第13話



 しばらく校内を巡って、写真も撮り続けて。

 もうお昼も過ぎようかという時になって、だいぶ少なくなった級友に別れを告げ、学校を後にした。

 帰路を歩きながら、時折思い出したようにカメラを構えて、遠目に見える山脈を撮影したり、のんびり景色を楽しむ。

 この町の風景を見るのも、もう残り少ない。野鳥の群れも、畑の匂いも、川のせせらぎも、これから目にする機会は今より激減する。正月とかにはたまに帰るつもりではあるけれども──僕がいないと実家が完全空き家状態になってしまうし──住み慣れた町をじきに離れるのかと思うと、そこはかとなく物悲しい。

 以前の僕なら、きっとこんな風には思わなかった。これも立て看板に止まるスズメすらとっさに撮影してしまうほどまでにカメラに魅力されたせいなのだろう。情緒豊かになったと言えば聞こえは良いが、これだと単なるカメラバカだ。

 一応世間的には平日なわけで、やはりというべきか、周囲に人は少ない。たまに畑仕事に出るご老人くらいなら散見できるが、若者が真昼間から出歩く姿なんて僕みたいな卒業生でもない限りどこにもいないだろう。これが都会だったら、また話は別なんだろうけど。

 そんな感傷に浸りながら、僕はふと藤林さんとの別れ際に頭を過った女の子の姿を想起する。

 あの子は一体だれだったのだろう。会った覚えなんてまるでない、それこそ顔すらよく思い浮かばないのに、あの子のことを考えるだけでひどく胸が詰まる。

 どうしてだろう。名前すらよく知らない女の子のはずなのに。

 少し前まで、この田舎道を一緒に歩いていたかのような、そんな気が──


「アールくん」


 不意にどこからか声をかけられて「伏見先輩?」と辺りを見渡す。

「こっちだよアールくん」

 再度聞こえてきた呼び声の方に視線を飛ばすと、とある一軒家の塀からひょこっと伏見先輩が顔だけを覗かせた。

「や。久方ぶりだね」

 気さくに片手を上げて全身を見せた伏見先輩に、僕は「ふお?」と思わず奇声を上げてしまった。

 黒のライダージャケットに、ドクロの絵があしらわれたTシャツ。腰には革のベルトを巻き、下は大胆にも太ももを見せつけるかのようにホットパンツを穿いていた。

 俗にいうパンクファッションというやつなんだろうけど、休日にすら制服で闊歩するイメージしかなかった僕にとっては、十分驚愕に値する光景だった。

「お久しぶりです伏見先輩。うわー、伏見先輩って意外といかつい格好が好きなんですね。髪も伸びてますし」

「色々検討した結果、この格好が一番合ってると判断しただけだよ。髪は世界中を回っているとなかなか切る余裕がなくてね……」

 少し照れたようにほんのりと頬を紅潮させながら、伏見先輩は背中まで伸びた黒髪を指で掬った。最後に会った時は肩までだったけれど、今じゃあ藤林さんと同じくらいの長さだ。

「……少し変だろうか?」

「いえ、似合ってますよ? めちゃくちゃカッコいいです」

「そ、そうか。ありがとう……」

 さらに顔を赤らめて、視線を横に逸らす。いつかの夏祭りの時に浴衣姿を褒めた時もそうだったけど、この人、褒められるのに弱いよな。悪い男に捕まらないかどうか不安になる。

「伏見先輩、道端でずっと立ち止まるのもなんなので、歩きながら話しましょうか」

「ん? え、あ。そ、そうだな……」

 まだ照れているのか、伏見先輩はぎこちなくそう言葉を返しつつ、言われた通りに僕と足並みを揃える。

「伏見先輩は、いつから帰国してたんです?」

「昨日からだよ。現在は実家にいるが、明日になったらまた日本を離れるつもりさ」

「えっ。そんなに早く旅立っちゃうんですか?」

「元々帰国したのも、君たちをお祝いするためだしね」

 そういうわけで、と伏見先輩は突然立ち止まって、僕の正面に向かい合った。

「卒業おめでとう、アールくん。君の門出を心から祝福するよ」

 パチパチパチと手を打ち鳴らす伏見先輩に僕は低頭しつつ「ありがとうございます」と礼を返した。

「本当は式中にお礼を述べたかったのだがね。今となっては部外者でしかないし、こうして待ち伏せしてから、二人に会って言おうと思っていたのだよ」

「あー、だから塀の陰に隠れてたんですね」

 要は僕をびっくりさせようと思っていたわけか。見た目は大人っぽいのに発想が割と子供なんだよなあ。

「というか、別に式が終わってからもでも良かったのに」

「二人とも学友と楽しそうにしていたからね。私がその中に割って入るのも無粋かと思ったのだよ」

 再び歩きながら、僕らは並んで言葉を交わす。

「そういえば、藤林さんにはもう会いました?」

「いや、君が最初だよ。あとで彼女の家にドッキリ訪問をするつもりさ」

「ああ、すごく喜ぶと思いますよそれ」

 藤林さん、相当寂しがっていたしなあ。文字通り驚喜するに違いない。

「そうそう。卒業祝いといってはなんだが、君にプレゼントしたい物があるんだ」

「プレゼント?」

 一体なんだろうと思ってワクワクしていると、伏見先輩はジャケットのポケットからとあるキーホルダーを取り出した。

「じゃじゃん。ネッシーキーホルダーだ」

「ネッシーっすか……」

 伏見先輩からキーホルダーを受け取って、僕は苦々しい笑みを浮かべる。

 首長竜を模した人形付きのキーホルダー。それが本当にネッシーなのかどうかはわからないが、見た目は可愛らしくデフォルトされていて、男女関係なく普通に持ち歩けそうなデザインだった。

「伏見先輩、ネス湖にでも行ってたんですか?」

「うむ。やはり都市伝説好きとしては、ネス湖には絶対行きたいとかねてから考えていたしね!」

 と、興奮気味に言う伏見先輩。伏見先輩とてあの映像がトリックだったことを知らないはずがないだろうに。まあ単なる観光目的だったんだろうけど。

「ちなみにネス湖だけではないよ。世界を裏で牛耳っているというフリーメイソンの本部にも行ったし、チュパカブラに会いに南米にも行ったし、座ると死ぬというバズビーズチェアを見にイギリスにも行ってきたぞ!」

「……なんつーか、本当にアクティブですよね。僕も伏見先輩の影響もあってそれなりに都市伝説にも興味を持つようになりましたけど、さすがに世界中を回ろうとまでは思わないですよ」

「それはもったいない。世界にはまだまだ私たちの知らない不思議なことで溢れているというのに。君のそのカメラも泣いているよ?」

「あー。でもまあ、今はカメラの技術を磨きたいと思っているんで」

 カメラを撫でながら「世界に興味がないわけではないんですけどね」と苦笑しながら僕は先を紡ぐ。

「そういえば、アールくんは東京の大学に通うんだったね」

「はい。もっとちゃんとカメラを学びたいと思ってまして」

「君もすっかりカメラの虜だね。最後にアールくんと会った時とは別人のようだ」

 首からぶら下げられた僕のカメラを見ながら、伏見先輩はなぜか不意に真顔になって言う。

「本当、疑念を抱かずにはいられないほどにね……」

「……? なにか言いました?」

 急に小声になったのでそう聞き返すと「いいや。これはあとにしておこう」と含みのある言い方をして首を横に振った。

「確かカメラを始めたのって、私が卒業してしばらく経った頃だったね。どうだい? 良い写真はいっぱい取れたかい?」

「はい。この町って、意外と良いところだったんだなと認識させられました。中途半端な田舎だって思ってましたけど、ファインダー越しに見ると色んな発見があって。この間近くの池を撮影してたら、メダカが泳いでいるのを見つけたんですよ。自然にいるメダカなんて、僕初めて見ました」

 いつかおばさんが言っていたことを思い出す。

 世界は嬉しいことや楽しいことでたくさん溢れていると。だから一瞬も目を離さず、自分の心に収めなさいと。

 おばさんが言いたかったのはきっとこのことだったのだろう。なるほど、いかに自分が怠惰に、そして無関心に生きてきたか、思い知らされる言葉だ。

 だから、当初は上京に反対だった両親を説得して東京行きを決めたのだ。これまで怠惰に過ごした時間を少しでも取り戻すために。

「そうかい。それは素晴らしい発見をしたね」

 僕の話を聞いて伏見先輩も同調したように顔を綻ばせた。伏見先輩にも色々と相談に乗ってもらったし、この人には感謝しかない。

「だからここの景色が愛おしく思えて仕方がないんですよね。これからしばらくは写真でしか見れないんだなって思うと余計に」

「そういえば、東京にはいつ頃行くんだい?」

「一週間後ぐらいには」

「おや、思っていたより早いね。大学が始まるのは四月からなのだろう?」

「ええ。でも今の内に向こうの暮らしの慣れておこうと思っていまして。荷造りももう始めてるんですよ」

「そうか。じゃあみんなこの町から離れていってしまうことになるんだね。藤林くんも隣りの県にある女子大に通うと言っていたし。知ってたかい? 藤林くん、実家の呉服屋を継ぐつもりでいるらしいよ」

「本人から聞きました。もっと服飾の勉強をして実家を支えたいとも言ってましたね」

 二人で部活をやっていた時もそうだけど、見た目に反して藤林さん、かなり行動力のある人だと思う。

「これからはみんなで会うこともなかなかできなくなるね。まあ、私が言えたセリフではないのだろうけど」

「そうですね。でも自分たちで決めたことなので、これでいいんだと思います」

「そうだね。人は夢を見ずにはいられない。どうしても叶えたい願いがあるのなら、たとえ友と離れ離れになろうとも、全力で突き進むべきだと私は思う。だから私は、君たちの決断を全面的に支持するよ」

 それに、と伏見先輩は僕の前に回って、一切の揺らぎなく凛然とした面持ちでこう告げた。

「これで永遠の別れというわけでもない。離れ離れにはなっても、私たちは一つの世界で繋がっている。願えば、必ずまたどこで会える。だからよく覚えていてほしい。君たちになにかあったら、私がすぐに飛んで来るとね」

 伏見先輩の言葉に、じぃんと胸が熱くなるのを感じた。

 伏見先輩はなにも変わらない。いつだって僕らの頼りになる先輩でいてくれる。僕たちを陰で支えてくれる。これほど心強い人はそうはいない。

「ありがとうございます、伏見先輩」

「いやなに、可愛い後輩たちのためなら宇宙からだって駆け付けてみせるさ」

 にっと勇ましく笑んで、親指を立てて見せる伏見先輩。

 やっべえ。マジでカッコいい。こういう人が上司だったら、お世辞抜きでどこまでも付いていってしまいそうだ。

 などと会話に華を咲かせている内に、僕の家がある近くまで来ていた。もっと話し込んでいたいところだが、この後藤林さんにも会いに行くのだろうし、あんまり時間を取らせるわけにはいかない。

「伏見先輩、この辺でいいですよ」

 そう言って、僕は十字路のところで止まった。このまままっすぐ進めば、五分としない内に僕の家だ。

「名残惜しいですけど、これ以上付き合わせるのもどうかと思うので」

「すまないね、色々気を配ってもらって。正直助かるよ」

 君たちのために戻ってきたのに、実家の人間がなにかとうるさくてね。

 と微苦笑を浮かべて、伏見先輩は肩を竦めた。実家が資産家っぽいし、一見自由奔放にさせているようでなにかと制約が多いのかもしれない。

「本当はもっと話していたいんですけどね。けどまあ、それは次の機会のお楽しみにということで」

「そうだね。私も明日には日本を発ってしまうし」

 言って、伏見先輩は不意にスッと目を細めた。


「だからその前に、君への疑問を解消しておきたい」


「えっ? 疑問?」

 なんだそれ。突然なにをわけのわからないことを口走っているのだろう。それとも、伏見先輩なりの冗談なのだろうか。

 なんて一笑に付したいのに、もう一人の僕が俯瞰するようにこう詰問してくる。

 いい加減気が付けと。

 お前だって、薄々おかしいと思っていたんじゃないのかと。

 心臓が早鐘を打つ。そんな当惑する僕を見て、伏見先輩が決定的な問いを投げる。


「アールくん。ひょっとして君は、とても大切なだれかを忘却してはいないかい?」


 その言葉に。

 ふっと、とある朧気な少女の姿が頭に浮かんだ。

「心当たりが、あるんだね?」

「いやでも、きっと勘違いとかそういう──」

「本当にそうなのかい? 君自身、割と前から疑念を抱いてんじゃないのかい?」

「そんなこと……」

 それ以上、言葉が繋げられない。

 核心を突かれたように、微動だにできない。

 動揺する僕に構わず、伏見先輩はさらに続ける。

「本当はね、日本に帰ったのもただ卒業を祝いに来ただけではないんだ。実を明かすと君に会うまでずっと迷ってもいた。事情はどうあれ、自分の道をしっかり歩もうとしている者に対して、横から邪魔するような真似をしていいものなのかってね。だがさっきの君の反応を見て、やはりこのままではいけないと思った。全面的に支持すると言ったばかりではあるが、大切なだれかが過去にいたのだとしたら、なおさら看過できない」

 決して、私のような喪失感を抱かせないためにも。

 言って、伏見先輩が視線を尖らせる。僕の心底を覗き込むかのように。

 なにを言っているのか、よくわからない。

 よくわからないはずなのに、なぜか伏見先輩の話に聞き入っていた。

「アールくん、よーく思い出してほしい。君はどうしてそのカメラを持つようになったんだい?」

「え……? そ、それは、おばさんの形見をずっと眠らせておくのもどうかと思って、それで……」

「それは私も海外に行っていた時に聞いたよ。その方の遺言でカメラを受け取ったともね。だが私はそれを聞いて奇妙に思った。いくら親交があったからと言って写真になにも興味がない少年に、自分の命と言っていいカメラを渡すだろうかってね。普通なら、たとえ使われなくとも愛する夫のそばに置いてほしいと思うのが人情ではないかい?」

 言われてもみればその通りだ。

 どうしておばさんは僕なんかにカメラを渡したんだ? 写真なんて全然興味がなかったはずなのに。渡された時の記憶すら、なぜかはっきりとしない。

「そして、君のその変わり様だ。あれだけ無気力だった君が、まるでなにかに突き動かされるようにカメラを持ち始めて上京行きまで決める始末だ。単に性格が変わっただけだと言えばそれまでだが、私の目にはどうも異様に映ってならないんだ。アールくん、君は自分の気持ちに正直でいられているのかい? どこか無理をしていないかい?」

 カメラという趣味を持ち始めてから、低血圧でも朝起きれるようになった。

 カメラのおかげで、周りの景色が輝いて見えるようになった。

 世界には面白いことや嬉しいことで溢れていると知ることができた。

 それもこれもカメラと巡り合えたおかげだ。その気持ちになんら嘘はない。

 けど本当にそれだけだったか?

 いつも隣りにいただれかのおかげで、自分はこうなれたんじゃないのか?

 その子の影を追い求めようとするあまり、必死になり過ぎてはいるんじゃないか?

「僕は……」

 僕は、なんだ?

 なにが言いたい?

 本当は、なにがしたかったんだ?

「アールくん、最後に一番の疑問を投げるよ」

 穏やかながら、しかし抉り込むように、伏見先輩は言の葉を紡ぐ。

「アールくん。そもそも君は、どうして都市研に入ろうと思ったんだい?」

「えっ──?」

 言われて、僕は「そ、それは……」と理由を口に出そうするが、空になった容器に手を入れるように、口がぱくぱくと開閉するだけに終わった。

 理由が、まったく思い当たらなかった。

 どうしようもなく無気力だった僕が、自分から部活をやり始めるわけがないのに。

 言わずもがな、伏見先輩に誘われたって入るはずもないのに。

 それなのに、どうして僕は都市研になんて入ったんだ──?

「私もこのことに気が付いたのはつい最近なんだ。今までなにかに邪魔されるように靄がかかっていたけれど」

 まるで記憶操作でもされていたかのような気持ち悪さだよ、と伏見先輩は顔をしかめる。

「なんだよこれ……一体なにがどうなってんだ……」

「あるじゃないか、一つだけ」

 混乱する僕に、伏見先輩がたった一つの回答へと導く。

「身近にいた人間を忘れさせ、その痕跡まで失くしてしまう人知を超えた現象。君もよく知っているはずだよ。この都市伝説の名を」

 そうだ。僕はそれをよく知っている。藤林さんの件も含めて、あたかもその身で体験したかのように知っている。

 その現象の名前は──


「消失症候群……?」


 僕の呆然とした呟きに伏見先輩は「その通りだ」と肯定した。

「確証があるわけではない。だが君の身に起こったことを考察するに、消失症候群の仕業としか考えられない」

「じゃあ僕、だれかのことを忘れて……?」

「かもしれない。だからアールくん、よく思い出すんだ。君の大切な人を──ひょっとしたら都市研のメンバーだったかもしれない人のことを」

「僕の、大切な人……」

 頭の中に浮かぶのは、眩い光の中で一人寂しく佇む少女の姿。

 一度も会ったことないはずなのに、とても懐かしく感じる少女の笑顔。

「っ……」

 思考するのを邪魔するように、鋭い頭痛が走った。

 たまらず、僕は前髪を押し上げてしゃがみ込んだ。

「アールくん! すまない、少し君を追い込み過ぎたか……」

「いえ、大丈夫です……」

 未だ鈍痛が走る頭を押さながら、僕は弱々しくも言葉を返す。

「大丈夫って、ひどい油汗じゃないか。ちょっと待ってくれ。今ハンカチを──あっ」

 ジャケットのポケットからハンカチを取り出そうとして、伏見先輩は家の鍵らしい物を地面に落とした。

地面に接触し、鍵についたキーホルダーの束がじゃらじゃらと音を鳴らす。

 その中の一つに、どこかで見覚えがある物を見つけた。

「そのペンギンのキーホルダー……」

「ん? これかい?」

 慌てて鍵を拾った伏見先輩が、キーホルダーの一つを手に取ってみせた。

「なかなか可愛いだろ? 浴衣を着たペンギンなんてそうそうないから私も気に入っているんだ。ってそんなことより汗だよ汗!」

 改めてハンカチを手にして僕の汗を拭き始める伏見先輩。だがそれすら気にならないほど、僕はペンギンのキーホルダーに釘付けになっていた。

 なんでだろう。このキーホルダーを見ているだけで胸が騒ぐ。

 どこかで見たことがあるような、僕もそれをだれかにもらっていたような。

「伏見先輩、そのキーホルダーって一体どこで……」

「え、どこでもなにも君も持っていたはずだよ。夏祭りの時に射的でたくさん当てたとかで、三人でお揃いにしたではないか」

「夏祭り……?」

「ああ。あれ? だがしかし、私はだれにこれをもらったんだ……?」

 伏見先輩がハンカチを動かす手を止めて考え込む。本当にだれからもらったかわからないと言った様子で。

 伏見先輩の言葉を聞いて、夏祭りでの光景がフラッシュバックするように脳内を駆け巡る。

 僕と伏見先輩が取った物ではない。お互いずっと話し込んでいて、ゲームの類いには一切手を出さなかったのだから。

 付け加えて、藤林さんでもない。射的はしたみたいだが、一つとして当てられなかったと残念がっていたはずだ。

 じゃあ、一体だれがペンギンのキーホルダーを取ったんだ?

 そして、僕はそのキーホルダーをどこにやった?


 ──絶対見つけておいてよね!


「あっ──」

 止め絵のように佇むだけだった想像の中だけの『彼女』が、初めて動きのある表情を浮かべた。

 思い出した。あのキーホルダー、夏祭りに『彼女』からもらったものの、すぐに部屋でどこかで失くしてしまったんだ。

 そのことに『彼女』はすごく腹を立てていて、見つけないと一生許さないとも言われて……。

「あ……ああ……!」

 記憶が波のようにどんどん押し寄せてくる。それまで空白だらけだったアルバムに、続々と『彼女』との思い出で満たされていくかのように。

 朝が弱い僕のために、何度も起こしに来てくれた『彼女』。

 いつも一緒に歩いた通学路。

 無理やり『彼女』に入部させられて、伏見先輩と三人であちこち駆け回った都市研での出来事。

 面倒見が良くて、活発で、みんなにも人気があって。

 けれど、意外と子供っぽくて、食い意地が張ってて、怒りっぽくて。

 そして、カメラがなによりも大好きだった女の子。

 僕が大好きだった、幼なじみの女の子──

「思い、出した……」

 まだ完全ではないけれど、思い出した。

 『彼女』と共に歩んできた軌跡を。

 どこにでもありふれた平和で退屈な日常だった。

 けど失くした今だからこそわかる、平穏で幸福だった日々を。

 愚かしくも、二年近く経った今になって。

「なんで……なんで忘れてたんだよ僕はっ!」

 地面の上を拳で殴り付ける。じんと皮膚が破れたような鋭い痛みが走った。

「アールくん……もしや思い出せたのかい?」

「思い出しました……」

 血で滲む拳を地面から上げ、自分への悔恨をさらけるように吐き出す。

「二年も経って、ようやく思い出しました。好きだった人のことを。自分がどれだけ愚鈍だったかも……」

 僕はバカだ。どうしようもないバカ野郎だ。

 カメラのおかげで変われた? バカか。そんなもの、『彼女』のいない毎日を無意識にごまかして生きてきただけだろうが。

 『彼女』のいない寂しさを紛らわせるために、カメラを持ち始めただけだろうが。

 『彼女』の半身と言っていいこのカメラを手にして、好きだった子の息吹を感じていたかっただけだろうが。

 僕は今までなにをしていたのだろう。今日までなにをしてきたのだろう。

 絶対忘れないって約束したはずなのに。僕を信じてくれていたのに。


 最後のその時まで、『またね』と再会を信じてくれていたのに──!


「伏見先輩、僕どうしたらいいですか……?」

 うなだれながら、僕は情けなくも伏見先輩に弱音を吐く。

 なにもできなかった矮小な自分にほとほと嫌気が差しながら、目の前の人に縋る。

「絶対忘れないって約束したのに。一人にさせないって約束したのに。なのに、なのに僕は……!」

「アールくん」

 伏見先輩が僕の傷付いた手をそっと握る。

 氷塊を溶かすように、冷たい僕の指先を温かな両手で優しく包み込む。

「その子のことが好きなのかい?」

「はい……」

「どこが好きなんだい?」

「理由も思い付かないくらい大好きです」

「…………そうかい」

 伏見先輩は微笑をこぼして、僕の腕の中に両手を入れた。

「だったら、ここでこんなことをしている場合ではないね」

 そう言って、伏見先輩はその細腕から考えられない力強さで僕を持ち上げた。

「くよくよするのはこれでお終いだよ。さあ、自分の足でしっかり立って、その子のことを探しに行くんだ」

「でももう二年も経ってますし、それに消失症候群で消えた人を見つけられたことは今までにないって伏見先輩も言って──」

「それはあくまでも前例がないってだけだ。それに思い出してほしい。君が以前話していた夏祭りの日の出来事を。あの時君は藤林くんの親友であるまなちゃんを見かけたと話していたはずだよ」

 確かに話した。まだ記憶がはっきりとしないが『彼女』を僕の家に泊めたその日の夜に、伏見先輩と電話で会話した時のことを。

「君は見間違いかもしれないと言っていたが、私はそうは思わない。以前にも話したことがあると思うが、おそらく藤林くんが少しだけでも記憶を取り戻したことで、一時的に姿を現すことができたんじゃないと考えている」

「ということは、僕が記憶を取り戻したことで……」

「うむ。この世界に再び姿を現す可能性が少なからずある」

 仮説の域は出ない。それでもわずかながら希望が見えてきた。

 暗闇しかなかった僕の心に、頼りなくも一筋の光明が差した。

 もうダメだと思っていた。『彼女』と会うことは無理なんだと諦めかけていた。

 けど、もしまた会えるのだとしたら。

 たとえ可能性が一%でも残っているのだとしたら。

「もう、大丈夫みたいだね」

 僕の瞳を見て、伏見先輩が穏やかに微笑みかける。

「私にその子の記憶はないけれど、でも心が覚えているのかな。その子は他ならぬ君に見つけてもらいたがっているようにしか思えてならないんだ。さながら王子さまのキスを待つ白雪姫のようにね」

 ちょっとたとえがメルヘン過ぎるかもしれないけどね、と苦笑する伏見先輩。確かに伏見先輩のキャラと合わないけれど、そのギャップがどこか可愛くて僕もつられるように微笑をこぼした。

 記憶はなくとも、伏見先輩は『彼女』のことを今でも想ってくれている。大切な仲間だと心がしっかり刻み付けてくれている。それが自分のことのように、たまらなく嬉しい。

「……伏見先輩、僕行ってきます」

 一度深く息を吸って、体内の空気をすべて吐き出すように告げる。

 確かな決意を持って。

 揺らぎない願いを抱いて。

「探さなきゃいけない子がいるんです」

「そうかい」

 嬉しそうに伏見先輩は口許を綻ばせた後、不意に僕の肩に両手を置き、勢いよく反転させた。

「では行ってきなさい。大切なだれかがいるのなら。なにを置いてでも守りたい人がいるのなら」

「──はいっ」

 伏見先輩に力強く背中を押されて。

 僕は、全力で駆け始めた。

 あの子と交わした『約束』を果たすために。



  ○



 時間が経過する共に次々と蘇る記憶を頼りに、『彼女』がいそうな場所を探す。

 学校にもUターンして、校内をくまなく調べ回った。なんで卒業生がまだあちこちうろついてんだ? みたいな顔を下級生にされたけど、構ってなどいられない。

 結果的には学校にいないと判断して、次は町の中を探索することにした。

 『彼女』の行きつけだった洋食店。ゲームセンター。ショッピングモール。映画館。神社。一度『彼女』に家にも行ってみたが、おじさんに怪訝そうにされただけでなにも収穫はなかった。やはりというかなんというか、現状『彼女』の記憶があるのは僕だけらしい。

 気がつけば、とっくに日が暮れようとしていた。今日は今年一番の寒さと天気予報で聞いたのに、全身汗まみれで体中が異様に火照っていた。いつの間にコートを脱いで小脇に抱えていたのかすらも思い出せないくらいに。

 記憶を頼りにとは言ったが、その記憶自体がまだ完全に戻っていないので、選択肢は増えてもそれを思い出すまでがもどかしく、気だけが急く。

 そもそも、どういった形で現れるのかすらよくわかっていないのだ。突然どこからともなく出現するのか。はたまたまったく見当違い(他県とか海の向こうとか)の場所に出るのか。それともどこぞのアニメ映画よろしく空から降ってくるのか。さすがにそうなったら無事に受け止められる自信はない。たとえ腕がもげてもキャッチしてやる気概ではいるが。

 他にも『彼女』が行きそうな場所はあるにはあるのだが、そこはどこも市外だ。今から向かうにしても──まして自分の足で回るとしたら深夜まで覚悟する必要がある。

 もう近場にはなかったか。最悪市外に行くにしても、あまり時間をかけすぎると補導されかねない。卒業したとはいえ学生服のままだし、交通機関も利用しがたい。

 一旦自宅に戻って着替えるべきかもしれない。汗でダラダラだし、タオルで拭くぐらいはした方がいいだろう。それに、灯台下暗しで僕の家にいるという線だって十分にある。

 そう考え、自宅への最短距離を走る。もう足もがくがくなのだが、悠長に歩く気分にはなれなかった。いつか『まなちゃん』らしき子を見かけた時がそうだったように、今日中に見つけないと二度と会えないような、そんな気がする。

 帰路を疾走しつつ、そういえば前にもこんなことがあったなとふと考える。

 あの時は確か、学校中のみんなに忘れられて、それでショックで飛び出した『彼女』を探しに町中を走り回って。それから……。

「──あっ」

 最後のピースがはまったように、とある記憶が鮮明にリフレインした。

 そうだ。まだあったじゃないか。

 『彼女』がいそうなところ、その最有力候補が。

 幼い頃によく『彼女』と遊んだ場所。

 なにかあったらいつもそこに潜んでいた隠れ場所。

 いなくなった『彼女』を連れ帰りに、いつも僕が探しに行った思い出の場所。

 すでに足は動いていた。検討する必要なんてなかった。

 幸い自宅方面に向かっていたので、走って十分とかからない。

 全力で疾駆する。『約束』を果たすために。『彼女』に会いに行くために。

 ひたすらに駆けて。駆けて駆けて駆け抜いて。

 全身が悲鳴を上げつつも、僕はとある団地へとたどり着いた。

 至るところで街灯が点いていた。見ると夕日はほとんど沈みかけており、空は微かに星の光で瞬いていた。

 各階層から響く家人の団らんを耳にしつつ、僕は敷地内に足を踏み入れる。

 向かうはただ一点、中央広場。

 もう日も沈みかけているせいか、子供はおろか人っ子一人としていない。むしろこんな遅い時間に団地の人間でもないやつがうろついていたら、さぞや怪しく映ることだろう。

 だが些事だと頭から切り捨て、侘しい広場の中を一人で進む。

 二年前のように。はたまた幼い頃のように、他の遊具には目にもくれずにとある場所へと駆け込む。

 ゾウの形をした滑り台。その下にあるトンネル部分に。

 だけど、そこに。

「いな、い……」

 息も絶え絶えにトンネルを覗き込むも、そこに『彼女』の姿はなかった。

 薄暗い空洞だけが広がっているだけだった。

「なんだよ、それ……」

 その場でへたり込んで、奥歯を力強く噛みしめる。

ここにいるとばかり思っていたのに。いなくなった時は、いつだってここにいたはずなのに。

 また現れるとしたら、ここしかないと思っていたのに。

「どこに行ったんだよ、お前……」

 掠れた声が、自分のとは思えない声音が口から漏れ出る。

「お前まだ十代だろう。こんなことで人生台無しにしてんじゃねぇよ」

 汗が滴り落ちる。日暮れと共に一層凍てついた風が汗をなぞって体温を奪う。

「おばさんみたいな写真家になるんだろ? それなのにおばさんの形見を預けたままにしてんじゃねぇよ。本当に僕がもらっちまうぞ」

 独白を続ける。感情の発露を止められないまま、激情をすべてさらけ出すように。

「お前に言いたいことだって、こっちにはいっぱいあるんだぞ……!」

 体だけはどんどん冷えていくのに、胸の中だけは反比例するように熱くなっていく。

「まだ告白もしていない内にいなくなってんじゃねぇぞ!」

 声を絞り込す。内にたぎる熱を一気に爆発させるように。

 そうして僕は、あらん限りの声で『彼女』の名前を叫んだ。


「はるかああああああああああああああああああああああああああっ!!」


 直後だった。

 闇しかなかった空洞に、突如としてぽっと淡い光が灯ったのは。

 微々たるものでしかなかったその光は、次第に数を増やしていき、やがて大きな一つの塊となって壁にもたれかかった。

 そして、そこには。

「は、るか……?」

 少し茶が混じったポニーテール。背は低くはないが、童顔のせいで中学生に見られがちな容姿。二年前に消えた時と同じ、今となっては季節外れもいいところな夏服。

 間違いない。見間違うはずもない。

 僕の幼なじみがそこにいた。

 僕の好きな人がそこにいた。


 五十嵐遥が、ちゃんと僕の目の前にいた。


「──あーちゃん……?」

 それまで眠っていたように瞼を閉じていた遥が、ゆっくり眩しそうに目を開いて僕を見た。

「遥……」

 もう堪えきれなかった。異様なまでに熱くなった目頭を、これ以上なく騒ぐ涙腺を、自らの意思で止めることなんてできなかった。

「あーちゃん……」

 遥がゆっくり僕に手を伸ばす。視界が涙で滲む中、僕もたどたどしく手を伸ばして指を絡め合う。

 温かい。すごく温かい。

 遥がいる。遥がここにいる。僕の目の前にちゃんといてくれている。

「あーちゃん、ちょっとだけ背が伸びたね。それに、少しだけ大人っぽくなってる」

 消えていた間の記憶がないのだろう、遥は僕の姿を見てなにかを察したように寂しそうな顔をして、囁くように呟いた。

「……ごめん。時間かかっちゃって……」

「ううん、いいの。だって私」


 あーちゃんなら何年かかっても絶対見つけてくれるって、信じてたから。


 万感の思い込めるように、一拍置いて紡がれたその言葉に、僕は胸がいっぱいになった。

 遥が僕を見つめる。なにか言って欲しそうな瞳で。

 そうだな。こうして遥を見つけたんだ。言わなきゃいけないセリフがあったよな。

「──帰ろう、遥」

「うん。あーちゃん」

 遥が頷く。二年前となにも変わらない太陽みたいな笑顔で。

 そうして僕は、涙ながらに遥をきつく抱きしめた。


 もう二度と遥から離れまいと、心に誓いながら。


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