scene 18 : アトンで、エスポワれ

 文野さんは、まずキャンプ用のテーブルを蹴倒した。次にわたしの首元を掴んで、その後ろに投げ込んだ。力があるとは言っていたが、ぬいぐるみか何かをそうするように持ち上げられたので、ちょっと驚いた。わたしはお尻から着地する。彼女もひらりと飛び越えて、音もなくこちら側へ。

 疲労の色が窺えた。

「だ、大丈夫?」

「今のわたしを見て分かるだろ」怪我だらけだった。左手と銃を縛り付けているネクタイを解くと、銃がぽろりと落ちた。銃自体も傷だらけだった。持ち手の底が割れていた。「今日は星の巡りが悪いらしい」

 ジャケットを脱ぎながら、彼女は言う。ベストの脇腹に切り傷ができていた。血が滲み出している。表情からすると深くはなさそうだったが、痛みはあるようだった。

「こんな状態じゃ、あんたを守ってやれない」

「守ってくれなくて良いよ」とわたしは言った。物事には順番がある。「あのひとは、文野さんを狙っているんだから。文野さんがちゃんと文野さんしてくれれば、わたしは大丈夫」

 果し状で指名されていたのは、文野さんだった。わたしではない。

 逆に言えば、文野さんが負けてしまったら、わたしもダメということだ。 

「……あんた、自分が何言ってるのか分かってるの?」

「あなたが自分のこと見失ってるのも分かってるよ」とわたしは答えた。「でも、わたしは今の文野さんのことしか知らないんだよ。昨日の今日のことしか知らない。笑ってる文野さんしか知らない」

「あんたの目の前でひとを殺してるんだぜ?」

「忘れちゃったよ」

「ハロー、倫理?」

「ただいま留守にしております」わたしは言った。失敗した。彼女はドン引きしていた。「……そういうことは、後で考える。ちゃんと考えるよ。でもそのためにも、今は文野さんとわたしの二人が生き残らなきゃならいんだよ。ここを切り抜けなきゃダメなんだ」

「無茶言うなよ」と彼女は言った。「あんたのために、最後の力も使い果たしたんだ」

 彼女は何かを掴むように、右手を開いたり閉じたりした。あまり力が入っていない。特に人差し指がダメそうだった。震えている。握力が足りなくなっているのだ。長時間に渡って、何かを握りしめていたりするとそうなると聞いたことがある。

 考えられるとすれば、立て続けに銃を撃ったせいだった。その衝撃をあまりに受け続けたせいだった。そしてナイフとかち合ったせいでもあった。彼女の中に、いくつか診断結果が浮かんでくる。わたしのいなかったシーンを彼女は思い浮かべる。

 文野史織は、今、銃が撃てない状態にある。

「その最後の力は、なんのためだったの?」とわたしは尋ねる。

「あいつを仕留めるための――」

「あんな醜態を晒しといて? 祈るみたいなポーズだったのに」

「それは……」と文野さんは言いかけて、首を振る。「どうでもいいだろ、あたしの命なんて。どうせいつ死ぬか分かんないんだ。あたしの話はいい。問題はあんたの命だ。万が一、ここを切り抜けられたとしても、ふつうの生活には戻れないんだよ」

 そんなこと、とわたしは笑う。

 今にはじまったことじゃない。

「大丈夫だよ。もともと、”ふつう”にあなたは含まれない。わたしも含まれない。そんな場所なんてどこにもなかった。わたし達は割り切れない。各々強度の差はあれ、わたし達二人でやっていくしかないんだよ。含まれない同士。シーソーはもうはじまってるんだ」

 それは、いつか彼女の語ったことだった。いつかと言っても、出会って昨日今日のわたし達だ。昨日でなければ今日しかない。つい数時間前の出来事だった。

「あなたが巻き込んだことなんだよ、文野さん。全部あなたのせいなんだ。だから、あなたには生きてもらう。途中下車は許さない。ちゃんとあいつを倒して、生き残ってみせてよ」

「でも……」

「でもじゃない!」わたしは彼女の両頬を挟んだ。唇がむぎゅっとなる。「しっかりしてよ、〈きまぐれトリガー〉、文野史織! 自分の名前に自信がない? 誰かが分からない? わたし達、まだ十七歳なんだよ!」

 そんな仮面をつけるのは初めてだった。

 しかしはじめたからには、続けなければならなかった。

「わたしを根拠にしろ、文野史織。これからは、わたしがあなたの名前を呼ぶ。今まで呼ばれてきた回数より多く、他の誰よりも多く、何度でも――あなたの名前が自明になるまで」

 恥ずかしくないわけなかった。でも彼女の目から視線を外すことはできなかった。傷ついた猛禽類のような目をしていた。この子は、人間の世界を知らなかった。わたしだって知っているとは言えないが、それ以上に彼女は無知だった。ただ躾けられたように、獲物を狩ってきたのだ。おそらく前世は鷹とか鳶だった。魂の一部もそうだった。

 けれども、心は、身体は、どうしようもなく少女なのだ。

 わたしと同じ。

 なんだ――とわたしは思う――同じところもちゃんとあるんじゃないか。

 文野さんは目を閉じた。まつ毛が長い。唇が突き出された格好だった。

「むぎゅう」

「なに?」

 手をどけろ、と文野さんは言っていた。わたしは従う。

 彼女は目を開けた。

 きれいな瞳がそこにあった。洗い落としたような瞳だった。

「具体案はどうする」

「それは文野さんの専門でしょ」

「銃が撃てないんだ。持つだけで精一杯」

 左手をジャケットでぐるぐる巻きにしながら、彼女は言った。

「それなら、大丈夫」とわたしは言う。「わたしは〈ほんのりサイキック〉、隅方いい子だから」

「は?」

「任せてよ」と胸を張る。

「いやいや、なにそれ――〈ほんのりサイキック〉?」

「あのね、恥ずかしいんだよ、これでも」

「面白そうだから、後で聞くよ」と彼女は言った。「今は、恥ずかしついでに手を貸してくれ」

 彼女はベストのボタンを外し終わっていて、シャツのボタンを外しつつあった。すでに二つ開いていて、三つ目のボタンを彼女は外す。豊かな谷間が開けた。羨ましくもあり、多少憎らしくもあった。

 わたしの視線に気づいて、彼女は睨んでくる。

「勘違いしないでよ。”右胸の銃を取ってくれ”って言ってるんだ」


・・・♪・・・


 文野さんはキャンプ用テーブルを飛び越える。迂回しても良さそうなのに、彼女はわざわざ助走抜きで垂直に跳んだ。見栄っ張りらしい。左腕はジャケットでぐるぐる巻きにされていて、右手に持っている銃には力が入っていない。

「遺書の打ち合わせは終わったのか?」と男は尋ねた。

「待たせたな。希望したか?」と文野さんは言う。

「なんだそれは」

「『巌窟王』のもじりだ。ちょっと長いが読んでおけよ。『モンテ・クリスト伯』で探せ」

「どっちが正しいんだ?」

「両方だよ。原本が一緒でも、訳者によって変わってくるって例のひとつだ」

「……さっきと様子が違うな、おまえ」

「”おまえ”じゃない。どうやらわたしは、文野史織らしいぜ」と文野さんは言って、右手の銃を彼に向ける。焦点は定まらない。その不規則な振動の中で偶発的に狙いがあったとしても、今の彼女にはトリガーを引く力がなかった。だから、これはただのポーズだ。

「何があった? あの女のせいか?」

「想像に任せるよ。地獄で反芻しろ。――が、まあ、あんたの言葉を借りるなら、百合百合したところだ。こう使うのか? いや違うな、これからする。ずっとしていく」

 わたしには彼女の背中しか見えない。文野さんがどんな表情をしているのか、わたしには見えなかった。けれども、彼女の言葉には熱があった。胸の内に火が灯っている。

「心配させて悪かった。ちゃんと生きてやることが見つかったから、安心してくれ」

「ほう」と彼は息をつく。「それは昂るな。〈きまぐれトリガー〉文野史織と百合がひとセットか。オマケはついて来るのか? 希望を手折ってこそ、離別ものは輝く」

「”残念ながら”、ってやつだ。なぜなら、あたしは諸事情により、ここに宣言する。あんたのステータスは以下のように変更された――」

 深く息を吐き、吸う。それが最後の息であるかのように、愛おしさすら感じられた。


「――あんたは、決定的に、”気に入らない”」


 断言するが速いか、彼女は息を止めて駆け出した。

 獲物を見つけてダイブする鷹を思わせた。

 男はナイフを投げる。それは気負わない一本だった。わたしが来るまでの文野さんには、それで十分だったのだろう。慢心が見えた。

 文野さんは、それを紙一重で回避する。頭を少し傾けただけで、速度は落とさない。

 男の顔に笑みが浮かんでくる。

 彼はもう一本ナイフを投げた。今度は最高速。全力という自負があった。文野さんのコースも直線だ。彼は顔面を狙っていた。そして心を読むまでもなく、文野さんにはそれが分かっていた。なおも彼女は速度を落とさない。それどころか更に加速する。だいたい、短距離走にも、助走は必要なのだ。

 右胸にあった銃の腹をナイフが掠める。

 握力はない。しかし体幹までは死んでいない。

 彼女は強く踏み込む。トップスピードの勢いを腕に流しこんで、彼女は銃を投げつけた。意趣返し。

 そして同時にまたも駆け出した。

 男はナイフを持った手で銃を払う。

 その時にはすでに、距離はほとんどなくなっている。

 彼はそれ以上、ナイフを投げなかった。そんな距離ではない。牽制なんてもはや必要なかった。本命を叩き込むだけだ。彼は大振りのナイフを突き出す。

 文野さんはくるりと回る。踊るような左回転だった。ジャケットでぐるぐる巻きの左手で、男のナイフを持った腕をいなす。合気道か何かの要領。

 男は抵抗しなかった。逆にその勢いを利用する。小さく蹲っている文野さんを飛び越えて、着地する。図体の割に身体がよく動く。両足が地面に触れたかと思えば、バネが弾けるようにして跳び上がっている。振り向きざまに、ナイフを横に薙いだ。

 そこに文野さんはいない。

 展開されたジャケットが幕のように下ろされている。

 ギザギザ背中のナイフが布を割く。

 その隙間から、文野さんは飛び込んだ。

 男はいつの間にか上段に構えていたナイフを振り下ろす。恐るべき速度だ。空気の裂ける音すら聞こえてきた。

 刃物でなくても致命傷に足る必殺の一撃。

 しかし、そのタイミングだって、文野さんには分かっていた。

 彼女はすでに銃を抜いている。さっきのジャケットは目眩しだ。ベストの裏側に隠していたホルスター、そこに秘されていた回転式拳銃リボルバー

 ナイフが撃鉄に当たる。

 ガチリと音がする。

 文野さんは、止まらない。

 そのままナイフごと男の胸に倒れ込む形になる。

「――撃鉄、起こしてくれて、ありがとう」

 銃身は彼の喉仏に添えられている。

 握力の落ちた彼女の指先に、力を貸すことはできる。

 わたしにあるのは、ほんのそれくらいのサイキック。

「あたし達の放課後デートのために、死ね」

 脳天まで開くような発砲音がした。

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