第2章
scene 06 : みんなの分割可能性
バスを降りたとき、ついに来てしまったと思った。
また夜の内に雨が降ったのだろう、地面は濡れていた。
これからわたしは、人殺しと共に、別の人殺しを待ち、そいつを返り討ちにすることになる。わたし自身はただ待つだけでよく、囮としてそこにいれば良い。何にも良くなかった。おみくじなら、大凶つづら折り百枚セットという感じで、最悪だった。
”返り討ち”――人殺し同士の対決となれば、穏当に済むわけがない。
殺人事務所の所長、
そういう規模の状況を整備するのに、どれだけのお金がかかっているのかは想像ができなかった。そもそも、お金でどうにかなる問題なのか。
考えるだけ無駄だった。
すでにわたしもその計画の一部として組み込まれているのだ。となれば、あてがわれた役割を演じるしかない。既知の日常系が壊れてしまったとしても、新たに組み込まれる先があるのは、比較的幸いだった。
要は、適応できるかどうかなのだ。
するしかないだろ、と深呼吸する。
指定された座標に向かう。まずは、駐車場。見知ったナンバーのクラウンを探す。曇天の下で、それは不吉なモノリスのように見えた。這いつくばって、空調が神経質に鳴いている。
どんな格好で来ても良いと言われていた。ドレスコードはなし。しかしそれは、緩さの指標ではなく、結局は車の中で着替えるから、という理由だった。わたしに自由はない。
車の中で文野さんが待っていて、「さ、それに着替えてね」と言う。
彼女の指示で、わたしは着々と変装を済ませていく。
黒髪を赤茶けたウィッグで隠して、彼女と同じような服を
薄青色のダメージジーンズ、白地に赤と黒の四角の描いてある(”Amnesiac”と書いてある。)パーカーという簡素な出立ち。生地は薄く、ジッパーはついている。それでも、文野さんが着れば十分上等に見える。お揃いにすることで、自分のみすぼらしさが余計目立つみたいだった。惨め。彼女みたいにスタイルが良いわけでなし、隙だらけで無頓着、いっそ弊衣破帽といった感じ。
仕上げに、カラーコンタクトを入れる。このときが怖かった。
「わたしが入れてあげようか?」と文野さんは言う。
もちろん、目に入れても痛くない、とはいかない。
「自分でやります」
「そう? じゃあ見ててあげる」手鏡の淵から、例の猛禽類みたいな眼が覗く。明らかに浮かれているのが伝わってきたが、わたしにはその感情に至るまでの経緯が見えない。「隅方さんも綺麗な目、してるのにね。ミルクティーみたいな色だ」
そんなことよりも手元目元に集中する必要があった。
「あと、今度敬語使ったら、気に入らなくなるからね」と彼女はふざけながらに笑む。
わたしは全然笑えなかったし、指先は震えた。
今日もわたしはウサギをするしかない。
是奈市中央駅と合併しているショッピングモール。ファッション&グルメ、雑貨、映画館、全国展開しているスーパーとの複合施設。場所によって名前が変わるが、総合的な名前をわたしは知らない。わたし達は単に「エキ(駅)」と呼んでいる。あるいは「マチ(街)」。地下通路を行けば、繁華街の方に行ける。遊ぶとしたら、たいていこの辺りになってしまうのが、非政令指定都市の難たるところだ。
わたしと文野さんはここに何をしに来たのか。
デートである。
拒否権のないわたしは、この呼称も飲み込むしかなかった。
「デートだデートだ」と浮かれているのは、文野さんだけであったとしても。
昨日の殺人事務所におけるトゲトゲしさが嘘のようだった。まるで別人のようでもあったが、そもそもマキセンを殺した時点では、そんなに鋭さを見せていなかったのだ。それ以前の彼女については、よく分からない。オンオフでしっかり切り替わるタイプなのかもしれない。
これがオトモダチとのお出かけだったなら、わたしだってそうなっただろう。しかもあの深層令嬢フミノサンと一緒、おまけにペアルックとなれば、普通なら歌でも唄って足裏を合わせても良いくらいなのだ。日常にありふれているはずのそういうシチュエーションが、けれども以下の致命的な一文で台無しになる――ただし、この子はプロの殺し屋である、と。
仕方がないので、わたしは力なく「あはは……」と笑うしかない。例の
殺し屋、文野史織の変装をして、彼女と共に、ショッピングモールをうろつくこと。それがわたしに課せられた任務だった。
「週末なのに浮かない顔だね、隅方さん」と文野さんは翻って――リュックサックが見える――わたしに屈託のない笑顔を向けてくる。これから自分を狙ってくる相手を迎い討とうという者の表情ではなかった。一切の気負いがない。それだけ場慣れしていると考えることもできたし、今この時に集中しているとも思えた。
天気の好い日の方が、ひとは購買意欲をそそられるのだ。
「あたしの方はこんなに楽しい!」文野さんは宣言する。
そして両腕を広げて見せる。周りの人々をまるごとハグするように。
「今、夢が叶ってる。同い歳の子と週末にお出かけするっていうやつ」
彼女の嬉しさは、眩しかった。あまりに輝度が高くて、わたしの心の影が余計に濃く見えた。昨日の放課後とは違って、演技はなかった。それは純度百%の喜びで、満願成就の幸福だった。あやうく、致命的なエクセプトを忘れて、彼女の感情に引きずられそうになる。少し心が温まるのを感じた。
文野史織という少女は、あまりに魅力的だった――危険なまでに。
いっそ彼女が人殺しであるという事実を忘れたい衝動に駆られた。
わたしだって、普通の子みたいに週末を楽しんでみたかったのだ。
それができずに、ここまで来てしまった。
表層的な感情については、読み解くことができる。けれども、その歴史までは紐解くことができない。だからわたしは訊くしかない。
「……これまで、本当に、経験したことがなかったの、こういうこと」
話はちゃんと聞いていた。
それはちょっとした願いでもあった。正体や本性がバレず、鏡の中に映るようなサイズの自分、いつもの教室で観測されているような自分でいられたなら、そういう経験ができたのではないか。彼女が、人殺しであると知られることはなく、見たままのお嬢様であったなら、そういった機会もまたあったのではなかったか。
もちろん、外見的には、わたしなんかを彼女と同じ水準で語ることはできないだろう。それでも、偽装しているという点では共通している。今まで、爪を隠して森に紛れることができたなら、今後だってできるのではないか、わたしには無理だったが、それは”今までのわたしには”であって、変えていくことだってできるのではないか。
そんなことを思った。
「まったくナッスィングだね」と文野さんは答える。一縷の希望的観測は否定される。「隅方さんが現れるまで、あたし、誰とも話さなかったもん。そりゃあ日常的な応答まではしたけどさ、遊びに誘われたことはなかったな。ん? あったかな?」首を傾げて、記憶を検索する彼女。「あったに決まってるか。あたしに声をかけないなら、周りに見る目か根性、あるいはその両方が不足してるもんな……」
自意識過剰な結論だった。
「でも結局は断ってんだから、無いも一緒だよね」
「どうしてか聞いてもいい? その、断った理由」
「単純だよ。気に入らなくなりたくなかったから」
文野史織は、気に入らないから、という理由でひとを殺す。
「……本当は、殺したくないの?」
「あはは、踏み込むね、隅方さん」と愉快そうに彼女は笑う。「わたし達、出会って二日目なんだよ? そういうお互いのアイデンティティとか、宿命づけられた呪いみたいなことを話すの、まだ早いんじゃないかな?」
不快には思っていなさそうだった。
というか、逆鱗に触れていたなら、すでにわたしは死んでいる。
「ご、ごめん」と一応言う。
「いいよいいよ」手のひらを振りながら。手品のように銃が出てくるんじゃないかって、それでもビクついてしまった。「ちなみに、今の質問については、否定も肯定もしない。言ったでしょ、わたしのアレは反射なんだって。生まれつきなんだよ。物心ついた時にはすでにああだった。肺呼吸の生き物は、一生肺呼吸を続けて生きてくしかないんだよ。そこに意図は絡まない」
反射なら仕方ない、とは、思い切れなかった。
「ただ、あんまりエコじゃないとは思うな。何がって弾丸の値段の話だけど。つまりはお財布事情だよね。仕事のためならお給料は出るんだけど、ついやっちゃった場合は自腹なんだ――情報操作は事務方がやってくれるけど、清掃代もあたし持ち。掃除屋が汚してちゃ世話ないだろって理屈みたい。鷹の世話をするのは鷹匠の仕事なのにね」
「それでも辞められないんだね」とわたしは言う。
拡張的な青空に下では、ひとはついつい買いすぎるように。そういう理屈を理解してもなお、お財布の紐が緩んでしまうように。
「分かってきたじゃん。そ、辞められないよ」と文野さんは答える。「あたしには、どうにもならない。十何年も人生を続けたら、ひとは呪われるし、そこから抜け出すのも難しくなる。だったら、せいぜいできる能力は活用していくしかないじゃん――とわたしは考えている」
そして文野さんはわたしを覗き込んできた。
身長はやっぱり同じくらいなのだから、彼女は前屈みになって、上目遣いにわたしを見る。手は腰の後ろで組んでいた。そうすることで開いた胸元、正確にはその影に、拳銃があることをわたしは知っている。胸が大きいからよく分かんないだけだ。
「――隅方さんには、そういうの、ないの?」
ちょっと時間が止まった。
空中に放り投げられたウサギのような気分になる。あるいはシャチに弄ばれたペンギン。足掻いたところで、結末は変わらない。いや、文野さんは別にそういうつもりで尋ねてきたわけではないのだ、と思い直す。わたしが彼女のアイデンティティに踏み込めないように、彼女もわたしの深いところに触れたいわけではない。
これは純粋な質問であって、だから素朴に答えるべきなのだ。
「あるよ」とわたしは答えた。
「やっぱりね」
「というか、文野さんが言った話って、みんなそうなんじゃないかな」とわたしは続ける。「みんな言えないことのひとつやふたつ、あると思うよ。周りに合わせようとして、その態度が固まっちゃうことも、あると思う」それを呪いと言うことも、だから当然できるだろう。「自分にできることをしてやってかなきゃってのもわかるよ。みんなそうだよ」
「ふむふむ」と彼女は視線をわたしから外して、前を向く。「誰しも秘密を抱えていて、そこに踏み込まれたくない。他者に迎合して、その態度が硬直することもある。自分にできることをやってかなきゃならない。なるほどね」
文野さんは数歩進み、わたしは同じだけついていく。
「隅方さん、やっぱり面白いね」肩を揺らして笑う。「今までそれで騙してこれたんだ? あたしが言ったことを三つの純然たる事実に分解して、並べ直しただけじゃん。あたしの言葉にもちょっとは哲学が入ってたかなって思うのに、それをそうやって一般論にしちゃうんだ……」
雲行きが怪しくなったかと思った。
いや、天気自体は、元々こんなものだったと思い出す。
そしてそう考えられるということは、わたしは死んでいないということだ。今のリアクションは、文野史織的にセーフだった。端々に思ってはいたけれど、昨日からこちら、わたしの失言が増えていないだろうか。もしかすると、生きていることに甘えているのかもしれない。彼女の頭の回転数を見誤っていた、などとは、それこそ言い訳にもならないのだ。死んでからでは遅い。
「ごめんね……」
「次謝ったら、気に入らなくなっちゃうよ? 隅方さんは悪くないし、悪くないひとが謝るのは気に入らないんだ」
わたしは唾を飲む。彼女の言う正義が何を示すのか、という問いも共に。
冗談に聞こえなかったが、彼女は冗談を言っているつもりのようだった。
「じゃあ、次の質問。その”みんな”の中に、ちゃんと隅方さんは含まれてる?」
「……どの”みんな”?」
「ほらね、”みんな”を分けちゃってる」嬉しそうに彼女は言う。
わたしは白状する。「分けてるとしても、そこに含まれないとも言ってないよ」
「抗うねえ。その通り! “含まれてる”とも”含まれない”とも、隅方さんは、言っていない。たぶん、そんなことを言うひとじゃないんだよね。これはあくまで、わたしの予想だけどさ」
知ったようなことを口にする。
「ひとはみんな一人なんだよ」
「分割可能な最小単位が個人だからって、現象としての群像を否定することにもならないじゃん」
文野さんはスラスラそう言うので、わたしはちょっと戸惑う。
「……誰もが連めるってわけでもないよ」
「そこなんだよね」彼女は指を鳴らして、人差し指をわたしに向ける。「わたし達は、どういう形態であれ、”みんな”に含まれなかった。だから今まで、こんな風に週末にオトモダチとお出かけすることもできなかったわけでさ。弾丸が命中しちゃって、絶命しちゃったら、”どこから”なんて経路は問わないのと同じなんだよね」
文野さんは言う。唐突にも似た調子で。
「わたし達、似たもの同士なんだよ」
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