scene 13 : 我々だって乙女だった
バカなことを言ってしまったと反省した。
オフィスのソファに腰を下ろす。体が沈み込む。そんなに優しくされる権利なんてないのに、素材と重力には勝てなかった。食虫植物のようだ。溶かされるように感じて、不快だと感じたのは、八つ当たりの類だった。
相手は大人なのだし、そうでなくても他者に対してあんなことを言うべきではなかった、と独り言ちる。ひとりの人間に世界は変えることはできない。傘鷺さんに当たっても仕方ないのだ。
自分の正体、周りと違った感性や能力を持っていること――そのことを指摘されて、わたしは動揺した。動揺して、つい攻撃してしまった。あり方こそ違えど、それは”気に入らないから殺す”文野さんと一体何が違うのだ、と反省する。
両手を見る。汗が滲んでいた。握力は混乱していた。血はついていなかった。もちろんそうだ、わたしは今までひとを殺したことがない。しかし、人格の否定という意味ではどうだろうか。今まで、この能力のせいで色んなひとの逆鱗に触れてきた。”当たり前の社会”を転覆しうるとして、こども裁判にもかけられてきたのだ。記録を見てくれれば分かる。あの子らにとって、わたしは魔女であり、部外者だった。
「――ピザ、要る?」と文野さんが声をかけてきた。
「食欲ないよ」と顔を上げずに答えた。
「そ、美味しいのに」
彼女はもぐもぐとやる。
「……わたし、必要なくなっちゃった」
「おめでとう」と文野さんは言う。「これでお別れだね」
その言葉に、感情は乗っていなかった。主旋律たる心の声も何もない。言祝ぎのニュアンスには遠かった。
文野さんは、テーブルの向こう側、ソファにどさっと座る。ピザの箱を片手に持ちながら。
「あんた〈超能力者〉なんだってな」
聞いてたのか。
「そうらしいね」
「否定はしないんだ。できるのはあんただけなのに?」
「そう言われてもおかしくないし、実際そうだった。あまりに断定されてくると、本当にそうなんじゃないかって思っちゃうんだよ」
「それは分かる気がする」と彼女は言って、指を舐めた。「だいたい、名前なんてその際たるものじゃん。単なる反復の成果だよ。呼ばれ続けて、わたし達はそれが自分の名前であることを知る。否応無しに受け入れることになる」
隅方いい子――“良い子”と呼ばれてきたから、わたしは、そのようにあらなければならなかった。
「あたし達のことなんてどうでも良いんだよ。名前に反する行動をとったところで、積み上げてきちゃったものもあるしね。で、今度はその成してきた事実が名前に紐づけられる。曰く、”文野史織は人殺し”ってわけだ。嫌な話だよな――こっちのピザは? シーフードだけど」
「要らないよ」とわたしは答える。「……名前ってどうやって捨てるんだろうね」
「それは分からない。捨てたことがないからね」
「それもそっか」
「ていうか、もともとわたしには名前がなかったから」
「どういうこと?」
「わたしのこれは偽名だよ」と彼女は言う。「仕事上必要だったから、傘鷺の奴がくれた。”文の野に史を織る”――なんて、出来過ぎだよ。実在するフミノさん、シオリさんたちには悪いけどさ」
「人の人生が一冊の本だとするなら」とわたしは言う。「そこに差し込まれる文野さんの弾丸は、栞みたいに見えるけど」
「そういう意味でつけたのかもな。くだらない。憎ましくも大事なのは、そう呼ばれているうちに、わたしもその気になってきたって点だ」
彼女はあまり誠実に言っていなかった。嘘を吐いているとまではいかないにしろ。
「反復による定着ね……」
それもひとつの呪いだ、とわたしは彼女の言葉を思い出した。
「じゃあ、本当の名前は?」と尋ねる。
「さあ」
「さあ?」
「知らないんだよね。頓着してないって言った方が良いかもしれない。生まれたときに与えられた願いなんて、忘れちゃったよ。そんなひとがいたのかも、そんなものがあったのかも知らない。物心ついた時にはすでに、わたしは撃鉄と共にあった。硝煙を呼吸し、弾道を歩んで、死を食べてきた」
このシーフードたちも死体だしな、と彼女は言う。解体されてはいるが、野菜よりかは生き物っぽさがある。
「しかし、随分デカいことを言ってたよね」と彼女はうすら笑いを見せる。「あたしのことを否定するようなことも言ってくれてたよな?」
ごめん、と言いかけて、少し迷った。
謝ってしまおうかとも思った。どうせ、一度彼女の”気に入らない”ラインは一度超えているのだ。これ以上、余計な人間に八つ当たりする前に、文野さんによって終わせてもらうのも悪くないように思えた。
「わたしが好きで人を殺してると思ってんの?」
「そう言うってことは、違うんだよね」
「さすが、読心能力持ちは話が早くて助かるよ。でも、こう言わせてもらうね――"分かったようなセリフ、ありがとう”」と彼女は笑った。「もちろん、好きじゃない。特別嫌いなわけでもないけどね。”気に入らない”だけで、人を殺すなんて最悪だ。でも、止められない。なぜか。それがわたしの在り方だからだ。わたしの力ではどうにもならない」
「肺呼吸の生き物が肺呼吸を続けるように?」
「その通り。この反射を止めるためには、死ぬしかない」
「わたしは、自分のこと、死んでもいい人間だって思ってるよ。どこにも居場所がないんだから、死んでも同じだと思っている。少なくとも、世間は温かで優しい場所じゃなかった。そんな場所なんて、この世のどこにもないんだと思う」
「そこがあんたの倫理的な境界線なんだよな。線というより領土か」と文野さんはピザを手に取る。「あたしには、居場所がある。もちろん、倫理から外れた歪な場所だ。人を殺して生きているなんて、本来あっちゃいけないことだよ。でも、その一方で、そういう世界にあたしを生み出した運命とかってのに、復讐したい気持ちもある」
「だから悪いひとを殺してるの……」
「そうとも言えるよ」
「後付けの理論に聞こえる」わたしは言った。「八つ当たりみたい」
どの口が言えたセリフだ、とまたしても自己嫌悪に陥る。
「実際、そうだと思うよ。どっちも正解。わたしは何も考えてこなかったし、何も考えていない。ただ飼われているだけ。それでも一応、傘鷺の奴には救われた恩がある。保護されたと言ってもいい。あいつは、路地裏で生まれ、人を殺して生きていたあたしに、居場所と”文野史織”っていう機能を与えてくれた。オオカミが家畜化されてイヌになったみたいな話だよ。学生が卒業して社会人になるみたいな話だ。未だに〈きまぐれトリガー〉とか呼ばれたりしてるけどね」
「ひとを歯車扱いするのって、変だと思う」
「それは、あんたがまだ学生だからだよ。自分の能力でお金を稼いで生活していない、コドモだからだ」
「じゃああなたはオトナなの?」
「それがそうじゃないから、困るんだよね。正直、自分で言ってて、反吐が出そうになった」と彼女は言うが、ピザを食べる手は止まらない。「わたしの中にも、ちゃんと倫理はあるよ。でもそれって、スクルージおじさんが覗く窓の中みたいな話でさ、望むべくもない話なんだよね。わたしにとって、倫理は幻想だ」
「『クリスマス・キャロル』ってそういう話だっけ」
「違ったかもな。窓の外から暖かそうな家の中を見つめてるシーンだけ覚えてる」と彼女は言った。「まあでも、後悔するには遅すぎるんだよね。殺さなきゃよかった、殺さないように早く死ねばよかった――そう思ってみても、もう何もかも遅いんだ。わたしの組み込まれた殺人機械、殺し屋マーケットは、すごいスピードで運転している。誰にも止められないんだよ。何かの異物が噛み込んで、強制的に止まるのを待つしかない。その可能性は低いし、結局は修理されて運転は再開される」
「それで、またあなたは人を殺すんだね」
「生きている限りは、そうする。それがわたしの実存様式だからだね。文野史織のアイデンティティは、銃声と共に奏でられる。もうわたしの力だけじゃ、逃げられない」
「わたし達、まだ十七歳なんだよ」
「そうだよな、わたし達はまだうら若き乙女だ」
「たくさん可能性があっても良かったじゃない」
「その通りだよねー。友達作って、恋もして、好きなことも嫌いなこともして、酸いも甘いも嚙み分けて、失敗したり成功したりして、バカなこともマトモなことも考えたり、やってみたりして、総合的には凡庸に生きてみたかったよ」
「今からでも遅くなかったりしないかな」
「わたしには、無理だね」と彼女は言った。ピザの箱は空になっていた。「でも、あんたは遅くないよ、隅方さん。あんたは日常側の人間だ。窓の中の人間なんだよ。あんたには普通のひとにはない能力があるし、そのせいで排斥もされてきただろう。人を生きたまま解剖するように見るし、そういった人間は普通じゃない。嫌われもするだろうし、多分、今後も苦しむだろうね。でも――それでもだ、隅方いい子さん。あんたは”死んでもいい”人間なんかじゃない」
「人殺しに言われてもね」
「人殺しだから言うんだ」と文野さんは言った。「あんたは多少癇に障るところもあるが、それでも生きていていい人間だ。だから、できれば、あたしの分まで日常系の中で生きてくれ。わたしのことなんて忘れちゃっても構わないけど、それまでは時々でいいから、わたしのことを思い出してよ。そしたら、わたしもふつうに生きられるかもしれない」
「支離滅裂だよ」とわたしは軽く笑った。「人殺しと一緒にしておいて、今度はわたしのことを”ふつう”に分類してる」
「願いなんてそんなもんだろ」と文野さんは笑った。「願いも祈りも理不尽なものだ。道理はそこに絡まない。反射的なものだよ。何かにリフレクトしてるんだ。光に溢れる世界の中で、キラキラして見えるってのは、そいつは世界を拒絶しているってことだよ」
「……考えてみるよ」と言って、わたしはソファを立った。
「隅方さん、最後に一つ」
文野さんはソファから立ち上がり、書類の積み上がったデスクの方に行った。ガサガサと何かを探し、目当てのものを持ってくる。
「何?」
「わたし達の電話番号。
「ありがとう」と素直にわたしは言う。今までそんな殺意は持ったことがなかったから、今後も使う羽目になるわけないと思った。「でも、そんなことは起こらないよ」
「そう祈ってるよ、あんたのために」
わたし達は少し見つめ合った。文野さんの心は空っぽだった。まるで最初からそうだったように。その器の中には何もなく、そして表層にすらさざ波はなかった。彼女は色んなものを諦めていた。当たり前の幸福もそうだし、ふつうの生活もそうだった。その片鱗すら、彼女の中には存在していなかった。
つい数時間前まで、あんなに笑っていたのに、とわたしは思った。その余韻もどこにも残っていなかった。
彼女の目に、わたしはどう映っているのだろうか。
わたしの心の中に、特筆すべきことなどなかった。
ガチャリと音がして、事務所のドアが開いた。
スーツ姿の雀居さんが、寿司桶を持って入ってきた。どうやら、文野さん、ピザだけでなく寿司も注文していたらしい。ていうかまだ食べるのか。
「ちょうど下で出会しまして」と言いながら、彼女はテーブルの上に寿司桶を置いた。
文野さんはさっとそちらに移動して、ビニールを剥がしはじめる。わたし達の別れなんて、そんなものだ。寿司より大事なものではなかったのだ、となんだか少しおかしかった。遭って、たったの二日。お互いを認識してからはもっと時間もあったのだろうが、話したのはたかが昨日今日なのだ。そして、傘鷺さんが約束を守ってくれるなら、早々に文野さん達はこの街を去る。
それで良い、とわたしは思った。こんな感じで良いはずだ。
「ありがとう、雀居さん。今日はもう上がり?」
「そのつもりでしたが」
「だったら、ついでにこの子を自宅まで送ってあげてくれない?」
「構いませんが……」
「ん? どうしたのさ」
雀居さんは、スーツのポケットから一枚のハガキを取り出した。前面に倉庫の写真がプリントされており、切手はない。つまりは、この事務所の郵便受けに直接入れてあったものというわけだった。裏面に書いてある文言は読めなかったが、それを見た途端、文野さんの表情がニヤっと笑った。
「文野さん?」
「果し状だよ」と彼女は言いながら、寿司を一つ摘んだ。「〈なんでもナイフ〉からだ。”文野史織との再戦を希望する。辞退した場合は、隅方いい子とその家族を殺す、と書いてある。第三者が介入した場合は、誰だろうとそいつも殺す”と書いてある。あとは場所と時刻だね」
愉快そうに彼女は言う。
わたしはどうしたものかと考えはじめたが、形になる前に、文野さんは所長室のドアをノックしていた。雀居さんに向かって、「その子の送り、お願いね」と言う。
「承知しました」
早速、オフィスの入り口に向かう雀居さん。
「文野さん」
「こっから先は、わたし達の世界だよ。あんたはもう関わるべきじゃない。今までありがとうね、隅方さん。おかげで良い夢が見れた。バイバイ」
彼女は所長室に消えた。寿司桶を持ちながら。
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