スウィート・スウィーパーズ
織倉未然
第1巻
第1章
scene 01 : 雨上がりの理不尽
銃声が聞こえた。というか、それが銃声だと分かったのは、後付けだった。
何かに殴られたように体育教師の頭が吹っ飛び、それと同時に赤黒いものが噴き出して、どういうこと? って隣にいた彼女の手を見たら、銃があった。銃の名前までは知らないが、西部劇なんかに出てきそうな回転式の拳銃だった。
銃口から昇る煙を、彼女は息で吹き消した。まるで蝋燭の火を消すかのような具合だった。奇遇にも、今日はわたしの誕生日だった。バースデイケーキの代わりに、ひとりの命が消されてしまったのだ。そんな準備も覚悟もはしていなかった。最悪だ。
床に伏している体育教師の体は、動かない。スポーツが担当のはずなのに、糸が切れたように横たわっている。わたしなんかの力じゃ、もう微動だにしない。それが手に取るように分かった。
早寝の過ぎる夕暮れだった。二度と起き上がることもないのだろう。わたし達はホラー映画の世界に生きていない。少なくともわたしは、ごくある日常系の住人で、ここは市立高校の四階の廊下で、今は夕暮れ時だった。
「え、何してるの?」とわたしは、尋ねてしまった。
確認のためだ。
殺人事件だなんて認めたくなかった。
しかし代わりの表現も見当たらない。わたしと彼女の他には誰もおらず、銃声の余韻すらも残っていなかった。すでに、音は廊下を走り抜けていった後だ。全部が巻き戻って、嘘だよ冗談だよドッキリだよと言ってほしかった。でもダメそうだ。生徒も先生や事務員も、神や仏や天啓も、ただいま皆留守にしております――現実から逃げるように、そう
いっそ正気を手放したくなった。これもダメだった。幻覚を疑おうにも、目の前の死というやつには、あまりに鮮やかな触感があった。
心の中がザワついてくる。
色んな思念が、全身を好き勝手な方向に飛び回る。頭がパニックだ。胃の辺りから無数の疑問符が込み上げてきた。
解説役にご登場願いたかった。誰か説明してください、と叫びたくもなる。客観的な視点が必要だった。探偵か牧師か精神科医。この際、Q&Aでも構わない。どれも望み薄だった。部活組も帰りはじめた頃合いの、放課後の校舎には、そんな専門知識は居残っていない。
説明可能な人材は、隣の銃を持つ女をおいて他になかった。
消極的必然の下、彼女――文野史織は回答する。
「イヤなんだよねー」銃をクルクル回して、サマー・カーディガンの内側のホルスターにしまう。器用な子だ、というのは辛うじて分かった。「ポニーテールははしたない、とかわけわかんないこと言う奴」
理解力の壁にぶち当たってしまった。
どんな理由があれ、射殺する方こそ意味不明だ。
彼女は続ける。
雨上がりの夏の香りを編み込むように、髪をざっとかきあげながら。
「そういう奴と同じ人類だっての、マジでNG。別にあんたも劣情を催させたいからって、そういう髪型してるわけじゃないんでしょ?」
配られるのは、斜陽に溶けない琥珀色の視線。鷹とか鳶の眼だった。慌てている場合ではなかった。なんらかのアクションが必要だった。とはいえ、できるのは首を縦に振るくらい。同族を狩られたウサギもかくや、わたしは非力だった。
「う、うん……」
単に楽だからだった。体育の授業があったからまとめていただけで、涼しかったから、そのままにしていた。でも、仮にそうじゃなかったとしても、否定できるシチュエーションではなかった。何せ目の前の文野さんは、今しがた人を射殺したばかりなのだから。
「ま、正直、あんたがそーゆー目的でそーゆー髪型にしてるってのでもあたしは構わないんだけどね。そういうレベルじゃないんだわ。あんたは関係ない。わたしのこれって」銃をしまった胸元をポンと叩く。「生理的な反応だし、正義でもある。了見の狭い奴は、気に入らない。だから、殺した――それだけでさ」
さっぱり不可解だった。
オカシイよ、とも、変だよ、とも、理由になっていない、とも言えなかった。 空に住む猛禽類の気持ちなんて分からない。彼女が本当に”気に入らない”という理由でひとを即座に殺したのであれば――事実その通りなのだが――ここは彼女に気に入ってもらわないと困る。
「そ、そうなんだ」と愛想笑いを浮かべる以外の選択肢はなかった。
社会に生まれて十七年。愛想笑いには自信があった。媚びるまではいかないけれど、相手を満足させる程度の笑顔。神経を逆撫ですることはせず、中立ちょいポジティブに見てもらえるような表情。そしてそれを即座に作り上げる技術。
人殺し相手にどこまで通じるかは疑問だったが、文野さんは面白そうに、あるいは興味本位で、もしくはねだるように覗き込んでくる。あまりの混乱と緊張で、意図が特定できなかった。
「ところで、
一瞬、身構えたが、いかなる譲歩文も続かなかった。むしろ対等なニュアンスすらあったので、虚を衝かれた。
「どうにか?」探るように訊き返す。「わたしなんかが?」
このウサギにも手伝えることがあるのでしょうか。
跳ねて踊れと言われれば、迷わずそうしただろう。
「他にあてもないじゃん。二人っきりだし。それに、死体を廊下に放置するわけにはいかないでしょ」と当然のように彼女は言う。「土台になって」と続ける。「そう、その窓のところに手、乗せて。頭は下げてね、引っかかるから。心配しないでいいよ。二人なら簡単に落とせるよ。あたし、こう見えて力持ちだし」
文野さんは遺体を窓から投棄しようとしていた。
断りたい理由は百個ほど思いついたが、断れる相手ではなかった。
文野さんからは、死に対する畏怖とか、後悔の類が一切感じられなかった。全ては起こるべくして起こり、起こった事柄には適切な対応を、というロジックだけが見透けた。自身の行為についての
わたしは言われた通りの姿勢をする。脚を伸ばして、背中を向ける。
人間三角スロープ。
「じゃあ、いくよー」言うが早いか、足首の辺りから生温かい体温が這い上がってくる。ゾッとした。したが、受け入れるしかなかった。これが死の直後の体温なのだ。
背中の上を大の男の遺体が通り過ぎる。思いもせぬ体重にウッとなったが、そこは恐怖で持ち堪えた。クシャってなってみろ、今度はお前が気に入らなくなる番かもしれないんだぞ、とわたしは思った。実際、文野さんには力があったし、遺体にはスピードもあった。わたしが崩れたのは、その体重が窓の外に飛んでいった後だ。
文野さんは、やると言ったことを、ちゃんとやった。
数秒あるいはもっと少なく、けれども確かな時間差があって、グシャリと終わった音がした。
「ご苦労様、助かったよ」と労いの声がかけられる。
本当に助かったのかは疑わしかった。
にへらと笑いながら、わたしは文野さんを見上げる。身長は同じくらいのはずだ。それが今、とても高く見える。
赤茶けたような髪は肩の少し下で揃えられている。毛先にいくほど夕焼けに混じるような、細やかな髪の毛。地毛なら校則違反にはならないが、そうでなければ違反確定の色。おそらく真実は後者で、赤信号。でも、普段の印象からは天然物の深層の令嬢だと思われている。スカートは膝上一センチ。でもそもそも腰の位置が高い。胸の影に隠れて、言われても銃があるなんて気づかない。クラスは一緒。誰とも連まないので、誰とも連めないわたしは親近感を覚えていた――今までは。
彼女は携帯端末を操作して、どこかにダイヤルする。
「やっちゃった。そ、学校。目撃者は一人――」映画などでよく聞くセリフ。「――そのつもりはないよ。だってこの子、悲鳴もあげないんだよ。手伝ってもくれる。どちらかといえば、気に入ったね」そしてわたしにウィンクをする。背筋が凍る。「じゃ、後始末よろ」
携帯端末をしまって、彼女はわたしに向き直る。
「ひとが学校で死ぬのを見たとき、やるべきことってのは決まってるよね? 大きな音も鳴ったわけだし、こうしてマキセンは飛び降りたわけだし。いずれにせよ誰かが駆けつけるなら、被害者ぶるのが一番って、わたしは思うわけだ」
そうして彼女は息を大きく吸って、悲鳴を上げた。
びっくりした。お腹からしっかり声が出ていた。この時のために日頃から訓練しているんじゃないかってくらいの声量だった。
わたしはといえば、ただ呆然するしかない。
ほどなく、校舎のあちらこちらから人が集まってきた。なんだ、やっぱり誰かは残っていたんじゃないか、とわたしは思い、次いで毒づく。全然よくない、すべてが遅すぎる。もっと早くに誰かがやって来てくれるべきだった。そして、ちゃんと説明をしてくれるべきだった。今更こうして駆けつけてきたところで、ひとが死んだことも、わたしがその処理の片棒を担がされたことも無しにはならない。
文野さんは床に崩れ、震えながらグスグスと泣いている。自分で殺したくせに、そんなことを今まで一度も考えたことがないように、罪業意識の欠片も見せず、純真無垢の化身みたいに。被害者面コンテストがあったら間違いなく金賞だった。
事実、泣きじゃくる儚しの君然とした彼女と、掲示板に染みついた赤黒色を紐つけるようなことは、誰もしなかった。先生だったものは窓の外、グラウンドに落ちていて、それがほとんど全てを誤った方向に物語っていた。もし誰かが気づいたとしても、せいぜい赤い塗料と思ったことだろう。日常において、多くの場合、人は頭の中身を見ることがない。
駆けつけてきた教員に対して、文野さんは言う。
「マキセンが急に窓から飛び出したんです。全然止められませんでした。わけがわかりません」
ぬけしゃあしゃあと。
サメザメと泣いている文野さんの涙、弾丸、そして死。辛うじて順調を装ってきたわたしの人生は、十七年目にして、このように破綻した。歯車という歯車の間に、雫状の様々な何らかが挟まり、日常系という機械は機能不全をきたしてしまったのだ。
ところが、時間は経過していく。
窓の外で、蝉がそう言っていた。
一つの関係性が、産声を上げた。
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