scene 10 : 祈りとひと殺しと滅裂象限

 三種の牛丼屋さんに行って、文野さんはそれぞれ特盛を平らげた。やけ食い。清々しいまでの食べっぷりで、なおかつ上品だった。米粒ひとつ残さず、器に汁の跡もほとんどなく、箸の汚れも少なかった。本当に手先が器用なのだなと感心した。育ちが良いのか、それとも、そういう風に訓練されているのだろうか。わたしもどっと疲れていたので、ご相伴にあずかったが、さすがに並盛り三杯は無理だった。

 食べている間、彼女は一言も話さなかった。牛丼屋さんは、歓談するために行く場所ではないという哲学すら感じられた。ただ食べるために行くのだ。わたしとしては、それだけ補給した栄養が、彼女のあまり高くない身長の一体どこに行くのかと考えざるをえなかった。多分、胸とかアクションシーンとかだ。文野さんは、現在の食欲を満たすのみならず、過去や未来のために食べていた。

 おまけに、三店舗目をあとにしたところで、

「次はドーナツを食べるからね」と言うのだから、驚いた。

「まだ食べるの……」

「十個位は食べる。デザートは別腹じゃん」

「限度があるよ」わたしは音を上げたが、そこでふと思い至る。「このあとのことに備えてるの?」

「このあと?」

「また、ああいうひとが来るとか……」

 わたし達はつい先ほど殺し屋に襲われたばかりなのだ。

「それはないよ」と彼女は言う。「殺し屋同士の鉢合わせってのは、基本的には、多くて一日一人だ。この国は広いし、対して職業的人殺しの数は少ない。わたしの存在が知られていると言っても、誰もが一挙に挑戦してくるわけじゃないんだよ。そこは暗黙のルールってのがちゃんとある。誰かが挑戦するなら、誰かは控えなきゃならない」

「そういうものなんだ?」どこで情報共有がなされているんだろう。わたしの知らなくて良い世界の話だった。

「そういうもの。本来、殺し屋同士は鉢合わせしないからね。護衛が目的ならバッティングするかもだけど、わたし達はそうじゃない。一人の標的相手に複数人を派遣するってのはイレギュラーなんだよ。ちゃんと名前の知れた殺し屋なら、ちゃんと仕事を済ませるわけだからね」

「でも、文野さんはあのひとの名前を覚えてなかったんだよね?」

「わたしのこれは、単純に興味がないってだけだよ」彼女は大股で歩く。脚が長いので、必然的にそうなる。お腹いっぱいのわたしは、歩調を合わせるのも少し苦労した。「カタログにも名前が載っているんだから、それなりの奴だったのかもしれない。でもやっぱり興味ないな」

 彼女は、立ち止まって、壁のマップを見た。

 数秒のことだったと思うが、それで場所を把握したらしかった。早々に歩き出す。

「特別な場を設けない限り、殺し屋同士が集まることはない。何かの争奪戦とかトーナメントとか、そういう悪趣味なイベントが開催されない限りはね。基本的には、個人主義なんだ。で、だからこそ知名度が必要になってくる、とも言える」

 ドーナツ・ショップに入って、あれこれと選びながら彼女は続ける。

「挑戦したがるのはそういうことさ。文野史織を殺しました、となれば、そこそこの宣伝になる。仕事も増える。でもパイはひとつだ。もしも共同戦線を張ろうものなら、当然ひとり当たりの取り分は小さくなる。功績の所在も分からなくなっちゃうんだよね。だったら、個人主義としては、独り占めしたい。だから、干渉を避けて、予定を組むんだよ」

「今日のあのひともそのひとりってこと?」

「最初で最後のひとりかもしれないけどね」と文野さんは言って、適当な席に腰を下ろす。わたしはその正面に。ドーナツはなし。コーヒーだけ。「あの〈なんでもナイフ〉の参加表明に萎縮するって可能性も勿論ある。もともと仕事が忙しくて参加しないって線も、そもそも文野史織に勝てるわけがないって考え方もあるだろうね。わたしがこの街にいるってバレたのは、早くても昨日の今日なんだし」

「そんなに有名人なら、もっと早くから所在が知られていてもよさそうだけど」

「茶髪で髪の綺麗な美人で、おっぱいのそこそこ大きな女子高生なんて、津々浦々にいくらでもいるからね」

「それはそうかもしれないけど」

 全国の女の子が銃を持っている様子を想像するところだった。

「ただし、そこに射殺事件が起これば別だ。そういう依頼を誰も出していないのに、銃殺死体が出てきたなら、そりゃあバレるよ。界隈では、公然と銃を使う方がマイノリティなんだ。処理やら根回しやらが大変だし、つまりは経費がかさむからね」

「でも文野さんは銃を使ってるよね?」

「もはや銃はわたしの体の一部だからね。ハイデガー的に拡張された身体だ」

 そう言って、彼女はコーヒーを飲み、苦いと舌を出す。砂糖を探すが見当たらない。彼女は不服げに、ドーナツの穴に指を挿す。牛丼屋で見せた上品さとはおよそ対極の仕草に、わたしは驚く。

「しかし、あんたは質問のしすぎだな――隅方さん」

「えっ」

 確かにその通りだった。謝りそうになった。

 彼女が、悪くもないのに謝るのは嫌いなんだと言っていたことを思い出す。煩わしかったかもしれないと反省する。

 彼女にとって、今のわたしがセーフなのかどうかは分からなかった。少なくとも、すでに殺されていない程度にはセーフ。けれども限りなくアウトに近いグレーだった。

「フェアじゃないって思うんだよな」と彼女は口調を変える。先ほどの男と対峙したときの雰囲気が醸し出される。「あたしにも、いろいろ疑問がある。それにも答えてもらう。あたしの場合は、多くても二つだ。何かを問うなら、問い返される覚悟が必要なんだよ」

 わたしは唾を飲む。

 砂漠が思い出したように、旱魃地帯が雨を忘れたように、喉が干上がっていた。

 彼女の視線の鋭さに、指先が震えた。だから、喉を潤そうにも、テーブルの上のカップを取ることができなかった。机の下、膝の上で手を握る。

「あんたは何者なんだ?」と彼女は試すように尋ねてきた。

「わたしはふつうの女の子だよ」

 言ってみるが、わたし達には”ふつう”が分からない。”みんな”を分割しがちで、その中に自分の居場所を見つけることができないまま、生きてきた。

「誤魔化すんだよな。うん、あんたはそういう人間なんだろうさ」彼女は頷く――不服そうに。「でもな、わたしは生まれてからこの方、ジャムったことはないんだよ。装填も排莢も滑らかに行われてきたし、弾丸は必ず命中してきた。それがわたし、文野史織って存在なんだよ。今までそうやって生きてきた。それは今後も変わらない」

 文野さんはわたしを見る。

「だから、あんたがなんでもないフツーの人間だなんて、信じられない」

 わたしは彼女を見る。

「ジャムったのは、あんたのせいか?」

 答えを探す。文野さんは、その答えがわたしの中にあると踏んでいるようだが、今はなかった。

「わからない」

 当然、彼女は睨んでくる。

「本当にわからないんだよ」どうしてこうなっちゃったんだろう。「わたしはただ祈っただけ」

「ふうん」

 彼女は納得していない。当然だ、できるわけがない。今までの人生、わたしは誰にもそうしてもらえなかった。信じてもらえなかったし、気持ち悪がられもした。わたしのこっちの偶然は、みんなには理解を超えた現象なのだ。

 文野さんの射殺と同じだ、とわたしは思う。”気に入らないから殺す”なんて、そんなの、信じられるわけがない。

「祈っただけで、弾丸が止まるかね。そっちの方こそ、あたしは懐疑的だよ。そんなことがマジであるなら、戦争なんて即日解散だ。オールドの雲も必要ない。あんたは絶滅した恐竜に”祈ればよかったのに”って言うのか? 月の裏側には祈りが足りませんでしたって? まるで、”初めて”に過度に感情移入してるって言われてる気分だよ」

 彼女は人差し指を倒し、ドーナツの彼女側を割る。

「二つ目の質問をするよ――どうして邪魔をした? あんたが庇ってくれなくても、あたしならちゃんと殺せたんだ。銃はまだ生きていた。弾丸だってフルに装填されていた。あの距離なら絶対に外しっこないし、致命傷に致命傷を重ねて、即死の自乗が実現できた。あんたも守れて、あたしは万々歳だった。なのに、あんたはあたしの邪魔をした。その身を賭けてまでだ。どうしてだ?」

 その質問に答えるのは簡単だった。

 分かりきっている。

「みんなを守るため」とわたしは答えた。

 文野さんは眼光をさらに鋭くする。

「その”みんな”にあたしは含まれるのか?」

 わたしは彼女の表情を見る。

 その下に隠れているものを探るように。

「そう、その目だよ」と文野さんは言う。「あんたのその目は、

 背筋が凍った。地雷の上に足を乗せたらこういう気分だと思った。

 しかし彼女は銃を抜かなかったし、発砲もしなかった。わたしは殺されなかった。生かされていた。それは単に、まだ、というだけかもしれなかった。

「あんた、顔色窺うの趣味なわけ? それともただの癖か? いずれにせよ、ちゃんとあたしのことを見てくれていないよな」

「見てるよ」とわたしは言う。「ちゃんと見てる」

「いいや、違うよな。あんたのそれは、観察しているだけだ。”目は口ほどに物を言う”って言うだろ。でも、あんたの目は何も言ってないんだよ。相手の内側まで見えるのかもしれないけど、それはただ悪戯に腹を開けているだけなんだ。興味本位で解剖しているようなもんだ。一枚の葉っぱを見て、木々を語るな。分かったような気になるな。あんたはそういうことをしている。ひとの気持ちは――魂は、もっと根源的なものだ。あんたは、それを侮辱している」

 彼女は、人差し指をわたし側に倒した。


「それって、人殺しと何が違うんだ?」


 ドーナツは、完全に二つに割れていた。もう戻らない。

「殺人を人格の決定的な毀損とするならだ。あんたのその視線は、同列だよ。あたしらと同じだ」

「それはおかしいよ」とわたしは言う。「わたしは人を殺したことはないし、そんな予定もないよ。ていうか、わたしはあなたを助けたんだよ? 殺人と人命救助は全然真逆じゃない」

 感謝されこそすれ、非難される言われもない。

「人命救助と生命の創造はまた違うだろ。神サマにでもなったつもりか? 第一象限と第四象限を一緒くたにするな。生命ってのは偶発的な現象なんだよ。誰の意図も絡まない。両親の愛? 知らないよ。奴らの勝手に巻き込まれはしたが、結局はたまたま狙いの目が出ただけだろ。試行回数を増やせば、誰でもいつかは出せる。少なくとも生命全体ではそういうことをやっている」

 殺人の反対を誕生って言うなら、そうかもしれないけどさ、と言おうとしたところで、わたしの唇は彼女の人差し指で塞がれる。トリガーを引く指は、ビター・チョコレートの香りがした。

「喋るな。煙に巻くな。あたしを希釈するな」わたしは黙るしかない。「違うって言うなら、試しに、もっと本気でわたしを見てみろよ。あんたにはそれだけの素質があるんだろ」

「それは、買い被りすぎだよ」と指のこちら側でわたしは言う。

 人殺しの気持ちも、空を行く猛禽類の気持ちも分からない。

 隅方いい子は一般人であり、少なくともそう努めている野ウサギなのだ。

「そうかね?」彼女の指から解放される。「死体を見ても悲鳴を上げず、放り投げる手伝いもして、その犯人と一緒にデートもする。別の人殺しに会っても、悲鳴を上げない。自分の命は放り投げる。死体を解剖するように、ひとを見る。そういうことができちゃうのって、なんか通ずるものがあるからなんじゃないのか?」

 牽強付会のすぎる、三つ目の質問だった。二つと言ったはずなのに。けれども、よく考えなくてもそれは質問ではなかったのだ。彼女は、断定していた。おまえはあたしと同じだ、と。そんなの、願い下げだった。わたしは人殺しではない。それが、わたしと彼女を分けている最後の一線だった。

「あたしもそこそこ殺してきたけど、あんたみたいなのは珍しいよ」

 人目を憚らずに言う文野さん。

「……”気に入らない”って言ったのに、殺さないの?」

「殺さない」

「どうして?」

「ヴァーサス人殺しは、一日に一人までだからだ。それより多い日もあったけど、そいつらのことは忘れちゃった。だから極力やらないようにしている。あんたは運が良かったな。でも、それで終わりだ。”That’s all”。それ以上の理由は、もはやない」

 彼女はドーナツの半分を口に放り込む。

「明日になったら忘れてることを祈るんだね、隅方さん。そうじゃなかったら、大変なことになるぜ。次回にあんたがあたしの邪魔をして、なおかつその目であたしを見るなら、多分あたしはあんたを殺しちゃうよ。銃弾があるなら確定だ。安心しなよ、あんたが殺意を察するより早く、あたしはあんたをちゃんとぶっ殺す。走馬灯もチャプター・スキップしてやるよ」

「トモダチにはなれないってことだね」

「思ってもないこと言うなよ」

 彼女の言う通りだった。

 わたしのコーヒーは、もちろん苦かった。

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