第3話 式神のタマと初めての封印



「──え? も、もののけちょう? しきがみ???」

 タマと名乗った謎の生き物の言葉に、ひかりはポカンとした顔で聞き返した。

「なんだ。それすらも知らずにオレさまを呼び起こしたのか?」

 戸惑うひかりに、タマは呆れたように半眼になって先を続ける。

「モノノケ帳ってのは、そこに落ちている紙の束のことだよ。それと式神ってのは、呪符や木の葉に術をかけて、術者の手となり足となる存在を作ることだよ。そんなことも知らないなんて、お前、頭がどうかしてんじゃねえのか?」

「だ、だってこんなの初めてみたんだもの。仕方ないでしょ」

 思わずむっとなって言い返すひかり。日本語を話す奇天烈な猫ではあるけれど、凶暴というわけではなさそうだし──口はすごく悪いけど──気づけば自然と落ち着きを取り戻していた自分がいた。

 それよりも、この生き物は一体なんなのだろう。なにか魔法みたいなもので生み出されたいうのは、さっきのタマの説明でなんとなく理解はしたが、式神なんてものがこの世にいるなんて、今まで見たことも聞いたこともない。

 そもそも、この世界に魔法みたいなものが本当にあっただんて。てっきりアニメとかマンガだけの世界だと思っていた。内心、驚きを隠せない。

「つーか、それ! なんでモノノケ帳を床にそのまま置いてあんだよっ! めちゃくちゃ貴重なものなんだぞこれ!」

 タマが怒りの声を上げつつ、床に触れたままの書物へと走って、慌ててそれを拾い上げる。

 ああ、やっぱりあれがモノノケ帳だったんだ。というか、よくあんな肉球で物が持てるなあと感心しているひかりに、タマはキッとにらみをきかせて声を荒げた。

「本当になに考えてんだお前は! こんないい加減な術者、初めて見たぞ!」

「……そんなこと言われても、わたし、その術者っていうのじゃないし。ただの小学生の女の子だもん」

「んなわけあるか。だったらなんでオレさまがここにいるんだ? 呪力を持った人間が呪符をはがさないかぎり、こうして実体化できないようになっているはずなんだぞ? これをどう説明つけるんだ?」

「わたしにもわからないよ。本当になにがなんだかわからないだもん……」

 モノノケ帳に付いたほこりをはたきながら問い詰めてくるタマに、ひかりは困惑した表情で言葉を返す。

 だいたい、さっきから不可思議な現象の連続で頭がついていけてないのだ。ただでさえ術者だとか呪力だとか聞いたこともない単語ばかりでちんぷんかんぷんなのだから、一からきちんと説明してほしい。

「わからないって……。じゃあお前、これをどこで手に入れたんだ?」

「どこって、そこの本棚からだけど……」

 言って、ひかりはすぐ横の本棚を指さした。

「ほ、本棚? そういえば、一体ここはどこなんだ? やたら本がいっぱいあるが……」

「小学校の図書室だけど?」

「小学校⁉」

 ひかりの返答に、タマは両目を見開いて大声を上げた。

「なんでそんなところに! 本来なら普通の人間が触れられないところに保管されているはずなのに! だれかがこっそり持ち出したのか⁉」

「えっと、よくわかんないけど、そのモノノケ帳ってすごく大切な物なの?」

「大切なんてもんじゃねえ。これには平安から明治に至るまで、様々な妖怪……昔はモノノケとも呼ばれた者たちが封印されていたんだ。中にはとても凶暴な妖怪も封印されていて、ただの人間が軽い気持ちで触れていいもんじゃねえんだよ」

「よ、妖怪って、河童とか鬼とかの?」

 ひかりの問いに、タマは「その通りだ」とうなずいた。

 まさか、そんな大層なものが封印されていただなんて。小さい頃によく幽霊なんかを見ていたひかりではあるが、まさか妖怪なんてものが実在するとは思ってなかった。タマみたいな奇天烈な生き物でもなければ、絶対疑って話を聞いていたところである。

「つーかお前、本当になにも知らないんだな……」

「だからさっきから言ってるでしょ? 術者とかじゃないって」

「お、おう。まだにわかに信じられない気分だが、ウソを言っているようにも見えないし、

信じるしかなさそうだな。ド素人が封印を解くだなんて聞いたこともねえけど……」

 そう言って、タマは気持ちを落ち着けるように深呼吸を繰り返した。そして、

「状況は把握した。どうやらオレさまが眠っている間に、だいぶ時間が進んでるみたいだな。よくよく周りを見ていると、知らないものばっかりだぜ。大窓から見える景色も、オレさまからしたら異次元のようだ。すげえでかい建物があるし」

「え? マンションなんて今どき田舎でも普通にあるよ?」

「その、まんしょん? というのはよくわからんが、オレさまが前に目覚めた時代にはあんなものはなかったんだよ。大政奉還して間もない時期だったから、ようやっと外国の文化を取り入れたばかりの頃だったし」

「た、たいせいほうかん?」

 今度はひかりが首をかしげる番だった。言っている意味はわからないが、ものすごく昔の時のからずっと眠っていたんだな、ということだけはわかった。

「さて、これからどうしたもんかねえ。もう一度呪符に戻してもらうにしても、こいつが呪法の使い方を知っているとは思えねえし。このままだとモノノケ帳を無防備な状態でさらしてしまうことになっちまうな……」

「ねえねえ。そのモノノケ帳っていろんな妖怪が封印されているんだよね? それってどんな風になってるの?」

 まぶたを閉じて深く悩み始めたタマに、ひかりはちょっと前から気になっていたことを訊いてみた。

「んん? ああ、これには妖怪の絵が描かれていてだな──」

 言いながら、タマはモノノケ帳のページをパラパラめくって──

「な、なんじゃこりゃああああああああああっ!」

 と、ふいに叫び声を上げた。

「ない! どこにもない! あるはずの妖怪の絵が一つもない! どうなってんだこりゃあああああ⁉」

「え? 元から白いページばかりじゃないの?」

「んなわけあるか! このモノノケ帳にはな、これまで封印された妖怪が絵として保存されてたんだよ! お前、なにかこうなった原因を知らないのか⁉」

「原因って言われても、心当たりなんて……あっ」

 と、ひかりはなにか思い当たったように、途中で口をつぐんだ。

「その反応……お前、絶対なんか知ってるだろ? ろこつに目線をそらしやがって」

「え、えーっと。もしかして、あれかな? お札がはがれた時に、そのモノノケ帳から光の玉みたいなのがいっぱい飛び出していったんだけど……」

「なんだってええええええええええええええっ⁉」

 ひかりの返答を聞いて、タマはまたしても大声を上げたあと、愕然とうなだれた。

「なんてこった。オレさまを実体化させただけでなく、あろうことか妖怪たちの封印まで解いちまうなんて……」

「……よくわからないけれど、それってそんなによくないことなの?」

「当たり前だろ? さっきも話したけど、これには凶暴な妖怪が封印されてたんだ。それだけじゃなくて、元々モノノケ帳に封印されていた妖怪は、人間に悪さばかりしていたやつらばかりだったんだよ。そんなやつらが一斉に解き放たれちまったんだぞ? なにもしない方がおかしいだろうよ……」

「そ、そっか。でもそんなに悪い妖怪だったのなら、退治しちゃうとか追い返すとかすればよかったのに」

「中には退治できないような強い妖怪もいたんだよ。追い返してもまたすぐ戻ってくるやつらもたくさんいたし。そういった妖怪を封じて、二度と悪さができないようにしてたんだ。まあ、清明さま……このモノノケ帳を作った安部あべの清明せいめいっていう術者が、妖怪をむやみに退治するのを嫌ったせいもあるけれど」

「へえ。優しい人だったんだね。その清明さん」

「おうよ! それだけじゃなくて、すごい術者だったんだぜ? オレさまを作ったのも清明さまだしな」

 それまでの暗い雰囲気がウソのように、タマはしょげていた顔を上げて瞳を輝かせた。なにがどうすごいのかわからないが、とても尊敬していているんだな、というのだけは伝わってきた。

「じゃあ、その清明さんに頼めばなんとかなるってこと?」

「いや、ダメだ。今が何年なのか知らねえが、オレさまが最後に目覚めた時には、清明さまがお亡くなりになって八百年以上も過ぎてんだ。せめて親類か同業者の居場所さえわかれば良かったんだが、今となっちゃ、どこにいるのかもわからねえし……」

「え? もう死んじゃってるの?」

 口に出してみて、でも言われてもみればそれもそうか、とひかりは思い直した。

 モノノケ帳を作った人ということは、当然平安時代(タマの言う平安から明治までの妖怪を封じていたというのが真実なら)にいた人間ということになってしまう。授業かなにかで習ったが、平安時代と言えば今から千年以上も前の話だ。さすがにすごい術者だからと言って、ひかりのいる時代まで生きているはずもない。

「くそっ。こいつは弱ったぞ。術者でもない人間がモノノケ帳を解放しちまうなんて想定外だ。だからってこのままにしておくにもいかねえし……」

 言って、タマはふとひかりの顔を意味深にじーっと見つめた。

「……この際、背に腹は代えられねえか。おいガキンチョ。お前の名前は?」

「え? み、源ひかりだけど……」

「源ひかり。ひかりか。よし、それじゃあ、ひかり──」

 言いながら、タマは器用に二本足で立ち、妖帳をひかりに差し出した。

「お前、妖怪の封印を手伝え。それなりに呪力もあるみたいだしな」

「ええええええええええええええええええええええ⁉」

 タマの命令口調に、ひかりは全力で首を横に振った。

「やだやだ! だって凶暴な妖怪もいたりするんでしょ? 怖いから絶対にやだっ!」

「わがまま言うんじゃねえ! 元はといえば、お前がモノノケ帳の封印を解いちまったせいだろうがっ!」

「わざとじゃないもん! 大体、あなただってそのモノノケ帳を守護する式神っていうのなんでしょ? なんでこんなあっさり封印が解けちゃうわけ⁉」

「オレさまはなにも悪くねえ! さっきも言ったが、そもそもモノノケ帳は呪力がある人間でないと札がはがせないようになってんだよ。しかも本来なら、解呪の呪文をとなえてからじゃないとダメなんだ。それをお前は、呪文もとなえずに札をはがしやがって!」

「そ、それなら、注意書きとかしておけばよかったでしょ!」

「んなもん知るか! 歴代の術者に文句を言えよ!」

「どこにいるかもわからない人に文句なんて言えるわけないじゃん! そもそも、そういうのは子どものわたしじゃなくて、ちゃんとした大人の人に頼んでよ!」

「だから呪力のある人間でしかモノノケ帳は使えないんだよ! それとも、お前以外に呪力のある人間を知ってんのか?」

「そんなの知るわけないじゃん! 生まれて初めて聞く言葉なのに!」

「だったらお前しかいねえじゃねえか! 無駄な時間取らせてんじゃねえよバーカ!」

「わたし、バカじゃないもん! バカって言った方がバカなんだもん!」

 などと、しばし低レベルな争いをしていた、その時だった。

 ──カランコロンカランコロン!

「っ! これは……!」

 突如として鳴り出した首輪の鈴に、タマは口喧嘩をやめて目を見開いた。

「妖怪だ! 近くに妖怪がいるぞ!」

「え? え? ど、どういうこと?」

「この鈴にはな、妖気……つまり妖怪の気配を探知できる力が備わってんだよ。妖気が近ければ近いほど鈴が強く震えるんだが、これはかなり近いぞ!」

「うそぉ! や、やだ。どうしよう! どうしよう~!」

「どうするもなにも、封印するしかねえだろ!」

「封印って言われても、わたし、やり方なんて知らないし……」

「やり方ならオレさまが知ってる! それ以外にも手伝えることはなんでもするから、協力してくれっ!」

 必死に頼み込むタマに、「だって、やっぱり怖いし……」と依然としてとまどいを見せるひかり。

 そんなひかりに焦れたのか、タマは大きく頭を下げて、

「頼むひかり! このままだと関係のない人に害を与えてしまうかもしれないんだ! 場合によっては人間も妖怪も傷つきかねない! この通りだひかりっ!」

「………………」

 床に額まで付けて懇願するタマに、ひかりの気持ちはわずかに揺れ動いた。

 正直言うと、すごく怖い。今だって足が震えているくらいだ。

 でも、タマの言うことが本当なら、学校にいるみんなに被害が出かねない。それだけは絶対にいやだ。見過ごすことなんてできない。

 そしてそれを止めることができるのは、この場ではひかりしかいないのだ。

 すう~、はあ~と深呼吸。そうして、勇気を振りしぼるようにぎゅっと拳を握りしめたあと、

「……わかった。タマに協力する」

 とか細くつぶやいた。

「本当か⁉ 恩に着るぞひかり!」

「い、言っておくけど今回だけだからね? 次はもうないからね?」

「よっしゃ! そうと決まったら善は急げ。さっそく行くぞひかり!」

「──って、ああ! んもう! 人の話をちゃんと聞いてよっ!」

 さっきとは打って変わり、明るい表情を浮かべてモノノケ帳を首輪にはさんだ状態で走り出したタマに、ひかりは文句を口にしつつも後を追いかける。

「ここだ! すぐ先から妖気を感じる……!」

「えっ! こ、こんなにすぐのところだったの……?」

 タマが立ち止まったところは、なんと図書室の前のドアだった。正直、タマを追いかけて一分とかかっていない。まさかここまで近かったなんて、予想外にもほどがある。

「つまり、この先の廊下に妖怪がいるってこと?」

「そうなるな。さあ、ひかり。さっそくドアを開けようぜ!」

「……ねえタマ。やっぱりまた今度にしない?」

「バカか! そんな目の前の妖怪をみすみす見逃すような真似ができるか! しっかりしろ、ひかり!」

「ふえ~。わかったよ~」

 タマに喝を入れられ、ひかりは涙声になりながらも、おそるおそるドアを開けた。

 ドアの隙間から外の様子をのぞき込んで見ると、視線のすぐ先に茶色い物体みたいなものが廊下に居座っていた。だれもいない廊下の中を、独りぽつんと。

 してみると、それは犬の後ろ姿のようにも見えた。ひかりが飼っているハチよりも小型で毛並みも違うが、姿形は犬のそれだ。

「ねえ、ひょっとしてあれがタマの言う妖怪なの? わたしには犬にしか見えないけれど……」

「いや、間違いなくあれがそうだ。あいつから妖気をびんびん感じるしな」

 にわかに信じがたい。タマの勘違いとかではないのだろうか。

「なんにしても、ちゃんと前から見ないとどういった妖怪か判断できねえな。ひかり、もう少し近づいてみろ」

「う~。やっぱそうなっちゃうよね……」

 引け腰になりながら、ひかりはタマといっしょにそろりそろりと目の前にいる犬に近寄っていく。

 と、手が届きそうなほど近づいた、次の瞬間だった。

「──なにじろじろ見てんねん」

「きゃああああああっ! しゃべったあああああああ⁉」

 人間のおじさんみたいな顔で振り返ってきたその不気味な犬に、ひかりは悲鳴を上げてすぐさま後ずさった。

「なになにっ? なんなのあの犬? めちゃくちゃ気持ち悪い~!」

「……気持ち悪いって嬢ちゃん。初対面やのにめっちゃ失礼こと言うなあ」

 おびえるひかりに、不気味な犬は顔をしかめながら後ろ足で頭をかいた。動作は犬そのものだけれど、やっぱり顔はおじさんのままなので、気味が悪いったらない。

「ちゅーか、よく見たらモノノケ帳の守護者がおるやん。ははーん、さてはそこの嬢ちゃんが今回のモノノケ帳の使い手なんやな?」

 ひかりとタマを交互に見やりながら、不気味な犬が独り納得したように言う。はっきりと『モノノケ帳』とつぶやいていたので、どうやらかつてモノノケ帳に封印された妖怪と見て間違いはなさそうだ。

「あれは人面犬だな」

 ぽつりとつぶやいたタマの言葉に、ひかりは「人面犬?」と聞き返した。

「ああ、文字通り人間の顔をした犬の妖怪だ。生前、遊んでばかりいたグータラな人間が死んで生まれ変わるとこうなっちまうんだよ」

「へえ、そうなんだ。わたしもこうならないよう気を付けよっと」

 まあ、それはそれとして。

「それで、タマ。どうやればあの妖怪を封印できるの?」

「それなんだが、封印する前にまずやらなきゃいけないことがあるんだよ」

「やらなきゃいけないことって?」

 ひかりの質問に、タマは「やり方には二通りあるんだが」と説明する。

「一つ目は、相手の合意を得ることだ。封印されることを良しとする妖怪なら、ほとんど手間もかからず封印できる。だがこれを拒むとなると面倒だ。そういった相手には、強引にでも弱らせてからでないと封印できないんだ」

「え? じゃああれを封印しようと思ったら、説得するか戦わなきゃいけなくなるの?」

「まあ、そういうことになっちまうな……」

「なんや。ひょっとして嬢ちゃんたち、おっちゃんに暴力を振るうつもりなんか?」

 それまで、黙ってひかりとタマの話を聞いていた人面犬が、まるで非難するかのような冷たい眼差しを向けて言葉を続けた。

「ほんまにええんか? おっちゃん妖怪やけど、めちゃくちゃ弱いで? その辺の小犬と変わらんくらいやで? それって、動物虐待と変わらへんのとちゃうん?」

「……アイツはああ言ってるけど、ひかりはどうするんだ?」

「どうって言われても……。本当に危なくはないのかな?」

「たぶん本当だと思うぞ。ちょっと前にも言ったけど、元はグータラだった人間の成れの果てだし、アイツ自体になんの力もないはずだ」

「そっかー。うーん、でもあのおじさんが言った通り、暴力を振るうのはイヤだなあ」

 犬飼いとしては、いくら見た目はおじさん顔の犬だとしても、力でおさえ付けたりするのはためらうものがあった。それに自分は女の子だし、そんな野蛮な真似はしたくない。

「ねえ、おじさん。おじさんって元は人間だったんでしょ? どうしてそんな姿になっちゃったの? それに封印されてたってことは、なにか悪いことでもしたの?」

「おっ。今度は説得に変更か。まあ、ええやろ。せっかくやから話したるわ」

 話してくれるらしい。さすがは関西犬(関西弁だから関西の犬だと思うけど)なだけあって、サービス精神が旺盛のようだ。

「おっちゃん、元は大工やったんやけどな、仕事中に事故起こして、指を骨折してもうてなあ。そんで医者から前みたいに大工道具は使えへんようになる言われてもうて、ほんでやけになって、ずっと酒飲んで遊び回ってたんや。

 そしたら嫁に飽きられて逃げられるわ、親友にも見放されるわ、さんざんな目におうてな、自暴自棄になって酒を浴びるくらいに飲んでぶらぶら町を歩いとったら、うっかり橋の上から落ちてもうて、そんで気がついたらこの姿になってたんや。

 でも、ぜんぜん後悔はしてへんよ? これはこれで楽しいしな。仕事もせんでええし、飯を盗んでも警察に捕まる心配もない。まさに天国や~!」

「な? 言ったろ? ろくなやつじゃないって」

「うん。そうだね……」

 タマの問いに、素直にうなずくひかり。確かにこれは同情の余地もない。

「おじさんが封印された理由がよ~くわかったよ。じゃあおじさんは、また封印される気はないってことでいいの?」

「当たり前やん。だれが好き好んであんなつまらん場所に封印されなあかんねん。真っ白なだけでなんもないし」

「あ。モノノケ帳の中ってそういう風になってるんだ」

「せや。だからまたモノノケ帳に戻るなんてごめんや。やけど、まあ……」

 そこまで言って、人面犬はニヤリとイヤらしい笑みを浮かべた。

「おっちゃんにおいしいものくれるって言うなら、考えたってもええけどな~」

「おいしいものって、わたし、今はなにも持ってないし……」

「ウソ言うたらあかんで。さっきから嬢ちゃんのポケットから、おいしそうな匂いがしてるやんか」

「ポケットの中?」

 試しにスカートのポケットの中をまさぐってみると、なにか平べったい物が手に触れた。

「あ。ハチのビーフジャーキー……」

 取り出してみると、それはハチのおやつであるビーフジャーキーだった。慌てて学校に来てしまったので、ついついポケットに入れたままにしてあったのだろう。どうりで封印されるのをイヤがっておきながら、一向にこの場から離れないわけだ。

「……これをあげたら、本当に封印されてくれる?」

「それは食べてからでないと答えられへんな」

 早よ早よ、と急かす人面犬に、ひかりは「う~ん」としぶる。

 それとなくタマに目線をやると「ひかりのやりたいようにすればいい」というアドバイスが返ってきた。

「まあいっか。これで封印されてくれるなら楽だし。はい、ビーフジャーキー」

「おおっ。じゃあありがたくいたたくぜ、嬢ちゃん」

 差し出されたビーフジャーキーを、人面犬はひかりの手から直接口でくわえて──

 直後、無理やりビーフジャーキーをうばって、一目散に逃走した。

「あああっ! あのやろう、食いもんだけ取って逃げやがった!」

「ちょっと! 約束と違うじゃない!」

「あほんだら! 約束なんて守るわけないやろがっ!」

 怒りをあらわにして必死に追いかけるひかりとタマに、人面犬はビーフジャーキーをくわえたまま顔だけ振り向いて、吐き捨てるようにそう言った。

「ほななー、間抜けなお二人さん! おっちゃんはここでおさらばして──」

 と、そこまで言ったとたん、人面犬は突然足を止めて固まった。

「え? え? 急になに?」

 動きを止めた人面犬に、ひかりもそばで立ち止まって問いかけた。

 ひかりの質問に、人面犬はなにも答えなかった。まるで時でも止まったかのように、微動だにしない。

「おいこら! 黙ってねえで、なんとか言って──」

「なんやこれええええええええええええええ⁉」

 タマの言葉をさえぎる形で、人面犬は唐突に叫び声を上げた。

「なんちゅううまい食い物なんやこれ! こんなうまい物、初めてや!」

 あっけに取られているひかりとタマをよそに、人面犬はビーフジャーキーを夢中になって食べ始める。

「ああ~。幸せや~」

 そうして、ビーフジャーキーを食べ終えたあと、人面犬は至福そうな顔をして、ふいにぽてっと横に倒れた。

「えっと……これってどういうことなの?」

「……たぶんだが、現代の食べ物を口にして、気を失うほど感激したんじゃねえかな。いつ封印されたか知らねえけど、少なくとも百年以上は前の妖怪だろうしな」

「そっかあ。ビーフジャーキーって、昔の犬にとってはごちそうなんだね」

 ハチの大好物ではあるが、まさかこれほどまでの効果があったなんて。ビーフジャーキー、おそるべし。

「……で、これって勝手に封印しちゃっていいのかな?」

「いいんじゃねえか。暴力を振るったわけでもないし、ちょうど弱ってくれてんだから、好都合だろ」

 ぴくぴくと体を痙攣させている人面犬を見て、そう返答するタマ。

「それもそうだね。なんだか幸せそうだし。でも、ここからどうやってこの人面犬を封印したらいいの?」

「よし。じゃあますは、このモノノケ帳を持て」

「うん。わかった」

 うなずいて、ひかりはタマの首輪にはさんであったモノノケ帳を抜き取った。

「そしてそれを人面犬にかざして、こうとなえるんだ。

 現世にとどまりし魔の者よ、今再びモノノケ帳へと帰りたまえ。人面犬、封印ってな」

「わ、わかった!」

 言われた通りに、ひかりは妖帳を人面犬にかざして、呪文をとなえた。

「現世にとどまりし魔の者よ、今再びモノノケ帳へと帰りたまえ。人面犬、封印!」

 瞬間、モノノケ帳がひとりでに開き、そこからまばゆい光があふれた。

 そうして光は人面犬にも移り、またたく間に人面犬を吸い込んでしまった。

 一瞬の出来事に、ぽかんと放心するひかり。いつの間にか光は止み、元通り、窓からこぼれる夕焼けが廊下をぼんやりと照らしていた。

「おっしゃ! うまくいったな、ひかり!」

「えっ、あれでよかったの?」

「おうよ。試しにモノノケ帳を開いてみな」

「モノノケ帳を?」

 とりあえず、言われた通りにひかりはモノノケ帳をぺらぺらとめくってみる。

「あっ。人面犬が載ってる!」

 そこには、先ほど封印したばかりの人面犬が、絵として記されていた。しかも、ずいぶんと幸せそうな顔で。変な顔である。

「すごい。本当に絵になっちゃうんだ。さっきまで全部白かったのに……」

「だろ? 清明さまがこれを作った時も、周りのやつらからも絶賛されてたんだぜ」

 えへん、と胸を張るタマ。どうして本人でもないのにタマがいばるんだろう?

「あ~。それにしても、無事に済んでよかった~」

 そう吐息混じりにつぶやいて、ひかりは全身の力が抜けたようにへたり込んだ。

「なんだなんだ、これくらいでだらしねえな」

「仕方ないでしょ。妖怪を封印するなんて、初めての経験だったんだもん」

 それに、今回はたまたま弱い相手だったから良かったものの、場合によっては凶暴な妖怪を相手にしなければならなかったかもしれないのだ。緊張するなというほうが無茶である。

「なんにしても、これで幸先良く最初の一匹が捕まえられたな! この調子でどんどん次の妖怪も捕まえるぞ!」

「ちょっと! 今回だけって言ったでしょ! それに、今回はたまたまだれにも見られずに済んだけれど、もしだれかに見られてたら、なんて説明したらいいか──」

 ──バサバサッ!

 と、突如背後の方から、なにかが落ちる音が響いた。

 おそるおそる振り返ってみると、なんとそこには──

「か、翔くん……っ」

 足元に数冊の本を落としている翔が、呆然とした面持ちで立ちつくしていた。

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