第2話 モノノケ帳、解き放たれる
「ただいま~!」
小学校から帰ってきたひかりは、ランドセルを自室に置いてきたあと、いの一番に台所へと向かった。
お母さんは台所で夕飯の準備をしていた。鍋が出してあったので、今日は煮込み料理に違いない。
わたしの好きなシチューだったらいいなあと思いつつ、
「お母さ~ん、今日のおやつは~?」
「おやつなら冷蔵庫にドーナツが入ってるわよ。でもその前に、ハチにもおやつあげてもらえる?」
「いつものビーフジャーキーでいいの?」
「そうよ。でも、あんまりたくさんあげちゃダメよ?」
「わかった~」
そう返事をして、ひかりはそばにある戸棚を開け、そこからビーフジャーキーの袋を取り出し、ハチのいる庭へと走った。
「わんわんわん!」
「はいはい。ちょっと待ってね~」
うれしそうにしっぽを振るハチに、ひかりはビーフジャーキーの袋を開けて、中身を少し手に取る。その間にも、ハチは待ちきれないと言わんばかりに鳴き声を上げて、辺りを駆けずり回った。
ハチはひかりが生まれたばかりの頃に、親戚からもらった黒犬だ。いつもは庭先で飼っていて、こうしてひかりもよくハチの世話をしている。小さい頃からずっといっしょにいたので、お互い大の仲良しだ。
首輪につながれた鎖をじゃらじゃら鳴らして走り回るハチに苦笑しつつ、
「はいハチ、ビーフジャーキーだよー」
「わんわん!」
ビーフジャーキーを与えたとたん、ハチが目の色を変えて飛びつく。今日もハチは元気いっぱいだ。
そうして、しばらくハチにビーフジャーキーを食べさせていると、
「ひかり~。言い忘れてたけれど、ちゃんとあとで宿題もするのよ」
「わかってるー! おやつ食べてからやるつもりー!」
「それと、おやつを食べる前に、忘れずに手も洗うのよ?」
「それもわかってるー!」
ベランダの戸を開けて顔をのぞかせてきたお母さんに、ひかりは少しムッとしながら応える。いつもは優しいお母さんだけれど、いちいち口うるさいところは玉に瑕だ。
そういえば、と。先ほどの会話で、ひかりはどうしてか気になった言葉があった。
なんだろう。お母さんに『忘れずに』とか言われた時に、なんだかとても大切な用事を忘れているかのような、そんな気がしたのだが──
「あーっ!」
「ひゃっ! ちょっと、いきなりどうしたのよ。大きな声を出して……」
「お母さん、どうしよう……」
びっくりした顔をしているお母さんに、ひかりは涙目になりながらこう告げた。
「……図書室の本、今日返しに行くの忘れてた~」
四ツ谷小学校の図書室は、午後四時半になると閉められる規則になっている。つまり本を返すには、当然その前に図書室へと行く必要がある。
「はあ~。やっと着いた~」
と、校門の前で息を切らしながら、ひかりは校舎の時計を見やった。
現在時刻は午後の四時過ぎ。あれから全速力で小学校まで走ったのだが、どうにか間に合ったようだ。
「あーあ。ミスっちゃったなあ。今になって思い出しちゃうなんて……」
校門をくぐり、運動場でサッカーやキャッチボールをしている生徒たちの横を通りながら、ひかりはため息をつきつつ、手提げ鞄の中身を見る。
一週間ほど前に借りた、恋愛系の児童小説。基本的に、図書室で借りた本は一週間後に返さなければならないのだけれど、今日が返却日だということを、ついさっきまで忘れてしまっていたのだ。
一度は明日返そうかとも思ったひかりではあったが、お母さんに「学校のお約束をやぶるだなんてダメよ」と注意され、しぶしぶながら四ツ谷小学校へと来たのだが、まさかこうして二度も走ることになろうとは、考えもしなかった。
「う~。足が痛い~。絶対これ、明日は筋肉痛だよ~」
パンパンになっている足をさすりながら、ひかりは二階にある図書室へと向かう。正直、歩くだけでも億劫なくらいだ。
気分を下げつつも、ひかりは階段を上り、そこから少し廊下を歩いて、図書室の前へとやって来た。
「おじゃましま~す」
そう声をかけつつ、ひかりは図書室のドアを開けて中に入る。
中には、だれもいなかった。というか、本来ならカウンターにいるべき図書委員すらいない。まさにもぬけの殻だ。
「あれー? だれもいないのー?」
しーんと静まり返った図書室内を、ひかりは人がいないか辺りを捜索する。
しかしながら、やはりだれも見当たらない。一応、図書準備室のドアをノックして中にだれかいないか確認したのだが、反応は返ってこなかった。
「どっか行っちゃってるのかな~?」
とりあえず鞄から本を出して、カウンターに置く。図書委員がいないと返却手続きができないので、このまま帰るわけにもいかない。本当はさっさと帰りたいのだが、ここで待たなければいけないようだ。
「うーん、どうしよう。なにもしないでずっと立ってるのも退屈だしなあ」
そう独りつぶやいて、ひかりはふと本棚へと視線をやった。
いくつも整然と並んでいる本棚。よくよく考えてもみれば、ここは図書室なのだし、暇つぶしの方法ならいくらでもある。
「うん。本でも読んで待ってようかなー」
言いながら、ひかりはいつもだったら行かない本棚の方へと進む。大好きな恋愛小説のある棚に行くと、集中するあまり図書委員の人に気づかないかもしれないし、それにたまには新しいジャンルの本を探してみるのもいいかな、と気まぐれに思っての行動だった。
そうして、しばらく歴史だとか伝記だとか、普段だったら興味も持たないジャンルの棚を適当に眺めていると、
「……ん?」
なんとなく目にとまった、一冊の本。他と違って背文字にタイトルが書かれていなかったのもあるけれど、それだけ妙に古ぼけているのもあって、場違いというか、他よりもすごく浮いている印象を受けた。
「なんだろう、これ。本……なのかな?」
思わす気になって手に取ってみると、本というより紙の束のような感じだった。見た目的には、先生が持っている出席簿に似ているかもしれない。あれに比べたらこっちの方が厚みもあるし、幅も狭いけれど。
表紙を見ると、『物怪帳』と達筆な字でタイトルが振られていた。しかし、どう読むのかまではわからない。
「ものかい、ちょう……でいいのかな? むずかしくて読めないや……」
首をかしげつつ、あらためて『物怪帳』とやらの全体を舐め回すようにながめる。
やっぱり、変な本(?)だ。タイトルは読めないし、紹介文はおろか、著者すら記されていない。どちらかと言うと学者さんが読みそうな難しい感じの書物っぽいし、どう考えても小学校の図書室にあるような物ではない。
それに、なにより──
「なんでお札が貼ってあるんだろ……?」
まるでだれかに読まれるのを拒むように、口が開けないよう真横に貼られたお札。そのお札には星のようなものが描かれていて、ほかに文字らしきものは書かれていなかった。
「う~ん。これって、じつはすごく貴重な物だったりするのかな? でも、なんでこんなところにあるんだろ? だれかが間違えていれちゃったのかな……?」
疑問を口にしつつ、ひかりは無意識の内にお札をなでる。
と、少し力が強かったのか、はたまた元々取れかかっていたのか、お札をなででいる内に、べりっとイヤな音が鳴った。
「あっ。やばっ──」
慌てて、ぺろんとはがれかけたお札を戻そうと、手で押し付けようとして──
「えっ。うそ。な、なにこれ⁉」
お札を戻そうした矢先、突然まばゆく輝き出した本に、ひかりは声を上げて驚いた。
光りは一向に収まる気配がなく、むしろ徐々に強くなっている。それどころか、端の方だけめくれていたお札が、風でも吹いているかのように、ひとりでにはがれていく。
そして、完全にお札がはがれ落ちた、その時──
本のページが突如として次々とめくれ、そこから青白い光の玉が矢のような勢いで飛び出していった。
「ななな、なにこれっ! なんなのこれ~⁉」
慌てふためく間にも、光の玉は続々と天井を通り抜けてどこかへと去っていく。なにがなんだかわからないが、少なくとも、なにかよくないことが起きているというのだけは、本能的に理解した。
だが結局なにもできず、あっけに取られている内に最後のページまでめくれ、それから光の玉は急に出なくなった。
やがて、本全体を覆っていた光りも消え、図書室はまたいつもの静けさを取り戻した。
唖然としたまま、ひかりは腰が抜けたようにその場でへたり込んだ。手に持っていた本も同時に落ちてしまったが、気にかけるだけの余裕は、今のひかりにはなかった。
「なん、だったの。あれ……」
床に落ちている『物怪帳』という名の本を見つめながら、ひかりは呆然とした面持ちでつぶやいた。
今のは、一体なんだったのか。まるでアニメやマンガのワンシーンでも見ていたかのような出来事だったが、非現実的すぎて頭がついていけない。
「ひょっとして、夢?」
そう思ってほほをつねってみるも「いたたっ」とちゃんと痛みがあった。つまり、夢なんかじゃない。
「どうしよう。わたし、なにか大変なことをしでかしちゃったのかな……?」
顔を青ざめながら、ひかりは右、左と辺りをうかがう。
幸か不幸か、先ほどの一件を目撃した者はいない。このまま知らない振りをしていれば、だれかに叱られるようなこともないのだろうけど、さすがにそんな無責任な真似はできそうになかった。
「……あの本から、光の玉が出てきたんだよね?」
とりあえず、そばに落ちている『物怪帳』なる本を拾って開けてみる。
中を見てみると、どれも白紙ばかりでなにも書かれていなかった。これだと単なる落書き帳だ。
「どういうこと? なんでなにも書いてないのに封なんてしてあったんだろう……?」
などと、わけがわからす首をかしげていると、少し離れた先に落ちていたお札が、突然ケータイのバイブレーションのように震え始めた。
「ひっ! な、なに? 今度はなんなのー⁉」
うろたえている内に、お札はふよふよと宙に浮き出し、ポフンと白煙のようなものをまき散らした。
「けほけほっ。んも~。さっきから一体なんなの~っ」
顔をしかめながら咳きこんでいると、やがて煙の中から、黒い影のようなものが姿を現した。
そうして完全に煙が晴れたあと、そこにはいたのはなんと──
猫、だった。
それも招き猫みたいな、真っ白な毛皮に大きな鈴の首輪を付けた、変な猫が。
「え……? なにあれ……?」
目を白黒させて様子を見ていると、宙に浮いていたその猫はゆっくりと地面に降り立ち、そして──
「ふにぁ~。久しぶりに実体化したせいか、体中が妙に痛いな~」
と、猫らしくぐーっと背筋を伸ばして、そんな言葉を吐いた。
「ん? あ、もしかしてお前が、今回オレさまを解き放った術者か?」
「……えっ? じゅつしゃ? ていうか、ね、猫がしゃっべって……⁉」
「んだよ。ひょっとして、ちゃんとした説明を受けてないのか?」
目の前の光景に混乱するひかりに、招き猫みたいな生き物は佇まい(猫座りだけど)を直して、
「オレさまはタマ。モノノケ帳を守護している式神だ!」
と、胸を張って告げた。
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