scene 02 : オーパーツ的な論理

 文野さんの堂々たる演技によって、わたし達は無事、マキセン投身事件を目撃してしまった哀れな生徒というポジションに落ち着いた。まだ冬でもないのに、毛布がかけられ、近くの音楽室に閉じ込められた。この部屋に用事のある生徒はすでに帰宅した後だったので、要するに、人目に触れないよう匿われたわけである。

 文野さんはあーあと体を伸ばし、わたしは人殺しと一緒にされたことに恐々としていた。いつ彼女の銃がわたしに向けられるかわからないのだ。常識的に考えれば、この密室でそんなことは起こるはずがない。そんなことになれば、犯人は彼女に絞られてしまうし、芋づる式に、マキセン――マキノだかマキハラだか先生――の死についても、疑念が湧くだろう。

 そんなものは、慰めにならなかった。

 彼女は、”気に入らないから”という理由で、殺した。

 そういう理屈は、わたしの知る道理に含まれない。多分、みんなの中にも含まれていないのではないか。オーパーツみたいなロジック。わたしの知らない世界の理論。世間に公表されておらず、当然普及もしていない。あるいは全く新しい概念を聞いている気分だった。

 音楽室の床は冷たかった。

 文野さんは椅子に座っていなかったから、わたしも床に座らざるを得なかったのだ。人殺しよりも楽をすることは躊躇われた。理外の美少女が銃を抜いては困る。

 自分の命が途絶えること自体は、怖くなかった。それは何度も想像したことがあるし、人生に特に期待もしていない。後悔があるとすれば、強いて言って、シリーズ物の映画の続きが観られなくなることや、贔屓にしているアーティストの新譜が聴けなくなるくらい。

 問題なのは、その理不尽さだ。両親にかける心労も浮かんだが、それは比較的、些細なものだった。彼らも人類であるからには、誰かを失うこともあるだろう。おそらく不幸なことに、惑星全体で考えれば、この瞬間も誰かは亡くなっている。今まで散々迷惑をかけてきたのだ。むしろ、そういう心配から解放されるという点では、お互いにとってメリットとも思えた。

 だから、わたしが恐れたのは、強制的に走馬灯を見せられる羽目になる、という方だった。付け足すなら、諸々の経済的な負担。わたしはアルバイトをしていないし、販売用の才能を持っているわけでもない。

 思い出したい人生なんて、何もない。両親の懐事情を邪推するに、葬儀費用くらいはどうにかなるだろう。そんなものは比じゃない。走馬灯の方がよっぽど脅威だった。

 ひょっとしたら致死性の空気を吸ったり吐いたりするのは、苦しかった。


 しばらくすると、警察がやってきた。

 サイレンの音は聞こえなかった。状況としては、こうだ。警察を名乗る人物がやってきて、音楽室のドアを開ける。その前に門番面して立っていただろう教員だか事務員に、何かを説明していたのは分かった。警察手帳のようなものを見せびらかして、後程別の担当の者が来ます、と言っているのは聞こえた。現場の検証やら、関係者への聞き込みやらそういうものがあるのだろう。推理ドラマで見たことがある。

 そして、彼女は、わたし達を校舎から連れ出し、クラウンに乗せ、学校を去る。

 車の後部座席に座ると、文野さんはまたも大きく伸びをした。

 緊張していたのではない。

 演技から解放されたような気楽さがあった。

「あれないの、甘くてドロっとした炭酸のやつ」

 なんだその不気味なものは。そこのクーラーボックスにありますよ、と運転席の警官は言う。

 文野さんの向こう、車窓の外をパトカーが通り過ぎるのが見えた。

「あれ、今のって」

「本職だね。本物の警官」

「え、じゃあこっちのは?」

「偽物。警官の真似が上手なひと。うちの職員」

「でも、手帳が」

「本物の警察手帳なんて見たことある? 滅多にないでしょ。人殺しくらいレアだと思うよ」と彼女は言いながら、二本目のペットボトルに手をつける。強炭酸練乳いちごヨーグルトと書いてあった。「職務質問を受けたことがあるひとくらいはいるかもしれないけどさ、それが本物かどうかまでは分からないよね」

「警察のフリって犯罪じゃ」

 と言いかけて、口をつぐんだ。

 隣のこの子は人を殺したのだ。

「ちなみに、通報についても、情報統制が敷かれている。110にかけたつもりが、別のところに転送される仕組み。転送に転送を重ねて、結局はわたし達の組織に繋がるんだよ。さっき通り過ぎたパトカーも、ただの一般通過パトカー。サイレン、鳴ってなかったでしょ。あの体育教師の死体は、わたし達の組織がいいように都合して、いいように発見され、いいように通報される」

 わたしの全然知らない世界だった。

 彼女が遠のいて見えた。

「……さっきから言っている”組織”ってなんなの」とわたしは尋ねた。訊くべきではなかったと思ったところで、遅い。仮に発言の撤回に成功しても、わたしはすでに彼女の手助けをしてしまっているのだ。後悔はすでに成り立たないところまで来てしまっている。

「依頼を受けて、人を殺す仕事だよ。実働部隊はあたしだけで、サポートが何人かいるっていう、小さな組織だけど、まあ人が集まっているんだから、組織は組織だよね。簡単に言えば、プロの殺し屋、掃除屋。清掃業者でバイトしてるってことになってる」

 それこそフィクションの世界みたいだった。

「関係者各位に対してのメンタルケアが上手いことを売りにしようとしてるらしいな、上の方は」と彼女は言いながら、ペットボトルを揺らした。炭酸が喚きたてない程度に、ゆっくりと。「だからわたしも言ってみるけど、主な標的は悪いひと達だよ」

 無論、心が落ち着くわけがなかった。なーんだよかった、と撫で下ろそうにも、胸はない。悪いひとならいいかと納得できるほど、わたしの倫理観は単純でもなかった。四文字熟語の辞典の中から、最初に消した言葉は、「一日一善」と「勧善懲悪」なのだ。

 せめて命は平等であるべきだと思った。一人につき、一つだけ。

「マキセンは、何か悪いことしたの?」

 これも間違った質問だった。喉が乾いていた。けれども、クーラーボックスを一瞥した限りでは、おぞましい桃色炭酸飲料しかなさそうだった。

 そもそも、仕事として請け負っているのならば、守秘義務とかいうものがあるんじゃないか、と思った。病院でだって個人情報の保護について、なんらかの確認を取られる昨今だ。ひとの命を預かる立場とくれば、そのあたり、厳しそうだった。

 知られたからには、消えてもらう――そう言い出されてもおかしくないシチュエーション。

 しかし、それを翻すように文野さんは言う。

「別にないよ」埃でも払うような素っ気なさだった。「言ったでしょ、気に入らなかったって。衝動だよ。反射的なやつ。ツーときてカー。適性。ついつい手が出ちゃうってやつ。あたしの場合は銃を抜いちゃって、出ちゃうのは弾丸なわけだけど」

 プロだから必殺技もあるんだよ、と彼女は言うが、全然笑えない。こんな状況で心の底から笑えるような生き方なんてしてきていない。

 引き攣るようにして、愛想笑いが浮かぶだけだった。

「でもさ、声に出して笑わないにしても、叫んだりもしないんだよね」と文野さんは言う。「素質あるよ」

 わたしのこれは、素質ではない。努めて表情やら感情を隠してるだけだ。昔からひとの顔色は窺ってきた。顔に出すと相手を不快にさせたり、悲しませたりすることもあった。だからわたしは聡くならざるを得なかった、それだけだ。今どきの女子高生が、お出かけ前にちょっとは化粧をするのと同じだ。男子が髪を整えるのと同じ。わたしは作り笑顔の仮面をつけて、登校する。

 もちろん、そういうことを彼女には言わない。

 話すのは、今日が初めてなのだ。

「あの先生のこと、好きだったりした?」と文野さんは訊いてくる。「だったら、ちょっとごめん」

「嫌いだった、と思う」とこれは正直な言葉だった。

 理由はいくつだって作り出せる。

 あの先生は、わたしにとっては、いてもいなくても一緒のひとだった。命の重さは他のみんなと一緒だっただろうが、さりとて特別印象深いとも限らない――それが現実。だから、嫌いだったと言うことはできる。良い人だった、と合わせることもできる。どうでもよいのだった。

 元々人の名前を覚えるのが苦手なわたしだ。卒業してしまえば、多分、あんなひとのことは忘れてしまっただろう。撃ち殺され、窓から放り出すのを手伝った、という経験だけが、辛うじて残るか、記憶の奥底に封印されるに違いない。

 そういう命のあり方があって良いものかは、分からない。善悪の二元論は万能なパスポートではない。ただし、わたしの感覚をもってしても、彼の死は歪だったと思う。理不尽なまでの唐突な終わり。滅多に遭遇しないだろうし、しかしながら、現に遭遇してしまったのだ。消化不良。あるいは消化不可能の異物が、わたしの人生に差し込まれていた。

「じゃあ良いじゃん」と文野さんは言う。

 良くないよ、と答える代わりに、わたしは例の曖昧な笑い方をする。そういう気軽さで、走馬灯を見せられてはたまらない。再帰性がないからどうにかやっていられているのに、勝手に思い出話をはじめられるのはごめんだった。それこそいっそ死にたくなる。しかしどうだろう、目標を持って積極的に生きているわけではないし、いつかの未来にわたしも死ぬ。どうせエンディングが変わらないなら、プロの手にかかった方がマシな気もした。

 いずれにせよ理不尽な話だ。

 世界は論理で回らないのだな、とわたしは思ったところで、車は止まった。目的地に着けば、車は止まる。それはわたしのよく知る理屈で、わずかな制動距離の中では少しだけ安心することができた。

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