scene 16 : 跳弾みたいなリフレクト

 止まっている的であれば、百発百中で当てることができる。それもど真ん中に。一度できた銃痕に別の銃弾をぶち込むことだってできる。何発でも。

 文野史織は、そういう訓練を済ませてきた。それは、彼女が銃使いとしてやっていく上では、初歩中の初歩だったし、おかげでダーツも随分得意になった(もっとも、ダーツなんて遊戯を覚えたのは、だいぶ後になってからだったが)。ブルはもちろん、ダブルもトリプルも思いのままだ。

 動く的でも、大抵はどうにかなる。クレー射撃だって基本技能だ。それだって、同じピジョンに何発でも叩き込むことができる。

 今の彼女にとっては、もはや外す方が難しい。

 文野史織は動体視力が良い方だったし、反射神経も優れている。全天周囲式ファストドローでも、常にハイスコアだ。銃の射程距離圏内なら、360度どこに的が現れても対処できる。

 しかし、これも彼女に言わせれば、当たり前の技術だった。名前が与えられる前から、背後には気を遣って生きてきたのだ。後ろを着いてきていたはずの子が、拐われて二度と会えなかったという経験は、一度ではない。後ろにいたから気づきませんでした、で命を落としてきた人間などいくらでもいた。

 死神に居場所を与えるな――と彼女は傘鷺からは教わっている――それが背後であろうとも。死神が潜む場所を死角というなら、それは彼女の脚元だけだった。薄氷の上でタップダンスするみたいに、彼女は地獄の釜の上で踊っている。いつ蓋が開いて、落ちてしまうか分からない。そんなの、別に今にはじまったわけじゃない。ただ終わってないだけだ。

 目の前のこいつがそうなのか、と彼女は思う。わたしのこのステップを止めるのは?

 試してみよう。

 彼女はトリガーを引いた。大した距離ではない。パンッと鳴ったときには到着している。当たって死んでくれれば簡単なのに、と彼女は思った。弾丸は男に当たらなかった。彼は大振りのナイフの腹を盾にしつつ、右側に跳ねた。弾丸は彼の元いた場所を通過する。

 当たんねーか、と文野は笑う。

 射撃の限界はそこにあった。基本的には点の攻撃であり、しかも後手に回らざるを得ない。トリガーを引くには、まず当てるべき的の動きを見て、次に明に暗に狙いを定める必要がある。優れた動体視力と反射神経で、この手順を短縮することはできる。しかし、省略はできない。有は無にならない。

 だから彼女は賭けに出たのだ。当てずっぽう。

 男はナイフを投げてくる。

 跳躍というわずかな滞空時間で二本。牽制――そして本命は両胸狙い。

 文野は左に跳んで、それらを躱す。距離は当然あった方が良い。相手は本質的にインファイターのはずだ。対して、こちらは中距離タイプ。彼のアクションは単純だが、それに比べて銃撃の工程は複雑過ぎる。少しでも時間を稼いだ方が良かった。

 持っていた銃は手放し、ベストの背中に手を伸ばす。

 男は着地と同時に、もう一本ナイフを寄越してきた。彼女の回避を見越しての追撃。前二本よりも速度がある。

 弾丸の世界で生きてきた彼女だから、それもまだ余裕で避けられる。飛び込み前転の応用で、くるりと回る。姿勢を直して、立膝になって、引き抜いた一本――散弾銃を構える。そんな動作は瞬時に終わる。点でダメなら、面で攻める。

 しかし、そこにもまたナイフが来ていた。

 また一段速度が上がっていた。

 そのまま撃ち落としても良かったが、あまりに勢いがあった。散弾に当たって、どこに行くかわかったものではない。どこかには刺さるという予感があった。刃物自体に自信がある気がした。

 文野は、銃の腹で受け止めることに決めた。気圧されるような衝撃があった。しかし彼女は目を閉じない。ナイフは貫通こそしなかったが、木製の胴体に深々と刺さっていた。これはもう使い物にならない。

 そこに隙ができた。

 投擲した直後にはもう駆け出していたのだろう、男が接近していた。

 文野は左手をベストの背中に回す。散弾銃はもう一挺ある。

 男はぐんと体を沈め、渾身の力で地面を蹴った。まだ加速できるのか、と彼女は思う。先ほどの跳躍にしても、投擲の速度にしてもそうだ。力の底が見えなかった。おまけに緩急もつけて来るのだから、対応が難しい。常に最大・最速ならば、予測は簡単だ。けれども彼の場合は、そうはいかない。

 大の大人だし、脚が長い。一気に間が詰めらる。

 文野は、右手で壊れた銃を振る。彼女も力のある方だが、それは専門的な訓練を受けた少女にしては、だ。同じく殺しを生業とする男には敵わない。筋肉の量が断然違う。軽々と銃身が掴まれ、おまけにぐいっと引き寄せられる。一本釣りされたような格好になった。脇が空く。

 彼の左手に握られたナイフが、肋骨の下から内臓を狙っていた。少女を投げると同時に、すれ違い様にグサリといく魂胆だった。

 文野も散弾銃を引き抜くまでは済んでいる。構えて狙いを定める暇は全くなかった。しかし、それでもトリガーは引ける。彼女は躊躇わずぶっ放した――明後日の方向に。当然、誰にも当たらない。そのために撃ったのではなかった。彼女が欲しかったのは衝撃と反動だった。

 釣り上げられた腕を軸にして、彼女の体が少しよじれる。

 ナイフの切っ先が、文野の体を掠めた。

 男にしても、予期せぬエネルギーだった。文野を掴んでいた手が緩む。文野にしても、壊れた銃は元より捨てるつもりだった。二人を繋いでいたものが途切れた。解放された彼女は、宙で一回転して、男の背後に着地する。猫のようなしなやかさだった。体は柔らかい。すかさず腰のホルスターから銃を抜く。非回転式。装填は十分。

 振り向き様に、右手の拳銃で二発打ち込む。はじめのお返しに、と両胸を狙った。両方共ナイフで弾かれる。片方の手で造作もなくそんな芸当をされるのだから、文野も少しは驚いた。ナイフ自体の硬度もそうだったし、それを操る速度も精密さもそうだった。至近距離での弾速と威力に対応されては、さすがの彼女も堪らない。何度経験しても、新鮮な驚きがある。

 彼は一歩踏み出し、背がギザギザのナイフを突き出してくる。彼女の心臓を狙っていた。直線コース。文野は自分の胸元に銃を構える。散弾銃と拳銃を交差するように置いた、といった方が正しい。同時に地面を蹴って、体を浮かせる。切っ先は銃のトリガーガードに直撃する。攻撃の速度が上がれば上がるほど、途中からの微調整は難しいと見込んでの判断だった。底が見えない以上、それは賭けだった。

 ガード部分にひびが入ったように見えたが、刃先はそこで留まった。代わりに、彼女は胸元を思い切り殴られた気分になる。肋骨が折れた。

 少女の体が、コンクリートの上を転がった。

 ナイフは飛んで来ない。

「今の動きは良かった」男の拍手が聞こえる。「ショットガンの反動で避けるとはな」

 文野は立ち上がる。左腕はだらんと下がっている。肩が外れていた。かなり大口径のものを変な方向に変な姿勢で撃ったからだ。訓練の一環で、そうなることは経験させられていた。一応定期的に修理はしてもらっているが、それでも今回に備えてメンテナンスする余裕はなかったのだ。

「緊急用だよ」そう言いながら、彼女は肩を元の場所に戻す。痛みはあるが、動かせないわけでもない。「死にたくないからね」

「そうか?」と男は首を傾げた。「なんというか、やる気が感じられないんだよな」

「ちゃんとやってるだろ」

「ちゃんと殺すつもりにしては、弾数が少ないんじゃないかと思うんだよ。いや、それとも多すぎるのか」

 文野は左手で腰の後ろから銃を抜いた。両手で抜けるようにセッティングしている以上、痛もうともそうするしかない。もうこれで背後に隠しているものは最後だった。

「最初の方は互いに様子見だっただろ」

 ネクタイを外して、左手と銃を縛り付ける。多少は照準が定まることを期待した。首元が苦しいので、ボタンを開けた。一つで足りないので、もう一つ。

「相手の出方を窺う必要があったのか、と聞きたいんだよ」彼はナイフを手の間でパスしながら言う。「噂と違うじゃないか、文野史織。おまえは一撃の下に敵を倒す――そういう存在じゃなかったのか?」

「年頃なんだよ。自己の存在が揺らぎがちでね」

「そういうことは言っていない」と彼はわずかな怒気を混ぜた声で言う。「〈きまぐれトリガー〉は明確な現象だ。台風や雷と同じでな」

「だったら進路に迷うんじゃねーの?」

「茶化すな。俺が求めているのは、そういう次元の話じゃない。台風の進路はジグザグでも、台風であることには変わりない。ところが今のおまえはどうだ、きまぐれ性を欠いた〈きまぐれトリガー〉なんて、ただの熱帯低気圧じゃないか」

「それ、依然として注意した方が良いらしいぜ」

「知らん。台風なんか知らんな。喩え話は苦手だ」彼は舌を鳴らす。『星の王子さま』を読まないからだ、と文野は思う。「噂によれば、〈きまぐれトリガー〉は、戦況を瞬時に把握する。相手の行動パターンも予測して、発砲と絶命の間を取り持つ存在だ」

「オカルトが過ぎるよ。おひれはひれ付けてくれてさあ。ひとを巫女さんか何かみたいに言うな」

 男は文野の言葉を聞かなかったかのように続ける。

「だからこそ、俺はおまえに決闘を申し込んだんだ。ところが、おまえはひどく凡庸ときている。センスは多少あるかもしれないが、おまえは〈きまぐれトリガー〉文野史織としては落第だ」

「随分言ってくれるよなあ」と文野はぼやく。「あんた、自分があたしより格上だったとか考えないのか? 自己肯定感は大事にしろよ。どんどん盛り上げてけよ。勝手によがっとけよ。面倒くせーなあ」

 地面に向かってため息をつくと、ジャケットからベストまで裂かれているのが見えた。支給品とはいえ勝負服だ。それなりに思い入れもあったが、これはもう着られない。

「そう言いながら、おまえは俺を殺さない。どうしてだ? おれが別にどうでもいい人間だからだな。”気に入る”、”気に入らない”の俎上に上げてもらえないからだ」

「分かってんじゃねぇか。仕事だって言ってるだろ」

「はっきり言って侮辱だよ」今度は彼がため息をつく番だった。「おまえは俺の矜持を否定している。蔑ろにされている。人格を毀損された気分だ。そんな生気のない目で俺を見るな。おまえのそんな目の前で踊る俺は――まるでひとりの人間として、殺されている気分だよ」

 

 誰かに言ったような言葉を言われた。

 彼女の頭にあの子のことがよぎった。


「勝手なこと言うなよ」と彼女は言う。それは男に対して言ったようにも、自分自身に言ったようにも聞こえた。「自分のことを棚に上げて、偉そうなことを言うな」

「それもまた凡庸なセリフだな。人殺しが人殺しに倫理を説くなんてな」

 男は近づいてくる。

「おまえが〈きまぐれトリガー〉で文野史織なら、いくらか含蓄もあったんだろうが……今のおまえは、もはや誰でもない。ただ銃を振り回してるコドモだよ。それは玩具じゃないんだぞ」

 誰でもない。

 そりゃそうだ、と彼女は思う。

 もともと、文野史織なんて他人に呼ばれた名前だ。誰かにそう名付けられて、自分でも繰り返し発声したが、結局自分のものにならなかった。いつも必ず、どこかに違和感があった。あまりに出来すぎている文字の詰め合わせ。どこにもその根拠なんてない。彼女自身の内側から生じてきたものではない。

 彼女には、両親がいない。名付けられずに生まれ、名前のないままに生きていた。彼女には、友人がいない。育ちの路地裏は、ひとのすぐ死ぬ環境で、昨日と今日で同じものはほとんどなかった。物心ついた時には、彼女自身、すでにひとを殺していた。手には銃があり、死体が横たわっていた。それは自分自身の肉体にも、他者の肉体にも思えた。

 自他を分割する線は薄かった。他者に自己を紹介するには、まずは誰かからの呼びかけがなければならない。「わたしは誰?」に対して答える鏡が必要だった。彼女はそれが望めない場所で生きてきた。

 いつの間にか男が目の前にいた。

 彼はナイフを振り下ろす。速度は並。手を抜かれていた。しかし十分凶器だった。パッと彼女は左手を上げる。痛むことを忘れていた。考えている暇がなかった。訓練しつけの成果だった。銃床がナイフの先端とかち合った。

「そして、それは盾でもない」

 男の方が力は強かった。銃を持つ手ごと、彼女は姿勢を崩される。

「生きていたくないんだろう、おまえ。だったら任せろ、俺は殺し屋だからな」

 どうして踏ん張ったのか、分からなかった。どうして体を起こして、男がもう一度振り下ろしたナイフを避けたのか分からなかった。ナイフは途中で跳ね上がり、彼女の首元を狙う。バックステップで彼女はまた回避する。銃を向ける。トリガーを引く。照準を忘れていた。銃弾は外れる。

 やれやれ、と男は首を振る。

「生き方がわからない。希望もない。かといって死にたくない――今まで散々ひとを殺してきて、何を言っているんだ、おまえは。人殺しなら、俺のこともちゃんと殺してみろ。中途半端は許されない。生殺しが一番迷惑だ」

 男はナイフをまた何本か投げてくる。速度は緩い。遊びのようなものだった。彼女は体勢を変え、銃を撃つ。弾丸によって軌道を変えられたナイフが地面に落ちる。小さな墓標のようだった。彼女は今まで殺してきたひとの数を考えた。数えきれなかった。墓石の数が少ないか、あるいは場所自体が間違っていた。もしくはその両方だった。

 彼女は、「それは世の中のためになることだ」と言われていた。仮染めの名前と一緒に、即席の存在意義ももらった。限定された社会でのみ通じる理屈だったが、それでも生まれた場所に比べれば随分合理的だった。悪いひとを殺せば殺すだけ、生きる価値が増えていく。才能は活かされなければならない――そう言われたから、従った。

 ここで勝つとか負けるとか、そういうものに興味はない。

 どうせ普通の女の子としては生きられないのだ。

 なんでわたしは戦っているんだろう、と彼女は思った。

「終わりにしよう」と男は言った。ナイフが電灯の灯りを照り返した。「はじまってすら、いなかったのかもしれないがな」

 奇跡は起こらない。そんなもの起こった試しもなかった。当たり前のようにひとは死んだ。惑星のいろんなところと同様に。そんなもの望むべくもなかった。だから当然の報いなのだと思った。全てが遅過ぎたのだと思った。

 男はナイフを振り下ろす。


 けれども、誰も死ななかった。

 その理由は彼女にも聞こえていた。

「第三者乱入だな」

 どうしてここに、と彼女は思う。


――倉庫の扉を開いて、隅方いい子がそこにいた。

「文野さん!」

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