顔があるはずの場所には何もない。空洞ではなく甲冑の表面に塗装している黒よりもっと深い夜がそこにあった。眺めていると吸い込まれてしまいそうな闇。ハンスは言葉を失い、兜の中を見続けることしかできない。

「私は人間ではない。リリーは人間だと言うが。人間の間では『朔月』や『おぼろ月』と呼ばれているそうだ」

 数秒の沈黙。数回瞬きをしてから、「知ってるぜ」とようやく声になった。

「オレの家は食品店をやっててな、調達や配達でこの森は通るんだよ。親父によく聞かされててな。『この森には主がいて、そいつのお陰で荷馬車を走らせることができるんだ。感謝しろ』ってさ。まさか本物に会えるとは思わなかったぜ。リリーの知り合いじゃなきゃ信じねえよ」

 ハンスが超常的な存在を前にしても逃げ出さなかったのは、ムーンが攻撃の意志を見せなかったことに一因がある。そして、人間は理解を越えた物事に直面すると、かえって動かなくなる傾向がある。立ち止まっている間に落ち着いたムーンの言葉が届き、ハンスに相互理解の機会をもたらした。

 ムーンは視覚よりも気配で物事を読む。初見からハンスが悪人ではないことを見抜いて身分を明かした。リリーと親しげだったこともある。

「私からも訊いていいか?」

「どうぞ」

 腹が決まったのか、ハンスは気軽げに片手をムーンに向けた。

「君はリリーとどんな関係がある」

 起伏のない声。単純な質問と受け取ったハンスは廊下の奥を指し、「頼まれごとしながらでいいか?」と口にする。指の先には台所がある。

「ああ」

 ムーンはハンスの後について向かう。

「あのさ……その中どうなってんの? 触ってもいい?」

 好奇心を剥き出しにして人差し指を見せるハンスにムーンは淡々と答えた。

「指が千切ちぎれるかもしれないぞ」



※ヘレボルス→クリスマスローズ

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