scene 14 : ハイデガーみたいな希望

「あなたも人を殺すんですか」とわたしは尋ねた。

 車の中だった。

 雀居ささいさんは、バックミラー越しにわたしをちらりと見て、答える。

「ほとんど初対面の人間に訊く質問とは思えませんね」

 その通りだった。

 しかし気にしていないように、彼女は続ける。

「必要であれば、ええ、そうします。訓練は受けていますし、一応銃も携行していますから」

 彼女はラジオを切った。切るまでついていたことに気づかなかった。ハイデガー的だとわたしは思った。壊れてはじめて意味に気づく。車内には変わらず車の鳴き声が流れていたが、相対的にはわたしと彼女の二人だけになった。

 静かな空間に、雀居さんの落ち着いた声が流れる。

「あくまでそれは自衛のためです。わたしは殺し屋としては二流も良いところです。文野とは違います」

 感情の起伏がなく、事実を淡々と列挙するような声だった。冷房と質が似ていた。買い物リストを読み上げるような調子だった。

「文野さんとは親しいんですか?」

「どうでしょうか」と彼女は答えた。赤信号で車は止まった。「文野との付き合いは長くなります。けれども、わたしはあの子のことをよく分かっていません」傘を持った人々が横断歩道を過ぎていった。「あの子とわたしでは、根っこの部分が違っています」

「根っこの部分ですか」

「あなた方好みの言葉で言えば、”本質”とか”魂”、”実存様式”です」と彼女は言った。信号は切り替わり、滑らかに雀居さんは車を発進させた。「わたしは、一般的な家庭の元に育ちました。将来の夢は警察官でした。ひとを護る仕事に就きたかったのです。ですが、いろんなことを間違えてしまいました」

「いろんなこと、ですか」

 彼女は速度を落とし、ウィンカーをつけて、待った。ワイパーが、小雨を払っていた。それ以上の機能なんてないような言い振りだった。

「ひとには背景があります」

 車は右折した。

「文野は、路地裏で生まれました。容易くひとが死んでしまうような、昨日までいたひとが今日はいないというような、そういう類の世界です。安定なんてものは、彼女にはありませんでした。親も兄弟も姉妹もありません。誰でも銃を手にすることができ、そうでなくても簡単にひとを殺せるような環境でした。そして、誰かを傷つけなければ生きていけない、そういう世界でした」

 これは何かの例えだろうか、とわたしは思う。

 しかし、雀居さんは事実を言っていた。

「あなたにそういう世界のことを知ってほしいとは思いません。想像できなくても、問題ないのです。あなた方には関係のない話ですし、生涯目を瞑っていても差し支えのない世界です。事実、彼女たちがどれだけ死のうと、あなた方の生活は影響を受けることはありませんから。彼ら彼女らは、世の中に出てくることができないのです。死の中で生まれ、死を喰み、死の中に生き、そして死にます。虫ケラのような扱いです。あなたも、蟻の一匹がいなくなったところで、泣きはしないでしょう」

「分かりませんよ」とわたしは言った。

 それは、想像力を超えていたという意味にも、試してみろよという風にも聞こえた。自分でもどちらの意味で言ったのか分からなかった。車は、片側二車線の大きな通りに出る。

「あなたのことは、調べさせてもらいました。隅方いい子さん。ひとりの人間については、二日もあれば大抵の資料は揃います。わたしの特技です。あなたがひとの心を読めることも、ちょっとした念動力があることも、わたしが調べました」

「バカバカしいとは思わなかったんですか?」

「思いませんでしたね。文野を知っていましたから」と彼女は言った。またしても赤信号だった。「そして、文野を護ることがわたしの仕事です。あとは傘鷺ですね。護るといっても、文野の場合は、部屋の掃除をしてやったり、食事を用意してやったり、服を揃えてやったりする、ということになります。あの子は自堕落ですし、普通の生き方を知りませんから。誰かが、周りから見ても極端に目立たないように、いろんな準備をしてやらねばなりません。それがあの子を護ることに繋がります」

「あんまり成功していませんでしたよ」とわたしは言った。

「そうですか?」

「文野さんは、クラスの中でも注目を浴びていました」

「そうですか。それは良かった」と彼女は言った。ちょっと誇らしげなニュアンスすら窺えた。「あの子がクラスメイトのあなたからもそう見えていたのなら、きっと成功していたのでしょう。あなたが住むような世界に馴染めていた、ということになりますから。……あの子の元いた環境、あの絶望の淵から、そういうところまで引き上げるのには、ちょっと苦労しました。周りの子たちは、皆、体を売らなければいけない環境でしたからね。内臓から心まで。あるいは、ひとを殺すしかありませんでした」

 いつの間にか、車は発進していた。

 彼女は事実を語っていた。

「どうしてそういう話をするんですか?」

「あなたが、文野に近い方だからです」と雀居さんは答えた。「あなたが、一番あの子に近づけた方だからです。一時だろうと、それが紛いものだろうと、あの子を笑顔にさせた方だからです。あの子には、友人が欠けていました。いつでも、そしてこれからも。あの子にとっては残酷なことに、わたしやあなたの所属する世界で生きていく上では、友人の存在が不可欠です。恋人でも構いませんし、両親でも、兄弟や姉妹でも、同好の士でも構いません。何らかの連める相手が必要なのです」

「そうでしょうか」

「そうですよ」と彼女は断言した。それは力強く、そして微塵の疑いもなかった。そういう信念にも似た言い方をされると、わたしはその奥に隠されている心を読めなくなる。「あなたの話をするときのあの子は、楽しそうでした。それだけで、根拠に足ります。あの子が普通の女の子のように楽しそうにしているところなんて、わたしは初めて見ました」

「……」

「ついついハンバーグを2kg作ってしまったくらいです」

「作りすぎですよ」とわたしは言った。

 このひと、ひょっとして親バカなんだろうか。

「……文野さんは、勝てるんでしょうか。〈なんでもナイフ〉でしたっけ」

「さあ」意外な返答だった。「相手もプロの殺し屋です。文野が敗北する可能性は、否定できません」

「信じてあげないんですか?」

「希望と信頼は別です。個人的には、あの子に今まで通り勝ってほしいと思います。しかし、あの子には勝つ動機がありません。仕事だから、やるだけです。仕事でしたら、失敗することもあります。そして、仕事の失敗はあの子の死を意味します。結論として、あの子が死ぬ可能性も十分あります」

 車はいつの間にか止まっていた。

 わたしの家の前だった。

「ですから、こう言わせてください。あの子と仲良くしてくれて、ありがとう」

「……仲良くできたとは思っていませんよ」

「それでも構いません。わたしの主観です。あなたはあの子に希望を見せてくれました」

 雀居さんが操作したのだろう、わたしの座っている側のドアが開いた。

「――決闘の時刻は、本日21時、場所は、是奈湾倉庫。ここからだと片道十五分くらいですかね」

「どういうことです?」

「他意はありませんよ。ただ、現在位置と所要時間を計算する癖がついているだけです」

 彼女は言った。

 静かな青い瞳だった。

「それでは、またのご利用をお待ちしています」と雀居さんは言う。

「そんな時なんて来ませんよ」

 雀居さんはニコりと笑った。完璧なビジネススマイルだった。どのように取ることも可能だった。わたしがまた彼女たちの世話になると確信しているようにも、わたしの言うようにそうしないだろうとも、結局はどちらでもいいのだと言っているようにも見えた。何も言っていないようにも見えた。ピリオドみたいな微笑みだった。世の中には、いろんな微笑み方があるのだ。

 ドアが閉じて、車は発進した。

 わたしは鍵を取り出して、家のドアを開ける。

 おかえりくんがやっていくる。わたしが何も言わずとも、叔父の作ったロボットは近寄ってきてくれるのだ。わたしは彼をまたいで、シャワーに向かった。

 熱いシャワーを浴びながら、わたしは呟いた。

「希望なんて、適当なこと言ってくれちゃってさあ」

 言葉はお湯には溶けなかった。

 みんなはわたしに何を期待しているんだ、とわたしは思った。誰も何も期待していなかった。わたしはみんなに何を望んでいるんだ、とわたしは思った。わたしは何も求めていなかった。

 希望を見せてくれた、良い夢を見せてくれた、と言われている。

 けれども、自分にとってはどうなんだろう、とわたしは思った。

 わたしにとって、昨日から今日にかけて起こった出来事は、紛れもない現実だった。全てがバカげていて、けれどもちゃんと現実味があった。それとも、明日になれば変わるのだろうか。明後日、明々後日、またその先になれば、この現実味は薄らいで、事態は過去方向に遠ざかり、触覚の向こう側、やがては視界の外に出ていくのだろうか。

 鏡を見ると、黒髪の濡れた女が写っていた。文野さん曰くミルクティー色の瞳。全然違うじゃないか、とわたしは思った。ミルクの分量が少なすぎる。ほとんど茶色だ。瞼を引っ張って、覗き込んでみる。どっちかというと、レモンティー寄りじゃないか? あまりに鏡に近づきすぎたので、わたしは自分の瞳孔を覗き込む羽目になった。心の奥底にまで通じるような、真っ暗闇がそこにあった。最悪だ。

 わたしは体を乾かして、着替え、自分の部屋に戻り、ベッドにうつ伏せになった。バカげた現実を夢にするのなら、寝るのに限る。目覚めて明日が来ていたら、わたしは昨日と今日の出来事を、いくらか夢として受け容れることができるだろう。できないかもしれない。しかし、とにかく距離は空く。


 ある可能性だけが明白だった。

 ひょっとしたら、文野さんは死んでしまうのかもしれない。

 そんなこと、少しも考えられなかった。


 しかし、そう考えてしまったということは、眠るのに失敗したということだった。明日は来なかった。まだ同じ日にいる。時刻は20時55分で、スマホケースには一枚の名刺が入っていた。電話番号も書いてあった。


・・・♪・・・

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