第10話
「……結局、萌ちゃんの入部祝い、全然できなかったね……」
伏見先輩の言いつけ通り、放課後まで部室に入り浸って、ようやく帰路をとぼとぼ歩いている時のことだった。
隣りを歩く遥が、首から下げたカメラを指でさすりながら、気落ちした様子でそう呟いた。
「ああ、そういえば都市研に入部するとか言っていたっけ」
夕焼けで視界いっぱいに朱く染まる空を仰ぎ見つつ、僕は言葉を返す。
そもそも、なにかを祝える雰囲気なんかじゃなかったしな。みんな帰るまで口数が少なかったし、あの状況で祝う気になんてなれるはずもない。
「まあ、また今度祝えばいいさ。藤林さん、入部届だけは学校をサボる前に提出したって言っていたし、これからはいつでもお祝いなんてできるだろ」
「うん。そうだね……」
笑っているかどうかもわからない薄い微笑みで、遥は相槌を打つ。その憂いを帯びた笑みに、僕はぎゅっと胸を締め付けられた。
やめてくれよ。お前は陰のある笑みを浮かべるようなやつじゃなかったろ。いつもみたいにやかましく騒いでくれよ。お前が元気でないと、こっちまで調子が狂うんだよ。
そう言ってやりたった。けど今の遥に、その言葉は気休めにもならないと悟った。
しばらく、無言で僕らは田んぼ道を歩き続ける。
夕日を背に、小学生の集団がランドセルを背負いながら僕たちの横を賑々しく駆けていく。空には帰巣するところなのか、十数匹近い小鳥がたむろして飛行していた。
普段となにも変わらない風景だった。昨日となにひとつとして代わり映えしない、退屈ではあれど平穏な今日を送るはずだった。
なのに遥の周りだけ、突然ひび割れたように大切なものがこぼれ落ちていく。
こんなにも世界は平常運転なのに、遥の日常だけが脆く崩れ去っていく。
今でも認めたくない。遥の身に起きている異常な事態に。
なにかの冗談に過ぎないと一笑に付したいのに、様変わりしてしまった状況がそれすらも許さない。
いつまでそうしていたのだろう。そろそろ僕らの家が見えてこようかという辺りで、
「……ごめんね、あーちゃん」
と、遥が不意に弱々しく呟いた。
「色々迷惑かけちゃって……」
「別に迷惑だなんて微塵も思ってないよ」
「でも、こうやって家まで送ってもらってるし……」
「伏見先輩にも言われたしな。常にそばにいろってね。それに送るだけならどうってこともないよ」
「……怠け者のあーちゃんらしくない発言だね。いつもならさっさと自分の家に入っちゃうのに」
「だろ? 存分にありがたく思うがいい」
「うん。ありがとう、あーちゃん」
「えらく素直だな……」
てっきり威勢のいい返しが来るものとばかり思っていたのに。それだけ遥が参っているということなんだろうけど、これでは迂闊なことも言えやしない。
「あー、まあ今日のところはゆっくり休め。色々あって疲れたろ?」
「うん……」
今日だけでもショッキングなことが続き過ぎた。遥の心労も相当溜まっているはずである。これ以上なにも起きないことを祈るばかりだ。
そうして、とうとう遥の家の前までやって来た。この辺ではさして珍しくもない平屋建てだ。おじさんと二人暮らしだし、十分な広さだろう。
「あーちゃん、ここまででいいよ」
門扉のところで、遥が前に進んで振り返り様にそう言った。気丈にも笑みこそ浮かべてはいるが、疲労の色だけは隠せなかった。
「おう。また明日な」
「うん。また明日」
お互いに手を振って、踵を返しかけた時だった。
「おう。在じゃねぇか。家の前でなにやってんだ?」
「……おじさん?」
僕らが来た道とは真逆の方角から、遥の親父さんがコンビニの袋を引っ提げて緩慢に歩いてくるのが見えた。
「おじさん、コンビニに行ってたの?」
「おう。せっかくの休みだからな。ずっと酒飲んでたんだけど、家にある分の酒が切れちまってな。コンビニに行って酒とつまみを買ってきたところなんだよ。がはは!」
平日の昼からなにやってんだこの人。よく見ると顔も赤いし。ま、おじさんらしいっちゃらしいけども。
「そういう在こそ、なんでここにいるんだ? お前一人だけなんて珍しいじゃん」
「いや、僕だけってわけじゃあ──」
「んもう! もうじき夕飯なのになんでお酒なんて買ってるの! ご飯が入らなくなるでしょ!」
一度は玄関に向かいかけた遥が、僕らの会話を聞いてすっ飛んできた。こりゃおじさん、遥から大目玉を食らうな。
けど良かった。おかげでいつもの調子が戻ってきたみたいだ。顔こそ怒っているが、瞳だけは生き生きと輝いている。こういう時、親子の絆っていいものだなと心から感じてしまう。
願わくば、再び平々凡々とした日々が戻らんことを。
遥には、どこにでもありふれた平和な毎日の方が一番似合っている。
けれど、そんな些細な願いごとすら、次の一言で粉々に壊れてしまった。
「んん? だれだその子?」
「──え?」
遥が一瞬にして凍り付いた。
僕も声を失って、愕然と立ち尽くすことしかできなかった。
「あ、ひょっとして在の彼女か? おいおいわざわざ俺に紹介しに来たってか? 憎いことしてくれんね~」
「なに言ってんだよ……」
おぼつかない足取りで、おじさんの前まで詰め寄る。声が震えて、上手く発音できているかどうかもわからない。敬語すら使うのを忘れていた。
「遥だよ遥。おじさんの一人娘の。今までずっと一緒に生活にしてただろ……?」
「はるか? 娘? さっきからなに言ってんだお前は? 嫁が亡くなってからずっと俺が一人暮らしなのは、在だってよく知ってるだろ? 昔からお前の家とは付き合いがあったんだし」
「そんな……」
記憶が改変されている。本来なら同じ年に遥と僕が生まれたことによって親交が始まったことになっているはずなのに。遥が生まれていないことになっても、僕の家族と繋がりがあることになっている。
これも、消失症候群の仕業だって言うのか……?
「おじさんしっかりしてくれよ! おじさんにまで忘れられてしまったら、遥はこの先どうしたらいいんだよ!」
思わずおじさんの襟を掴んで怒号を飛ばす。だれかに掴みかかるだなんて、これが初めての経験だった。
「おじさん、朝はちゃんと覚えてたんだろ! だったら思い出してくれたよ! いつも可愛い一人娘だって自慢してたじゃないか!!」
「ど、どうしたんだよ在。お前が怒鳴るところなんて初めて見たぞ。どうした? なにか辛いことでもあったのか?」
おじさんにしてみればわけのわからないことで責められているも同然なのに、憤りもせず僕の肩をそっと掴んで優しく気遣ってきた。
違う。そうじゃない。そうじゃないんだよおじさん。
おじさんが声をかけるべきなのは僕じゃない。そこにいる遥なんだ。
すぐそこで今にも泣きそうに涙をこらえている女の子の方なんだよ。
ちゃんとそこにいるのに。今日の朝まで、普通に会話をしていたはずなのに。
なんで、遥のことがわからないんだよ……!
「頼むよおじさん。思い出してくれよ。遥を悲しませないでくれよ……!」
「在……」
おじさんがすごく困惑したような顔で僕を見据える。本当になにを言われているか、皆目見当も付かないといった様子だった。
なんでなんだよ。この間会った時となにも変わっていないはずなのに。普段の気さくでお人好しなおじさんのはずなのに。まったく別人というわけでもないのに。
どうしてこうも、意思疎通ができないんだ……!
「──あーちゃん」
ふと、遥に肩を叩かれた。
だらりとおじさんから手を離して、力なく遥の方を振り返る。
「帰ろう?」
遥が僕に告げる。必死に涙を我慢した、胸をえぐられるような痛切な笑みで。
「遥……でも……」
「もういいの。これ以上は迷惑になっちゃうだけだから」
そう言って、遥はおじさんに向き直った。
「突然お邪魔してすみません。あーちゃん……在くんから近所に仲のいいおじさんがいると聞いて一度会ってみたかったんです」
「あ、ああ。そうだったのか。なんだ在、それならそうと言ってくれよ」
おじさんが呵々と笑って僕の頭をわしわしと撫でる。
昔となにも変わらないその乱暴な撫で方が、今はひどく物悲しい。
「行こう、あーちゃん」
「……本当にいいのか?」
こくり、と無言で首肯する遥。無理をしているのは、訊ねなくとも明白だった。
けれど、問いただす気には微塵もなれなかった。
一体どれだけの思いで、おじさんから離れる覚悟を決めたのか。
それを想像だにするだけで、僕なんかが言えることなんてなにもなかった。
「お、帰るのか? 在、ちゃんと送っててやれよ。向こうは女の子なんだからな」
「……はい。もちろんです」
じゃあな、と笑顔で手を振るおじさんに、僕らも手を振り返してその場を離れる。
一言も会話を挟まず、僕らは重い足取りで住宅街を歩く。ふと気になって後ろを振り返ってみると、家の中に入ったのだろう、おじさんの姿はすでに見えなくなっていた。
「……遥。今日は僕の家に泊まれ」
沈黙に耐えかねて、僕の方から口火を切ってみた。
いずれ、この話題は避けて通れないことだ。もう遅い時間だし、今から伏見先輩や藤林さんに頼むのも苦しいだろう。そうなると自然、僕の家ぐらいしか選択肢はない。
都合のいいことに、両親共に長期出張で家にはだれもいない。空き部屋もあるし、遥を泊めるのになんら支障はない。
「うん。そうだね……」
僕の提案に、心ここにあらずといった様子で遥は同意した。
実の父親に忘れさられてしまったのだ。落ち込まないはずがない。正直、どう声をかけたらいいかわからないくらいだ。
あと四、五分で僕の家に着こうかという頃だったろうか、再び互いになにも喋らずに閑散とした道を歩いていると、
「…………でも、良かった」
と、遥が囁くように声を発した。
「良かったって……一体どのへんが? おじさんに忘れられたんだぞ」
「うん。でもお父さん、元気そうだった。私までいなくなったら、お母さんが死んじゃった時みたいに、また無理しちゃうんじゃないかなって思ってたから」
ああ、そういえばそうだ。
遥のことばかり気にしてしまったけれど、おじさんはこれから一人で生活していかなきゃならなくなるんだ。
おばさんが亡くなった時だって見ていられないほどショックを受けていたんだ。あの時は遥がいてくれたらどうにかなったけど、遥が生まれていないことになっているのなら、おじさんが自暴自棄を起こして荒れた人生を歩んでいたしてもおかしくはなかったんだ。
どういった経緯でおじさんが立ち直ったかは定かでないが、遥の記憶がなくなってもなお息災でいてくれたことだけでも幸いだったのかもしれない。
「お父さん、私がいなくても大丈夫かな。外食とかコンビニのお弁当ばかり食べたりしないかな」
「うん……」
「掃除とか洗濯もできるのかな。お父さん大雑把だから、ぐちゃぐちゃになってそう」
「うん……」
「買い物もちゃんとできるかな。お酒とか余計な物ばかり買ったりしないかな」
「うん……」
「あーあ、でもこれで……」
不意に遥が足を止めた。
少しだけ先行していた僕は、同じように足を止めて後ろを振り返った。
「──本当に一人ぼっちになっちゃった」
その悲痛な笑顔に。
僕はたまらず、遥を抱きしめた。
「あーちゃん……?」
「一人じゃないだろお前は!」
遥の小さくて細い体を、僕はぎゅっと抱きしめながら声高に言う。
「伏見先輩も言ってたろ。僕たちは一人じゃないって。他の人たちはお前を忘れても、まだ藤林さんや伏見先輩、それに僕だっているだろ。勝手に一人ぼっちだなんて決めつけんじゃねえ!」
「…………うん。そうだね。そうだったね……」
遥が僕の腰に手を回す。泣いているのだろう、左胸の方にだけ濡れた感触があった。
遥の息吹を感じる。僕の腕の中にある温もりが、遥がこの世界に存在しているのだと証明していた。
「……あーちゃん」
遥が腕の中で僕の名前を呼んだ。くぐもった声を聞き逃さないよう「なんだ?」と訊ねる。
「私のこと、忘れないでね……」
「忘れないよ。絶対、死んでも忘れたりなんてしない……!」
遥の頭を抱き寄せて、僕は耳元で告げる。
「たとえ世界がお前を忘れても、僕だけは絶対に忘れないから!」
「うん……。うん……っ」
遥が嗚咽混じりに頷く。涙で濡れた声が鼓膜に触れる。
そうして堰を切ったように泣きじゃくり始めた遥を、僕は日が暮れるまで抱きしめ続けた。
○
『そうか。ついに父君まで……』
遥と一緒に僕の家へと帰り、あれこれと雑事(夕飯の準備だとか遥の寝床を整えたりとか)を済ませたその日の夜のことだった。
自分の部屋へと戻った僕は、これまでの経緯を微に入り細に渡るまで伏見先輩に報告していた。
「すみません。勝手に僕の家に泊めてしまって……」
『いや、賢明な判断だったと思うよ。遥くんからしてみれば、慣れ親しんだ場所の方が心の整理もしやすいだろうしね』
電話口から伏見先輩の声と一緒に鈴虫の鳴き声まで漏れ聞こえていた。ベランダにでも出ているのかもしれない。
『それで、遥くんは今どうしているんだい?』
「今風呂に入ってます。寝間着とかは母さんのがあるのでいいんですけど、普段着とか全部おじさんの家に置いてあるので、一体どうしたもんかと……」
『ふむ。まあ普通に考えて、遥くんに関する記憶が父君から消えているのなら、それに付随して私物なんかも消えている可能性が高いけどもね。まあひとまず、着替えなどはこちらで準備しておくよ。今は買い物をする気分にもなれないだろうしね』
「はい。助かります」
『それで、現在遥くんが所持している物に、どこか変わった点などはなかったかね?』
「教科書とかカメラとかは残っていたんですけど、スマホだけいつの間にやら消えてしまっていたみたいです」
『なるほどね。通話料金などは父君が払っているだろうし、そのまま使われては不自然に出費だけ増えてしまう。だからこそ矛盾が起きないよう、スマホごと消してしまったんだろうね』
「それも、消失症候群の影響ってことになるんですか?」
『おそらくは、ね』
そうなると、僕や藤林さんが連絡を取ろうとした時点で、遥のスマホはおじさんの記憶と一緒に消えていたのかもしれない。これなら遥が全然電話に出ようとしなかったのも説明がつく。始めからなければ、着信に出ることさえそもそも不可能なのだから。
『今後も遥くんに関係した物は消えてしまうかもしれない。十分に留意した方がいい』
「はい。わかりました」
現状、遥がもっとも大切にしているのは、おばさんの形見である一眼レフであろうことは間違いない。あれだけはどうにかして死守せねば。カメラまで消えてしまったら、今度こそ遥の心が折れかねない。
「それで、明日の学校ってどうしたらいいんでしょうか? おじさんの記憶がなくなった以上、遥を学校に通わせる理由がなくなってしまったわけになるんですが……」
『それは必ず学校に来させるべきだよ。今の彼女を一人っきりにさせるのはなにかと危う過ぎる』
「あ、言われてもみればそうですね……」
バカか僕は。ちょっと考えればすぐにわかることじゃないか。
『ついでに言っておくと、遥くんはそのまましばらく君の家に泊めておいた方がいい』
「え、なんでですか? 伏見先輩とか藤林さんとか女の子同士の方がいいかと思ってたんですけれど。ご家族に反対されるかもしれないんですか?」
『そうじゃない。泊めようと思えば私の家でも泊められなくもないよ。ただ今の遥くんは不安定な状態だ。私や藤林くんのそばにいるより、君のそばにいた方がずっと落ち着くはずだよ』
「そう、でしょうか?」
『そうだよ。君も薄々気付いているんじゃないのかい? 遥くんの気持ちに』
その言葉に、全身がかあっと燃えるように熱くなった。
少し前に抱き合った(決して性的な意味じゃない)だけに、あの時の光景がフラッシュバックして羞恥に悶えそうになる。
「か、勘違いじゃないですか? 僕ら、ただの幼なじみでしかありませんよ?」
『アールくんも素直じゃないね。君自身、遥くんに幼なじみ以上の感情を抱いているんじゃないのかい? 少なくとも私の目にはそう見えていたよ?』
「う…………」
思わず声を詰まらせる。今までずっとごまかそうとして、それでもごまかしきれなかった想いが溢れ返りそうになるほど胸が高鳴る。
「そ、そんなことよりも、今は消失症候群の対策を考えるべきですよ!」
この流れを変えたくて、無理やり話題を変えた。正確には、話の本筋に戻ったとも言えるけど。
「そっちの方はあれからどうしたんですか。色々調べてみるとか言ってましたけども」
『うむ。そのことについてなんだが、君たちが帰路についた後、私と藤林くんとでくまなくネットで調べてみたのだけど、あまり芳しくなくてね……』
「……解決策が見つからなかったってことですか?」
『かいつまんで言うとそうなる。消失症候群から逃れられたという記述はどこにもなかった。ほとんどが消失症候群にまつわる、オカルト雑誌に載っているようなレベルでしかなかったよ。それと校内に遥くんを覚えている人間がどれだけいるかも調べてみたんだが、やはり私たち以外に覚えている者はいなかった。残念ながらね』
「そうですか……」
知らず声のトーンが下がる。消失症候群で消えた人間が再び見つかったという事例は過去に一度もないって伏見先輩にも聞いたことがあるし、こうなるであろうことは事前に覚悟していたつもりだったけど、落胆せずにはいられない。
そこで、ふと夏祭りでの一件を思い出した。藤林さんのかつての友達──まなちゃんらしき女の子を見かけた時の話だ。伏見先輩に話すつもりでいたのに、すっかり頭から抜き落ちてしまっていた。
「伏見先輩、今まで言うかどうか迷っていたんですけど……」
『ん? なんだい?』
伏見先輩に夏祭りでまなちゃんらしき子を見かけた時のことを話す。すると先輩は、
『ふぅむ。そんなことがあったのか……』
と、一考するように言葉を返した。
「単なる見間違いという可能性の方が高いですけどね」
『否定はできない。が、今はどんな情報でも欲しいところだ。最初から間違いと決めつけるのは短慮だよ。それにアールくんの話を聞いて、ある仮説が思い浮かんだ』
「仮説、ですか?」
『うむ。消失症候群はどれも記憶が密接に関連している。あくまで想像でしかないが、藤林くんがまなちゃんの記憶を多少なりとも思い出したことで、まなちゃんも一時的ながら現世に姿を見せることができたんじゃないだろうかってね』
「……なんだか心霊番組なんかでありそうな話ですね。死んだ人間が伝えたいことがあって、家族だとか恋人だとかに少しだけ姿を現した的な」
『あるいは、本当に幽霊みたいなものかもしれないよ? 消失症候群で消えた人間が、実際どこでなにをしているかなんて私たちにはわからないのだから。我々には見えていないだけで、透明人間になってこの世界に留まっている線だって十分にあり得る』
「なるほど……」
そういう考えもあるのか。なんとなく消えた人間=死と結び付けてしまっていたけれども、必ずしも死んでしまうとは限らないんだな。やっぱ伏見先輩は僕なんかと違って思考が柔軟だ。
『しかしそう考えると、記憶が重要な鍵となっていそうだね。消失症候群だって、その人に対する記憶などがすべて消え去ってから初めて成立する都市伝説なのだから』
「と、言いますと?」
『断定はできないが、だれか一人でも遥くんを覚えて続けていれば、あるいは消えずに済むのかもしれない』
「そ、それって本当ですか!?」
『先ほども言ったが、確たる証拠はない。しかしながら根拠はある。今まで消失症候群で消えた人間をはっきりと覚えている者はだれもいないようだが、逆に言えば、はっきり覚えてさえいれば新たな道が開けるかもしれないということにもなるのだから』
ここに来てようやく希望が見えてきた。遥を忘れずにいられたら、あいつが消えずに済むかもしれない。蜘蛛の糸のような頼りない救いではあるけれど、それでも縋る価値は十分にある。
『もっとも、消失症候群の強制力は人知をはるかに超えている。長年一緒にいた父君でさえ数時間の内に遥くんを忘却してしまったんだ。なにかしら対策を練らないと、我々とて無事で済まない。今こうしている時だって唐突に記憶を消失してしまう危険性だってあるのだから』
「忘れないための対策、ですか……」
なにかあっただろうか。常に遥のことを考えるという手もあるけど、それがどれだけの効果があるのかはわからない。現に遥のことばかり考えているようなおじさんでさえ記憶を失ってしまったんだ。対策としては少し弱すぎる。
なにかないか。遥を忘れずに済むようなもの。すぐ違和感に気付けるようなもの。
そこでふと、遥がいつも持ち歩いているある物が脳裏に掠めた。
「カメラ……写真とかどうでしょうか?」
『写真かい?』
「はい。いつでも遥の顔が見れるように写真を持ち歩くんです」
『しかし、写真から遥くんの姿が消えてしまった場合はどうするのかね? そうなってしまっては遥くんの姿も確認できなくなる』
「だから消えてしまったら不自然に映るような物を持ち歩くんです。藤林さんが持っていた写真みたいに、見たらすぐ違和感を感じるような物を。ツーショット写真とか明らかにおかしな構図になりますよね?」
『なるほど。確かに、自分一人だけ写った写真なんて普通は持ち歩かないしね。なかなか良い案だと思うよ。だが、私とツーショット写真なんてあっただろうか……?』
「遥に訊いてみます。あいつ、いつでもどこでもカメラを構えてたんで」
確か伏見先輩が何度か被写体になっているところを見かけたことがあるはずだ。正直遥が写真を撮るところなんて日常化していたので、どこでなにを撮ったかなんて記憶の彼方だけど、きっとフィルムかなにかに残っているはずだ。あいつ、だれかと一緒に写るのも好きだったはずだから。
僕は小さい頃おばさんに撮ってもらった遥とのツーショット写真が家にあるから、それを持ち歩くことにしよう。一応母さんの部屋にあるアルバムにも何枚か残っていたはずだから、後でそれを探しておこう。
『とりあえず、現状で打てる手はこれぐらいか。それではまた明日、学校で対策を練り直すとしようか。遥くんも連れてね』
部室にずっと引き籠らせることになるから、少々窮屈な思いをさせるかもしれないがね。
そう言って、伏見先輩は苦笑を漏らした。電話なので実際に顔を確認したわけではないけど、苦味走った笑みを浮かべているだろうことは容易に想像できた。
「ちょこちょこ様子を見に行きますよ。寂しい思いをさせてしまうのはある程度仕方ないと思います」
『……そうだね。私もできるだけそうしておくよ。こういう時、無力な自分が歯がゆくして仕方がなくなってくるよ』
電話口から、伏見先輩の溜め息が鼓膜に届いた。本当に遥の身を案じてくれているような、そんな温かみのある吐息で。
そういえば、どうして伏見先輩はここまで真剣になってくれるのだろう。遥と出会って二、三ヶ月も経っていないというのに。
それにこの消失症候群に対する執着ぶりは一体なんなんだろう。過去になにかあったのだろうか。
「──伏見先輩はどうしてそんなに消失症候群に過敏な反応を見せるんですか?」
気付けば、勝手に口が開いていた。少しでも話題を変えて、この重たい気分を払拭したかったという考えが心のどこかにあったせいかもしれない。
『どういう意味だい?』
「伏見先輩が都市伝説愛好家なのは知ってますけど、中でも消失症候群となると異様な興味を見せますよね? それってなんでなのかなってちょっと思っちゃって……」
『……ふむ。君たちにはまだ話したことがなかったね。別に隠し立てするようなことでもないし、君には話しておこうか』
スマホを持ち変えるような音が聞こえた。それから『実はね』と伏見先輩は話を切り出した。
『私にもね、身近に消失症候群で消えた人間がいたらしんだ』
「えっ。そ、そうだったんですか?」
『うん。言っても根拠はなにもないんだけどね。藤林くんの時のように、物的証拠すらない。私がそう感じているに過ぎないんだ。それも薄らぼんやりとね』
「……どうしてそう思うんですか? 証拠もなにもないのに」
『はっきりと覚えているわけではない。けどね、感覚が残っているんだよ。なにか大切な人がいたような感覚が。だれかがいなくなって、心にぽっかりと穴が空いたような感覚がね』
いつか伏見先輩が話していた、記憶にはなくても心が覚えているというやつなのだろうか。
だれかがずっとそばにいてくれていたかのような、寂寥感じみたなにかが。
『そんな時にね、消失症候群の話を耳に挟んだのだよ。自分の知らない内にだれか身近な人が消えてしまっている……私が感じているこの胸の痛みも、きっとそれのせいじゃないのかって思ってね。それからは消失症候群を調べる毎日が続いたものだよ。その過程で他の都市伝説にも興味を示すようになって、あとは御覧のあり様さ』
都市伝説研究部を作ったのもそのためさ、と伏見先輩。
『だからかな。不可解な現象で悩んでいる人を見かけるとどうも放っておけなくてね、依頼を受け付けるようになったのもそのためだよ。まあ純粋に都市伝説が好きで、それで怪事件の依頼を受け付けるようになったというのもあるがね』
「そうだったんですか……」
てっきり依頼を受けるようになったのは、伏見先輩の知的探求心を満たすだけのものとばかり思い込んでいた。でもそれだけじゃなかったんだ……。
伏見先輩を根っからのどうしようもない変人だと思っていた自分が、少しばかり恥ずかしい。
『もちろん遥くんとて例外ではない。興味本位なんかでなく、心から彼女を救いたいと思っている。死力を尽くしてでもね。だからアールくん、君も絶対希望を捨てないでくれ。私たちの手で必ず遥くんを救うんだ。これ以上、だれかを失った悲しみを広げないためにも』
「はい。もちろんです」
僕はスマホを力強く握りしめた。
なあ遥。やっぱお前、一人ぼっちなんかじゃないぞ。
こんなにも心強い先輩がいる。お前を真剣に心配してくれる友達がいる。
そして、僕もいる。
もう三人だけしか残っていないけれど、それでもお前に対する想いは本物だぞ。
だから心細く思う必要なんてない。
僕たちがこの理不尽な状況から救い出してやる。
約束する。お前を一人ぼっちになんて絶対にさせない──!
『うん。その意気だ』
心中で決意を固めていたのが向こうにも伝わったのだろうか、伏見先輩は妙に嬉しそうに言った。
『おっと。もうこんな時間か。そろそろ切らないと遥くんがお風呂に上がってきそうだね。それじゃあアールくん、遥くんのことを頼んだよ』
「はい、わかりました」
『あ。それと、アールくん』
最後の挨拶だけ交わしておこうかと思っていた時、伏見先輩がふと思い出したような口調で声を発した。
「……? なんでしょう?」
『自分の気持ちに素直になるのも、時には大事だよ』
「………………」
『ふふ。それではおやすみ。良い夢を』
思わず黙してしまった僕を面白がるように、伏見先輩は微笑をこぼして通話を切った。
「……お節介な人だなあ、ほんとに」
スマホに表示された伏見先輩の名前を見ながら、僕は苦笑混じりにそう呟いた。
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