第8話 唾棄すべき青春時代



 少し、昔の話をしよう。

 今でこそ青春嫌いの恋愛アンチの権化のような人間になってしまった俺ではあるが、だれもが純粋無垢だった時期があったように、俺にも普通に友達がいて、恋愛に淡い夢を抱いていた頃が当然のようにあった。

 それこそ、青春アレルギーなんて造語をあの頃の自分が聞いていたら、きっと鼻で笑い飛ばしたであろう時期が。

 それくらい、どこにでもいるような普通の少年だった。

 しかし、それなりに分別が付くようになれば、純真なままではいられない時が──周囲を意識せざるをえない時が必ずやって来る。


 たとえば、同調圧力。

 たとえば、スクールカースト。


 そういった問題と直面するようになって、それでも昔のまま変わらずにいられることなんて稀有なパターンだろう。少なくとも、自分の周りにはだれ一人としていなかった。

 俺自身も含めて。

 特に顕著だったのは中学生時代だった。あの頃の俺は周りの目ばかりを気にして、なるべく孤立しないことだけを考えてクラスメートたちと交流していた。今と違ってだれに対しても挨拶を交わしていたし、つまらない冗談でも愛想笑いを浮かべる程度には人付き合いはいい方だった。

 もっとも、もっぱらオタクや優等生といった大人しめのグループとばかり接していたので、決して陽キャというわけではなかったが。

 そんな自他共に認める地味男子の元に、もしもラブレターなんて時代錯誤ながらもアニメやマンガにありがちなイベントが起きたらどうなるか。

 答えは言うまでもないだろうが、自戒を込めて詳らかにしておく。

 当時、俺は浮かれに浮かれた。そりゃそうだ。彼女なんて一度もできたこともなければ、告白された経験もない初心な男子がラブレターなんて貰ったら、浮かれないはずがない。

 御多分に漏れず、俺もその初心な男子だったわけだが、悪戯の可能性を考慮しないほどのバカではなかった。

 だから最初は半信半疑の気持ちで指定された時間と場所に行ってみたのだが、そうしたらなんと、クラスで一番可愛い女子がぽつんと一人で立っていたのである。

 正直、その時もまだ悪戯の可能性を疑っていたのだが、こっそり陰から様子を窺っていた仲間が、ドッキリの看板を掲げて笑いながら飛び出して来るということもなく、普通に告白されて、普通に付き合うことになった(内心、心臓が破裂しそうではあったが)。

 それはまるで夢のような日々だったが、のちに所詮夢は夢だったと思い知らされることになる。

 あっけなく終幕が下りたのは、付き合い初めて一週間ほど過ぎた頃だった。

 その時は彼女の意向もあって、周囲には付き合っていることを隠していたのだが、なにげなく自分の教室に入った途端、すぐに付き合っている件がみんなにバレたのだと──さらに言うなら、やっぱりあれは悪戯だったのだと痛感させられた。


 なぜなら、友人らしき奴らと一緒に、彼女が俺を見てけらけらと嘲笑っていたから。


 クラスメートたちも事のあらましを耳にしたのか、揃って俺に好奇の視線を向けていた。昨日まで普通に談笑していた奴までもが、だ。

 しかもそれだけで終わらず、彼女たちは追い打ちをかけるように、俺に対して侮蔑の言葉を次々にぶつけてきた。


『影山くん、本気で私と付き合えるなんて思っていたの? ウケる~』

『あんなの悪戯に決まっているだろ。オレらが考えたゲーム──お前がいつ悪戯に気付くかどうかの賭けをしていたんだよ。ああくそ、オレは一週間以内に気付く方に賭けたっていうのによ~』

『ぎゃはは! あんないかにも童貞くさい影キャくんが、可愛い彼女が出来て浮かれないはずがないだろ~? はい、二千円~』

『私も二千円~。あ、そうそう。影山くん、もう私に変な物を送ってこないでね? なにあのポエム? マジで気持ち悪かったんだけど』

『ポエム? どんなん?』

『たとえば「君は月より綺麗だ。だから好きよりも大好きだ」っていう感じの意味不明でキモいやつとか~』

『ぶははははは!! なんだそれ、下手な芸人のギャグより笑えるわ~!』


 嘲笑する元カノとその取り巻き。そんな彼らを咎めようともせず、俺を遠巻きに眺めながらひそひそと話をするクラスメートたち。

 そこに味方なんて、だれ一人としていなかった。

 完全なアウェイに、反抗する意思すら持てなかった。

 そこから俺の艱難辛苦は始まった。今まで築いた人間関係も、さながらジェンガのようにいともあっさり崩れ去り、だれもが俺を存在しない者として扱うようになってしまった。

 無理もなかった。なぜなら俺をさんざんコケにした元彼女とその取り巻きは、スクールカースト上位の陽キャ集団──性格こそ最底辺だが、ほとんどクラスを牛耳っている彼らの意思にそぐわない真似なんて、するはずもなかった。

 逆らったら最後、そいつも俺と同じような目に遭うのかもしれないのだから。

 そんな事情もあって、クラスメートたちを恨んだりはしなかった。まあちょっとくらいは気にかけてくれてもいいじゃないかという不満もないわけではなかったが、向こうの立場になって考えたら、当時の俺も同じようなことをしていたと思う。

 だから孤独でいるのが当たり前の日々を送るようになっても、周囲に助けを乞うような真似はしなかった。陽キャたちにバカにされる毎日をただひたすら耐え続けた。

 そうすれば、いつかはきっとあいつらも飽きて、また元の退屈ながらも平穏な日常に戻れると信じて。

 だがそんな日は、いつまで経っても一切やってこなかった。

 むしろだんだんとエスカレートしてきて、通りすがりに肩をぶつけてくることなんて当たり前──ひどい時は机の中を床にぶち撒けられるなんてこともあった。


 あの日──今の俺を形付けることになる、運命とも災厄とも言える日が訪れるまでは。


 それはある日、個室トイレに入った時に起きた。

 用を済ませ、個室トイレから出ようとした際、突如として頭上から大量の水が降ってきた。

 わけがわからず、びしょ濡れのまま茫然自失とする俺。しかしながら、ドアの前で聞こえてきた三人ほどの下卑た笑い声に、俺はすべてを察した。

 元カノの取り巻きである陽キャどもに、バケツで水をかけられたのだと。

 そして奴らは、まったく罪の意識なんて感じていないかのような陽気な声で、


『あ、ごめーん。もしかしてだれかそこにいた~? なんかそこからめちゃくちゃ臭い匂いがしたから、つい水をぶっかけちゃったわ~』

『いやー、オレはやめるように言ったんだぜ? でもこの二人が「うんこ臭くて我慢できない」って言うからさ~』

『ひっでー。そういうお前こそ、ニヤニヤ笑ってたじゃねぇかよ~。まあ、あれだ。これも青春の一ページになると思って許してくれよ、影山くん』

『おいおい。名前を言ったらまずいだろー。これじゃあ影山とわかった上で水をかけたって丸わかりになるだろうが』

『あ、そっか。まあ大丈夫だろ。どうせ影山だし』

『そうだよなー。陰キャの影山くんだもんなー』


 なんて嘲笑し合いながら、さも何事もなかったかのようにトイレから去っていこうとする三人の足音を聞いて、俺は自分でも気付かない内に首を掻きまくっていた。


 青春。

 青春?

 これが青春だと?


 ふつふつと体の芯から湧き上がってくる怒り。脳内で「青春」という二文字が駆け巡るたびに全身から痒みが発生し、濡れた肌をあちこち乱暴に掻きむしる。

 これが俺にとって初めての発作──のちに青春アレルギーを名付けることになる症状の発現だった。

 そして我に返った時には、トイレ内で三人をボコボコにしたあとだった。

 素手ではなく、モップを片手に持った状態だったが。

 とはいえ、特に卑怯だとは思わなかった。後悔もしなかった。

 そこにはムカつく三人をボコボコにできたという爽快感しかなかった。

 もっとも、そのあとはかなりのお騒ぎとなり、ボコボコにした三人は急いで病院に運ばれ、俺は強制的に職員室へ連行されてしまったわけではあるが。

 その後は教師陣に事情聴取のごとく仔細を訊かれ、ついには親まで呼び出されて色々やり取りをしたあと、最終的には一か月の自宅謹慎という沙汰が下った。

 まだ義務教育過程の中学生なので、さすがに退学はないにしても、転校くらいはさせられるかもしれないと覚悟していただけに、今回の決定は正直意外ではあった。

 まあ、今日までに受けたクラスメートからの嫌がらせの数々を知った上で転校させるような学校ならば、こっちの方から離れてやっていたが。

 ただ、それで相手側の保護者がすんなりと納得したというわけではなく、訴訟も辞さないという脅し文句で俺へのさらなる糾弾を迫った一面もあったのだが、これ以上騒ぎを大きくすると学校側はもちろん、双方の将来のためにもならないという校長や教頭の説得を聞いて、苦虫を噛み潰したように顔相を歪めつつも大人しく引き下がっていった。

 きっとあちら側も、今後の高校受験に差し障るような事態は避けたいと考えたのだろう。実際、裁判で自分たちの子供の悪行まで世に晒されるリスクを考慮したら、賢明な判断ではある。

 まあ、うちの両親はたとえ訴訟されようが全力で相手を潰す気でいたし、未だにこの話が出るたびに怒りを噴出させたりするが。

 正当防衛みたいなものとはいえ、こっちは相手を病院送りにしているのに、その件に関して咎めるどころか「よくやった!」と褒めるあたり、俺の両親もなかなかの過激派だと思う(それと同時に誇らしくもあるが)。

 閑話休題。

 そんな羞恥と悔恨でまみれた忌まわしき過去ではあるが、色々と教訓を得たという意味では、悪いことばかりではなかったように思う。

 中でも、一番身に染みた教訓。

 のちに、座右の銘ともなる言葉。

 それは──


 ●  ●


 土曜日の朝の八時半。身支度を済ませ、ガスの元栓や窓の閉め忘れをチェックしたあと、家の鍵を持って玄関へと向かう。

 今、この一軒家に俺以外はだれもいない。両親は共働きで朝早くから夜遅くまで帰ってこないことが昔から多く、そのため一人っ子である俺にとって、家の鍵を持ち歩くことなんて当たり前の習慣となっていた。

 弟や妹が欲しいと思った時期もあったが、今となっては一人っ子でよかったと思っている。もしも兄弟が多かったら、親もなにかと心配して仕事に集中できなかっただろうから。

 仕事が趣味みたいな人たちだから、その時間を奪うような真似はしたくない。たとえ一緒にいられる時間が少なくなろうとも、好きなことに専念していてほしい。

 一人息子である俺ができる親孝行なんて、きっとそれくらいしかないのだから。

 なんて柄にもなく恥ずかしいことを考えていたせいか、スリッパから自分の靴に履き替えるつもりが、うっかり父親の靴に爪先を入れようとしていた。我ながら間抜けすぎる。

 気を取り直し、今度こそ自分の靴に履き替え、玄関を開ける。

 するとドアの隙間からこぼれてきた朝日に、思わず目を細めた。昨日は少し夜更かししたせいか、いつにも増して朝の陽光がよく目に染みる。

 そうして自然に漏れ出たあくびを噛み殺しつつ、玄関の鍵を閉めて目的地へ向かおうとした際、すぐ目の前の通行路を見慣れた人物が一人で歩いているのに気が付いた。

 しかも、ふらふらとした足取りで。

 というか、どう見ても酔っ払っていた。

「朝からなにをやっているんだ、あの人……」

 なんて俺の呆れ声が聞こえてしまったのか、その人は唐突に横を向いて、

「あらー? 影山じゃない~。なにやってんのよ、こんなところでー」

「それはこっちのセリフですよ、佐伯先生」

 という俺の言葉に、佐伯先生は赤ら顔で「なにが~?」と小首を傾げた。

「なにが、じゃないですよ。いくら土曜日だと言っても、朝から酒なんて社会人としてどうなんですか?」

「朝からじゃないですー。昨日の夜からですー」

「余計悪いわ」

 夜通しで飲んでいたのかよ、この人。ほんと、どうしようもないな。

「別にいいでしょー。社会人にとってお酒は必需品なの。いわんや教師なんて、お酒がないとやっていられない職業なんだから~」

 はあ、と適当に相槌を打つ。またぞろ、教頭あたりに嫌味でも言われたのだろうか。

「だからと言って、泥酔するほど飲むのはどうかと思いますが。足元も覚束ない感じですし、転んで頭でも打ったら大変ですよ?」

「大丈夫~。あたし、酔っ払ってもちゃんと帰れるタイプだからー。きっと帰巣本能が働いているのねー。さすがはあたし。偉いぞ、あたし!」

「偉くはないでしょ、偉くは」

 しかし言われてもみると、佐伯先生が泥酔して道端に転がっていたという類の話は、今のところ耳にしたことはない。ということは、ちゃんと帰れてはいるようだ。

「なんにせよ、お酒はなるべく控えた方がいいですよ。見るからに危なっかしいですし」

「やーよ。こうして無事にあんたの家の前にいるんだから別にいいでしょー。あたしの家はお隣だけどねー。あはは~♪」

「だったらそのまま寄り道せずにまっすぐ帰ってください。おじさんとおばさんも、今頃心配しているでしょうし」

「そっちも大丈夫~。だっていつものことだもん☆」

「おじさん、おばさん……」

 思わず額を抑えて頭上を仰いだ。

 幼少の頃からすごくお世話になっていただけに、二人の苦労を思うと忍びない……。

「それよりあんた、さっきから妙に眠そうにしているわよね。あ、わかった。さてはエッチな動画でも観ていたんでしょ~? やーい、このむっつりスケベ~」

「違いますよ」

 と頬を突いてきた佐伯先生の指をどかしつつ、俺は続ける。

「まあネットで調べものをしていたのは事実ですけれど」

「調べもの? あー、そっか。そういえば今日だったっけ。カラオケで出会ったっていう女の子とのデートは」

 そうなのだ。

 せっかくの土曜日……それも朝早くからどこへ出掛けようとしていたのかといえば、姫奈との待ち合わせ場所に向かおうとしているところだったのである。

「金髪ちゃんから聞いたわよ~。あんた、その子に言い寄られているんだって? よかったじゃない。あんたにもようやく春が来て」

「春どころか冬が到来した覚えもないですけどね。それに向こうはどう思っているかは知りませんが、俺はただ買い物に付き合うだけですよ」

「でもその割に、けっこうちゃんとした服を着ているじゃないの」

 ああこれですか、とパーカーとスラックスをそれぞれ指でつまみながら、俺は続ける。

「以前、ジャージで行ったらぐちぐちと文句を言ってきた奴がいましてね。またくだらないことで時間を浪費したくないので、今回はこの格好にしておいたんですよ」

「あー。その話なら前に金髪ちゃんから聞いたわー。電話口で『ありえない!』って憤慨していたわよ?」

「俺からしてみれば、あいつの行動パターンの方がありえないんですけどね。今回の件にしても、あいつが合コンなんて開かなければ、こんな面倒極まりない事態にならなかったはずですし。せっかくの休日が台無しですよ」

「男がぐだぐだとつまらないこと言わない。せっかく女の子の方からデートに誘ってくれているんだから、もっと素直に楽しみなさい。金髪ちゃんだって、すごく喜んでくれているんだから」

「確かに喜んではいるでしょうね。喜んでは」

「なによ。含みのある言い方ねー」

「いえ別に。ほくそ笑んでいることを喜んでいると表現するなら、あながち間違いではないなと思っただけです」

 実際あいつにしてみれば、ようやく訪れたチャンスでもあるだろうし(光守の思い通りに動くつもりは毛頭ないが)。

「そもそもの話、好みでもない女と一緒にいても、退屈なだけですよ」

「またそういう可愛くないことを言うー。小さい頃、あたしに抱き付いて『かや姉―。だいしゅきー』と言っていたあんたはどこに行っちゃったのかしらー?」

「……それを言うのは反則でしょう?」

 佐伯先生を「かや姉」と呼んでいたのは事実だし、しょっちゅう遊びに誘うくらい懐いていたのも否定はしないが。とはいえ恥ずかしいものは恥ずかしいし、それを高校生になった俺に言うなんて、精神的拷問に他ならない。

「あたしが言いたいのは、もっと自分に素直になりなさいってことよ。可愛い女の子とデートできるなんて、高校生男子にしてみれば夢のようなイベントじゃない。普通なら嬉しさのあまり、四回転ジャンプを決めるところよ?」

「普通の高校生にオリンピック選手並みのリアクションを求めないでくださいよ。それに俺は、もとより素直な気持ちで応えているつもりです。というより、そもそも俺に拒否権なんてあるんですか?」

「あるわけないでしょー。もしもあんたが今回のデートを断るつもりでいたら、金髪ちゃんたちにあんたの黒歴史を教えていたわよ」

「でしょうね」

 という相槌と共に溜め息が漏れ出る。そんなことだろうと思っていたから、仕方なく向こうの誘いに乗ったのだ。

「別にいいじゃない。このままだとあんた、女の子とデートなんて一生できないかもしれないのよ?」

「それこそ別に構いませんよ。女子との色恋沙汰なんて、中学生時代にさんざん懲りていますから」

「…………」

 てっきりまた呆れられるかと思いきや、なにも突っ込まれないどころか、何故か黙られてしまった。

 しかも、妙に物憂げな顔で。

 ともすれば寂しげな眼差しを向ける佐伯先生に、懐古感を覚える。

 こんな佐伯先生を前にするのはいつ以来だろうか。

 最後に見たのは、ちょうど俺が今のような排他的な生き方を始めた頃──

「ねえ、影山」

 と、さっきまでの飄々とした雰囲気が嘘のように、真剣な面持ちで迫る佐伯先生に、俺は思わず一歩引いてたじろぐ。

「な、なんでしょう……?」

「あたしはね、影山。別にあんたが人嫌いのままでいたいのなら、それでもいいと思っているのよ。あんなことがあったあとだもの──青春や恋愛といったものに嫌悪感を抱くのも無理はないわ」

「……………………」

 あんなこと。

 俺が女の子に弄ばれたことや、クラスメートによるイジメ──そして最後は同級生をボコボコにしたことまで、佐伯先生は把握している。

 別段こっちから話したわけではなく、俺が自宅謹慎になったのを知った佐伯先生が、どこからか情報を収集(おそらく、同僚の高校教師や教え子の伝手を借りたのだろう)したらしく、事のあらましを全部知ってしまったのだ。

 しかもその後、佐伯先生はある日脈絡なく俺の部屋までやって来て、

『話は聞いたわよ! いやー、もう存分に笑わせてもらったわ~。クラスメートの女の子に騙された上に、いじめてきた野郎どもに復讐して自宅謹慎になるなんて、あんた、どんだけファンキーな人生を送っているのよ。草どころか草原が生えるわwww』

 なんて、文字通り爆笑する佐伯先生を前にした時は、もはや怒りを通り越して唖然とするしかなかった。

 唖然というか、いっそ見下げ果てていた。

 佐伯先生が昔から掴みどころのない人だというのはよく知っていたつもりだったが、ここまで人の神経を逆撫でするような人だとは思っていなかったから。

 この人には、ほとほと呆れ果てた。そんな風に閉口する俺に対し、佐伯は先ほどの態度とは打って変わってこう続けたのだった。

「でも、それくらいの方が面白いわ。なにもしない、なにも起きない人生の方がよっぽどつまらないもの」

 現実と追想の佐伯先生が急に重なった。

 気付けば、佐伯先生は俺の頬を両手で包んで、じっとこっちを見つめていた。

「覚えてる? 今の言葉」

「……ええ。俺がまだ家に引きこもっていた頃に、先生が突然連絡もなく部屋に入ってきた時のセリフでしたよね。耳を疑いたくなるような発言だったので、今でもよく覚えていますよ。現役教師が暴力を容認するようなことを言ってもいいのか、という意味で」

「別にいいわよ、それくらい。だって先に仕掛けてきたのは、あんたをいじめていたクソガキどもの方なんでしょ? それまで受けてきた嫌がらせの数々を一括払いで返しただけのことよ。もちろん後遺症が出るくらい報復するのは論外だけど、少し血が出たくらい、全然問題ないわよ。あたしに言わせれば骨の一本くらい折ってもよかったくらいね」

 いわゆる利子分ってやつよ、などと嘯く佐伯先生。その利子は少々高すぎると思う。

「つまり、なにが言いたいのかっていうと、少しくらい派手にやった方が人生は面白いってこと。ただ日常を漫然と過ごすだけなんて、面白味の欠片もないでしょ? あたしなんて自分に正直に生きているから、今まで一度も退屈だと思ったことなんてないわよ。えっへん!」

「えっへんって」

 朝まで飲酒していた人間が威張って言うセリフではないと思うのだが。

 それ以前に、今の言い方は年齢的に(以下自粛)。

「いやまあ、ある意味羨ましい生き方だとは思いますよ」

「でしょー? よかったら真似してくれてもいいのよ~?」

「自分には無理なのでやめておきます」

 反面教師としては勉強にはなるが。教師なだけに(我ながら上手いこと言った)。

「けど、面白おかしく生きることくらいはできるでしょ? あたしはね、あんたにもそんな風に生きてほしいのよ。そりゃあんたにしてみれば、女の子に弄ばれたこともイジメを受けたことも、単なる忌々しい過去でしかないのかもしれないけれど、だからと言ってそれで消極的になってほしくないのよ。前向きに生きろとか、そういうありきたりで身勝手なことを言うつもりはないわ。でも、せめて最期に笑えるような人生にしなさい」

「最期に笑えるような人生……?」

「そう、笑える人生。だって笑えもしない人生なんて悲惨も同然じゃない。こうしてあんたに色んな恋をするように押し付けてはいるけれど、本当は熱中できるものなら別になんだっていいのよ。それこそ、マンガやゲームでもね。でも今のあんたはまだ若いんだから、色々なことに挑戦して視野を広げてほしいの。少しでも選択肢を増やせるように。そうすれば、あんたにもなにかがきっと見えてくると思うのよ。たとえ、この先たくさんの艱難辛苦が待っていたとしても、なんだかんだでいい人生だったって思えるような──笑顔で最期を迎えられるようななにかが」

「……笑顔になれるようななにか、ですか。俺にしてみれば、なかなかの難題ですね」

「大丈夫よ。だってあんたは──」

 そこまで言って。

 佐伯先生はぐっと俺の顔を近くに寄せて、向日葵のように笑顔を弾かせた。


「だってあんたは、このあたしの弟みたいなものなんだから」


 その屈託のない笑みに、俺は言葉を忘れてつい見とれてしまった。

 そしてハッと我に返ったあと、俺は慌てて目線を逸らした。

「あらあら~? あんた、顔が赤くなっているわよ~?」

「せ、先生がいつまでも俺の頬に手を当てているからですよ。温められて血行が良くなっているだけです」

「本当は照れているだけのくせに~。生意気なことを言っても、まだまだ可愛いわね。まーちゃん☆」

「その呼び方はやめてください……!」

 力任せに佐伯先生の両肩を押して距離を取る。

 このまま佐伯先生と一緒にいるのは精神的によくない。さっさと離脱することにしよう。

「じゃあ、俺はもう行くんで」

「えー? もっと影山と遊びたい~」

「俺『で』の間違いでしょう? 先生だってまだ酒が抜けてないんですから、動ける内にさっさと帰った方が身のためですよ」

「んも~。つれないわね~。ふんだ。帰ればいいんでしょ、帰れば~」

 などと子供みたいに唇を尖らせながら、家路に戻る佐伯先生。

 依然として危なかっしい歩き方で帰ろうとする酔っ払いの背中を溜め息と共に見据えながら、俺は踵を返して待ち合わせ場所へと急いだ。


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