第4章

scene 15 : 隅方いい子の知らない風景

 是奈市は海に面している。港湾都市として栄えていた名残りとして、今も倉庫が立ち並んでいる。外見だけはそうだ。中身のほとんどは、駐車場とかレストランになっている。しかし、そんな中にもちゃんとした倉庫も残っていて、殺し屋〈なんでもナイフ〉が指定したのは、その一角だった。中身は何もなく、コンクリートで打ち固められている場所。

 決闘には打ってつけの場所だった。

 21時ともなれば、ひとはいない。おまけに、防音加工も過剰なくらいに施されている。銃声は外に漏れないし、当然誰かが泣き叫んでも聞こえはしない。

 文野史織は、目的地に指定された時刻の二十分前には到着していた。ここに来るまでの間に、装備はあらかた点検していたが、改めて、目を閉じて、どこに何があるのかを確認した。車内の空気は涼しく、静かだった。そういう空間は彼女にとって大事だった。清潔で、落ち着いている。

 仕事の前には、自分の身体を確認する。体調はどうか、精神はどうか、そしてそれらでやっていけるか――そう言ったことを自分に問い、自分で答える。どれかひとつでも、否を唱えるものがあったなら、代案をちゃんと構築する。今までもそうしてきたし、実際うまくいってきた。今日もいつもと変わらない。

 自分にやれることを、きちんとこなすだけ。

 事態はコンペティションではないのだ。

 誰も見ていないし、誰も野次を飛ばさない。オッズなどというものは存在しない。単純な技能の衝突であり、仕組まれた事故だった。神がどちらに微笑むかは知らないけれども、結果は自ずと明らかになる。中途半端はありえない。〈なんでもナイフ〉と〈きまぐれトリガー〉のどちらかは生き残り、どちらかは命を落とす。

 彼女に文野史織という名前が与えられる前から、世界はそのように巡っていた。やっていることの本質は、あの路地裏の日々からずっと変わっていないのだ。何かが変わって見えるとすれば、そこに誰かの――彼女以外の――思惑が絡んでいることだった。仕事という大義名分が与えられている。”気にいる”、”気に入らない”ではなく、経済的な事情が関わっている。

 今の彼女は、与えられた名前――文野史織としてここにいた。

「じゃ、行ってくるよ」と彼女は言う。

「早いですね」

「適当に流しててよ」と運転手に答えず、彼女は続ける。「パーティーのために、ホールケーキでも買っといて」

「ひとつで足りますか?」

「ひとつで十分だよ」と文野は答える。”もしも”は常にある。彼女は思った。わたしが帰ってこれなくても、「それくらいなら食べれるでしょ、雀居さん」

「弱気ですね」

 見透かしたようなことを、雀居は言う。

 参ったな、と文野史織は思う。大体、隠し事は苦手なのだ。こと彼女相手には、雀居は鋭い嗅覚を発揮する。授業参観から心身の不調まで、彼女にバレなかった試しがない。

「単に今日は食べすぎただけだよ」と文野史織は嘘を吐く。いつもはもっと食べられる。食べられるときに食べられるだけ食べておかないと、次回がいつになるか分からない環境にいたからだ。この仕事に就いてから、そういう危機からは脱することができた。好きなときに好きなだけ食べることができるようになった。

 それなのに、今日はそういう気持ちがしない。

 これまでもそういう日はあったが、彼女にしても珍しかった。

「承知しました」と雀居は言う。

「じゃ、あとはよろしくね」と文野史織は言い、車から降りた。

 口笛を吹きながら、彼女は倉庫に向かう。

 エドヴァルト・グリーグ、『ホルベアの時代から』、前奏曲。彼女が文野史織という名前を授かってから、はじめて連れていってもらったコンサートの曲だった。彼女はその曲だけを覚えている。安らかな気持ちになれた。次の楽章からは眠ってしまったので、その先は覚えていなかった。

 夜の港に、スーツ姿の少女が歩いている。ぬばたまのスリーピース、同じくワイドカラーのシャツ、赤いネクタイはウィンザーノット。上まできっちり締めている。

 彼女は口笛を吹いたつもりになっていて、頭の中ではクラシック音楽が流れている。左の人差し指が指揮棒のように振られている。風がかき混ぜられ、潮の匂いに強弱がつく。少し離れたところで、汽笛が鳴る。

 そういえばあの街にも、こうして汽笛が聞こえていたな、と文野史織は思う。

 いつの間にか、世界は一巡していて、似たような場所にたどり着いていた。

 革靴の踵を揃えて、彼女は倉庫の門の前に立つ。

 ネクタイの位置を確かめて、彼女は呟く。

「お仕事、はじめますか」

 彼女は重たい門を開いた。

「おじゃましまーす」

 

・・・♪・・・


 〈なんでもナイフ〉狭間割はざまわりつくしは、折りたたみテーブルの上でお湯を沸かしていた。キャンプかよ、と文野は思った。携帯用のガスバーナー、小さなケトル、キャンピングチェアまであるのだから、その通りに見えた。

 彼は腕時計を見て、「早いな」と言う。

「五分前行動、社会人の基本だろ」

「十五分前なんだがな」と彼は言った。「何にせよ律儀なことだ。大人でも守らない奴はいる」

「さっさと終わらせたくてね」

「少し待てるか? 俺は仕事の前には紅茶を飲むことにしているんだ」

「好きにしなよ」と文野は答えた。「早く来たあたしも悪い」

「適当に座っててくれ」

「そうさせてもらうよ」

 文野史織は、キャンピングチェアに腰掛ける。二つも用意してあったのだから、いずれにせよ彼はいきなり戦闘をはじめるつもりはなかったらしい。もちろん、彼は彼女が近づいた瞬間に、襲い掛かることはできた。彼女としても、その可能性は考慮に入れていたし、返り討ちにするだけの用意もあった。しかし、お互いにそうしなかったのは、それぞれの流儀があるからだった。

 お互い、仕事でやっているのだ。

 結果が何よりものを言う世界ではあるが、誰もがスタイルを放棄しているわけではない。過程やジンクスを大事にする者たちもいる。むしろ、死という究極的な結果だけが残る仕事だからこそ、そこに至るまでの物語を重要視する者たちの方が多い。

 「ひとが死にました」だけでは単なる事実だが、「どのような人間が、どのように死んだのか」を語れば物語になる。死という普遍的な事象に回収される前に、ひとの命に彩色を与えるのが、殺し屋という仕事だった――少なくとも、彼らはそう教え込まれている。各々の言い方こそ異なるだろうが、それは彼らの共通認識であり、せめてもの言い訳だった。

「おまえもどうだ?」と男は尋ねる。

「いただくよ」と少女は答える。

「……毒が盛ってあるとは考えないのか」

「〈なんでもナイフ〉の”なんでも”に毒は含まれるのか?」彼女は問い返した。そういう行動に出る男なら、倉庫に入ってきた時に襲撃するはずだった。罠を張ってもいい。なんなら、事務所に直接乗り込んできても良かったのだ。しかし、果し状の絵葉書に切手はなかった。事務所のある建物に直接やってきて、投函だけしたということになる。「人間の体を分割する毒があるなら、飲んでみたいもんだけどね」

「あるかもしれないぞ」

「疑わしいね。で、その場合、あんたは美少女の体が二分されるのを見る変態だってことになる」

「否定はできないな」彼はクックと笑う。「なにしろ〈なんでもナイフ〉だ」

「その呼び方、嫌いじゃなかったのかよ」

「当人の好みに関わらず呼ばれるのが二つ名だろう? 台風に名前がつくのと一緒だ。もっとも、おれの場合は、別に切り刻むのが趣味なわけじゃないがな。切る方の技術はあるが、刻むのは手間がかかる。分解まで行くと別次元だ」

「でもあんたは頭を持って行っただろ。うちの体育教師のさ」

「あれは、久しぶりに試してみたかっただけだ」彼は罪悪感などないかのように言う。「〈きまぐれトリガー〉が実在する証拠にもなると思ったからな。しかし、それで痛感したよ。やっぱり解体は性に合わない。おれは、刺したり切ったりする方が合っている」

 文野は渡された紅茶を含む。

「――味、薄くないか?」

「香りを楽しむんだよ。よく知らんがな」

「こだわりがあるんじゃねぇのかよ」

「そんなものはない。その茶葉にしたって、激安スーパーのプライベートブランドの一番安いものだ。紅茶を飲んだって事実だけあれば十分だからな。こう見えて庶民派なんだよ、おれは」

「興味ないよ」

「加えてバカ舌だ」

「知らねー」

 彼女はもう一口飲むが、やはりほとんど味はしなかった。そもそもマトモに抽出されているのかも疑わしい。言われた通りに香りを探してみるが、特徴的なものは見つからなかった。わずかに色が着いている程度だ。天井からぶら下がっているランプの灯りが写り込んでいるだけ、と言われれば信じかねなかった。

 一方の男は美味そうに紅茶を飲んでいた。

「そうだ、文野史織」と思い出したように言う。「一度誰かに聞いてみたかったんだが、百合を構成する当人たちにとって、間に入ってくる男ってのは、どう思うんだろうな?」

「またその変な話かよ」

「いいだろう、付き合ってくれ」と彼は腕時計を見せてくる。安そうな時計だった。「まだ時間が少しある」

 文野はため息をついた。

 どうして殺し屋というのはこういうバカばかりなのだろう、と嘆く。今まで遭ってきた奴らも軒並みそうだった。そして自分もその中に含まれてしまうのだから、仕方がなかった。

「そりゃあ気に食わないんじゃないか?」と回答する。「あんただって、友だちとの歓談中に見ず知らずの奴が来たら、なんだこいつって思うだろ」

「そうだな。しかし、そこに来ると俺はどうだ? おまえ達の間に割って入ったんだからな」

「ああそれで、ツクシなのか」と彼女は思い至る。アスファルトの下から生えてくる土筆みたいな名前だなと思ったのだった。冬の間は平らだったはずなのに、ある日気づくと生えている。

「名前、覚えてくれたんだな」男は少し嬉しそうにする。「文野史織に覚えてもらえるとは光栄だ」

「いいよ。どうせすぐ忘れる」と彼女は言う。「さっきの質問に答えるならさ、”別になんとも思わない”が正解だな。あたしとあの子はトモダチなんかじゃなかった。向こうもそう思っていない。あたし達はただ接近しただけで、多少は似ていたが、好きでシーソーしてたわけじゃない」

「その偶然性をもって友達って言うんじゃないのかね」と男は言った。「それとも文野史織――おまえは、友情に定義を求めるタイプなのか?」

「経験したことないからな。辞書に書いてることを鵜呑みにしがちなんだよ」

「人生の先輩として言うが、友情はあとから気づいたらそこにあったものだぞ。あとは自称に自称を重ねて、自覚を強化していくものだ」

「分かんねーな」

「俺としては、分かっていて欲しかったんだがな。おまえがあの子と友情を育んでいて、それに満たないまでも何らかの関係性を見出していて、向こうもその気であって欲しかった。そうすると、おれは満たされるからだ」

「あたしとあの子の間にそんな関係は成立しないよ。安心しろ。”間に挟まるのは趣味じゃない”とか言ってたよな?」

「それだがな」彼はティーカップを手の中で回す。「俺にとって、百合ってのは現在進行形なんだよ。目の前にあって、鋭意継続中の出来事だ。その場限りの関係なんだな。相手の子が今ここにいないなら、百合は存在しない」

「あんた『星の王子さま』読んだことないのかよ」

「ないな」と彼は即答する。

 文野史織は少し愕然とした。

 男は続ける。

「百合は関係性の中に咲く花だ。可能性を秘めてはいるが、現象としては刹那的なものなんだな」

「禅問答かよ。あんた、マジでそう思ってるの?」

「異論は認める。大体、ユリは多年草だしな」彼は紅茶を飲み干して、テーブルの上にカップを置いた。「しかし、参ったな。おまえとあの子の間にそういう関係性がないなら、百合好きも離別もの好きも満たされないじゃないか」

「最初からそうなんだよ」彼女もティーカップを空にした。「矛盾に悩まなくて良いじゃん」

「ああ、その問題だがな――」と彼は言って、文野史織に背を向けた。倉庫の中央に向かって、歩き始める。銃使い相手に距離を取るのか、と彼女は舌を打った。わざわざ距離を空けるということは、それが問題にならないということだ。ナイフの投擲が来るか、詰めることができるか。どちらにしても舐められた話だ。「――すでに解決した。百合の気配に惑わされたよ。順序が逆だったんだ。ひとの死を経て、関係性が芽生えることもある。じゃなきゃ、世の中に葬式はないからな」

「あんた、葬式を出会いの場と勘違いしてない?」

「事実を述べたまでだ。これでも表向きは葬儀屋だ」

「大したマッチポンプだな」

 移動式の葬儀屋なんて聞いたことがない。しかし殺し屋の言うことだ。同じ業界の人間だからといって、話が通じるとは限らない。多分、寿司屋が自分で釣りしに行くようなものなんだろうな、と彼女は思う。うん、それなら納得だ。

「はじめる前に、あたしの方も言わせてもらうよ」

「なんだ」

「あたしとしては、あんたが”気に入らない”って認識はもう通り過ぎちゃってる。今のあたしは、純粋な業務命令でここにいるんだ」

「おれもそうだ。教師の頭じゃ上は説得できなくてね。おまえにストーリー性とか生き残る動機があるなら別腹だったが、ないんじゃ仕方ない。茶菓子としても失格だ。ツチノコは直接捕まえるに限る。生死は問わずデッド・オア・アライブだ」

「試してみなよ、後悔抜きで」

 男はナイフを、少女は銃を抜いた。

 時刻は21時ちょうどだった。

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