CASE 1 魔女と甲冑

出会い

    1


 タンザナ王国は気候が穏やかで緑に恵まれた国だ。四季によって様々な草花が咲き乱れる。西側には薄霧うすぎりの森と呼ばれる広大な土地があり、大部分は最西端の領地としてところどころ開拓されている。領主町に近い場所には農村が点在している。

 それより西は隣国ガルネキア共和国との国境がある荒地しかない。この二国は中世以前から関係が冷えきっていて、たびたび戦が繰り返されてきた。理由はいくつかある。その中で一番根深い要因は、元々は同じ民族だということ。その頃の特色を東が残し、西が発祥の地といわれている。まったく異なる国を双方は作り上げ、自分たちこそ正統な後継者だという主張がことの始まり。何百年も争いを続け、揚げ足の取り合い、利権を巡り、泥試合の様相を呈していた。地続きである限り争いの火種はなくならない。それは、世界のどの国でもいえること。

 二国は五十年前の大きな戦を最後に表向きは平和条約を結んだ。しかし、実際には表面上は見えなくなっただけ。貿易の妨害や他国との裏取引などは、かえって酷くなった。公にされていないだけで国境付近で小競り合いも続いている。

 そのため、タンザナ王国の最西端になるウェスタル領には多くの兵士が配置され、国境近くには駐屯地を構えている。


    *


 薄霧の森を甲冑が歩いていた。頭の先から爪先まで金属の板で覆われた全身鎧フルプレートだったが、甲冑は軽々と木の根を跨ぎ、地面の凹凸を飛び越え、苦心している様子もなく前へ向かっている。

 薄霧の森はモミやマツなどの常緑樹が生い茂り、常に薄暗い場所が多い。明け方は白い霧に覆われる。国境近くということもあり、兵士や商人以外は好んで通らない。

 甲冑は段平だんびら――幅の広い剣を腰にたずさえ、カチャカチャと金属音を鳴らしている。厳つい音がするにもかかわらず、リスなどの小動物は逃げることもなく、甲冑の近くをちょろちょろ平然と通っている。まるで、そこに何もないかのよう。甲冑の気配はそれほど静かだった。

 突然、遠くで複数の鳥が騒がしい鳴き声を上げて羽ばたいた。いつも穏やかな森では珍しい。甲冑は鳴き声のした方向へ迷うことなく視線を向けた。


 少女は木の根につまずいて地面に倒れた。その拍子に膝が擦りむけて血が滲む。その後を二人の男たちが迫る。青い衣装に上から胸甲きょうこうを身につけた兵士。

「あのっ、わたしはただ薬草を摘んでいただけで……!」

 怯えながら釈明をしようとする少女に、兵士たちは気味の悪い笑みを浮かべるだけ。言葉が届いていないことに気がついた少女は、地面にへたり込んだまま後退る。怪我をした少女と屈強な二人の兵士では、上手く逃げられたところですぐに捕まってしまうだろう。少女は震える唇を噛み、青褪めていた。

 葉の揺れる音がした。獣か?、と兵士たちが疑問を抱く前に、木立の間から猛然とした勢いでくすんだ銀色の何かが飛び出した。数メートル先に現れたのは、抜き身の剣を持った甲冑。深い森の中に全身鎧がいる――異様な光景に兵士たちは我を忘れて身を固くした。

 兵士たちが正気を取り戻す前に甲冑は大きく踏み込んで矢のように駆けた。全身鎧はどんなに軽いものでも二十キロ以上。人間の動きではない。

「まさか宵の……」

 兵士の驚嘆の言葉は最後まで続かない。甲冑は力任せに振り上げた剣を横一線に払った。剣とは防具を身につけた相手を突いたり叩き潰したりするもの。その一振だけで立派な体格の大人二人が叩き飛ばされた。地面に倒れた後は微塵も動かない。

 少女はその攻撃に驚愕の眼差しを向けていたが、数秒の間を置いて地面に倒れたまま頭を下げ、「ありがとうございましたっ!」と丁寧に礼を述べた。

 太陽の下で輝く麦の穂に似た明るい色の髪。緩やかな波打つ柔らかそうな髪。緑色の瞳は澄んで宝石のよう。年頃の娘らしい愛嬌のある顔立ち。健康的な手足をした十代後半の少女。見た目で庶民と分かる麻布の質素な上下、首にはスカーフ、足元まで届く白のエプロンを身につけている。背中には植物で編んだカゴ。

 甲冑は頭を上下左右など多方向にぎこちなく動かし、手を喉に当てた。動く度にカシャンカシャンと金属が擦れる音がする。奇妙な動きに少女が不思議そうな顔で見ていると、「あ……」と声が漏れた。若い男性の低い声だ。それをきっかけに言葉が続く。

「怪我は、どう、だ」

 少し覚束ない抑揚に乏しい発音。少女は甲冑の言葉に疑問を持つことはなかった。金属の板越しに話しているから多少聞き取りづらいのも当然のこと。ましてや恩人だ。

「擦りむいただけです。大丈夫ですよ」

 微笑んで明るく言った。もちろん膝はじんじんと熱を持って痛い。それを表には出さなかった。

 甲冑は少し黙り、今度は前より流暢りゅうちょうに言葉を紡いだ。感情が籠っていない無機質なものだったが。

「荷物もある。家まで連れていこう」


    2


 甲冑はカゴを背負い、少女を横抱きにして森の中を歩く。

「すみません。お世話になってしまって……」

 擦りむいただけといっても、少女の膝小僧は強く地面に打ったのか血で染まっていた。無理して歩いていたら、酷く痛んだだろう。

「いや。こんな森の中で何をしていたんだ?」

 少女を運んでいるというのに甲冑の足取りは軽い。体格は見た目には分かりづらいが、特別に大柄というわけではない。少女の指示に従って道なき道を進む、

「薬草を摘んでいたんです。春なので沢山生えますから。まさか、こんなところまで駐屯兵がやってくるとは思いませんでしたが」

 雑草を踏みつけるザクザクという音と甲冑の金属音が森の中で流れる。木々の間からわずかに射し込む太陽の光はまだ明るい。

「春……。そうか。駐屯……兵? 先ほどの男たちは追い剥ぎじゃないのか?」

 冷たい声にご微かな疑問の色が混ざる。少女はその言葉に首を傾げた。

「はい。タンザナの制服を着ていましたし、国軍の方で間違いないと思いますよ。ここにいたということは国境の駐屯地兵の可能性が高いです」

「制服……。確かに追い剥ぎにしては高価な身なりをしていたが。あんな軽装で?」

 少女は目を丸くした。兵士について詳しくはないが、制服の上から胸当てをし、マスケット銃と剣を提げた兵士を軽装とは思えなかった。目の前にいる全身鎧に比べれば、どんな装備も軽装になってしまうかもしれないが。

「あなたはもしかして……あ! そこは右です」

 低木の茂みが視界に入ったことで少女の言葉は最後まで続かず、木立の一方を指差す。

「よく分かるな。私にはすべて同じ森に見える」

「ずっとここで暮らしてますから。詳しいんですよ、わたし」

 奇妙なところが多い甲冑男を前にしても、少女は自然な態度でふふんと鼻を鳴らして得意げに笑顔を浮かべた。悪戯っぽい表情が仔犬のよう。


    *


 十五分ほど歩いたところで突然開けた土地に出た。木製の枠組みに土壁の三角屋根の民家。周囲には井戸と小さな畑。そこだけ木が伐採され草が刈り取られ、光が射し込んでいる。湖や河川などを含む五〇〇〇平方キロメートルある森の中に隠された家だった。

「ここでいいのか? 家族は?」

「家族はいません。わたし一人で暮らしています。ここまでありがとうございました。お礼にお茶をご馳走しますので、どうぞ中に入って下さい」

 甲冑は地面に下りようとする少女を制し、そのままの状態で家へ入った。戸の奥には居間らしき部屋がある。しかし、ただの民家にしては変わった様子だ。暖炉や机、テーブルの他に壁際に並べられた棚には数え切れない本が詰め込まれている。ただの平民では所蔵できない量だ。家具の位置も少し違和感がある。部屋の端に小さなテーブルがあり、壁に向かうように椅子が一つ。少し離れた場所に椅子がもう一つ。客間を兼ねているにしてもおかしい。

「あの、奥の扉から左の部屋に行ってもらえませんか? そこで足を手当てします。そうしたら、その……自分で歩きますから」

 少し頬を赤らめながら口ごもる少女に甲冑は頷き、部屋の外にある廊下からすぐ左隣の部屋へ向かう。扉のハンドルを引くと、また雰囲気の違った部屋が出迎えた。壁には複数の棚がある。円筒状の陶器の壺が綺麗に整列しているものもあれば、小さな引き出しが碁盤目状についたものもある。中央には大きなテーブル。上にはすり鉢や奇妙な形のガラス、壺のようなもの、天秤――様々な道具がある。そして、扉を開けた瞬間に漂う緑の独特な匂い。

 それまで感情が見られなかった甲冑は初めて動揺したらしい。仮面越しでは表情は分からないが、足が止まって身体の重心が後ろにずれた。そして、小さくもはっきりとした滑舌で言った。

「魔女か!」

 少女は呆気に取られた顔をしてから、口に手を当ててころころと笑い、目尻に浮かんだ涙を拭いた。話そうとしても笑いがまだ込み上げるらしく、途切れ途切れに説明をする。

「ちがいます……ふふっ。説明しなくて……ごめんなさい。ここは……薬屋なんです。いえ、お店ではないのですが。わたしは薬草師、のようなものです」

「薬草師……」

「それにしても、魔女だなんて。魔女が信じられていたのは、百……二百年くらい前ですよね?」

 肩を震わせる少女からは悪意は感じられない。甲冑の言葉を冗談か何かだと思っているようだ。しっかりした振る舞いの少女は笑うと年相応の娘に見える。

 少女はまだ解せない様子の甲冑の腕から降り、少し足を引きずりながら棚に向かった。棚から取り出したのは、壺を一つと白い布が幾つか。沢山並んでいる中で迷いがない。その布で膝から血を拭き取る。壺の蓋を開け、中に入っている液体を傷口に塗り、残った布で膝を覆う。

「すみません。お待たせしました。食堂にご案内します」


 3


 食堂は二人のいた部屋の向かい側にあった。前の二部屋に比べると広さは半分といったところ。かまどや作業台が並び、その周囲には調理器具や調味料が置かれ、床には樽や水瓶が置いてある。

 少女は部屋の奥にある食卓に甲冑を座らせ、キッチンに向かう。火打石を火打金で叩き、かまどの中に置いた枯草の上に火花を散らす。小さな炎がついたところで小枝を中に入れ、火種を育て、最後に薪をべた。水瓶から水を注いだ小鍋を火口に置き、湯を沸かし始めた。その間に慣れた手つきで食器や茶筒らしきものを用意する。

「すぐできますからね。甘いものはお好きですか?」

「いや、食べ物はいい。立派な設備だと思うが、貴族というわけではないんだな。こんな森の中で暮らしている」

 カチャカチャと食器が鳴る音がする。甲冑からは少女の背中しか見えない。

「――立派……ですか? 確かに父が家を遺してくれたお陰で不自由はしていませんが……。わたしは庶民ですよ。親は世捨て人なんて冗談で言ってましたけど」

 甲冑は首を下へ傾けた。人間とは久々にまともな会話をする。だから、世間とは多少のズレがあっても不思議ではない。しかし少女の言葉から察するに、根本的な何かが違っている。

「私は……」

 甲冑の下から小さな呟きが漏れる。長いこと思考を放棄してきた。「この身」になって初めて我が身を振り返ろうとした。

「お待たせしました。ハーブティーです」

 淡黄色に染まった液体が揺れるカップが甲冑の前に置かれる。漂う緩やかな湯気が淹れたてということを表している。

「助けていただいて感謝をしています。街道近くで薬草を摘んでいたら、先ほどの兵士に見つかり、逃げていたところだったんです。ちゃんとお礼をしたいのですが……」

「君に訊きたいことがある」

 甲冑はカップに手をつけずに少女に兜の正面を向ける。

 少女は真剣な顔をした後に我に返り、「自己紹介がまだでした」と背筋を正した。

「リリー・ダンディーノ・ソエル。父の後を継いで薬草の調合を行っています。医者ではありませんので、近隣の方から無償で相談を受けています。リリーと呼んで下さい」

 深々とお辞儀をした肩から柔らかそうな髪がさらりと流れ落ちる。頭を上げると、曇りのない笑顔を甲冑に向けた。甲冑は少し黙ってから言葉を返した。

「私は……私は、名は失った。ガルネトとの戦で負けて以来、

 甲冑の手が兜の正面で顔を覆う面頬めんぼおに触れた。そのまま上げるとカシャンという金属音が鳴る。普通ならそこに素顔が隠されている。彼の兜の下には文字通り何もなかった。暗闇がそこにあるだけ。空洞ではない。確かに何かが――夜の闇を兜の中に詰め込んだようなわだかまりがそこにある。

 リリーは目を見開くも、静かにその場で佇んでいた。甲冑から逃げ出すこともなく兜の下を凝視し、一度目を閉じた後は平静な表情へと戻る。

「すまない。驚かせた。言葉で説明するよりも早いと思った」

 甲冑はカップを手に取り、兜の中にハーブティーを注ぎ込んだ。暗闇の中に液体が音もなく消えていく。最後の一滴まで流れると、空のカップがテーブルに置かれた。乱雑な行動でも液体は甲冑から少しも液体は溢れない。

「恐らく戦で私は死んだのだ……と思う。明確な記憶はないが、気づけばこの身体だった。鎧と身体が一体化したような状態だ。頭だけじゃない全身がこうだ。生物としての機能を失ったらしい。食事を必要としない。腹も減らないし喉も乾かない。帰るところもなく、ずっとこの辺りを彷徨さまよっていた。数年と思っていたが、話を聞く限りは数年ではないんだな。リリー、戦から何年経ったか君に訊きたい」

 リリーは甲冑の足元を見た。液体を溢したように見えたのに床は濡れてもいない。

「あなたが出征した戦がいつのものだったかは分かりません。でも、最後のガルネキアとの大きさ戦は五十年前です」

「五十年……」

 甲冑の空虚な声が食卓に響く。空のティーカップに兜の大きな影が落とされる。リリーは兜の奥を真っ直ぐ見つめて言葉を続けた。

「もしかしたら、あなたは二百年以上前の人なのかもしれません。私のことを魔女だと思ったのなら。昔は薬草から薬を作る者のことを魔女だと言ってうとんでいました。今は、魔女は存在しないものだと知られています。あなたのことをこのウェスタル領ではおとぎ話として語り継がれています。『争いのあるところに裁きの甲冑あり』と話が広がり、不用意にこの森に入るものはあまりいません。争いをしていると、甲冑が懲らしめに来ると信じられているからです。『よいの君』、『冥界の騎士』、『朔月さくげつ』、『おぼろ月』――あなたを呼ぶ名前は幾つかあります。あなたがそうだったんですね」

 淀みなく流れる小川のごとく静かな問いかけ。それ自体がおとぎ話の語り口のようだった。耳を傾けているのが子どもたちであれば、続きを強請ねだっていたかもしれない。

 甲冑は微動だにせず、過去から今までのことを思い出そうとしていた。人間でなくなった日のことは、断片的で言語化できるものではない。それより前のことは、もっと思い出せない。気がつけば戦場だった荒野に独り立っていて、無我夢中でその場に転がる剣を取ったことは辛うじて記憶している。その後の時間は――リリーの意見からすれば二百年――現実感のない夢の中にいるような、あるいは水の中から外を眺めているような、曖昧な景色の中にいた。

 川に映る己の姿を目の当たりにし、人間でなくなったことは確実だった。これでは人里に向かうわけにはいかない。半ば途方に暮れ、森の中を彷徨っていた。

 感覚は人間だった頃と明らかに変わった。甲冑と一体化しているからか、特に触覚と味覚はないのも同じ。他の感覚も引きずられるように鈍くなっていった。その代わりに気配を読むことが鋭くなった。有機質も無機質も、すべてのものにはそれぞれ異なる気配がある。空気の流れや温度差を感知できるようになった。それは昼も夜も関係ない。だから、木々が生い茂る森の中でも遠くの異変を感じ取れる。

 甲冑が黙っていると、リリーは心配そうな目つきをした。表情の判断がつかないから少し戸惑った顔もしている。追憶から我に返った甲冑は兜を少し上向きにして話し始めた。

「すまない。私がそう呼ばれていたのは知らなかった。私は、私のことをほとんど知らない。君たちの方が詳しいのかもしれない。二百年の時が経っているなら、やはり私は人間ではないんだな。人間だった頃の記憶はあまりないが……。ただ、過大評価というものだ。私は騎士でも何でもない。貴族ではなかった。貧しい生まれ……だった気がする。記憶はなくとも常識といった知識はある。二百年前のものだが……。ほとんどが貴族で構成される軍隊に招集される庶民は、ただの数合わせの壁役だ。まともな武器は持たされない。鍬や農業用フォークだ。恐らく私はそのような取るに足らない者だった。仰々しく呼ばれるほどの存在じゃない」

 甲冑の声は淡々としていて感情がこもっていない。面貌が上げてあっても金属で反響したややくぐもった声だが、余計な抑揚がないだけに聞き取り易い。リリーは黙ってそれを聞いていた。

「それに私は争いを潰していたわけではない。ただ怖いのだよ」

 無機質な言葉が続く中から唐突にはっきりとした感情を表す単語が出てきたことで、リリーから疑問の声が上がる。

「怖い?」

「ああ。私は敗兵。酷い目に遭った。それだけは恐怖として私の中にずっと残っている。だから、戦が、争いが、怖いのだ。特に夜になると平静ではいられない。恐ろしさから逃れるために剣を振るっていたに過ぎない。なぜこんな幽鬼のような姿になってまで存在しているのか分からない。心臓はとっくに止まっているというのに。私はなぜ……」

 甲冑の言葉はそこで途絶えた。怒っているのか、悲しんでいるのか、はたまた別の感情が渦巻いているのか、外見からは伝わらない。

 席に座ったまま動かなくなった甲冑にリリーは歩み寄り、兜の奥に目線を合わせて屈んだ。まるでそこに目があるように笑いかける。エメラルド色の鮮やかな瞳が甲冑の中にある暗闇を捉える。

「わたしは幼い頃に父からあなたのことを聞いていました。この森には守り人がいると。悪いことをする人たちを退治してくれる。だから、わたしたちは安全に暮らせるのだと、教わりました。本当のことだったんですね」

 リリーの顔に春の日差しのように温かい笑顔が浮かぶ。この世ならざる者に少しも気後れしていない様子だった。

「あなたは人間です。わたしは追いかけてきた兵士の方が余程怖かった。気がついていますか? 確かにあなたの姿や声から感情は読めませんが、言葉から優しさが伝わります。わたしの怪我を心配して、家まで連れてきてくれた。こんなにもあなたは優しい。だから、わたしはあなたを人間だと思います。あなたがいてくれてよかった」

 迷いない言葉に甲冑はリリーの中に希望を見た気がした。出口のない迷宮の中を歩き続けていたところに道筋が現れたよう。今まで逃げ出すか攻撃をされるばかりの甲冑を見ても怖気づかなかった少女に問いかけたのは正解だった。

「この姿になってから初めて話をしたのが君でよかった」

 甲冑は兜に手を伸ばし、面頬を元の位置に戻した。声は空虚でも率直な言葉だ。無為に過ごしていた時間よりもリリーとの会話は有意義だった。

「ああ……っ」

 突然リリーは大きな声を上げて頬に手を当てた。大きな眼をくりくりと宙を泳ぐ。

 甲冑はその様を見て立ち上がり、反射的に剣のつかを掴む。

「どうした?」

「お礼……。これではお礼になってないです! お茶もお菓子も口にしないのなら、どうすれば??」

 拍子抜けをする言葉が続き、甲冑の手から剣が離れる。うんうんと唸り始めるリリーを前に棒立ちになった。考え込む姿を無言で見守る。

「薬草もダメ。兵士さんの為になるもの……あっ」

 リリーは視線を甲冑に戻し、「あなたを何と呼べばいいですか?」と首を傾げた。

「名前は思い出せないからな。君が好きに呼べばいい」

 リリーは下を向いて彼の通り名を呟き、少し考える素振りを見せる。それから、「それではムーンさんと呼んでもいいですか?」と言ったので、名もない甲冑――ムーンは深く頷いた。

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