第9話



 いつもより長く感じる階段を上りながら、僕たちは二年生の教室がある二階へと向かう。ここまで来る道でも、藤林さんに挨拶はしても遥には反応すら示さないといったようなことが続いた。

 得体の知れない不気味な感覚に、僕たちは一言も口を開かず黙々と歩く。

 結局遥に声をかける人がいないまま二階へと到着してしまった。遥と藤林さんのいる一組はここから一番近くにあるので、すぐに真偽がわかる。

 僕も一緒に行くつもりだった。このまま遥を放っておけないというのもあったし、この目で真実を確かめておきたい。

 形容しがたい不安にかられながらも、僕らは二年一組の教室の前へとやって来た。

 遠目から窺う分には、特に目立った異変は見当たらない。すでにクラスの大半は来ているようで、外から賑々しい声が溢れ返っていた。

 先に教室へと向かっていたはずのみのりは、すでに鞄だけ置いてどこぞへと行ってしまったのか、教室のどこにも行かなかった。ぜひとも教室に残って「ばばーんっ。実はドッキリでした~」などと遥に言って欲しかっただが、いないのなら仕方ない。あれが演技だったかどうかは、これからみんなの反応を見ればおのずと判明するはずだ。

「入りましょうか、遥ちゃん」

「…………」

 藤林さんのどこか緊張の孕んだ声に、しかし遥はなにも答えず、それどころか一歩も動こうとせずうつむいてしまった。みのりや他の生徒にあたかも空気扱いされたのが未だ尾を引いているのかもしれない。

「遥。僕もここで待ってるから、藤林さんと一緒に行ってこい」

「あーちゃん……」

 僕の言葉に、遥が不安げな瞳でこっちを見つめ返す。

「なに捨てられた子犬みたいな顔してんだよ。お前らしくもない」

 ぐりぐりと頭を撫でてから、「ほら」と遥の背中を押した。

「さっさと確認してこい。そんで今度はみのりに仕返ししてやれ」

「うん……」

 弱々しくも返答した遥を見てから、僕は藤林さんにアイコンタクトを送る。

 僕の意思をくみ取ってくれた藤林さんは神妙に頷いて、

「一緒に行きましょう、遥ちゃん」

 と遥の手を引いて教室の戸を開けた。

 その背中を静かに見送って、僕は約束通りその場で待機する。

「おはようございます、皆さん」

「おは、よう……」

 礼儀正しく低頭する藤林さんに続いて、遥もおそるおそる挨拶を述べる。

 そんな二人に一組のみんなは「おはよう」だの「おっはー」だの思い思いに挨拶を返す。今のところ遥に対して別段違和感めいたものは抱いていないようだ。

 ということは、やはりみのりの悪ふざけだったのだろうか。

「おっはよんモエモエ! 今日も真面目な感じだね~」

 とその時、一番近くにいたギャルっぽい女の子(藤林さん、こういった子とも交流があるのか。なんか意外だ)が、元気溌剌といった表情で声をかけてきた。席に着いてスマホをいじっていたので、ここのクラスメートで間違いはないようだ。

「おはようございます。あの、みのりちゃんはここにおられませんか?」

「ん? みのりん? あの子だったら別のクラスに行くって言ってどっかに行っちゃたわよ? 『友達がカップケーキ作ってくれたんだよね~』とかなんとかウキウキ顔で」

 あのやろう。さんざん人を悩ませておいて、てめえは上機嫌でカップケーキを食いに行ったのかよ。今度あったらただじゃおかねぇ。

 まあでも、この分だとやっぱり悪戯だったみたいだな。だれも遥に奇異の目線を向けていないみたいだし、むしろとっとと雑談に戻っている。遥もほっと安堵したみたいに笑みを浮かべているし、心配する必要なんてどこにもなさそうだ。まったく、人騒がせな話である。

 などと胸を撫で下ろした、ほんの束の間だった。


「ところでモエモエ。隣りにいる子は一体だれなん?」


 その言葉に。

 ドクンと心臓が跳ねるように脈打った。

 今、あの子はなんて言った?

「多分モエモエの連れなんだろうなあとは思ってたんだけど、あんま見かけない子だからさあ。ちょっと気になったのよね~」

「な、なにを言ってるんですか! 遥ちゃんですよ遥ちゃん! 何度も話したことだってあるじゃないですか!」

「えっ。ど、どうしたの急に」

 藤林さんが声を荒げたのがよほど意外だったのか、ギャルっぽい子は面喰ったように両目を見開いて困惑を露わにしていた。

「クラスメートなのにそんな酷いことを言うなんてあんまりですっ!」

「いやクラスメートって、全然見覚えもないんだけど……」

「見覚えがないって……。だってだれも遥ちゃんに変な目を向けませんでしたし……」

「みんなもウチみたいにモエモエの連れかなんかだと思ってるんじゃない? 今、他のクラスの子らもいっぱい来てるし」

「そんな……」

 藤林さんが顔面を蒼白させて口許を覆う。みのりの時と同様、理解の追いつかない奇怪な事態に動揺を隠せないみたいだった。

 それも僕も同じで、まるで頭が働かない状態だった。

 なんだ。なんなんだこの状況は。一体なにが起こっているというんだ……!

「遥ちゃんっ!」

 茫然自失としていた瞬間だった。

 遥が猛然とした勢いで、教室から飛び出した。

 そのまま固まったままの僕の横を通り過ぎて、遥は一言も発さずに廊下を駆け出してしまった。

「北瀬さん! 遥ちゃんがっ!」

 藤林さんの大声に、僕はようやく我を取り戻したようにはっと振り返った。

「くそっ!!」

 遥が疾走していった方向へと、僕も全力で追いかける。

 なにやってんだ僕は。なんでもっと早く遥を追いかけなかった。いくらショックだったとはいえ、あのまま見過ごしてしまうだなんて間抜けにもほどがある。

「遥あああっ!」

 階段をものすごい勢いで駆け下りていく遥に、僕は怒号を飛ばして呼び止める。

 だが遥はこちらに目もくれず、一心不乱に走り抜けていく。

 くそっ。思っていたより早いな。あいつ、あんなに足が早かったのか。

 けどそこは男女差か、次第に距離が狭まってきた。あともう少しで、遥の腕に手が伸ばせそうだ。

 そう思った瞬間だった。

「きゃっ!?」

「うわっ!」

 一階へと下りた直後、下級生と思わしき女の子と衝突してしまった。

 僕はどうにか踏みとどまったが、女の子は尻餅を付いて痛そうに顔をしかめた。

「ご、ごめん! 大丈夫?」

「あ、はい。大丈夫です……」

 慌てて駆け寄って、女の子を引っ張り起こす。よかった。大したケガはなさそうだ。

 本当にごめんともう一度謝ってから、遥の姿を探す。

 僕が女の子と衝突していた間にどこかへと行ってしまったらしく、目の付く範囲には見当たらなかった。

「どこ行ったんだあいつ!」

 とにかく廊下を走りつつ、スマホを取り出して遥の番号を押す。

 が、気が付いていないのか、はたまたあえて無視しているのか、一向に電話は繋がらなかった。

「あいつ、なんで電話に出ないんだよっ!」

 そう毒づきながら、僕は通話を切る。

 と、すぐに電話がかかってきた。見ると、表示は『藤林さん』となっていた。夏休みの件以来、念のため藤林さんと連絡先を交換しておいたのだ。

「もしもし、藤林さん?」

『もしもし北瀬さん!? 遥ちゃんは見つかりましたか!?』

 電話に出ると、藤林さんの焦燥した声が僕の鼓膜に響いた。よほど切迫しているのだろう、普段の藤林さんからでは考えられない大きな声だった。

「いや見つかってない。今も探してるんだけど……」

『わたしもあれから遥ちゃんに電話したんですが、全然繋がらなくて……』

「そっか。たく、なにやってんだあいつは……」

 僕だけじゃなく、藤林さんにまで心配かけやがって。さっさと戻ってこいよ。僕たちを安心させてくれよ……。

『心当たりはないんでしょうか?』

「ごめん。わからない。藤林さんは?」

『すみません、わたしも……』

 申しわけなさそうな声が電話越しに聞こえる。友達だからってなんでも知っているとは限らないもんな。幼なじみである僕でさえ、こうして右往左往としているだけなんだから。

『もう校内にはいないのでしょうか?』

「どうなんだろう。校外に出ていったとしたら、家に帰ったとしか思えないけど……」

 遥の話じゃあ、今日おじさんは有休でずっと家にいると昨日言っていた。とすると、おじさんの様子を見に行ったのかもしれない。朝の様子を見る限り、そんな感じは微塵も感じ取れなかったけれど。

 とそこで、一瞬とある景色が頭を過った。

 まさか、もしかして。でも、ひょっとしたら──

 本当にいるかどうかはわからない。だが本当に校外に出たのだとしたら、遥の家以外に思いつくのはそこしか思い浮かばなかった。

「藤林さん。僕、外まで探しに行ってみるよ」

『外に……ですか?』

「うん。確証はないけど、思い当たる節があるんだ。だから藤林さんは遥と僕の分の欠席を先生に伝えてもらえるかな? それと、できたら伏見先輩にも連絡しておいて」

『わかりました。わたしも時間ギリギリまで校内を探してみようかと思います』

「うん。お願い」

 そこまで話して、僕は通話を切った。

「よし……」

 スマホをポケットに仕舞い直して、自分の外靴がある下駄箱へと踵を返す。

 待ってろ遥。絶対にお前を見つけてみせる!



  ○



 授業がじきに始まるというのに学校を飛び出した僕は、いつもの帰り道……つまり僕や遥の家がある方角に向かっていた。

 とはいえ、本当に帰ろうと思っているわけではない。最終的には遥の家に訪ねることになるかもしれないが、それよりもまず行かなければならない場所があったのだ。

 見回りに出ているかもしれないパトカーに気を払いつつ、帰路から少し外れてとある団地へと向かっていた。

 そこは僕が生まれる前からある団地で、少し年期の入ったアパートが何棟も建ち並んでいた。小さい頃よく遊びに来ていたので、道順もしっかり覚えている。

 目的地へと辿り着いた頃には、僕の体力も尽きてしまった。ずっとここまで走ってきたのだから無理はない。運動不足感も否めないけど。

 平日だからなのか、周りに人はいなかった。ベランダから洗濯物を干そうとしている人もいるので、ちゃんと住民はいるみたいだ。換言すれば、住民に不審がられかねないということでもある。制服を着ているし、あまり長居はできない。

 そうして肩を上下しつつ、僕は団地にある中央広場へと赴いた。そして、一直線にとある遊具へと向かう。

 それはだいぶペンキが剥げてきた、ゾウの形をした滑り台だった。

 尻が階段、鼻が滑り台になっていて、その下がトンネルとなっていた。

 僕が入るには少々きつく、平均的な成人女性ならどうにか膝を折ってくぐれそうな程度の空洞。

 ここにいないのなら、正直手詰まりだ。あとは遥の家に行くぐらいしか思い当たるところはない。

 早鐘る胸を落ち着かせるように深呼吸しつつ、意を決して中を覗き込んだ。


「…………見つけた」


 果たしてそこには、僕の探し人である遥が膝を抱えて顔を埋めていた。

 僕の声に、遥は丸めていた体をぴくりと反応させて、

「あーちゃん……?」

 と、涙で濡れた瞳を僕に向けた。

「なんでここが……?」

「ばーか。何年幼なじみやってると思ってんだよ」

 そう悪態をついて、ズボンが汚れるのも厭わずその場でへたり込んだ。

 この場所は遥のお気に入りで、かくれんぼをする時はいつも駆け込むほど定番となっていた。

 それ以外にもなにか落ち込むようなことがあれば、このトンネルの中に潜んですすり泣いていた。おじさんやおばさんに叱られた時なんかも、よくここに逃げ込んでいたっけか。

 遥にはこの場所のことを秘密にしておいてほしいと言われていたので、心配したおばさんがよく僕のところに来て、しぶしぶ迎えに行った時のことを今でもよく覚えている。少し前にも夢に出てきたくらいだ。

 だから遥が行くとしたら、きっとこの滑り台だと当たりを付けたのだ。

「あー、疲れた~。お前、電話ぐらい出ろよな」

「ごめん。気が付かなくて……」

「藤林さんにも謝っておけよ。めちゃくちゃ心配してたぞ」

 そこまで言って、僕は「はあ~」と深く吐息した。

 だめだ。完全に息が上がっている。こんなに全力で走り続けたの、どれくらいぶりだろう。久しぶり過ぎて体が悲鳴を上げている。こりゃ明日は全身筋肉痛で決まりだな。

「……もしかして、ずっと追いかけてくれてたの?」

 疲労困憊とする僕を見てか、遥が気負ったように眉尻を下げて訊ねてきた。

「当たり前だろ。あんな状態のお前を放っておけるか」

「突然連絡もなく飛び出したのに? たまたま今回はここにいたけど、そうじゃなかったらどうしてたの?」

「だったら見つかるまで探す。全力で走り回る」

「怠け者のあーちゃんが?」

「ああ。怠け者がその気になったらすごいんだぞ。僕から逃げられると思うなよ?」

 にかっと笑う僕に、遥もつられたようにくすっと笑って、

「そっかー。逃げられないのかあ」

 と脱力したように天井を仰いだ。

「こうして見つかっちゃったもんね。久しぶりにここに来たから、あーちゃんも忘れてると思ってたのに」

「何度もここに来させられたからな。体に染み付いてんだよ」

「そういえばこの滑り台に私を迎えに来るのも、いつもあーちゃんだけだったよね。ちゃんと約束守っててくれてたんだ」

「遥が秘密にしてくれって言ったからな」

「あーちゃんって、変なところ律儀だよね。約束なんて破って、お父さんとお母さんにバラせばもっと楽できたはずなのに」

「んなことしたら、お前が泣けなくなるだろうが」

 そう口にして、驚いたような顔をする遥の顔をじっと見つめた。

「昔から辛いことがあったらよくここに入り込んでたけど、おばさんが病気になった時は特に増えたよな。あれっておばさんに泣き顔を見られたくなかったからなんだろ?」

 遥はなにも言わなかった。けど肯定しているも同然だった。

「あの頃おばさんに頼まれて遥を迎えに行った時、大抵泣いてたもんな。別におじさんとかおばさんとケンカしているわけでもないのになかなか帰ってこない時があって、おばさんよく悩んでたぞ。なんで家出したのかわからないって」

「……あーちゃんは知ってたの? お母さん、家族以外には黙ってたはずなのに」

「うちの母さんがな。日に日にやつれていくもんだから、なんとなく重い病気なんだろうなって気が付いてたみたいだぞ。僕には知らない振りしとけって言われたけど」

 きっと母さんなりに、余計な心労をかけまいという配慮からなんだろう。わが母ながら、色んなことに気が付くものだ。

「そっか。だからあーちゃん、いつも一人で私を迎えに来てたんだね……」

 お母さんに私の泣き顔を見せないように。私の意思をくみ取って。

 そう言って、遥は片方の瞳から一筋の涙を流した。

 涙はそのまま頬を伝い、遥の腕に滴り落ちた。

「あーちゃんには敵わないなあ。こんなになにもかもお見通しだったなんて。これじゃあ私、どこに隠れてもすぐに見つかっちゃうね」

「そうだぞ。だからもう帰ろう、遥」

 僕は遥に手を差し伸べた。昔のように遥を連れ帰るために。

「とりあえず、一旦学校に戻ろう。藤林さんも心配しているし、それに伏見先輩ならなんとかしてくれるはずだ。それとも先にお前の家に寄って行くか? おじさん、今日は家にいるんだろ?」

「うん。でも大丈夫。お父さん、朝はちゃんと覚えていたから」

「そうか。そういえばお前、朝はいつも通りだったもんな」

 でなければ、そもそも学校に行こうだなんて思わないだろう。こうして公園にいることもなかったはずだ。

 それに帰ったところで学校をサボった件を説明しなきゃならなくなるし、やはりここは伏見先輩たちと合流した方が良さそうだ。

「あーちゃんは変わらないね」

 しばし手を伸ばしたままでいると、遥が指で涙を拭いながら、そんな言葉をかけてきた。

「昔に比べて無気力になったし、朝だって私が起こしに行かないとずっとぐーたらしたままだし、絵に描いたような怠け者になっちゃったけど、でも」

 そこまで言って。

 遥は嬉しそうに目笑して、こう続けた。


「優しいところは、なにも変わってないね」


 その言葉に、僕はかあっと顔が熱くなるのを感じた。

「な、なに恥ずかしいこと口にしてんだバカ。ほら、早く行くぞ」

 きっとその時の僕は顔を真っ赤にしていたのだろう。そんな様を見て遥は可笑しそうに破顔した後、

「うん!」

 と、普段のように元気よく頷いて、僕の手を握った。



  ○



 ひとまず牧田高校へと戻った僕らは、だれにも見つからないようひっそりと校舎内に忍び込みつつ、都市研の部室へと向かっていた。藤林さんが連絡を取ってくれたのだろう、ここまでの道中に『都市研の部室で落ち合おう』という伏見先輩からのメールが来ていたのだ。

 伏見先輩まで遥のことを忘れてしまっていたらどうしようと思っていたが、ちゃんと覚えていてくれたようで本当に良かった。まああの人のことだから、たとえ忘れてしまっていても相談には乗ってくれていただろうと踏んではいたけれど。あの伏見先輩がこんな怪事件を前にして黙って大人しくしているはずのないのだから。

「なんだか、スパイごっこでもしているみたいだね」

 靴を履き替えて部室のある文化棟に向かう途中、遥がそんな緊張感に欠けることを口にした。

「実際にやってるのはただのサボタージュだけどな」

「うん。私、こんな真昼間から授業をサボったのなんて初めてだよ」

「奇遇だな、僕もだ」

「あーちゃんの場合、むしろ今までサボったことがないことの方が奇跡だよね。私はともかく、あーちゃんはだれにも気にかけてもらえてないんじゃない?」

「うるせえ」

 などと会話しつつ、周囲に注意を払いながら中庭を経由して文化棟に向かう。これだけ軽口を叩けるということは、精神的に落ち着いてきたと思って相違ないだろう。

 というか、遥の場合サボりとは言えないかもしれない。今や校内で遥を覚えている人間なんて都市研の部員ぐらいしかいないだろうし。逆に言うと、教師に見つかった時に色々ややかしいことになるということでもあるけれど。

 今はどこも授業をやっていないのか、閑散とした廊下をまっすぐ歩いて、突き当たりにある都市研の部室を目指す。これまでだれ一人として遭遇しなかったので、ほとんどの関係者が教室か職員室に集まっている状態なのだろう。こちらとしては好都合である。

 そうこうしている内に僕らの部室の前へとやって来た。約束通りなら、ここに伏見先輩が一人で待っているはずだ。

「開けるぞ遥」

「う、うん」

 若干強張った顔で遥が頷く。遥にしてみれば伏見先輩の如何によってはこの先の指針が決まるわけなのだから、不安にかられるのも無理はない。

 そんな遥の頭を撫でて安心させつつ、僕は部室の戸を開いた。


「──遥ちゃん!」


 突如、僕らが来るのを待ち構えていたかのように、藤林さんが遥めがけて飛びついてきた。

「今までどうしていたんですか! 全然電話も繋がらないし、すごく心配していたんですよっ!」

「ご、ごめん萌ちゃん……」

 藤林さんを抱きとめた遥が、当惑した表情で詫びを入れつつ「でも」と続ける。

「なんで萌ちゃんがここにいるの? 今、授業中なのに……」

「わたしも最初は授業を受けるつもりだったんです。けれどどうしても気になってしまって、途中で抜け出して伏見先輩と一緒に遥ちゃんたちを待つことにしたんです」

「けどいいの? 萌ちゃん、先生の評判もすごく良かったのに……」

「評判なんてどうでもいいです。それよりもお友達の方がよっぽど大切です!」

「萌ちゃん……。ありがとう~!」

 感極まって、ぎゅっと藤林さんを抱きしめる遥。不覚にもじ~んときてしまった。良い友達を持ったな、遥。

「さて、これで揃ったね」

 いつものデスクトップで肘を付いていた伏見先輩が、いつにも増して真剣な眼差しで僕らを見つめた。

「だいたいの事情は藤林くんから聞いている。他にもいくつか訊ねたいことがあるが、ひとまずみんな、腰を落ち着けようか」

 僕らは首肯して、目の前のソファーに座った。伏見先輩から見て右手側に僕と遥。その対面に藤林さんといった感じだ。

「ところで伏見先輩。伏見先輩の方は大丈夫なんですか? 白昼堂々と授業をサボってしまって」

「なに、授業をサボったところで試験になんの支障もないさ。ほとんど内容は頭に入っているし、内申点くらいどうということもない」

 こともなげに言う伏見先輩。さすがは牧田高きっての才女だ。僕なんかとはわけが違う。

「さて遥くん。さっそく確認したいことがあるのだが、いいかね?」

「は、はい。なんでもどうぞ」

「うむ。ではまず、いつからこんな奇怪な現象に見舞われたのか、正確に把握しているかね?」

「えっと、みのりちゃん……同じクラスの子に声をかけた時だと思います。いつも朝はみのりちゃんの方から挨拶してくれることが多いのに、その日に限って萌ちゃんだけにしか声をかけなくて……。それで話を聞いてみたら、私のことなんて知らないって言われちゃったんです……」

「その後自分のクラスに赴いても似たような反応を返されて、現状に至ると。ここまでは藤林くんにも聞いた通りだね。ちなみに訊ねておくが、父君の方はちゃんと覚えていたのかね?」

「はい。普段通りでした」

「ふむ。となると、昨夜から今日の朝までにこの現象が突発的に起きたと考えておいた方がよさそうだね」

 僕もそう思う。昨日の時点ではなにも不審な点なんかなかったし、遥も普段通りに学校生活を過ごしていた。ゆえに、昨日の夜から今日の朝までにみんなの記憶がおかしくなったとしか考えられない。

 そしてこれは、とある仮説を明示していた。

 それも、つい最近まで僕らが関わっていた、都市伝説の一つ。

「伏見先輩。これってもしかして……」

「アールくんも気が付いたか」

 僕の言葉に、伏見先輩は神妙な顔で同調した。

「直接目の当たりにしたのはこれが初めてだが、状況証拠から言って、その考えで間違いないとは思う」

「じゃあ、やっぱり……」

「うむ。おそらくこれは……」


 ──消失症候群だ。


 その言葉に、部室全体の空気が一気に凍ったような気がした。

 遥も恐怖を感じたのだろう、僕の手をぎゅっと握り締めてきた。

 にわかには信じがたい。この間、藤林さんという実例に遭遇したばかりではあるけれども、あれは過去の出来事であるし、なにより藤林さん自体が消失症候群になったわけでもない。

 だからこうして、いざ消失症候群にかかってしまった人間を……それも幼なじみである遥の身に降りかかっている現実と直面して、まったく状況が呑み込めないでいた。

 いや違う。消失症候群かもしれないというのは、遥を探している最中に何度も脳裏にかすめたはずだ。でもそれを信じたくなくて、無意識に頭から除外していただけに過ぎない。

 だって、本当に遥が消失症候群だとしたら。

 近い内に、遥が影も形もなく消えてしまうということに他ならないのだから。

「でも、こんな急に始まるものなんですか? 前触れもなにもなかったはずなのに」

「我々は実際に消失症候群になった人間と接触したことがあるわけでもないからね。ネットでもそのような記述は一切ないし、予測の立てようがない。そもそも消失症候群の影響でその人物に対する記憶が抹消されるわけだし、どうしたって知りようがないのだがね」

 私たちだって、その例外の範疇ではないのだよ。

 伏見先輩はそう言い締めて、ふうと一息ついて背もたれに深く腰かけた。さしもの伏見先輩も、降って湧いたような話に困惑を隠せないようだ。

 そして換言すれば、こうしている今だって消失症候群の影響で遥のことを忘れてしまうかもしれないのだ。今はどうしてだか無事に記憶を保ててはいるが、もしも僕まで忘れていたらと考えただけでぞっとしてしまう。

 とそこで、僕はふとある奇妙な点に気が付いた

「……あれ? でもそれっておかしなことになりませんか?」

「ん? おかしなとは、一体どういう意味かね?」

「消失症候群って、周りにいる人達に忘れられて、最終的にはその人が持っていた物もその人自身も消えちゃうんですよね? けど、その人がいないと成立しないようなことがあったらどうなるんですか? たとえば消えた人に子供がいて、その人がいないと子供が生まれなかったことになってしまう時とか。親が最初からいなかったことになるなら、どうやって子供が生まれたのかって話になっちゃうんですけど」

「その件に関しては、私もかねてから疑問を抱いていたのだがね……」

 僕の問いに、伏見先輩は足を組んで先を継いだ。

「だがその疑問は、藤林くんの報告である程度解消したよ」

「報告……?」

「実は伏見先輩に連絡を取った後、あることを調べるよう頼まれたんです」

 僕が眉をひそめていると、藤林さんが代弁した。

「あることって?」

「カメラ部の活動経歴についてです」

 カメラ部の活動経歴? そんなもの調べて、一体なにがわかるというんだ?

「わからないかねアールくん。試しにこの部活の正式な名称を口にしてみたまえ」

「え、正式な名称って、そりゃ都市伝説研究部兼カメラ部のはず──あっ」

 言って、初めて気が付いた。

 そうだ。元々ここは互いに部員が一人しかいなくて、それで合併した部活なんだ。

 だが遥がいないことにされているのなら、そもそもカメラ部は去年の三年生が卒業した時点で自然消滅しているはず。そして都市伝説研究部も、カメラ部との合併がなくなって廃部になっていてもおかしくはなかったのだ。

 それなのに、こうして都市研が存在しているというこの矛盾した事実。

 一体これはどういうことなんだ……?

「……藤林さん。カメラ部ってどういう状態になっているの?」

「元顧問の先生に訊いてみたのですが、カメラ部は去年三年生の方々が卒業された時になくなったそうです。部員がいないんじゃ残す意味がないからと仰られて……」

 遥がショックを受けたように口許へと手をやった。やはり廃部扱いになっていたか。

「じゃあ都市伝説研究部って、今はどういった扱いになってるの? 事実上僕と伏見先輩だけしかいないわけだし、部活として成立しないことになるよね?」

「それも訊いてみました。そうしたら、都市伝説研究部はそもそも特別枠扱いになっているので、部員を集める必要はないと返されました」

「必要はないって……。だって伏見先輩の話じゃあ、部員を集めないと廃部になるって通達されたはずじゃ……」

「そこが消失症候群の恐ろしいところなんだよ」

 瞠若する僕に、伏見先輩が藤林さんに代わって説明を始めた。

「カメラ部が廃部になってしまったが、都市伝説研究部の場合はそもそも教師陣の警告すらなかったことにされていたのだよ。しかも皆一様にして警告した覚えなんてないと口を揃える始末だったそうだ。さすがの私もこれには驚いたよ」

「それじゃあ、僕も入部していないことになっているんですか?」

「いや、君も部員扱いになっているよ。どうやら本来あった状態とあまり乖離しないよう上手く帳尻を合わせているみたいだね。言わば改変というべきなのかな」

 改変? なんだよそれ。

 そんな真似をされたら、どうしたって違和感に気付きようがないじゃないか!

 それこそ藤林さんの時みたく、消えた人間の痕跡がわずかでも残っていない限りは。

「だからアールくんの質問に答えるとしたら、親が消えたと同時にその子供も消滅するか、もしくは別の親が代わりにできるのか……確認しようがないからどういった風に収まるかは判然としないが、おそらく最も都合の良い形で改変されるのではないかな」

「なんか、めちゃくちゃな話ですね……」

「元より荒唐無稽な話ではあるのだがね」

 そう微苦笑する伏見先輩。伏見先輩自身、あまりに突飛な話に呆れるしか他ない心境なのだろう。

「ちなみに、遥ちゃんの机もなくなっていて、出席簿にも遥ちゃんの名前は載っていませんでした。それと、出席番号も変更されていまして……。だから遥ちゃんがこの学校にいたという痕跡はどこにも……」

 そう言葉尻を濁して、藤林さんは沈痛そうに視線を落とした。

 藤林さんとしても辛いところなのだろう。昨日まで当たり前のようにいた友達が、ある日突然いない者として周囲に扱われてしまう状況に。

「あーちゃん……」

 遥が不安げに瞳を揺らして僕を見つめた。

 重ねた手を無言で強く握り返して「どうにかなりませんか?」と、僕は再び伏見先輩に向き直った。

「もちろん全力で手は尽くすよ。だが正直に言って、今のところなにも打開策が浮かばない。前にも君たちに話したことがあるが、消失症候群で消えた人間がもう一度姿を現したという報告は一件たりともない。同様に消えかかっている人間を途中で救ったという話もまたないんだ。まれに消えた人間の痕跡が残ることはあってもね」

 それだけ厄介なんだよ。消失症候群というのは。

 そこまで言って、伏見先輩は一息ついて静かに瞑目した。伏見先輩なりに考えをまとめているのかもしれない。

 ややあって、

「とりあえず今後の指針を決めておこうか」

 と、伏見先輩はおもむろに口を開いた。

「今日のところは、放課後になるまでここで時間を潰そう。こんな昼間から帰っても親に不審がられて、最悪学校に連絡されかねないしね。それと遥くん」

「あ、はいっ」

 ここで話を振られるとは思ってなかったのか、遥はびくっとした顔で返事をした。

「君は父君にこの事態をどう伝える気なんだい? 状況さえ確認してもらえば、いくら頭の固い人間といえど、信じざるをえないとは思うが」

「……いえ、できたら隠しておきたいです。ただでさえ仕事とかで大変なのに、これ以上心配かけられないです」

「そうかい。君がそう言うのであればその意見を尊重しよう。あとこれから学校に来る際は、いつでもこの部室を利用してもらっても構わないよ。そうすれば、父君の目もごまかせるだろう」

「はい。ありがとうございます」

「次にアールくん。君はできるだけ遥くんのそばにいなさい。この先なにが起きるとも限らないし、常に一緒にいた方がいい」

「はい。わかりました」

 元よりそのつもりだ。こんな状態の遥を放っておけるはずがない。

「私と藤林くんは、可能な限り情報を集めるとしよう。消失症候群の回避方法はもちろん、他に遥くんのことを覚えている人間はいないどうかも含めてね」

「はい! 頑張ります!」

 藤林さんが可愛いらしく握り拳を作って奮起する。やる気は十分のようだ。

「最後に、これだけは言わせてくれ」

 そう告げて、伏見先輩は決意のこもった瞳を僕たちに向けて立ち上がった。

「今はまだ手をこまねいている状態だが、希望は必ずどこかにある。だから絶望だけはしないでほしい。我々は決して一人ではないということを、いつでも胸に秘めておいておくれ」

 伏見先輩の言葉に、全員が力強く頷く。

 都市研のみんなが、これ以上なく一つにまとまった瞬間だった。



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