森の魔女
4
「大丈夫です? 痛くないですか?」
「大丈夫だ」
リリーとムーンの二人は家の外にいた。ムーンは椅子に座り、リリーは金属ヤスリを使って甲冑を磨いている。ムーンの甲冑は長い年月を経て傷や歪みが目立つ。それでもずっと森の中にいたとは思えないほどの耐久性だ。ムーンは「私の手足となってからは強度が上がったらしい」と見解を述べた。
リリーが思いついたムーンへのお礼とは、甲冑を綺麗にすることだった。最初は布巾で拭いてみたものの、ごく表面の汚れが取れただけ。変色している箇所や傷はどうにもできなかった。だから、いっそのこと整え直すことにした。
「知り合いの鍛冶屋さんに頼めた方がよかったんですけど、お仕事ですぐには無理でしょうから」
リリーは背中をヤスリで擦りながらムーンに話しかけた。
「いや、ありがたい。
胸には経年劣化で消えかけたタンザナの紋章がある。不恰好な凹凸が見えるだけ。現在の兵士たちも昔の装備だとは気がつかなかっただろう。そもそも二百年以上前の装備をすぐに自国のものだと判別できるものはいない。国への忠義をすっかり失ったムーンから許可が下り、崩れた紋章や
リリーが摘んだ草花は洗ってから浅ザルに広げ、軒下に吊るした。四枚にもなったので、ムーンも手伝った。夕方になる頃には乾燥しているという。
乾燥させた後は種類や部位によって異なるそうだが、火にかけるものもあるらしい。リリーはザルを吊るしながらムーンに説明した。そのまま二人は外で甲冑の手入れをしている。
「君は一人で大変ではないのか?」
ムーンの率直な質問にリリーは左腕を研ぎながら微笑んだ。
「そうですね。そうかもしれません。でも、わたしはここで育ったので、この暮らし方が普通なんですよ。ここへ来る患者さんたちからお代は取りませんが、食料や日常必需品を分けてもらってますから助かってます」
甲冑を研ぎ終わると、黒い塗料が入った円筒缶に
足の裏を残してすべてを塗り終わり、中身が残り少なくなった缶の中にリリーは刷毛を置き、額の汗を腕で拭った。
「終わりました。このまま乾かしましょう」
ムーンは全身を乾かすため直立し、研磨と塗装で疲れている様子のリリーに椅子に座るように促した。「立っていても疲労を感じない」と言葉を添える。
「あの……失礼なことを訊くようですが、休息や睡眠は取られているのですか?」
隣で椅子からムーンを見上げ、リリーは問いかけた。ムーンは真っ直ぐに前を向いたまま微動だにしない。まるで銅像のようだった。
「必要としないな。だが、すべての感覚を遮断して停止することはある。活動していることが煩わしくなる。睡眠に近いかもしれない」
「どこで休むんですか?」
「……木に寄りかかったり、茂みのそばに座ったりだ。人間に見つかると面倒だからな」
リリーは状態を想像し、口元に手を当てて考え始めた。この広大な森で人と遭遇することは稀だろうが、もしもの場合は問題に発展するかもしれない。避けた方がいいだろう。既にムーンは噂話として知られている。
「私からも訊いていいだろうか?」
「はい」
ムーンは淡々とした口調で疑問を言葉にした。
「薬草師とはなんだ? なぜこんなところで暮らしている。『患者』と君は先ほど言ったが、医者ではないのだな?」
そよそよと春らしい爽やかな風が吹いている。ただ漫然と長い時間を過ごしていたときと比べ、言葉や思考がムーンから自然と湧き出る。歯車が動き出したようだ。
「えっと、どこから説明したらいいのか……。父が医者だったんです。貴族の生まれで海外でも勉強した立派な人でした。ムーンさんの時代とは違うのかもしれないんですけど……農業でも商売でも高い税がかかります。特に医者は高価な薬を使いますから、余計にお金がかかるんです。とても平民には支払えない額です。自然と貴族が独占することになります。貴族にとって都合がいいんです。平民より優位に立つのに。人々を助けるために医者になった父は貴族に利用されることに耐えられませんでした。かといって、平民のために重い税を肩代わりすることもできません。家を捨て、職を捨て、ここに移り住みました」
リリーはどこか遠くを見ている。風で揺れる木々がさらさらと葉の揺れる涼やかな音を奏でた。
「身体の調子を整える植物のことを薬草、そういった成分を抽出したものを医薬といいます。医薬は病気や怪我に即効性の作用があります。タンザナでは、この二つは明確に区別されています。薬草は民間療法として捉えられているので税はかかりません。ご先祖様の知恵袋みたいな考え方です。そこで父は森で取れる薬草を調合して平民に分けることにしたそうです。お金を取ると商売になってしまい、また別に税を徴収されてしまいます。お金の動きがあると目をつけられてしまうので、あくまで知り合いにお裾分けするという体を取ってます。父は……三年前に亡くなりましたが……。わたしは父の後を継ぎたくて。父のような専門家ではないですが続けているんです」
微かな憂いを帯びた表情。話し終えた後に空を見上げたリリーの顔は爽やかだった。木々の間から見える空は澄み渡っていて真っ青だ。チチチ、と小鳥が視界に横切る。
ムーンは人気のない森の中で孤独に暮らす少女について考えた。一人で過ごすだけでも心許ないだろうことは想像に難くない。その上、擬似的な医者として働くなど苦労しているに違いない。けれども、リリーに悲壮感はない。前向きというよりは、肩肘を張っていないように自然だった。
「君は立派だ。きっと父上も喜ばれているだろう」
ムーンの視線は正面の森に向けられたまま。感情が含まれないがらんどうのような声。それでも、リリーは目を細めて口元を緩めた。
「ありがとうございます」
「それに私を見ても驚かない」
ムーンの言葉に相好を崩したリリーが「ああ、それは……」と答えようとしたとき、ムーンが前触れもなく腰を落とし、臨戦態勢に入った。
「左後方から人が来る!」
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