第11話



 あれから一夜明けて、平日最後の金曜日。

 遥に起こされることなく自然と目が覚めた僕は、ぼーっとした頭でベッドの縁に腰かけていた。

「……何年ぶりだろうな。一人で起きたのなんて」

 見るともなしに壁時計を眺めながら、独り呟く。

 時刻はまだ七時前。いつもなら七時半過ぎに遥が来て起こされるまで爆睡しているところなのに、目覚まし時計もなく目が覚めてしまった。いや、目覚まし時計なんて元からないけど。

 そういえば、昨日は夢らしい夢も見なかったなあと考えつつ、僕はのっそりと立ち上がる。

 寝間着を脱いで夏用の制服に身を包む。その過程で、昨夜の内に入れておいた写真を取り出す。

それは昔おばさんに撮ってもらった、遥とのツーショット写真だった。

 小学校の入学式に撮影した写真。満開の桜の木を背に僕と遥が並んで立っている。僕はピースサインで、遥は恥じらうように上目遣いでレンズを眺めて。まさに今とは対照的な姿である。

 そういえばこの写真を撮影した時も『在のその陽気さをうちの娘に分けてあげてほしいくらいだよ』とおばさんが苦笑していたっけ。なかなかカメラ目線になってくれないから困っているとも話していたような気がする。それがまさか僕の精気をすべて吸い取るかのごとく遥が活発になるだなんて、おばさんも夢にも思っていなかっただろう。

「この頃はまだ、すごい人見知りだったんだよなあ」

 遥との思い出を反芻して笑みをこぼしつつ、写真をズボンのポケットに仕舞い直す。

 伏見先輩や藤林さん用の写真は、学校の帰りにでも現像してもらって二人に渡すつもりだ。遥の話だと、つい最近撮ったばかりのがフィルムに残っているのだとか。最悪おじさんの家まで探しに行こうかと思っていただけに──すでにこの世から消えているかもしれないけども──手間が省けて非常に助かった。まさか遥のカメラがこうして生かされる日が来るだなんて、世の中なにが役立つかわからないものである。

 などと考えている内に制服へと着替え終えた僕は、顔を洗おうと自室を出て洗面台へと向かう。

 と、台所の方から鍋も煮立つ音が耳朶を打った。

「遥……?」

 洗面台に行くのをやめて台所へと向かう。するとそこに、制服の上にエプロン(僕の家に常備してある遥専用のだ)を着けた遥が黙々と朝食の準備をしていた。

「あ、あーちゃんおはよう」

 僕に気付いた遥が、薄く笑みを浮かべて挨拶を述べる。

 僕も「おはよう」と返しつつ、

「もう起きてたのか? もっと寝てても良かったのに」

 と続けた。

「うん。ちょっと早く目が覚めちゃって……」

 目尻を指でこすりながら遥が言う。目の下に少し隈があり、よく眠れなかったのであろうことを言外に語っていた。

「そういうあーちゃんも今日は早いね。あとで起こしに行こうと思ってたのに」

「僕だって自分で起きれることぐらいあるよ」

「ほとんど奇跡だね。あーちゃんが自分で起きれるなんて」

「安い奇跡だなあ」

 軽口を挟み合いながら、僕はダイニングテーブルに着く。

「ていうか、今日ぐらいご飯の準備なんてサボってもよかったんだぞ?」

「いいの。こうしているだけでも気がまぎれるから」

「そうか……」

 そう言われては、止めるわけにもいかない。こんなことぐらいで少しでも気分が変わるのなら、いくらでも遥の好きにしていればいいと思う。

 本当はもっと気の利いたことを言いたいのに、なにも思い浮かばない自分が腹立たしく、やるせなかった。

「情けねぇよなあ」

「……? なにか言った?」

 なんでもないよと返して、僕はぐっと背もたれに体重をかける。

 問題は山積みだ。遥を助けるのは大前提だとしても、その後のことだって考えなければならない。

 消失症候群を止めたとして、一度失くした記憶は元通りになるのか。戻らなかったとして、遥はどうしたらいいのか。高校は? これからの生活は? 遥をこのまま泊めるにしても、両親が帰ってきたらどうする?

 様々な問題が脳内を駆け巡る。だが、一向に光明は覗けない。

「あ、そうだ。あーちゃんに渡したい物があるんだった」

 伏見先輩に会ったら色々と相談してみよう。そう独り思案を巡らせていると、遥がそんなことを突然言い出した。

「ん? 渡したい物って?」

「ちょっと待ってて」

 遥がエプロンで手を拭きつつ、僕がいるテーブルへと歩む。いや正確には、テーブルの隅に置いてある一眼レフカメラのところへと。

 そうしてカメラを手にして、奥のテーブルにいる僕のところへと回った。

「はい、あーちゃん」

「…………、は?」

 差し出されたカメラを前に、僕は意図がわからず、ぽかんと口を開けた。

「もらってほしいの、あーちゃんに」

 呆気に取られている僕に、遥が微笑を浮かべてそう言葉を添えた。

「もらってほしいって……。これおばさんの形見だろ? なんでそんな大事な物……」

「だからだよ。だって私が消えちゃったら、私の持っていた物も全部消えちゃうかもしれないんだよ? だったらだれかにこのカメラをあげておいたら、もしかしたらずっと残ってくれるかもしれないじゃない」

「それで、僕……?」

「うん。だれかにあげるとしたら、絶対にあーちゃんがいいなって。お母さんもきっと許してくれるよ」

 遥が儚げな笑みを浮かべて言う。本当は僕にだって渡したくないほど大事な物のくせに、精一杯な笑顔を作って。

「消えるとか、縁起の悪いこと言うなよ……」

「私だって消えたくなんかないよ。でも可能性がある以上は、もしもの時に備えておきたいの」

「遥……」

「あーちゃん。もらってくれるよね?」

 遥がまっすぐ僕を見つめる。心から懇願するように。

 そして、しばし視線を交錯させた後、

「わかったよ……」

 嘆息しつつ、僕はカメラを受け取った。決して落とさないよう、精巧なガラス細工を扱うかのごとく、しっかり両手で持って。

「けどこれだけは言っておくぞ。お前は絶対に消えない。消させない。それだけはちゃんと覚えとけ」

「うん。ありがとう、あーちゃん……」

 そう感謝を述べて。

 遥は、どこか寂しげに微笑んだ。



  ○



 朝の通学路を遥と並んで黙々と歩く。今日も憎たらしいほどの快晴で、かんかん照りの太陽が容赦なく肌を焼き、汗を滴らせる。すでに背中は汗で濡れており、シャツがべったりと肌に吸い付いていた。いつ頃からか聞こえ始めたセミの鳴き声がより不快感を煽る。

 普段なら愚痴の一つでも垂れているところなのだが、隣りを歩く遥を見るだけで、そんな腑抜けた気分すら一気に失せた。

 ハンカチで頬に伝う汗を拭いつつ、改めて遥の様子を横目で窺う。

 平素の通学時となにも変わらない制服姿。鞄を持っているが、中身は弁当以外になにも入っていない。当然だ。学校中の人間から忘れられてしまった以上、教科書を持っていく意味なんてまったくない。怪しまれないよう制服さえ着てればいいだけの話だし、傍から見る分には、牧田高校の生徒にしか思われないだろう。まあ実際、一昨日まで牧田高校に通っていたわけだけれども。

 そしていつもなら首にかけられている一眼レフカメラがそこになかった。朝唐突に遥から譲り受けたわけなんだけども、さすがにいきなり持ち歩くような気分になれず、フィルムだけ外してひとまず家に置いてきたのだ。

 その関係か、遥の表情もどこかさえない。やはりまだ未練が残っているのだろう。僕としてもカメラを持っていない遥なんて違和感しかないのですぐに返却したいところだが、きっと頑なに拒むに違いない。未練はあっても決意は確固たるものだったので、もはやなにを言っても無駄だ。

 それにすべてが丸く収まった時に、また遥に返せばいいのだ。要は、あくまでも預かっている状態。遥に言ったら「それじゃあ意味がないでしょ!」と一喝されそうなので口には出さないが。

 やっぱりあれは、僕には重過ぎる。おばさんのお気に入りで形見である大事な物を、所詮他人でしかない僕が持つべきではないのだ。そのためにも、遥にはこの世界にいてもらわなければ困る。おばさんだってきっとそう言うはずだ。

 物思いに耽っていた間に、いつの間にやら牧田高校の校門が見えてきた。よくよく思い出してみると、ここまでの道中、一言も話していない。

 一体なにをやっているんだ僕は。ただでさえ気落ちしている遥にろくすっぽ話しかけずに学校へ来てしまうとか、配慮が足りないにもほどがある。

 それとも、あえてここはそっとしておくべきなのだろうか。こういう時、自分の不器用さが恨めしい。

「やあ、二人共」

 自虐しながら校門の前へ来ると、伏見先輩が門塀に背を預けながら僕たちに手を振ってきた。

「伏見先輩!」と僕は慌てて駆け寄る。

「ひょっとして、ここで待っていてくれたんですか?」

「まあね。あれからどうにも気になってしまってね──」

 言いながら、伏見先輩は僕の後ろにいる遥を見て「おや?」と疑問符を漏らした。

「遥くん、いつものカメラはどうしたんだい? どこにも見受けられないが……」

「あーちゃんにあげちゃったんです」

 少し言いづらそうに視線を落としつつ、遥は言葉を紡ぐ。

「私が持っていると、一緒に消えてしまうかもしれないから」

「…………そうか」

 伏見先輩も返答に困るように声のトーンを下げて相槌を打つ。伏見先輩も遥のカメラが母親の形見だというのを知っているので、なおさら言葉にならない心境になってしまったのだろう。

「あ、伏見先輩。写真ですけどフィルムに残っていたみたいなんで、あとで現像して渡しますね」

「え? あ、ああ。ありがとうアールくん」

 伏見先輩が妙に歯切れ悪く返答する。重い雰囲気を変えたくてつい口が出てしまったが、余計な真似だったろうか。

 が、どうやら僕の意図が伝わったようで、再度「ありがとう」と礼を口にした。

「ところでアールくん。君たち二人の写真はあったのかね?」

「はい。ちゃんとここに入ってますよ」

 言って、ぽんぽんとズボンのポケットを叩いた。

「ふむ。じゃああとは私と藤林くんの分だけか。まあ今日のところは写真無しで過ごすしかないね」

「そうなりますね」

 本当は学校を休んで写真屋に行く選択もあったわけだけど、平日の朝や昼に高校生が写真屋なんて行ったら店員に怪しまれかねないし、夕方を待つしかなかったのだ。

 これが最新式のカメラだったら家でもプリントアウトができたのだけど、オークションに出品できるくらいの古めかしいものなので、そういうわけにもいかなかった。こういう時、古い物って本当に不便だ。

 遥が言うには、それがまたいいのだと前に語ってはいたけども。

「ああ、そうだ。遥くんにこれを渡しておこう」

 と、不意に伏見先輩が、さっきから通学鞄と一緒に持っていたショルダーバッグを遥に手渡した。

「その中に着替えや化粧品やら当面必要になりそうな物を詰め込んでおいたよ。さすがに下着類は私にはサイズがわからないので持ってきてはいないがね」

「いえ十分です。ありがとうございます」

 ショルダーバックを手に、遥が頭を下げる。こういった物は男である僕にはわからないので、女性の助力はすごく頼りになる。

「それで、遥はこの後どうしたらいいんですか? さっそく部室に連れて行った方がいいですか?」

「そうだね。部室の鍵は私が持っているし、あまり目立たせないよう注意を払いながら、遥くんを部室に──」

「北瀬さーん。伏見先輩~!」

 と、まばらに登校してくる生徒たちの中で、藤林さんが僕らに手を振ってこちらへと駆けてくるのが見えた。

「おはようございます。校門で都市研の方々が集まるだなんて珍しいですね」

「おはよう藤林くん。なに、ちょっと相談していただけさ」

「相談、ですか?」

 キョトンとした様子で藤林さんが首を傾ける。そういや、藤林さんにはまだ昨日の伏見先輩とのやり取りえをまだ教えていないんだっけ。

「藤林さん。これからしばらく遥を放課後まで部室にいさせることにしたから、藤林さんにも協力をお願いしていいかな。ちょくちょく様子を見に行ったり、遥の話し相手になってくれるだけでいいんだけど」

「はあ……」

 藤林さんがいまいち要領を得ていない表情で曖昧な返事をする。

 あれ、おかしな。僕、そこまで難しいことを言ったっけか?

「わたしは別に構いませんが、それって──」

 と。

 未だ釈然としていない様子で。

 藤林さんは、こう訊ねた。


「それって、北瀬さんのすぐ後ろにいる方のことを言っているのでしょうか?」


 僕のすぐ後ろ。

 そこには、遥しかいないはずで……。

「藤林くん、まさか君……」

 伏見先輩が双眸を剝いて藤林さんを見やる。きっと僕も同じ表情になっていたことだろう。

 よくよく思い返してみれば、藤林さんが声をかけてきた時、僕と伏見先輩の名前しか口にしていなかった。

 つまり藤林さんは、最初から遥を認識していなかったのだ。

「あ、ひょっとして都市研の入部希望の方ですか? 奇遇ですね。わたしも今日から部員として活動するんですよ~」

 ショックを隠しきれない僕と伏見先輩の気もいざ知らず、藤林さんは嬉しそうに遥の手を握って「わたし、藤林萌です。これからよろしくお願いいたしますね」と自己紹介まで始めてしまった。

 そんな喜色に満ちた声を、まるで意味が通じない別の言語のように聞きながら、僕はゆっくり後ろを振り返る。

 遥のいる方へと、愕然としながらも振り返る。

 すると遥は、

「……うん。よろしくね、藤林さん」

 と、泣きそうな笑みで返した。


 こうして遥を覚えている人間は、とうとう僕と伏見先輩の二人だけになってしまったのだった。



  ○



 その後、遥を都市研の部室へと送った僕と伏見先輩は、それぞれ自分たちの教室へと戻っていった。

 藤林さんは付いて来なかった。紹介だけ済ませて、後で合流した他の知り合いたちと談笑しながら校舎へと向かってしまったのだ。

 さながら、いつも通りの日常を過ごすかのように。

 遥のことを忘れてしまったのだ。赤の他人を必要以上に構う理由なんてない。

 事情さえ説明すれば協力してもらえるかもしれない。ついこの間まで藤林さん自身消失症候群に関わっていたんだ。遥を忘却したことでどう改変されているかはわからないけれど、きっと僕たちの話に耳を傾けてくれるはずだ。

 そう口を開きかけて、遥に制された。なにも説明しないまま、黙って藤林さんを見送ってしまったのだ。

 狼狽しつつ、遥に詰問した。どうして止めたのかと。記憶は消えてしまったけれど、数少ない協力者になってくれるかもしれないのにと。

 そうしたら、遥は。

「だって友達を忘れちゃったなんて知ったら、萌ちゃんが悲しんじゃうでしょ?」

 と、こんな時になってまだ他のだれかを心配していた。

 遥の言う通り、すごく悲しむだろう。泣いたとしても不思議ではない。一度は大切な友達を消失症候群で失っているのだ。僕が想像するよりもっとショックを受けるかもしれない。

 でも、そういう問題じゃないだろう。お前はもっと嘆き悲しむべきなんだ。どうして忘れてしまったんだって、掴みかかってもよかったんだ。

 なのになんでお前は怒らないんだ。自分の身に起きている事態にもっと激情を露わにしないんだ。

 なんでそんな、なにもかも諦観したような顔をしているんだ……!

 そう怒鳴りたかった。自分の運命を受け入れたかのような顔をすんなと叱咤を飛ばしたかった。

 だが僕も伏見先輩も結局かける言葉が見つからず、黙して部室に送り届けることしかできなかった。

「私とアールくんだけになってしまったが、まだ私たちがいる。どうか希望だけは捨てないでおくれ……」

 別れ際、伏見先輩は懇願するように遥にそう告げた。

 その言葉に遥はなにも言わず、ただ黙って微笑を浮かべた。

 そうして僕と伏見先輩は、無力感に苛まれながら重苦しく廊下を歩いたのだった。

 自分のクラスに戻って級友に話しかけられても、心ここにあらずな状態だった。言葉にならない様々な思いが去来して、だれとも会話する気になれなかった。

 休み時間になると、速攻で遥に会いに行った。お昼休みも伏見先輩を交えて談話しながら昼食を取った。

始終ずっと暗い表情をしていた遥だったけど、最後の休み時間に顔を合わせた時は、いくらか元気を取り戻したかのようにわずかながらも笑みを覗かせていた。

 そして放課後、その日のHRはいつもより長くかかってしまい──来月にやる予定の体育祭の種目決めで、時間がかかったのだ──色々ともどかしい思いをさせられながらも、HRが終わったと同時に遥の元へと一目散に駆けた。

 あの怠け者の北瀬が授業以外で走っているぞ! と奇跡にでも遭遇したかのような驚嘆の視線を周囲から浴びつつ、僕は都市研の部室へと一心不乱に疾走した。

 部室の近くまで来て、奇妙なことに部室の戸が開放されていた。

 遥がトイレにでも行く時に閉め忘れたのだろうか。疑問に思いつつ、肩で息をしながら部室の中に入る。

 室内にはだれもいなかった。やはりトイレかなにかだろうか。藤林さんは委員会の仕事で遅くなると事前に伏見先輩から聞いていたが、当の伏見先輩すらいなかった。この時間帯にならとっくに来ていてもおかしくないのに。

 首を傾げつつ、ソファーに鞄を置いてその横に座る。同じように対面のソファーに遥の鞄が置かれているので、帰ったわけではないのは確かだ。となるとまだ校内にいるのだろうだけど、一体なにをしているのだろう。あまりうろつくと教師にバレた時になにかと面倒なんだが……。

 やっぱり一度探しに行った方がいいだろうか。そう考えて腰を浮かしかけた時に「あれ?」という声が入り口から聞こえた。

「なんだ、アールくんか。てっきりあの子が戻ってきたのかと一瞬思ったぞ」

「伏見先輩。今日はいつもより遅かったですね」

 伏見先輩は「まあね」と苦笑を滲ませて、奥にあるデスクトップへと歩んだ。

「そういう君こそ今日は遅かったじゃないか」

「僕はHRが長引いちゃって」

 返答しつつ、「ところで」とさっき気になったことを訊ねてみた。

「あの子が戻ってきたとかどうとか言ってましたけど、僕より前にだれか来てたんですか? ていうか伏見先輩、一度ここに来てたんです?」

「うむ。ここに来てみたら見かけない少女がいてね。詳しい話を聞こうと思ったら突然飛び出してしまってのだよ。一応追いかけてみたのだが、途中で見えなくなってしまって、仕方なく部室に戻ってきたという次第さ」

 なにか急な用事でも思い出したのだろうか、とワーキングチェアに腰かけて、伏見先輩は不可思議そうに零す。

 知らない女の子、か。依頼という線が最も高いが、要件も言わずに出ていくとは、本当になんの用だったのだろう。きっと遥と一緒だったろうから、応対した時の様子を聞けばなにかわかるかもしれない。

「それとね、まだ不可解な点があるんだ」

 優美に足を組んで、伏見先輩は顎をさすりながら言葉を続けた。

「その子だがね、どうやら私たちが来るまでずっと一人でいたみたいなんだよ。いや、部室の鍵を閉め忘れた私にも非はあるのだが、我々に用があったのなら、たとえ部室の鍵が開いても外で待っているのが普通だろう? なのになぜ彼女はあたかも慣れ親しんだようにここにいたのだろうね?」

「えっ──」

 その予想だにしなかった言葉に、僕は理解が追い付かずに放心した。

 なに言ってんだ伏見先輩は。

 知らない子? そんなわけあるか。

 だって、だってそいつは僕たちと同じ──。

「悪い冗談はやめてくださいよ、伏見先輩……」

 よろりと力なく立ち上がって、小刻みに震える唇で声を発した。

「そいつ、僕らのよく知ってる女の子じゃないですか。僕たちと同じ部員で、ずっとここで活動してて、伏見先輩とも都市伝説の調査であちこち駆け回って……。今日のお昼休みだって、一緒にご飯を食べたばかりじゃないですか……」


「いや? 見覚えすらないのだが?」


 伏見先輩の返事に、僕は声を詰まらせて愕然とした。

 伏見先輩まで、遥を忘れてしまった?

 こんな二、三時間足らずの間に?

「ど、どうしたんだい? そんな血の気が引いたように青ざめて……」

 僕のただならぬ雰囲気を感じ取ってか、状況が呑み込めていない様子ながらも、伏見先輩は心を配ったように眉尻を下げて僕に訊ねる。

「ひょっとして、アールくんの知り合いだったのかい? どうしようか、なにかよほど重要な案件だったみたいだし、もう一度探しに行こうか?」

 その言葉に、僕はハッと我に返った。

 そうだ。ショックで思考停止している場合じゃない。早く遥を探さないと!

「伏見先輩っ! 遥──その子がどこに行ったか分かりませんか!?」

 デスクトップに身を乗り出して、僕は伏見先輩に詰め寄る。

 伏見先輩は僕の剣幕に身を引かせながら、

「さ、さあ……? 割とすぐに見失ってしまったし、どこに行ったかまでは……。ただ去り際、引き止めようとした私に妙なことを口にしていたぞ」

「妙なこと……?」

「うむ。確か『一番大事な人にまで忘れられたくないから』とかなんとか。どういう意味だったんだろうね?」

「あの──バカっ!!」

「ちょっ! アールくん!?」

 八つ当たりするように机を殴り付けて、伏見先輩の呼び止める声すら無視して部室を猛然と飛び出した。

 バカやろうが。忘れられたくないとか勝手な理由でどこかに行きやがって。

 こっちの気持ちは無視なのか? 別れの挨拶もなしに去るのか?

 忘れてさえしまえばなにも傷付かないとか、そんなことを考えていたのか?

 ふざけんな。それで僕が納得するとでも思っていたのか。

 認めない。絶対遥を連れ出して、そんな妄想、根本から取り除いてやる!

 廊下を全力で駆けながら辺りを見回す。

 一体いつから遥が部室を出ていったのかはわからないが、相当の距離を進んでいるはずだ。もう校内にすらいないかもしれない。

 僕に忘れられたくないとか言っていた以上、極力僕から離れようとするはずだ。となるとすでに校外へと出てしまった可能性が非常に高い。

 決断は早かった。逡巡の迷いなく校庭に飛び出して、校門へと向かった。上履きのままだが、そんな些事に構ってなどいられない。

「くそっ! こんな時スマホさえ持っててくれてたら……!」

 遥のスマホはおじさんの記憶がなくなった同時に世界が改変されて消えてしまったので、連絡の取りようがない。連絡手段が途絶えただけでこうも歯がゆい思いをさせられるなんて。

 独りごちながら、校庭の前の道路に出て、周囲を見渡しつつ近場を走り続ける。

 遥の姿は見えない。市街地の方へ向かったのか。はたまたこちらの予想だにしないような場所に向かったのか。財布は持っていたはずだから、交通機関を利用する可能性だってある。遠くまで行く前に早く見つけないと。

 とりあえず、遥の行きそうな場所を徹底的に探してみよう。

 今のあいつが行きそうな場所。最初に思い付いたのはあの公園だ。

 だがあそこは昨日も行ったばかりだ。昨日の今日でまたいるだろうか。

 けど、一番行きそうなのはあの場所だ。駄目元で試しに行って──

 と、そこで。

 僕は唐突に足を止めた。


「あの場所って、どこだ……?」


 あれ。なんだこれ。ついさっきまで覚えていたはずなのに、今から向かおうとしていた場所が思い出せない。

 なんでだよ。昨日も行ったばかりじゃないか。小さい頃よく遊んだ場所なのに。思い出の詰まった場所のはずなのに。なんで思い出せないんだよ!

 それだけじゃない。他の思い出すらぽろぽろと抜けていく。

 中身の入った器を傾けるように、歯止めなく次々と抜け落ちていく。

 今まで遥と共にいた記憶が、消しゴムをかけるように薄らいでいく。

「もしかして、これって……」

 信じたくはなかった。自分に限ってそれはないと思っていた。

 だがしかし、これはどう考えても──

「消失症候群……!」

 もうそうとしか考えられない。まさかこんなにも凄まじいものだったなんて。必死に忘れまいと遥との思い出を反芻しても、それを嘲笑うかのように記憶が奪われていく。

 次第に、遥の顔ですら靄がかかったようにぼんやりとしてきて──

「──そうだ。遥の写真!」

 バカか僕は。なんのために写真を持ち歩いていたんだ!

 愚かしいにもほどがある自分を内心罵倒しつつ、焦りながらズボンのポケットから二つ折りにされた写真を取り出して開ける。

「なっ……!」

 写真を見て、声を失った。

 遥の姿ではなくて、写真そのものが今にも消えそうに薄らいでいたのだ。

 真下にある僕の靴が、写真から透けて覗けてしまえるほどに。

「なんでだよ……。藤林さんの時みたいに、遥の姿だけが消えるんじゃないのかよ!」

 まさか、僕の意図に気付いたとでも言うのか?

 あたかも消失症候群を起こしている何者かが、後々すぐに違和感を持たれないよう働きかけているとでも言うのか?

「遥…………遥あっ!」

 写真をぐしゃぐしゃに仕舞い直して、僕は叫声を上げながら駆け出した。

 遥の身になにかよくないことが起きている。そう直感した僕は、通行人の視線が突き刺さる中、遥の名前を叫び続けて町中を当てどもなく走り回る。

 どこに遥がいるなんてわからない。手がかりすらない。けれど走らずにはいられなかった。なにもせずにいられなかった。

 探しても探しても、遥の姿がどこにも見当たらない。尻尾すら掴めない。

 どうしたらいい。どこに行けば遥に会える。どこを探せば遥に──

 不意に、昨日の朝に見た夢の光景が脳内に浮かんだ。

 ただの夢だ。確証なんてない。

 でも気が付いた時には、僕は通学路目指して足を動かしていた。

 割と近辺にいたので、走って十分ほどでいつもの道に着いた。

 昨日見た夢のように、不思議なほどだれもいない静かな田んぼ道。夕暮れに染まった空の下、その少女は一人ぽつんと小道のど真ん中でうずくまっていた。

「遥あああああっ!」

「………………あーちゃん?」

 背中を向けていた遥が、涙でぐちゃぐちゃになった顔でゆっくり僕の方を振り返る。

 見ると、遥の体が写真のように透け始めていた。

「っ! 遥っ!」

 漏れ出そうになった驚愕をとっさに呑み込んで、僕は橙に染まった稲の横を必死に駆ける。

「……ごめんね、あーちゃん。なんか私、ダメみたい……」

 涙腺を決壊させながら、遥が僕を見つめる。

 網膜に焼き付けるかのように、必死に走る僕をじっと見つめる。

「でも、あーちゃんなら大丈夫だよね。昨日だって今だって、ちゃんと私を見つけてくれたもんね……」

 遥の体から燐光が浮かび始めた。

 それに合わせるように、遥の体も透明になっていく。

 まるで、一つにまとまっていた蛍が一斉に飛び散っていくかのように。

「私、待ってるから。ずっとずっと待ってるから。あーちゃんを信じて待ってるから」

 待ってくれ。消えないでくれ。まだ言いたいことがある。まだお前と一緒にしたいことがたくさんある。

「あーちゃん」

 遥が僕に微笑む。今まで見たこともないような、穏やかな笑顔で。

 もう少しでお前を掴める。だからまだ消えるな。なんでも言うことを聞くから。朝だって一人で起きるようになるから。もう困らせるようなことはしないから。

 二度と、お前から離れたりしないから──!


「   」


 遥がなにかを告げる。遠ざかっていくような声だったのでうまく聞き取れなかったが、口の動きだけでなにを言っていたかはなんとなく把握できた。

 けどそれに構える余裕はなく、僕は必死に駆け抜ける。

 あともう一歩のところで手が届く。

 そうして、無我夢中に腕を伸ばして。


 その手は、虚しく空を切った。


 勢い余って、前傾姿勢でアスファルトの上を無様に転げ回る。

 痛みに耐えながら、僕はすぐさま起き上がって遥を探す。


 そこに、遥はいなかった。

 さっきまでそこにいた遥が、泡が弾けたようにいなくなっていた。


「遥……?」

 呆然とした境地で、僕は幼なじみの名前を呼ぶ。

 視界には、いつもの風景が広がっていた。

 幼少の頃から飽きるほど幾度となく見てきた田舎道がそこにあった。

 けど、そこには。

 いつでもどこでも、当たり前のようにそばにいた幼なじみが。

 大好きだった女の子が。

 周りの景色に溶け込むように、影も形もなく消え去っていた。

「遥ああああああああああああああああああ!!」

 自分の口から出たとは思えないほどの叫び声が、夕日に染まった空に響く。

 瞳から止めどなく涙が溢れた。泣いたことなんて、幼かった頃を除けば一度たりともなかったのに。

 何度も遥の名前を呼んだ。声が枯れるまで呟いた。魂に深く刻み付けるように声に出し続けた。



 いつまでそうしていただろう。やがて夜の色が滲みだし、月が煌々と輝き始めた頃になって、僕は「あれ……?」と憑き物が取れたように伏せていた顔を上げた。

「僕、こんなところでなにしてたんだ? つーか」

 涙で濡れた頬を指でさすりながら、僕ははてなと首を傾げた。


「なんで僕、一人で泣いてたんだろ……?」


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