第3章

scene 11 : 世の中、映画じゃありませんから

 駐車場では、運転手の雀居ささいさんが待っていた。キャンピングチェアに座って、文庫本を読みながら煙草を吸っていた。セブンスターの18mg。ドリンクホルダーには缶型の灰皿が入っていた。ずっとここで待っていたのだろうか。わたし達を認めると、彼女は吸いかけの煙草を灰皿に押し潰し、缶を閉じた。ジャケットのポケットから白い手袋を取り出し、はめる。彼女は何も言わずに、運転席に座った。

 雀居さんはキーを回す。エンジンは始動した。

 帰り道では、誰も一言も話さなかった。文野さんが、クーラーボックスから取り出した練乳いちごヨーグルト味の炭酸飲料を飲んでいる音と、わたしの知らない音楽だけが流れていた。ジャンルも分からない。ジャズでもクラシックでも民族音楽でもなく、さりとてリラクゼーション・ミュージックでもなかった。たぶん、ロックに分類されるのだと思う。細かい呼び方なんて分からなかった。

 変革は常に起きている。そして潜在的に、ひとびとは、常に革命を求めている。宝くじの当たりを期待するように、自分の生活がポジティブな方向に変われば良いのにと願っている。それが普通の願い。変わるとしたら、ポジティブな方向に違いないという希望的観測に基づいたもの。そしてわたしの望まないところだった。

 隕石に当たる確率と、人殺しに出会い、人殺しの手伝いをすることになるという確率のどちらが低いのだろう――窓の外を時速50kmで流れていく景観を見ながら、わたしはそんなことを考えた。線になるネオンサインや車のライト、縞になる人の群れには答えは見出せなかった。それらは地層のようで、わたしは知らず積み上げられてきた歴史というものを連想した。

 わたしはK-Pg境界線を超えてしまっていた。恐竜は祈らなかった。あるいは月面の裏側を無垢のままに守り切れるほど、祈りは足りていなかった。わたしの日常系はすでに粉砕されていた。ショッピングモールを出てしまえば、こうして現実の天候と向き合うことになる。

 晴れ空の夢を見た。醒めると変わらぬ曇天がそこにあった。疑似的なデートは終わった。わたしはどこに連れていかれるのだろうか、と思った。その答えは決まっていた。あのオフィスだ。あとは報告をするだけだった。誰に? 殺人事務所の所長とかいう、フィクショナルな存在に。それで最後だった。全ては終わりに向かっていた。しかし、恐竜は生き返らないし、月も無知だった頃には戻れない。

 車が赤信号で止まったとき、雨が窓ガラスに弾けた。

 世界中が泣きはじめていた。

 よくあることだ。常に誰かは泣いている。なにしろここは水の惑星で、海は涙の味がするのだから。単にわたしが泣かないだけだ。文野さんも泣かない。わたし達は、そういう気分から離れたところに生息している。わたし達はみんなに含まれず、死んでも大地に還りこそすれ、海には流れつくことはない。約三割が大地とはそういう意味だ。循環することもなく、埋もれたまま沈んでいく。何かが芽吹くなんて期待できないし、そうもしない。

 事務所のあるビルは、黙って雨に濡れていた。

 わたし達は事務所に着いた。

 四階の隅にある看板のないドアを開けて、事務所の傍ら、所長室のドアを叩く。タンタタン。「どうぞ」と声がして、わたし達は中に入った。

「先に文野史織から話を聞かせてもらうよ」と傘鷺カササギさんは言った。「結果はどうだった?」

「失敗だな」

「珍しいね」

「多分こいつだろうって奴とは出会した。確か〈なんでもナイフ〉だ。奴は否定してたけどな」

「〈なんでもナイフ〉――狭間割はざまわりつくしくんだね」と彼は答える。「いろんなものをナイフ代わりに使う者だ。なるほど、そうきたか。確かに、あの体育教師の頭部の断面はそういう切り方をしていたからね。そうか、彼だったか。合点がいったよ、いろいろとね」

「”いろいろ”?」と文野さん。

「自分に依頼された対象の死体が、校舎内から落ちてきたら、彼も不思議に思うだろう。ああいう一般人然としていた男の殺害に複数人の殺し屋が動くとも思えないからね。ましてや落ちていたのが射殺体だ。となれば、〈きまぐれトリガー〉、文野史織の仕業だと想定されても、おかしくないだろう。しかし、文野史織ひとりでは、大の男は放り投げることができない。君は力がある方だけど、怪力ではないんだしね。彼の結論はこうだ――仮に本当に文野史織の仕業だとして、そいつには協力者がいる」

 事実その通りだった。

「狭間割くんは、女の子同士の関係性が好きだし、離別ものが好きだったはずだ。僕には気持ちがよく分からないけどね。しかし、彼にとっては、もしも文野史織が実在し、彼女を打ち倒すことができて、なおかつその協力者が何かを想ってくれるなら、かなり美味しいことになる。最悪女の子同士じゃなくても、彼は一つの趣味を満たすことができるし、現に君たちは女の子同士だったんだから、上々だ。彼は賭けに勝ったんだな。万馬券が降ってきた感じだと思うよ」

「あんたは、〈なんでもナイフ〉が狙ってくると思っていたのか?」

「無数にある可能性のひとつとしてはね」と傘鷺さんは飄々と答える。「他の殺し屋にも、同じだけの説得力はあった。でも関係ないだろう? 誰が来たって、文野史織には関係ない。文野史織は、必ず仕事を遂げる。失敗するときは、彼女が死ぬときだけだ」

「事実、失敗したわけだけどな」と自嘲気味に文野さんは笑う。

 しかし、傘鷺さんは即座に否定した。

「まだだよ、文野史織。君は失敗していない。短期的にはそう見えるかもしれないけどね。迎撃は、開放系だ。僕は”返り討ちにしろ”と言ったんだよ。討ち倒すまでが、君の仕事だ。それとも、もう諦めるつもりかい? 仕事を放棄し、自分の今までとこれからを投げ打って、誰でもない何者かになろうと言うのかい?」

「……」文野さんは少し黙った。「そんなこと、できるわけがない」

「そうとも。文野史織はそういう存在ではない」毅然とした調子。「ちゃんと絶命の証を示せ。悪を滅ぼす悪としての自分を全うしろ。自らを知る敵は排除し、邪魔な奴らは薙ぎ払え。はじめたことは、終わらせろ。文野史織という旗を立てるまで、君の戦いは終わらない」

「……分かってるよ」拗ねたように彼女は呟いた。

「では、少し休みたまえ」と傘鷺さんは表情を和らげる。けれども全然空気は柔らかくならなかった。「出前を頼んでも良い。好きなものを好きなだけ注文して、英気を養え。何人たりとも君の休息を妨げることはできない。心身をリフレッシュして、引き続き殺しに勤しんでほしい」

「りょーかい」と彼女は答える。

 そこには諦めのようなものがあった。

「退室を許可する」

 文野さんがチラッとわたしを見た。わたしは文野さんと傘鷺さんを見る。

「君には少し残ってもらうよ、隅方すみかたいい子さん。僕は君に話がある」

 じゃあまた後で、と文野さんは言わなかった。彼女は何も言わず、部屋を後にする。ドアが開いて、閉じ、わたしは室内に残された。重たい沈黙があった。空気が肩にずっしり乗しかかってきて、潰れそうだった。法廷に立ったことはないが、そういう気分だった。悪いことなど何もしていないはずなのに、確信が持てなくなる。殺人以上の罪があるのか? 少なくとも、わたしの中にはないはずだった。

 ドアの向こうで、また別のドアが開き、閉じる音がした。文野さんは自分の部屋に戻ったのだろう。それ以上の音は、この部屋の換気扇を除いて、何もなかった。わたしの鼓動は聞こえたが、それは内的なもので、同じように傘鷺さんの心音も聞こえてこなかった。

 随分孤独な想いに駆られた。無言の糾弾があった。この感覚には覚えがあった。教室の隅の方でひとりぼっちにされた時の気分。放課後でもなく、週末の夕方にまで、そうされては居心地が悪い。

「わたしに話ってなんですか」

 耐えきれず、そう口を開く。押し潰された蛙の悲鳴みたいなものだった。

「そうだね。どこから話そうか」彼は考えるフリをする。「まずは、感謝が順当か――ありがとう、隅方いい子さん。君は我々に協力してくれた。ちゃんと囮をやってくれたわけだからね。危険な役柄にも関わらず、無事、敵対者を誘き出すことに成功した。君については、もうこれで精算された。約束通り、我々はこの街を去ろう。事務所も畳むし、ネットワークも放棄する。我々から君にコンタクトすることはない。君はと君の家族は、今まで通りの人生を継続することができる」

「……ありがとうございます」

 なんと答えたら良いのか分からなかったが、ひとまずそう言った。きっとそれは良いことなのだろうとも思ったからだ。もちろん、後付けの理屈だった。わたしの”今まで”はすでに破壊されている。同じ形にしたところで、ひび割れた痕跡は戻る。もともと、歪だったのだ。壊れているようなものだった。それはきっと、修正されない。

「だから、ここから先は、世間話だ」傘鷺さんは言う。「君は今回の件についてどう思った? 文野史織とのデート中に起こった事柄を、余すことなく教えてほしい。君の主観で良い。むしろ、君の主観こそが必要だ」

 わたしは、言われた通り、今日の出来事を説明した。自宅からエキの駐車場に向かったところまでは省略した。プライベートまで語る必要はないだろうと思ったからだ。似たような理由で、文野さんの笑顔についても省いたけれど、特に意味はなかった。その他はほとんど誠実に答えたつもりだ。

 どうせ、世間話。

 文野さんが発砲に失敗したところまで話したところで、傘鷺さんは人差し指を上げた。

「それは、おかしい」

「なにがですか?」とわたしは尋ねる。「映画とかでも、よくあるじゃないですか、大事なところで銃が撃てなくなっちゃうのって――」

「そりゃあ映画の中では起こるだろうさ。脚本上、演出上、そうするということはあるけどね」

「分かりません」わたしは正直に言う。「銃だって、メカニズムですよね? エラーだって起こることもあるんじゃないですか」

「一般的にはね」彼は手を組んで、顎元を隠す。「しかし、こと文野史織においてはあり得ない。彼女は銃に愛されているし、銃撃と絶命との間を取り持つことのできる数少ない存在だからだ。それだけが、彼女を文野史織足らしめ、文野史織の実存を構成していると言っても良い。彼女がジャムることなど、絶対にあり得ないんだよ。肺呼吸の生き物が、突然鰓呼吸をはじめるくらいに」

「そんな……ジンクスを既定路線みたいに言われても……」

「これはジンクスなんかじゃないよ。ちゃんと人間の意思が介在する問題だ。脚本や演出と同じように、偶然そうなったわけではなく、しっかりとした意図が絡んでいる。確度100%の雨女が必ず傘を持ち歩くように、我々としても因果を整理しておきたい。そのようにして、我々は文野史織を運用してきた。たとえば、銃撃と絶命の間を、自らの意思を持って取り持つことができる者。一見、偶然に見える二つの事象を、有意に関連づけることができる者――」

 わたしは彼の言葉を遮るように言う。「分かりません。あなたがどこに向かおうとしているのか、わたしには、全然、分かりません」

 拒絶するように。

 けれども、傘鷺さんは止めてくれない。


「――そういう存在を、我々は〈超能力者〉と呼ぶ」

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