第5話 妖怪のうわさ



「源さん、ちょっといいかな?」

 図書室でモノノケ帳の封印を解いて、数日が経ったある日のことだった。

 給食を食べている最中、ふいに背後からかけられた声に、ひかりは箸を落としそうになりながら、慌てて振り返った。

「か、翔くんっ?」

「あ、ごめん。びっくりさせちゃったかな?」

「う、ううん。大丈夫」

 申しわけなさそうに眉尻を下げる翔に、ひかりは首を横に振って応える。

「ちょっと話したいことがあったんだけど、そっか。まだ食べている途中だったんだね」

「ご、ごめんね。わたし、食べるの遅い方だから……」

「いや、いいんだ。急かすほどの用でもないから。それじゃあ、教室で本でも読みながら待ってるよ。あ、ゆっくり食べててもらっていいからね?」

「う、うん。わかった」

 またあとで、と自分の席へと戻った翔に小さく手を振って見送ったあと、ひかりは緊張の糸をほぐすように息を吐いた。

 モノノケ帳の一件以来、よくこうして翔と会話する機会が増えたのだが、いまだに慣れない。好きな男の子に話しかけられているのだから、緊張して当たり前ではあるのだが、もうちょっと普通に返事ができないものだろうか。毎回こんな風にぎこちない反応していては、翔に変な子だと思われかねない。

 けれどまあ、以前の自分──まともに翔と話せなかった頃に比べれば、だいぶ進歩した方だ。翔もひかりに対して気さくに応じるようになってきたし、経過は上々だ。

 などと、確かな手ごたえに小さく握り拳を作っていると、

「──ひかりちゃん、ここ最近、妙に篠宮くんと仲がいいですよね」

「ふえ⁉ な、奈絵ちゃん⁉」

 いつの間にいたのか、ひかりの横に立っていた奈絵が、そんななにげない調子でたずねてきた。どうやら翔と同様、早くに給食を食べ終えたようだ。

「少し前までは、挨拶以外で篠宮くんから声をかけてくることなんてありませんでしたのに、なにかあったのですか?」

「えっ。う、うん。ちょっといろいろあって……」

 奈絵の疑問に、ひかりは言葉をにごしてごまかす。

「いろいろ、とは?」

「え、えーっと……」

 さらなる追求に、ひかりは目線を泳がせて声をつまらせる。

 どう説明したものだろう。さすがに、まったくの無関係者である奈絵にモノノケ帳のことを話すわけにはいかないし、かと言って、ちょうどいい言い訳も思いつかない。ひかりと翔の接点の無さが、こうした形で障害となってきた。

 そうして、しばし言葉が浮かばず、あたふたとしていると、

「いえ、なにか話しづらいことがあるのなら、無理には聞きませんが……」

 あからさまに動揺するひかりを見て気が引けたのか、奈絵はわずかにさびしそうな顔をしてそう言ってきた。

「ごめんね、奈絵ちゃん……」

「いえいえ。私も無粋なことをきいてしまってすみませんでした。ただ、少々気になったものですから」

 言って、にこりと微笑む奈絵。ひかりに気を遣わせないようにと配慮してくれたのだろう。友達に秘密にしていることがあるというのに、本当にいい子だ。

「今はまだ、少しばかりぎこちない感じではありますが、これからもっと篠宮くんと親密になれたらいいですね。友達として応援しています」

「うん! ありがとう、奈絵ちゃん!」

 最高の言葉を送ってくれた奈絵に、ひかりはその手を握って満面の笑みを浮かべた。



「翔くーん。お待たせー」

 給食を食べ終えたひかりは、約束通り、翔のところへと向かった。

 なんだか、デートの待ち合わせをするカップルみたい、と内心ドキドキしているひかりに対し、

「うん。じゃあ、ここで話すのなんだし、人のいないところに行こうか」

 と、こちらは別段気にした様子もなく、翔は呼んでいた本から顔を上げた。

 そのことをちょっぴり残念に思いつつ、ひかりは席を立って歩き出した翔に付いていく。

 教室を出て、生徒たちでにぎわっている廊下を歩く。

 途中、翔を遊びに誘う子が何人かいたが、翔は笑顔でやんわりと断っていた。それでもぜんぜん相手を不快にさせないあたり、翔はすごいと思った。人気者は伊達じゃない。

 なんて、翔に感心している間に、二人は校舎裏にある非常階段のそば──普段はだれも立ち入らない場所へとやって来た。

「よし。だれもいないね」

 周りに人がいないのを確認したのち、翔は階段の手すりに背中を預けた。

「なんだか毎回こうしていると、スパイごっこでもしているみたいだよね」

 気恥ずかしそうに言う翔に、ひかりも「そ、そうだね」とほほを熱くしてうなずく。ひかりとしては、恋人と密会しているような気分ではあるが。

「それで、定時連絡みたいになっちゃうけど、昨日今日とどうだった?」

「うん。とくになんともなかったよ。タマも妖気を感じたりはしなかったみたい」

「そっか。前にタマさんから聞いた話だと、モノノケ帳に封印された妖怪は、あまりそばから離れることができないように術がかけてあるっていう話だったから、てっきり向こうの方からモノノケ帳を狙ってくるかと思っていたんだけど……」

 予想が外れたかな、と眉間にしわを寄せて考えこむ翔。

 翔には、モノノケ帳に関する事情をタマからすべて聞かされている。人面犬を封印した翌日、あらためて三人で集まって、説明会を開いたのだ。

 その時、妖怪におそわれた場合はすぐ翔にも報告するようにと約束を交わしたのだが、いまだに向こうから接触してきたことはない。人面犬以外の妖怪が本当にこの町にいるのか、疑わしく思えてくる今日この頃だった。

「源さん、そばにタマさんはいる? 一度タマさんの意見も聞いてみたいんだけれど」

「うん、いるよ。ほら、タマ。翔くんが呼んでるよ」

 と、ひかりは自分の肩を叩いて、そう呼びかけた。

 すると、なにもなかったはずのひかりの首元から、ぼんやりと白い毛むくじゃらみたいな姿が浮かび出し、ゆっくりと体を起こした。

「ふああ~。よく寝た。もう授業は終わったのか?」

 それまでマフラーみたいに首からぶら下がっていたタマが、ひかりから飛び降りてあくびをした。

「タマ、おはよう。授業ならとっくに終わってるよ?」

「おお、そうか。しかし授業ってのは退屈でいけねえな。眠くて仕方ねえや」

「だからって、家でお留守番とかダメなんだからね。タマがいないと妖怪が出てきた時に困るんだから」

「わかってら。だからこうして姿を消して、いつもいっしょに付いて来てんだろうが」

 つっても、と脱力したようにタマは寝そべって、言葉をつなげた。

「その肝心の妖怪が、なかなか現れてくれねえんだけどなあ~」

「それなんだけど、タマさん。モノノケ帳がここにある内は、少なくともこの町からは離れられないって前に言ってたよね?」

「おっ。翔もいたのか。確かに言ったけど、それがどうかしたか?」

 翔に気づいたタマが、体を起こしてそうたずね返した。

「予想だと、妖怪たちがモノノケ帳を奪いに来るんじゃないかって考えてたんだけど、一向に姿を見せないよね? これってどういうことなのかな?」

「あー。そういや、そんな話もしたな。けどまあ、妖怪たちも現代によみがえったばかりで困惑してんだろうさ。モノノケ帳を警戒して、なるべくおとなしくしているやつらも多いだろうしな」

「そっか。じゃあ行動を起こすとしたら、もう少し経ってからになるのかな?」

「その可能性は高いな。今は静かなもんだが、きっと近い内、いろいろ問題を起こすに違いないぜ?」

「え~? やだなあ。怖いし、ずっとおとなしくしててくれないかな……」

 タマの話を聞いて、ぶるっと身震いするひかり。タマの手伝いをすると決めたとは言え、やはり、妖怪となんて会いたくなどない。

「……ごめん、源さん。その希望に応えられそうにないかな」

 怖がるひかりに、翔は気まずそうに苦笑いを浮かべた。

「……? 翔くん、それってどういうこと?」

「今日、みんなから仕入れた情報なんだけど、どうにも近くの河原で河童みたいなのが出たらしいんだ」

『河童⁉』

 ひかりとタマが、ほとんど同時に驚きの声を上げた。

「うん。あくまでも、うわさ話レベルだけどね。でも目撃者も多いみたいだし、信憑性は高いと思う」

「そうなんだ。そんなうわさがあったなんて、わたし、ぜんぜん知らなかった……」

「近くと言っても、僕らの通学路からは離れたところにあるからね。知らなくても無理はないよ。僕も今日の朝、別のクラスの子から聞いたばかりだし」

「それで翔、その河原が出たって場所は、当然調べてあるんだよな?」

「もちろんだよ。じつは源さんをここに呼んだのも、いっしょに行こうと思ったからなんだ。それで源さん、放課後は時間あるかな?」

「えっ! う、うん。なにも用事はないから大丈夫!」

「それはよかった。それじゃあ、また放課後だね」

「そ、そうだね!」

「よっしゃあ! 待ってろよ河童ぁ!」

 そんな風に盛り上がるタマと翔をよそに、

(きゃあ~! 翔くんと放課後デートだ~!)

と河童の件を忘れて、ひそかに胸をときめかせるひかりなのであった。



「この道をまっすぐ行くと、河原が見えてくるらしいよ」

 放課後。ノートの切れ端に書いてある地図を見ながら、楽しそうに口元をほころばせる翔。河童に会えるのがよほど嬉しいのか、足取りもどことなく軽やかだ。

 そんな中、ひかりは意気揚々と進む翔の後ろを付いていきながらも、二人っきりというシチュエーションに緊張するあまり、心ここにあらずといった感じになっていた。

 どうしよう。学校を出てから結構時間が経っているけれど、いまだに心臓がばくばくと鳴っている。手に汗もにじんできて、なんだか頭が沸騰しそうだ。

「……大丈夫? 源さん。さっきから口数が少ないけれど……」

 うれしさのあまり、ぽーっとしているひかりを見て具合が悪いとでも誤解したのか、翔は心配そうに後ろを振り返って言った。

「体調が悪いのなら、今日はやめておいてもいいんだよ?」

「──ふえ? う、ううん! 違うの! ただちょっと緊張しているだけで……」

「あ、源さんも? じつは僕もすごく緊張してるんだ。河童ってすごく有名な妖怪だし、今から会えるのかと思うとワクワクするよ」

 いや、決してそういった意味ではないのだけれど……。

 しかしながら、好きな人と初めていっしょに帰れて緊張しているのだと正直に明かすわけにもいかないので、

「そ、そうだね。ワクワクするよね」

 と、ひかりは話を合わせた。

「ところで翔。河童のうわさってのは、具体的にどういうのなんだ?」

 興味深そうに周りをきょろきょろしながらひかりの横を歩いていたタマが、脈絡なく翔にそう質問した。

「ああ。まだ話してなかったね。うわさだと、その河童は僕らが今から行く河原に住み着いていて、近くを通る人たちに勝負を挑んでいるんだって。それで河童が勝ってしまうと、所持品をぜんぶ向こうに取られてしまうらしいんだ。つい最近流れたうわさ話だから、モノノケ帳とも関係していると思うよ」

「なるほどな。しかし勝負かー。ちーっとばかし、厄介かもしれねえなあ」

 眉をしかめるタマに、「厄介って、どうして?」とひかりはたずねた。

「河童ってのはよー、無類の相撲好きなんだよ。それもかなり強くてな、普通の人間にはまず敵わねえだ、これが」

「だったら、相撲なんてしなきゃいいだけなんじゃないの?」

「断って見逃してもらえるもんならな。けどたいていの河童たちは、逃げようものなら川の中に引きずり込んで溺れさせるような連中なんだよ。今から会いに行く河童ってのも、たぶんそのせいで封印されたやつなんだろうぜ」

「今のところ、川に引きずり込まれたっていう話はないけれどね」

 タマの話に割り込む形で、翔が補足を入れた。

「え~? じゃあ河童を封印しようと思ったら、相撲をしなくちゃいけないの? わたし、相撲なんてしたことないんだけど……」

「したことはなくても、やり方ぐらいは知ってんだろ? いざとなったら、翔と二人がかりで挑めばいいんだよ」

「でも、河童ってすごく強いんでしょ? なにか弱点とか知らないの?」

「…………………」

「あっ。今、すごい目をそらした! もう、タマって肝心な時に役に立たないんだから!」

「し、仕方ねえだろ! どれだけの数の妖怪がこの世に存在してると思ってんだ! いちいちすべての妖怪の特徴まで覚えてられっかっ!」

「それでもモノノケ帳を守護する者なの⁉ ただの猫となにも変わらないじゃん!」

「オレさまは猫じゃねえ! 式神だっつってんだろ!」

「でもこの間だって、わたしの部屋にあるリボンで遊んでたじゃん!」

「あ、あれは、ただ単に、体がなまらないようにって運動をだな──」

「まあまあ。二人とも落ち着いて」

 いさかいを始めた二人に、翔は足を止めて仲裁に入る。

「それに河童の攻略法なら、僕が知ってるから」

「えっ? 翔くん、それって本当⁉」

「うん。まだうまくいくかどうかはわからないけど、たぶん大丈夫だと思うよ」

「すごーい翔くん! 妖怪に詳しいだけのことはあるね! タマなんかよりも断然頼りになる~!」

「おいこら! さりげなく、オレさまを使えないやつみたいな言い方してんじゃねえ!」

 タマが怒声を上げていたが、ひかりは聞こえなかったふりをした。

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