scene 08 : Aメロ・プリーズ、サビ抜きで

 文野さんにしても、無から「デート」と言い出したわけではない。傘鷺さんの発案だ。今日日デートという単語は特殊性を失い、同姓同士のお出かけ行動にも適応されるとのこと。なぜか。キラキラして聞こえるからだ。少々、古臭い意見だと思った。

 具体的になにをするかといえば、新作の名前の長い飲み物に、可能な限り甘いものをトッピングして、それを肴に英語のベンキョーをすることになる。

「多分それが一番時間潰しに最適じゃないかな」と傘鷺さんは言っていた。「ウィンドウショッピングをしてもいいが、文野史織は雑貨や服飾に興味がなかったはずだ。大抵のものは雀居ささい――君も会ったろう、あの運転手の女性だ――が揃えてくれるし、それで満足している。文野史織は、何を勝手に着ても様になるよう訓練されているが……」

 つまり、そういうお店では、一箇所に留まることができない、ということである。

「迎え討つには、まず攻めやすいように隙を作ってやる必要がある」


 それで、カフェで英語を教えようとしている、というわけだった。正しく”trying to”、目下その途中。

 単元は、現在形の未来用法。すでに決まっていることについては、将来のことでも現在のように語ることができるというあれだ。関連して、現在進行形とか助動詞の”will”とかについても話さなければならなくなる。一口に「未来のこと」と言っても、いろんな言い方があるのだと感心する。そういうような項目が、際限ないほどたくさんあるので、わたしは英語が好きだった。

 わたしが彼女より優れているのは、英語だけだった。

 他の教科については、軒並み彼女の方が上。

 というか、英語だけが極めて例外的だった。

 文野さんは、基本的にベンキョーもできる。

 一度、彼女の名前が成績順位表の上位を総なめにしているのを見たことがある。各教科上位十名の成績が張り出されるあれだ。ちなみに、その次の回は、どの科目でも張り出し圏内におらず、そのまた次の回は、いくつか確認できた。

「最初はやりすぎちゃったんだよね。で、二回目は手を抜きすぎた。三回目からはやり方がわかってきて、四回目以降の今では、必ずティーン前半台だと思うよ」

 狙って、十三位から十五位を取るなんて、「そんな器用なことできる?」

「傾向と対策次第かな」と言いながら、彼女はペンをクルクルと回す。さっきからずっとこれをやっている。「要は、難しい順に並べ替えて、どれだけあえてミスるかなんだからさ」

 集中力は切れていた。切れるもなにも、もともと発揮されていなかった。一応、リュックサックから取り出して、教科書と文法書、ノートは開いてある。問題集は開いてもいない。

「あの、英語、できないんだよね?」

「テスト成績を見れば、そうなるね」

 教えるにしても、そもそも何がどれだけどのようにできないのかが分からなければ、仕様がない。しかし、人殺しに対して、問題集を開いてよ、ともなかなか言いにくいのであった。失言してしまうのと、自覚して指示を出すのは違う。懇願するほどのやる気もわたしにはなかった――それこそ、彼女の気に入らないところだろう。

「アルファベットは書けるんだよね?」

「キリル文字も書けるよ」

「後ろに”s”がつくのは?」

「名詞の複数形と三単現。場合によっては所有格。固有名詞も末尾が”s”のものを除いては、つける」

「全然わかってるじゃん……」

「知っているのと使わないのは全然違うでしょ」と文野さんは言う。「銃で人を殺せることは知っていても、実際に撃たなければひとは死なない」

「英語と銃は違うよ」

「同じさ」

「その心は?」

「どちらもピリオドがつく」あんまり冴えた答えではなかった。「人生って、”終止符を打つ”とは言うけど、”句読点をつける”とは言わないよね」

「それはそうかも」

 少なくとも、わたし自身は寡聞にして聞いたことがなかった。

「あーあ。それにしてもなあ」と文野さんは伸びをする。「いつ来るかもわからないんだもんなあ。構えようがないよね」

 どんどん脱線していく彼女を引き留める力は、わたしにはない。

 あっても怖くて使えたものじゃない。

「あそこの占い師に聞いてみる?」とわたしは諦めて、通路の反対側を指差した。

 マッサージ店の横に占い店が開かれている。

「占い師は預言者じゃないからなあ。内通者だってんなら、話は別だけど。あのひと達がやってるのは、他者の鏡になることなんだよ。枝毛がありますよ、と言ってあげるようなものでさ。それでも素敵ですよ、と言ってあげるわけ。別に他人に肯定してほしい”あたし”なんていないよ。自分のことなら十分よくわかっている」

 ズゴッと音がする。彼女が咥えていた飲み物は、早々に尽きてしまった。わたしにしてみれば、結構飲みにくいものなのに、いつの間にと思う。

「この甘いやつ、おかわりもらってくるわ」と文野さんは席を立つ。

 逃げられた。

 ひとりになって、ため息をついた。思ったより長く続いたので、自分の呼吸が無自覚のうちに浅くなっていたことに気がつく。やっぱり緊張していたのだ。

 大体、文野さんの言っていることを真に受けるのか、という話。彼女は英語ができないんじゃなくて、わざと英語ができないフリをしているのではないのか。

 なんのために? 隙を作るため。

 答え合わせがしたくて、文野さんを探した。確かに今飲んでいるこの甘いものの総称は長いが、それでも帰ってくるのが遅い気がした。カウンターの方を見ると、別に並んでいるわけでもない。では、お手洗いにでも行ったのだろうか。

 いずれにせよ、待つしかなかった。

 もともと、待つのが仕事なのだ。

 業界ではそこそこ名前の知られているらしい、文野史織さん。身長が同じくらいで、年齢もそうという理由から彼女の変装を余儀なくされているわたしは、しかしほとんど無警戒だった。キャパシティがオーバーしていたと言っても外れじゃない。人殺しと出会って、しかもその翌日に一緒に過ごすことになる、というのは、よく考えなくても異常事態なのだ。

 いっぱいいっぱいでも責められなかろう。

 だから、というわけでもないが、

「やあお嬢さん、道を聞きたいんだが」

 とそう尋ねられるまで、わたしは男の接近に気がつかなかった。

 背の高い男が立っていた。特に目が遭ったわけでもなく、突然そこに現れたかのようだった。

 髪は短く刈り上げている。観光客といった装い。ご当地ものの長袖Tシャツを着ていて、手首にはボタン式のベルトがついている。ポケットのいっぱいあるズボンを履いていた。かなり大きなバックパックを背負っているが、肩幅が広く、胸板が厚いので、とんとんだった。手足が長く、筋肉質。素朴な格好だが、清潔感はある。いっそ過剰なくらいの清潔感だった。漂白されている印象。金髪と青い目。でも流暢な日本語だった。国籍までは、わからない。

 ただざっと見の外見的な情報と、セリフ、駅や観光案内所にあるような地図を広げているところを総合して、旅行者だろうと検討をつける。

「ここに行きたいんだ」とよれよれの紙面を指差した。

「ええ、はい。どこですか――」

 地図を覗き込もうとしたところで、嫌な予感がした。

 目の前で地図がキリッと翻る。予感的中。速度の中で、それまで折り目のあった紙面が押しつぶされるのが見えた。印刷したてのように真っ直ぐになる。

 その端がわたしの喉元近くを通り過ぎる。

 わたしはパッと首元を抑える。ヒリヒリしている気がしたが、傷はない。血は出ていない。頸動脈は無事だ。バクバク鳴っている。

「何するんですか!」とわたしは叫んだつもりだったが、突然の出来事に声は掠れた。

「紙で指を切ったことくらい、誰でもあるだろう? 地図でもひとは殺せるさ」と彼は言う。手の中の地図は、我に返ったように項垂れている。「――と思っていたんだがな。今のを避けるのか。さすがは文野史織だな」

 文野さんの名前を口にする大人に、ロクな人間はいない。

 となれば、

「あなた、殺し屋のひとですか」とわたしは尋ねる。

「地図のナイフ転用は、名詞代わりにならないか?」

「なりませんよ」

 それともこの人たちの世界ではそうなのか、とわたしは思う。あるいは殺し屋一覧カタログなるものが存在していて、そこにはピンナップ付きで、格人の特徴とか武器とかが書いてあるのかもしれない。

「知らない仲じゃなかろうに」地図を点検するように広げながら、彼は言う。

 かなり大きい。

 マジックみたいに、彼がすっといなくなる。

 違う、姿勢を低くしただけだ、と思ったときには、次の言葉が聞こえてくる。

「思い出して、そして死ね」

 宙に放り出された地図の中央が膨らむ。そして割れる。そこにキラリと輝く刃があった。ナイフ。いつの間に取り出したのかなんてどうでもいい。刃の先端がわたしを睨み、腹に反射する光が地図を照らした。直線コースはマズい。わたしは椅子に座ったままだ。避けるには背もたれが邪魔だった。椅子ごと倒れるには、あまりにしっかりし過ぎていた。

 彼はわたしの胸郭ど真ん中を狙っていた。

 そこに心臓があることくらい、わたしにも分かる。

 刺されれば死ぬことも知っていた。

 知っているのと使えるのは違う、という文野さんの言葉が思い出された。彼女の言う通りだ。即死だと分かっていても、わたしの力ではどうすることもできない。どこかにずらしても致命傷になる。

 文野さんの格好をしたばかりに、わたしは死ぬんだ、と思った。

 辞世の句なら、用意してある。

 ――トモダチになってみたかったサムバディ。

 十三歳のときに考えたものだから、正しい英語ではないんだけど。惜しむらくは、それくらいだった。こんな実りのないクソみたいな人生に、何かを期待しようというのが間違いだったのだ。結局、字足らずで自堕落な毎日だった。万が一生まれ変わることがあったなら、そのときはロクな指向性も技術もなく、凡庸にあって迎合するだけの人生がいい。

 グッバイ今世、ウェルカム来世。

 わたしは観念して、目を閉じる。


 しかし、走馬灯とやらは、到来しなかった。

 救いは、上から降ってくると決まっている。


 ガガツンと大きな音が連続した。音は、わたしの内側から響いたものではなかった。目を開けると、三角型の松葉杖を振り下ろしている文野さんがいた。ナイフはわたしの胸元でなく、足元の床に突き刺さっている。

「なーにエンディングロール待ってんの」と彼女は微笑んだ。「こっからAメロだぜ。サビなんてあるかも知らないけどさ」

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