第12話



 粛々とした旋律が体育館に流れていた。確か、パッヘルベルのカノンだったか。去年の暮れぐらいに伏見先輩から教えてもらった曲なので記憶はあやふやだが、多分合ってるはず。

 校長先生に名前を呼ばれる度、威勢よく返事をして一人また一人と生徒が壇上に上がっていく。

 静謐な雰囲気の中、我が子の晴れ姿を写真に収めんと、保護者席からまばらにシャッター音が響く。その音を聞くだけで、指が熱を持ったようにうずく。できたら僕もカメラを持って行きたかったのだが、主役というべき僕たちが、もちろん式中にカメラなんて持ち込めるはずがない。至極残念無念。

 どこからか、すすり泣くような声が耳に届いた。その濡れた声は周囲にも伝播していき、いつの間にやら涙を拭おうとハンカチを取り出す生徒で溢れていた。きっと様々な感情が去来しているのだろう。それが良い思い出かどうだったかは別として、この時の光景がずっと胸の奥深くに刻まれるのは確かだ。

 感慨深げに続々と卒業証を受け取っていく同級生を見やりながら、改めて実感する。

 本当に今日、この牧田高校を卒業してしまうんだな、と。



  ○



 卒業式はつつがなく終了した。最後に歌った仰げば尊しで皆一様に泣き始めてしまって、終始嗚咽だらけの合唱になってしまったこと以外は、まあさしたる問題はなかったように思う。逆に落涙しなかった僕なんかは、少し場違いのように思えて気まずかったくらいだ。僕以外にも泣いていない人も割といたので、考え過ぎもしれないけれど。

 益体のないことを考えつつも、僕はこの日のために持ってきておいたカメラ……それもけっこうな年代物の一眼レフで、卒業証書を手にしたクラスメートたちや華々しく飾られた教室を撮っていく。

 このカメラは五十嵐さん……近所に住む仲の良いおじさんから奥さんの形見として譲り受けた物で、しばらく扱いに困って丁重に保管してあったのだが、去年の夏頃に思い立って写真を撮るようになったのだ。

 どうして急にそう思ったかは、自分でもよくわからない。おばさんの遺言で渡された物だし、ずっと眠らせておくのもどうかという負い目もあったのかもしれないが、それだけでもないような気がする。それがなにに起因するものかは未だに判然としないが。

 ただ退屈な日常を過ごしていく内、どことなく焦りを感じていたのは確かだ。このままじゃいけないような気がして、なにかに突き動かされるようにカメラを手にしたような、そんな奇妙な感覚が自分の中でわだかまっていた。

 あるいは、天国にいるはずのおばさんに叱咤されたのかもしれない。こんなにも愉快に溢れている世界にいるくせして、無為に日々を消化しているんじゃないと。

 おばさんとは僕が小さい頃からよくお世話になっていた。会う度世界の広さを熱弁されて意味がわからず呆けてばかりいたけど、写真家になるべくしてなった人なんだなと心密かに尊敬していた。

 カメラなんて全然興味がなかったけど、そういった思い出が僕にその道へと誘ったのかもしれない。だいぶ遅い目覚めだし、素人の域からまるで脱していないけれども。

 いつかおばさんの墓参りに行って、感謝の念を伝えるべきかもしれない。またおじさんに付き添いで連れて行ってもらおう。

 あらかた校舎内の写真を撮り終えた僕は、今度は外に出て、卒業生と親御さんとで溢れた賑々しい校庭を撮影し始めた。

 三月の冷たい風のせいでシャッターを押す指がやたらかじかむ。今日の気温は五度もないという話だったから寒くて当然なのだが、もはやこれは凶器だ。制服の上からもコートを羽織っているのに凍えて仕方がない。まだまだ春の到来には遠そうだ。

 もう昼も近いというのに、木々の下や花壇に霜柱が点々と残っている。朝なんてめちゃくちゃ寒いしなあ。以前の僕なら布団にもぐったまま学校すら行かなかったに違いない。正直卒業できていたかどうかも怪しいものだ。

 それというのも、きっとカメラという趣味ができたおかげなのだろうと思う。あれだけ無気力で無関心だった僕が、カメラのために生活習慣を改めて、今じゃ母さんがいなくても平気なぐらいだ。

 というか、息子の卒業式にも出席せず、両親共に二年近く前からずっと長期出張ってどうかとも思うのだが。仕事だから仕方がないと思っても、やはり割り切れないものがある。あとでたっぷり小遣いをせびっておこう。

 時折同級生に写真をせがまれたり雑談を挟んだりしながら、校門近くにある桜の木へと歩む。

 まだ三月上旬ということもあり、どこも咲いている木なんてないが、春を待ち受けるように芽が出始めていた。

 できたらもう一度桜が咲いたところを見たかったなあと名残惜しく思いながら、それでもせめてもの記念にとアップで芽吹いた枝を撮る。


「──今日でこの桜の木ともお別れなんですね」


 ふと背中からそんな哀愁に満ちた声が聞こえてきた。

 ファインダーから視線を上げて、僕は後方を見やる。

「そう思うと、少し寂しいですね」

「ああ、藤林さんか。うん。そうだね」

 明日からはこの桜の木を見ることも、そして牧田高校に来ることもない。楽しい思い出ばかりというわけではなかったけど、もう目にすることもないんだなと思うと、寂寥感で胸がいっぱいになった。

 と、ここで、言い忘れていた言葉を思い出した。

「あ、そうだ。藤林さん、卒業おめでとう」

「はい。北瀬さんも卒業おめでとうございます」

 互いに祝いの言葉を述べて、揃って口許を綻ばせる。

「実は、先ほどから北瀬さんを探していたんですよ」

 とおしとやかに微笑んで、藤林さんは楚々とした動作で僕のそばへと足を運ぶ。その気品溢れる佇まいもさることながら、セーラー服姿も相俟って、格式高い女学院に通う深窓のお嬢さまみたいだ。何度顔を合わせても思わず見入ってしまう。

「……? どうかされました?」

「え? ああいやいや。よく似合ってるなと思って、そのリボン」

 ハッと我に返って、羞恥をごまかす形でとっさに藤林さんの胸に付けられたリボン徽章を指差す。思わず見とれていましたなんて正直に言えるわけがない。

「ふふ、ありがとうございます」

 嬉しそうにはにかんで、ピンクのリボン徽章に触れる藤林さん。ちなみに男子は黄色に統一されていて、どちらの色も門出を祝うのにピッタリだった。

「北瀬さんもよくお似合いですよ」

「うん。ありがとう」

 僕もにこやかに礼を返して「ところで」と話を変える。

「僕を探してたって言ってたけど、なにか用でもあったの?」

「はい。一緒に部室までどうかと思いまして。もうこれで最後になりますし」

「部室、かあ……」

 都市研の部室。結局新入部員が入ることもなく、最後の時まで僕と藤林さんしかいなかった部活。卒業すると同時に廃部が決定した憩いの場所。

「んー。いや、やめておくよ」

 ややあって、僕は首を横に振った。

「荷物も全部片付けちゃったし、あのなにもない部屋をもう一度見るのは、ちょっと辛いかな」

「そうですか……」

 少し残念そうに目線を伏せて、藤林さんは言う。

「でも、それもそうかもしれませんね。卒業式でもたくさん泣いてしまいましたのに、あの部室を見てしまったらまた泣いてしまいそうです」

 言われてもみると、確かにほんわりと目元が赤かった。言葉通り友人たちと一緒に泣きながら別れを惜しんだりしたのだろう。

「ですが、やはりあの部室とお別れするのは寂しいものがありますね……」

「うん。そうだね……」

 頷いて、回想するように視線を遠のかせる。

 藤林さんと一緒に部室を片付けていた時も、着々と空いていく部室を見て、一抹の寂しさを覚えた。離れがたい気持ちというか、長年連れ添った親友に別れを告げるかのような、ずっとそんな感慨を抱きながら作業していたように思う。

 部室を片付ける前に先生に頼んで撮ってもらった藤林さんとの写真も、いつか懐かしみながら笑って見られる日が来るのだろうか。来てくれたらいいなと思う。

「なんだか伏見先輩にも申しわけない気持ちでいっぱいです。卒業される際、せっかくわたしたちに都市研を任せると仰ってくださったのに……」

「それなら心配いらないんじゃないかな。前に部室の備品をどうするかで伏見先輩に連絡した時も、ちょっと寂しそうにしてたけど、笑って労ってくれてたし」

 伏見先輩とは今でも個人的に連絡を取り合っている。卒業した後も気軽に電話してくれと言ってくれたので、部活のことで相談してみたり近況を語ったりと、良好な関係を続けていた。

 なぜか僕が部長を任命されてしまったので、手に負えない依頼が来てしまった時なんかもしょっちゅう伏見先輩に電話して苦笑されたりしたものだ。

 ところでその伏見先輩ではあるが、とんでもなく頭の良い彼女のことだから、きっと全国的にも有名な大学に通うのだろうと思っていたが、あにはからんや、高校を卒業してすぐ世界中を回る旅に出てしまった。相変わらず行動パターンが逸脱し過ぎていて読めない人である。

 余談だが、部室にあった大量の荷物(そのほとんどが伏見先輩の物だ)はすべて伏見先輩の実家の方に送らせてもらった。なんでもけっこうな豪邸に住んでいるらしく、倉庫として使う部屋ならいくらでもあるという話だった。

 ほんと、伏見先輩って一体何者なんだろう。訊ねてみても上手くはぐらかされてしまうし。こちらとしては荷物が片付いて大いに助かったのだが、なんとも言えない疑問だけが残ってしまう形となってしまった。これまでずっと都市伝説を調べてきた僕らではあるけど、伏見先輩という存在が一番不思議めいていたんじゃなかろうか。都市伝説を追いかけていた人が都市伝説めいてしまうとは、これいかに。

「その話は前にも聞きましたけど、やっぱりちゃんと会って話したいものですね。卒業されて以来、ずっと顔も見ていませんし……」

「そういえばこの間、伏見先輩と電話したばかりなんだけど、今日こっちに顔を出すとか言ってたよ?」

「そうなんですかっ? わああっ、すごく嬉しいです!」

 ぱあっと華やいだように満面の笑みを浮かべる藤林さん。伏見先輩とはそれなりに親交も深かったし、喜びもひとしおなのだろう。藤林さんもちょこちょこ連絡を取り合っていたみたいだけども、僕の方が伏見先輩からの電話が多いと知るや否や、

「北瀬さんばかりずるいです!」

 とよく頬を膨らませていた。伏見先輩と会えばその不満もいくらか軽減されることだろう。怒った藤林さんの可愛い顔を見れないのは、それはそれで残念ではあるが。

「色々ありましたよねぇ。伏見先輩がいた頃も、いなくなった後も」

 懐かしむように目を細めて部室のある方向を見やる藤林さんに「そうだねぇ」と僕も同意する。

「初めに入部した頃は都市伝説なんて全然詳しくなくて、調査に行った時も怖がってばかりいたような気がします」

「あー、そういやよく物陰とか伏見先輩の背中に隠れてたよね。近くに首なしライダーが出たっていう噂が流れて三人で調べに行った時も、バイクが来る度にすごい悲鳴を上げてたし」

「うぅ。それは言わないでください。今でも恥ずかしいんですから……」

 藤林さんが羞恥に耐えるように赤い頬を手で覆って僕に言う。

「まあでも、最初はそんなもんだと思うよ。僕だって入部したての頃は割とビビってた時が多かったしね。どちらというと荷物運びとか雑事ばかりやらされてたような気がするけど。ほんと、人使いが荒い先輩だったよ」

「ふふ。ですが伏見先輩、とても感謝されていましたよ。卒業される前にも『アールくんがいなかったらこの部活はうまく回らなかったろう』って言ってましたから」

「主に荷物運び要員としてだけどね」

 言って、僕は苦笑を浮かべる。感謝されていること自体は嬉しいが、どこか釈然としないのには変わらない。

「ま、それなりに楽しくはあったのかな。伏見先輩に振り回されてばかりいたような気もするけど」

「伏見先輩、手当たり次第に首を突っ込んでいましたものね」

 僕の感想を聞いて、藤林さんが可笑しそうに微笑をこぼす。

「いやいや、藤林さんもけっこう首を突っ込んでたよ? 伏見先輩と時みたく、依頼がないことにまで調査に出たがる始末だし」

 僕が部長だったのに、という言葉に「お恥ずかしい限りです……」と語気を弱めて藤林さんは言う。

「多分伏見先輩の影響なんでしょうね。色々不思議な現象と遭遇する度にどんどん惹かれていきまして。元々そういうのが好きだったのかもしれません」

「うーむ。伏見先輩の影響かあ。そりゃあ僕も尻に敷かれるわけだ」

「うぅ。北瀬さんは意地悪です……」

 恨みがましい目で藤林さんが僕を見やる。けど可愛いだけでなんら迫力もない。なにこれ無性に抱きしめたい。

「ですが北瀬さんだって、カメラを持ち始めるようになってから積極的に関わるようになったではありませんか」

「それを言われちゃうとね……」

 思わぬ反撃を受けて、僕は苦笑を浮かべながら頭を掻く。

 藤林さんの言う通り、我ながら極端なやつだと思う。

 あれだけ面倒くさいと愚痴をこぼしていたくせに、カメラを扱うようになってから不可思議な現象を写真に撮りたくて、藤林さんと一緒にあちこち駆けずり回っていたのだから。

「けど、おかげで救えた人もいたわけだし、結果オーライなのかな? 自然現象だとかイタズラだとかそういうのばっかりだったけども、真相が判明して安堵してた人も多かったし」

「『謎を謎のままに終わらせておくのも一興だけど、なにもわからないこそどうしていいかわからず怯える者もいる。そういった人たちに救いの手を差し伸べるのも我々探求者の務めである』ですね」

「あ。それ、伏見先輩が卒業する時に僕らに言ってたセリフだったっけ?」

 はい、と藤林さんが笑顔で首肯する。メモもなしに諳んじてみせるとか、何気にすげぇな藤林さん。

「わたしも消失症候群で伏見先輩と北瀬さんにお世話になって、それから自分でも奇怪な出来事に悩まされている人たちを救いたいと思って都市伝説研究部に入りましたが、充実した日々を送れたと思っています。こんな自分でもだれかの手助けになれると知って、勇気を頂いたというか、初めてだれかに誇れるようなことができた気がします。周りの方々には少し変な目で見られがちでしたが」

「伏見先輩の代からそうだったけどね。それに活動内容が他の部活と比べてかなり特殊だったし」

 なんせ都市伝説研究部なんておかしな名前だったしね、とフォローを挟みつつ、僕は続ける。

「でも藤林さんはとても立派なことをしたと思うよ。他のだれにも理解されなくても、そばにいた僕だけはそれを知ってる。だから藤林さんは、僕の前だけでも十分に胸を張ればいいんだよ」

「……ありがとうございます、北瀬さん」

 そう藤林さんは礼儀正しく頭を下げて、次に顔を上げた時には、

「わたし、都市伝説研究部に入部して本当に良かったです」

 と、とびきりの笑顔を見せた。

 それから僕たちは、ぽつぽつと取り留めのない会話を交わした。

 今日の卒業式での話。友達とのやり取り。伏見先輩の近況。お互いの進路。

 進路だけを除けば他愛のない話ばかりだったけれど、とても名残惜しく思える時間だった。

 これから歩む道は互いに別々だ。藤林さんは隣県に、僕は上京して大学に通うことになる。今後はこれまでのように顔を頻繁に合わすこともなくなる。自分たちで決めた別離だが、こうしたなにげないやり取りがこれからはなくなってしまうのかと思うと、今の時間がとても愛おしく、なにより切なく感じた。

 そうして一通り会話を終えて、最後の記念にと同級生に頼んで僕らの写真を撮ってもらった後、「それでは」と藤林さんは別れの挨拶を切り出した。

「わたし、そろそろ行きますね。まだお友達を教室に待たせているので」

「そっか。じゃあどこかで伏見先輩を見かけたら、藤林さんにも忘れずに会うよう伝えておくね」

「はい。わたしも先に伏見先輩と会ったら、同じように伝えておきますね」

 そこまで言って、藤林さんは手を振ってこう繋げた。


「必ず近い内にまた会いましょう!」


 その言葉に。

 突然胸がずきりと痛んだ。

 そして一瞬だけ、見覚えがあるような少女の姿が脳裏を掠めた。

 あれ? なんだろうこれ。なんで急に胸が痛んだんだろ?

 それに、あの女の子は一体……?

「……北瀬さん? どうされました?」

 突然固まった僕を見て、藤林さんが訝しげに小首を傾げる。

「……ああいや。なんでもない。またね、藤林さん」

「はい。またです!」

 二人して手を振り合って、小走りに校舎へと駆けていく藤林さんの背中を静かに見送る。

 未だ胸に残る痛みに疑問を抱きながら。



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